赤ん坊の死は武則天の罠だったのか
前回までに、武則天は高宗の寵愛をめぐる競争で、王皇后と蕭氏の2人に一応勝っていました。ただ、高宗の気持ちをつかんだだけでは安心できない状況だったと深井さんは説明します。
この頃、武則天は高宗との間に3人目の子を産みます。女の子でした。ある日、別の女官の出産祝いのために王皇后が武則天の部屋を訪れますが、武則天は不在で、部屋には赤ん坊だけがいました。
王皇后は赤ん坊のかわいらしい顔を見て思わず抱き上げ、あやしてから元に戻して帰ったといいます。その後、部屋に戻った武則天が見たのは、すでに冷たくなった赤ん坊でした。
武則天がこれを高宗に告げると、高宗は娘を殺されたと激怒します。ところがこの出来事には、武則天が自分の娘を殺し、王皇后に罪をなすりつけたという説があります。
え?どういうこと?どういうこと?
だから(武則天が)自分の娘を殺したって言うんですよ。
この説に従えば、武則天は高宗の気持ちを王皇后から完全に引き離し、皇后の座から蹴落とそうとしたことになります。樋口さんは「これちょっと気分悪いな」と率直に反応しています。
ただし深井さんは、この話をどこまで信じてよいかは微妙だと付け加えます。出典は11世紀に成立した資治通鑑 ── 北宋の司馬光らが編纂した編年体の歴史書。戦国時代から五代十国までを扱い、為政者の手本となることを目的に書かれましたで、出来事から数百年後の記録だからです。
楊さんによれば、北宋の時代にも強い力を持った皇后が現れ、武則天を手本に息子の皇帝に取って代わろうとする似た状況がありました。儒教側の知識人には「2人目の武則天を出してはならない」という緊張感があり、武則天をおとしめる社会的なニーズがあったといいます。
それでも、高宗が赤ん坊殺しの犯人を王皇后だと信じ、皇后を排斥する方向へ動いたことは史実として押さえられる、と深井さんはまとめます。
皇后を替えることは、なぜ皇帝にも難しかったのか
高宗はこの時点で王皇后の廃位を決断します。しかし皇帝が決めたからといって、すぐに実現できるわけではありませんでした。皇后は国家の母として扱われる存在で、簡単に取り替えられないからです。
深井さんは、廃位を阻む条件をいくつも挙げます。高官たちを説得しなければならないこと、名門出身の王皇后の一族を敵に回すこと、そして先代の太宗が王皇后を指定していたため、太宗に逆らう形になることです。
さらに、代わりに立てようとする武則天は出自がよくないうえ、もともと先代皇帝の妻でした。条件は悪いものの、高宗は王皇后の廃位を決めます。
楊さんは、高宗が廃位にこだわった背景として、有力官僚との権力争いを指摘します。名門貴族出身の長孫無忌が絶大な権力を持ち、高宗の側には味方となる官僚がほとんどいなかったのです。
残っているエピソードでは、高宗が朝廷で「政治について提案があれば自由に言ってほしい」と呼びかけても、長孫無忌が「政治はうまくいっているので課題などありません」と返したといいます。
八方塞がりの中で、皇后の交代は皇帝自身の意思決定が強く関わる数少ない議題でした。楊さんは、高宗が武則天の立后を皇帝権力回復の手段として利用した面もあったのではないか、という見方を紹介します。
それ(皇后の交代)さえも屈してしまうと、本当にただの傀儡政権皇帝として、先代から続く家臣たちに全く口答えができない気の弱い人みたいにしかならないわけですね。
太宗の家臣たちは全員が強者で、長孫無忌はそもそも扱いやすいからこそ高宗を皇帝にした節がある、と深井さんは続けます。楊さんは、次の代の若社長の話を誰も聞かない状態にたとえています。
武則天と高宗の前に立ちはだかる最強の高官たち
悩みを抱えていた高宗の前に、超聡明な武則天が現れました。高宗はこの女性と組めばいけると考え、高官の説得に動き出します。深井さんは、その戦略を考えていたのはおそらく武則天だと見ています。
最も重要な説得相手は長孫無忌でした。当時は三公 ── 中国王朝で最高位とされた3つの名誉職。唐では太尉・司徒・司空を指し、実務よりも格式を示す地位でしたと呼ばれる最高の名誉職があり、長孫無忌はそのトップの太尉に就いていました。すでに30年近く政治の中心にいた実力者です。
深井さんは、説得しなければならない高官を順に紹介します。ナンバー2の李勣は名誉職にあり、実務の責任はないものの発言力は強い人物でした。太宗とうまく動いていたのに、最後に理由もわからず左遷され、不信感を募らせていたといいます。
さらに、行政の中枢である三省 ── 唐の中央官制の柱。中書省が詔勅を起草し、門下省が審議し、尚書省が執行するという分担になっていましたの長官たちがいました。番組では、門下省は命令を実行するかを審議して貴族の権力を代弁する場所、中書省は皇帝の考えを命令書として起草する場所と説明されています。
褚遂良は、太宗をいさめる役を担った魏徴の次の世代にあたる人物として紹介されます。高宗と武則天が説得すべき顔ぶれは、次のとおりです。
| 人物 | 地位 | 番組での説明 |
|---|---|---|
| 長孫無忌 | 太尉(三公のトップ) | 30年近く政治の中心にいる最大の実力者 |
| 李勣 | ナンバー2の名誉職 | 太宗に左遷された過去があり、高宗とも信頼関係がない |
| 韓瑗 | 門下省長官 | 貴族の権力を代弁する審議機関の長 |
| 来済 | 中書省長官 | 皇帝の命令書を起草する機関の長 |
| 于志寧・褚遂良 | 尚書省長官 | 褚遂良は魏徴の次の世代のいさめ役 |
樋口さんの「結構強いぞ」という反応に、深井さんは「全員強いですよ」と答えます。この顔ぶれを動かすことが、高宗と武則天のミッションでした。
王皇后を孤立させ、長孫無忌を接待で口説く
武則天がまず取った戦略は、王皇后を徹底的に孤立させることでした。赤ん坊の件に加えて、王皇后とその母親が禁じられた呪いの儀式をしたという罪も着せ、廃位の根拠を積み上げていきます。
武則天は、王皇后が頼れそうな高官を排斥していきました。この孤立作戦は成功し、王皇后は本当に誰にも頼れなくなっていきます。
残る壁は長孫無忌でした。長孫無忌は皇后廃位について自分の意見をはっきり言わなかったため、武則天は高宗本人を長孫無忌の家に行かせるという手を打ちます。皇帝が臣下の家を訪ねること自体、ほとんどない出来事でした。
長孫無忌は皇帝の用件をわかっていながら、顔に出さずに酒や料理でもてなします。宴もたけなわになったところで、高宗は褒美を差し出しました。長孫無忌の妾の子に高官の末席を与え、金銀財宝を大量に贈り、肖像画を石に描かせるというものです。
正妻の子ならともかく、妾の子に高官の位を与えるのは普通ありえないことでした。長孫無忌はこれを辞退せずに受け取ります。手応えを感じた高宗は、王皇后には子がいないので武則天に皇后を移したい、と切り出しました。
ところが長孫無忌は「こんな楽しい酒の席で野暮なことを言わないでください」と話の腰を折り、財宝だけ受け取って高宗を帰してしまいます。
中国のトップである皇帝が腰を折って自分の部下に賄賂を贈らないといけないぐらいのレベルの差があるんですよ、力の。
その後、長孫無忌は皇后廃位に反対らしいという噂が次々と入り、確認しても同じでした。武則天はここで長孫無忌と対決する覚悟を決めます。深井さんは、普通ならありえない「やばい覚悟」だと表現しています。
褚遂良の命がけの反対と、休み続ける李勣
巨大勢力の長孫無忌に対抗するため、武則天は派閥づくりに取りかかります。長孫無忌は最大派閥の関隴集団 ── 北朝の西魏・北周以来、関中と隴西を地盤にした軍事貴族の集団。隋や唐の皇室もこの系統から出ていますに属していたので、長孫無忌に嫌われた人や左遷されかけた人を仲間に引き入れていきました。
並行して高宗は、長孫無忌、李勣、褚遂良らを呼び出し、皇后廃位を伝えようとします。会議の前、褚遂良は長孫無忌に、儒教の考えからも廃位は許せないが、反対すれば死刑もありうるので自分が反対意見を述べると申し出ました。
褚遂良は太宗から、皇后のことなどを頼むと直々に託されていました。いさめ役の魏徴の後継者でもあり、太宗と長孫無忌への恩義から、死を覚悟して反対することを決めたのです。
一方、ナンバー2の李勣は、病気を理由に参内しませんでした。楊さんは「ある意味賢いかもしれない」と評しています。
会議で高宗が恐る恐る廃位を打診すると、予定どおり褚遂良が口火を切ります。皇后は名家の出であり、先帝が崩御の際に自分に後を頼んだ、それはあなたもそばで聞いていたはずだ、と訴えました。高宗は言い返せず、翌日に持ち越します。
翌日も褚遂良は反対し、どうしても替えるなら他の名家から選んでほしい、武氏はよい家ではないと述べます。長孫無忌は一言も発さず、援護のない褚遂良は、ついに土下座して田舎に帰らせてほしいと嘆願しました。
怒った高宗は褚遂良を退出させ、隣で聞いていた武則天は処刑を求めます。ここで初めて長孫無忌が口を開き、先帝の遺命を受けた者には罪があっても手を加えられない、と制止しました。
うわ、強よ。
強よ。長老感。
楊さんは、学者の分析も紹介します。褚遂良は太宗の名をいちいち出したことで、太宗の威光を盾に皇帝を脅していると高宗に映ったかもしれません。さらに武則天が処刑を叫んだことで、論点が「皇后の廃位」から「褚遂良を処刑すべきでない」に移りました。
論点は皇后廃位の是非。高宗と武則天は高官に頼む側
論点は褚遂良を処刑すべきでないか。高宗と武則天は頼まれる側
ただし深井さんは、本当のところは本人たちにしかわからず、あくまでこういう見解もあるということだと念を押しています。
「陛下の家庭のこと」李勣の一言が廃位を決めた
高宗と武則天は、ここまで強く反対されるとは思っておらず、驚いて苛立ちます。全員に反対されたままでは廃位を押し通せません。そこで突破口になったのが、会議を欠席していた李勣でした。
李勣は長孫無忌とは出自が違い、反りが合いませんでした。しかも代替わりの際に理由のわからない左遷を受けたことで、政治の場での身の振り方を恐れていました。病気と称して家にこもり、どちらにつくか策を練っていたのです。
会議の翌日か翌々日、李勣は1人で高宗のもとを訪れ、休んでいたことを詫びます。高宗が皇后廃位について意見を尋ねると、李勣はこう答えました。
この件は陛下の家庭のことであり、他人が口を挟む筋合いの話ではない、という答えです。これを聞いた高宗は、自分の妻の話なのだからそもそも聞く必要はなかった、と考えを切り替え、廃位が決まっていきます。
楊さんは、李勣の関心は皇后の是非よりも、長孫無忌らに対する皇帝権力の確立にあったのかもしれないと見ます。深井さんは、長孫無忌が関隴集団、李勣が山東集団 ── 華北東部の山東地方を基盤とした勢力。関隴集団とは出身も気風も異なり、唐初の政界で対抗関係にありましたという派閥の違いから、長孫無忌と逆のことを言いやすかったとも指摘します。
関隴集団。ナンバー1で、皇后廃位に反対。高宗を傀儡にしておきたい
山東集団。ナンバー2で、会議を欠席したのち「陛下の家庭のこと」と事実上容認
それ(廃位を押し通すこと)が怖いからやらなかったんですけど、もういいかってなっていったってことです。だから心の問題なんですよ、ここら辺全部。
深井さんが言うように、皇后廃位を決めたのは制度上の手続きよりも、高宗の心が切り替わったことでした。恐れていた一歩を、李勣の一言が踏み出させたといえそうです。
皇后になった武則天と、王皇后・蕭氏の悲惨な最期
晴れて皇后になった武則天は、このとき33歳でした。しかし、自分自身が皇后を廃して就いた座である以上、いつひっくり返されるかわからず、休む暇はありませんでした。
王皇后と蕭氏は、交代の1年以上前から高宗によって幽閉され、後宮の全権もすでに武則天が握っていました。廃位が正式に決まると、2人は食事の器を出し入れする小さな穴しかない、不潔な座敷牢に移されます。
高宗はこの状況を憐れみ、かつての皇后と寵愛した女性に会いに行きます。ここから出してあげると約束までしてしまいました。その訪問はすぐに武則天の耳に入ります。
激怒した武則天は2人を鞭打ちの刑に処し、さらに腕と足を切断して酒の入った甕に入れたと伝えられます。2人は数日生きたのちに亡くなり、遺体は切り刻まれ、中国で嫌われる蛇と梟を意味する名に改めさせられたといいます。
すごい今バチバチの権力闘争やってるからね。何(高宗は)逆のことしてんだよって。
ただし深井さんは、この話もどこまで本当かわからないと付け加えます。漢の劉邦の妻である呂雉 ── 前漢を開いた劉邦の皇后で、呂后とも呼ばれます。劉邦の死後に実権を握り、ライバルの戚夫人を残酷に処罰したことで知られますにも同じような逸話があり、それになぞらえた創作の可能性があるからです。
反対派の粛清と、ついに倒された長孫無忌
皇后になった武則天は、皇后廃位に反対した高官の粛清に移ります。まず長孫無忌以外の反対派を、ベトナムや海南といった当時の辺境の州の長官として次々に左遷し、死ぬまでそこにとどめたり、自殺させたりしていきました。
主要ポストから長孫無忌のグループを外し、武則天の息がかかった新しい人材を据えていくことで、長孫無忌は孤立します。そのうえで武則天は、謀反を裏で操っているという罪を長孫無忌に着せました。
高宗は、先代からの重臣で国を支えてきた長孫無忌の処罰をさすがにためらいます。それでも武則天は長孫無忌を左遷し、自殺に追い込むことに成功しました。深井さんは「ラスボスを倒した感じ」と表現しています。
王皇后の孤立
赤ん坊の死や呪いの儀式の罪を着せ、頼れる高官を排斥する
派閥づくり
長孫無忌に嫌われた官僚を仲間に引き入れる
李勣の容認
「陛下の家庭のこと」の一言で高宗が廃位を決断する
反対派の左遷
褚遂良らを辺境に送り、長孫無忌を孤立させる
長孫無忌の排除
謀反の罪を着せて左遷し、自殺に追い込む
皇帝は本来こうした権力を持っていますが、強権を振るえば周囲を怒らせ、国を運営できなくなる恐れがあります。深井さんによれば、武則天は高宗の背中を叩き続けて権限を発動させる一方、新しい人材を次々に登用して政権を作り直し、国を維持しました。
楊さんは、ある小さな役職の官僚の逸話を紹介します。長孫無忌に左遷されそうになったその人物が高宗と武則天への支持を表明すると、2人はその人をいきなり高い位に就けました。
こんなに官職の低い者でも、高宗と武則天を支持すればめっちゃ抜擢される、めっちゃ出世されるということで、今までこうあまり出世できなかった人がどんどんどんどん武則天と高宗のところに集まってきて、派閥が形成されていくんですよ。
その官僚自身は、身を守るために武則天についただけだったようです。それでも、たった1人の抜擢が周囲へのメッセージとなり、出世の機会を求める人々を引き寄せていきました。
毒をもって毒を制す。武則天が唐にもたらしたもの
深井さんは、一連の粛清を唐王朝の側から捉え直します。建国時に功績のあった功臣たちは、3代目の高宗の時代には、派閥争いをする邪魔な存在になっていました。
深井さんは、武則天による功臣の一掃が唐王朝の長命につながったと述べます。楊さんも、毒が毒を制し、最後にはその毒もなくなると続け、樋口さんは「毒と毒で中和するんや」と面白がっています。
高宗にとっても、子どもの頃から父・太宗の圧倒的に有能な腹心たちに気を遣うのは当然で、精神的に優劣がついていました。そのスイッチを切り替えさせたのが武則天だった、と深井さんは見ています。
この時点の武則天はまだ皇帝ではありません。しかし高宗は基本的に武則天に従い、元皇后に会いに行っただけで処刑が起きた以上、逆らうことさえできない状態でした。
表向きは皇后のまま、裏で国を動かす時期はここから長く続きます。武則天がどのように操り、何が起きていくのかは次回に語られます。
まとめ
武則天は、赤ん坊の死をめぐる疑惑や王皇后の孤立化、派閥づくりを重ね、李勣の一言を突破口に皇后の座をつかみました。その後、長孫無忌ら先代以来の高官を一掃したことは、結果的に唐王朝の長期存続につながったと番組では語られています。
- 赤ん坊殺しや残酷な処刑の逸話は、数百年後の歴史書によるもので、武則天をおとしめる意図で書かれた可能性がある
- 高宗にとって皇后廃位は、長孫無忌らに握られた皇帝権力を取り戻す手段でもあった
- 褚遂良の命がけの反対は通じず、欠席していた李勣の「陛下の家庭のこと」という一言が廃位を決めた
- 武則天は反対派を左遷・粛清し、長孫無忌を自殺に追い込む一方、新しい人材を抜擢して政権を作り直した
- 自分の権力のための行動が、建国功臣の派閥を一掃する「毒をもって毒を制す」働きになったと深井さんは見ている


