皇帝になるための「先祖づくり」と命がけの諫言
前回までの武則天は、自分の政権を守るために息子たちを次々に退けてきました。今回の武則天は、いよいよ自分が皇帝になった方がいいと考え、新しい王朝を開く準備に取りかかります。
武則天がまず行ったのは、先祖を7代までさかのぼって系譜をつくることでした。実際に分かっていたのは3代前くらいまでで、残りは事実上の捏造だったと楊さんは説明します。
武則天は、自分の武氏という姓が古代の周王朝を開いた武王に由来すると主張し、始祖は文王だと言い始めます。楊さんによれば、こうした系譜づくりは全ての王朝がやってきたことで、武則天だけが特別なわけではありません。
ちゃんとその政権に継ぐのに正当な由来があるかどうかっていうのは、そのロジックの説明は常にやっぱ気を遣わないといけないんですよね。
一方でこの時期になると、命をかけて武則天政権を倒そうとする人々が現れます。各地の反乱は武則天が政治を牛耳っているせいだと批判した人物はすぐ処刑されますが、その一族の者がまた声を上げました。
その人物の言葉は記録に残っていて、番組でも読み上げられます。「次々と世継ぎを取り替え、李氏の者を排斥し、武氏の者たちをとりたてました」と武則天の政治を指摘し、「どうか御小君に政権を譲られて、唐の元に戻し、陛下は引退されますならば、武氏一族は安泰でおりましょう」と迫る内容です。
これ(諫言)本気で言ってるっぽいな。
樋口さんは、武則天という存在そのものが中国の王朝の構造の中では「バグ」だったと表現します。国をよく治める能力はあっても理想とされる形ではないため、武則天の一生は、自分を排除しようとする勢力との戦いだったといいます。
怒った武則天でしたが、この諫言をした人物は殺さずに左遷しました。楊さんはここに武則天のバランス感覚を見ており、命がけで直言する人物が出てくるのは儒教の影響だろうと話しています。
真面目なんですよね。なんか命かけて言ったろうみたいな人が出てくるんだよね。言うやつかっこいいよね。
李敬業の乱と、締めるところと緩めるところ
宮廷の外でも反乱が起きます。中心となったのは、かつて武則天の皇后就任を後押しした重臣・李勣の孫で、乱は李敬業の乱と呼ばれます。
李勣は、名君とされる唐の2代皇帝・太宗 ── 唐の第2代皇帝・李世民。「貞観の治」と呼ばれる安定した治世で知られ、中国史上屈指の名君とされますに信頼された家臣でした。しかし太宗に左遷されたことで信頼感を失い、その後は国のためではなく保身のために動くようになった人物だと楊さんは振り返ります。
李敬業の乱の目的は、即位から50数日で廃位されて幽閉されていた中宗を復位させ、唐を正統に戻すことでした。蜂起の地は、商業流通都市として栄えていた揚州です。
李敬業の乱は、中下級の役人が中心の反乱で、国政を動かせる高官はすでに武則天に押さえられていました。最初は順調に進んだものの、決起からわずか2ヶ月で鎮圧されます。
李敬業の乱への処罰は徹底していました。李勣が皇帝から賜っていた李姓は剥奪され、太宗の陵に陪葬されていた李勣の墓も破壊され、血のつながる者は皆殺しにされたといいます。
番組では、鎮圧する政府軍の総司令官に、唐の皇室である李氏の最長老格の人物が据えられた点も注目されます。唐を取り戻すと言って立ち上がった反乱に、唐の重鎮をぶつけるという人の使い方です。
楊さんは、諫言した人物を左遷にとどめた件と、李敬業の一族を皆殺しにした件の差を、感情ではなく戦略だと見ています。
命がけで引退を迫ったが、処刑せず左遷にとどめた
李姓を剥奪し、墓を壊し、血縁者まで徹底的に処刑した
もうどこはどうぐらい締めないといけないか、どこで緩めないといけないかっていうことを全部戦略で多分彼女はね、やってると思います。
感情で動く人だったらもうそこで失脚してる。そもそも皇帝になるまでにこんなに待てないんですよ。
こうして反乱はことごとく抑えられ、人々は反乱を起こす気力を失っていきます。大軍を動かせたこと自体、武則天が軍を完全に掌握していた証拠だという指摘もありました。
密告箱と酷吏がつくった監視社会
楊さんは、武則天が後に死んだあと、同じことをなぞろうとした女性がすぐに失脚したことにも触れ、武則天だからこそできたことだと話します。そのうえで、この時期の新しい政策を個人的には「悪手」だと評します。
その政策が、密告箱の設置です。たとえば、酒の席で一兵士が廃位された中宗を担ごうと冗談を言ったところ、仲間に密告されて全員が死刑になったという出来事があったといいます。
密告箱は、政治に生かすという建前でしたが、実際には官僚どうしを監視させ、武則天への批判を自制させ、政敵を冤罪で潰す道具になっていきました。楊さんは、ハメたい相手をハメるだけの仕組みになったと説明します。
密告箱とともに現れたのが、酷吏 ── 「酷い役人」という意味の言葉。法を厳しく、あるいは過酷に運用して人を罰する官吏を指し、中国の歴史書でたびたび用いられる呼び名ですと呼ばれる30名近い人々です。密告された人を拷問し、たとえ嘘でも自白させるのがうまい者たちで、よく吐かせたと武則天から評価されました。
有名な酷吏の一人が索元礼です。北方民族の出身で、ソグド系ではないかとも言われます。索元礼は1人の罪状をつくるために周辺の数十人から100人ほどを取り調べ、こうした手段で殺された人は数千人にのぼったといいます。
もう一人有名なのが来俊臣です。父親が誰かも分からない環境で育ち、まともな職にも就かず、盗みの罪で牢に入っていた人物でしたが、密告で出世できると察知し、嘘の密告で武則天に「忠義者」と褒められるようになりました。
酷吏たちは、指を潰す、鼻から酢を注ぐ、火で炙るといった拷問を次々に考え出し、その器具を見ただけでほとんどの人が自白したと言われます。楊さんは、こうした拷問が公然と行われた時代は中国史上でもこの時期だけだと述べています。
樋口さんは、酷吏が登場した背景として、皇帝即位の総仕上げを前に政局が極度に緊張し、武則天自身も失脚しかねない状況だったことを挙げます。手っ取り早く政敵を排除する道具として、計算の上で酷吏を引き立てたというわけです。
完全使い捨て。彼ら(酷吏)に拷問とかさせるんだけれども、政治権力を握らせることは絶対しなかったと。
樋口さんによると、酷吏の活用は約11年続き、5年目ごろから武則天は酷吏を処刑・排除し始めました。さらに恐怖政治の空気を払うために、殺しを禁じる命令や刑罰を簡素化する命令まで出したといいます。
愛人・薛懐義は出家した「マダムキラー」
この時期にもう一人重要な人物が登場します。武則天の愛人、薛懐義です。楊さんは、男性でも女性でも権力を握れば愛人は必ずいるものだと前置きします。
薛懐義は武則天が60歳を超えてからの愛人で、体格がよくイケメンだったそうです。ただ女性の武則天は、男性皇帝ほど大っぴらに異性をそばに置けません。
そこで武則天は、薛懐義を出家させました。出家した人は性交を禁じられているので、寝室に入っても問題ないという理屈です。
薛懐義はもともと薬売りで、ある貴族の女性の家に出入りして懇意になっていました。その女性が武則天のお気に入りで、紹介されて会ってみたところ気に入られ、そのまま愛人になったといいます。
寵愛をいいことに、薛懐義は大いに調子に乗ります。立派な馬に乗って10数人の宦官を従え、仲の悪かった道教の道士を見つけると殴りつけて頭髪を剃ったといいます。
この人(薛懐義)ほら、一応仏教で出家してるからボコボコにするみたいな。もう仏教のこと何にもわかってない挙動をしている。
万象神宮と、道教から仏教への乗り換え
一方で楊さんは、薛懐義は実はとても賢い人物だったと言います。皇帝になるための理屈と権威がまだ足りない武則天は、薛懐義に重要な仕事を任せました。
その仕事が、万象神宮と呼ばれる巨大な建物の建設です。周王朝の系譜であることを示し、あらゆる神々の祝福を一身に受けるための施設で、唐王朝の中で周王朝の権威を示し直す意味がありました。薛懐義はこれをわずか10ヶ月で設計・完成させたといいます。
薛懐義は仏教界のトップにも据えられ、儀式もうまくこなしたため、武則天の寵愛はさらに深まりました。
ここで宗教政策の大きな転換も起きます。唐の皇室は李姓で、老子も同じ李姓だったことから、唐王朝は道教を仏教より上に置いていました。武の王朝をつくろうとする武則天はこの論理を使えないため、仏教を重視します。
皇室の李姓が老子と同じことから、道教を仏教より上に置いた
李氏の論理に対抗するため仏教に肩入れし、仏教勢力を取り込んだ
仏教側にとっても、取り上げられれば活動しやすくなります。武則天は龍門石窟 ── 中国・洛陽の南にある仏教石窟群。北魏から唐の時代にかけて数多くの仏像が彫られ、世界遺産にも登録されていますに盧舎那仏を造営させ、母親も仏教徒だったことから自然に仏教を選んでいったと話されます。
武則天が重視したのは、奈良の東大寺と同じ華厳宗 ── 『華厳経』を拠り所とする仏教の宗派。唐代に大成し、日本では東大寺を本山として奈良時代に広まりましたでした。樋口さんは、盧舎那仏が太陽の象徴であり宇宙の中心と位置づけられるため、中央集権をイメージさせやすかったと説明します。
背景には、太宗の時代に経典を持ち帰った玄奘の存在もありました。玄奘は道教より仏教が大切だと説いても受け入れられなかったのですが、武則天がそれを実現した形になります。樋口さんによれば、武則天は玄奘から菩薩戒を授けられてもいます。
大雲経が描いた「女性の王」という予言
仏教を使って皇帝になる理屈を生み出す事業も、武則天は薛懐義に任せます。楊さんは「ただのこじつけ」としながら、その中身を紹介します。
鍵となったのは大雲経という経典です。経典に女性が出てくることは少ないのですが、大雲経には多くの女性が登場し、その中に浄光天女という仏弟子がいました。
大雲経では、仏が浄光天女に向かって、天女の姿を捨てて女の姿となり、国の王となって転輪聖王 ── インドの伝説で、武力ではなく正しい教え(法)によって世界を治めるとされる理想の王の領地の4分の1を持つだろうと語ります。樋口さんの要約では、天女が生まれ変わって国の王様になるという一文です。
この一文を薛懷義が見つけてきたっていうところがすごいところなんです。
浄光天女と武則天を重ねれば、武則天は仏に予言された人だと言えます。しかも大雲経は誰も知らない経典だったので、この解釈で押し通せると考えたわけです。
武則天は大雲経を最も重要な経典と定めて全国の寺院に配り、寺は民衆にその教えを説きました。こうして、武則天が皇帝になるのは当然だという世論が少しずつつくられていきます。
マスメディアのない時代になぜこんなことができたのかという驚きに対し、楊さんは、メディアがないからこそお寺をメディアとして使ったのだと答えています。
泰山封禅に女性として初めて参加する
樋口さんは、まだ夫の高宗が生きていた時期の印象的なイベントとして、泰山封禅 ── 山東省の泰山で天と地を祀り、皇帝の功績を天に報告する儀式。限られた皇帝しか行えない最高格の祭祀とされましたの儀式を紹介します。
樋口さんによると、泰山封禅は始皇帝を含めて過去に4人しか行ったことのない最上級の儀式でした。主役は高宗でしたが、実施を後押しし裏で主導したのは武則天だったといいます。
本来、泰山封禅に女性は参加できません。しかし武則天は高宗に命令を出させ、史上初めて女性として儀式に参加しました。樋口さんはこれを「でかいブランディング」だったと表現します。
泰山封禅は全アジアを轟かす一大イベントで、儀式へ向かう官僚や軍隊の行列は数百キロに及び、ペルシャなどの国々からも多くの使者が参列したと言われます。その場で、武則天はまだ皇后という立場のまま、儀式に参列した初の女性として姿を見せました。
武周朝の成立、68歳の女性皇帝
楊さんは、皇帝になるための理屈、巨大な施設、儀式がそろい、いよいよ王手がかかったと整理します。最後の一手は、自分からは言い出さないという方法でした。
武則天は酷吏ににらみを利かせて6万人の民衆に王朝交代を願い出させ、官僚にも同じことをさせました。追い詰められた当時の皇帝・睿宗も自ら「革命」を願い出ます。中国でいう革命は王朝交代のことです。
系譜づくり
先祖を7代までさかのぼり、周の武王に連なる家だと主張
権威づけ
万象神宮の建設、仏教の重視、泰山封禅への参加
世論づくり
大雲経を全国の寺に配り、女性の王の予言を広める
王朝交代の請願
酷吏を背景に、民衆6万人・官僚・睿宗に願い出させる
武周朝の成立
自ら聖神皇帝を名乗る
こうして成立したのが武周朝です。李家の天下が武家に移るこの変化を、番組では会社の経営権や株主が丸ごと替わるような大転換だとたとえています。
武則天は聖神皇帝を名乗り、前の皇帝・睿宗を皇太子に、もとの皇太子を皇孫としました。唐はここで一度断絶します。
皇后になってから35年、高宗が死んでから7年間の準備を経て、ついにここで彼女の政権が誕生した。この時68歳。
だっていつ死んでもおかしくないじゃん。そこを焦らず、ちゃんと着実に1つずつ潰してやっていったっていうことはすごいことですよね。
即位した68歳の武則天はどこも悪くなく、愛人もいるほど元気でした。焦らず外堀から埋めていく忍耐こそが、武則天を皇帝に押し上げたといえそうです。
用済みになった薛懐義と酷吏たちの末路
武周朝の成立後、武則天がさんざん利用してきた薛懐義や酷吏が、今度は次々に失脚していきます。
薛懐義は出家の身でありながら将軍号を与えられ、北方の突厥討伐のたびに総大将として出陣しました。実際に戦ったのは軍事に長けた副将で、手柄だけを薛懐義に付けて出世させるためだったといいます。
傲慢になった薛懐義は宮中にほとんど参内せず、腕っぷしの強い僧侶を1000人ほど侍らせていました。周囲は手を出せず、文句を言う人がいても武則天がかばっていました。
ところが武則天が新しい愛人・晋南宮を見つけると、焦った薛懐義は自分が建てた建物に放火して気を引こうとします。再建を任されて喜ぶ薛懐義を見て、武則天は冷静に切り捨てを決め、夜に暗殺者を送って殴り殺させ、埋葬だけはきちんと行いました。
酷吏たちも同じような結末を迎えます。最初は密告を褒めていた武則天も、あまりの多さに本当なのかと疑うようになり、酷吏どうしが密告し合う事態にもなっていきました。
仇弘という酷吏が謀反の疑いで密告されたとき、取り調べに来た来俊臣は、自白しない囚人をどうすればいいかと何食わぬ顔で尋ねます。大釜に入れて外から炙ればいいと答えた仇弘は、その方法で自分が炙られることになりました。
めちゃくちゃ恨まれてるから、もう誰も相談に乗ってくれないし、誰も助けてくれないから、(酷吏は)実は全員孤立してるんですよ。
誰からも嫌われていた酷吏たちは反抗もできず、冤罪が露見するにつれて処刑などで姿を消していきます。樋口さんは、武則天は冤罪と知った上で利用していたのではないかとまで推測しています。
武周朝の後継者問題という解けないジレンマ
武則天の親族も、滅ぼされた勢力の一つでした。そして武周朝には、親族をめぐる重大な課題がありました。
武則天の息子たちは高宗の子で李姓のため、跡を継がせると唐王朝に戻ってしまいます。武氏の王朝を継がせるには親族から後継者を探す必要がありますが、武則天は親族を信頼しておらず、兄や姉を殺してきました。
親族の武承嗣武昌氏は密かに皇太子の座を狙っていましたが、武則天は最後まで信頼できませんでした。李姓の息子に武姓を名乗らせることも試みましたが、もともと息子なので成り立ちませんでした。
女性がその次を作るというそのロジックが存在しないのと、男性の方の線で相続されちゃうからね。あとは本人が親族を死ぬほど信頼してないんで。
楊さんは、この後継者問題はどうにもならず、武周朝の最後まで尾を引くと予告します。親族にも優秀な人はおらず、優秀だったのは武則天だけだったといいます。
名臣・狄仁傑と農業重視の治世
恐怖政治を進める一方で、武則天は優秀な人材を取り立てていました。その代表が、中国史上でも有名な官僚の狄仁傑です。
樋口さんによると、狄仁傑は日本での知名度は高くないものの、中国では武則天の晩年を支えた側近中の側近として偉人視されています。清廉潔白な官僚の代表格で、諸葛孔明のような人物だったといいます。
一番大事だったのは、武則天を怒らせずに言うべきことを言えるコミュ力を持ってたっていう。
狄仁傑は一度政敵にハメられて飛ばされましたが、武則天の即位後すぐに呼び戻され、宰相として重用されました。最大の功績は、後継者指名という極めてデリケートな課題を支えたことで、武則天から「国老」と呼ばれて尊敬されたといいます。
楊さんは、武則天が政治的な脅威に過剰反応することを狄仁傑はよく分かっていて、自分を脅威として見せずに言いたいことを言っていたのだろうと推測します。
樋口さんは、武則天が人材を評価するうえで農業を重視していたことも紹介します。辺境の軍は民衆から食料を徴収するのではなく自給自足させ、地方長官の評価にも農業の実績を組み込みました。
辺境の軍の食料を民衆から徴収し、民衆に負担がかかる
軍は辺境で自給自足し、農業で実績を出した長官は昇進、農地を荒らした役人は減俸や罷免
楊さんは、恐怖政治と優れた人材登用が同時に進んでいたからこそ武周朝が成り立っていたとまとめます。ただし新しい王朝にはさまざまな歪みが生じ、それが次回、武則天編の最終回で語られます。
まとめ
武則天は、系譜づくり、反乱の選択的な鎮圧、密告と酷吏による恐怖政治、仏教と大雲経による世論づくり、泰山封禅でのブランディングを積み重ね、68歳で武周朝を開きました。即位後は利用した薛懐義や酷吏を切り捨てる一方、狄仁傑のような名臣を重用しましたが、李姓の息子しかいない後継者問題は解けないまま残ります。
- 武則天は諫言者を左遷、李敬業の一族を皆殺しと、処罰の強弱を戦略的に使い分けたと語られた
- 密告箱と約30名の酷吏が監視社会をつくり、酷吏は政治権力を持たされないまま使い捨てられた
- 仏教を重視し、大雲経の「女性の王」の予言を全国の寺で広めることで即位の世論をつくった
- 皇后になって35年、高宗の死から7年の準備を経て、68歳で中国史上初の女性皇帝となった
- 李姓の息子に継がせれば唐に戻るという後継者のジレンマが、武周朝の大きな課題として残った


