クーデター政権はなぜ教皇に頼ったのか
サラディン編を理解するには十字軍を、十字軍を理解するにはローマ教会を知る必要があるとして、この回はローマ教会の歴史の続きから始まります。前回はメロヴィング朝のクロービスが改宗し、ローマ教会の後ろ盾になるところまでが語られました。
その後のメロヴィング朝では、貴族のピピンがクーデターを起こして王になり、王朝はカロリング朝に変わります。深井さんは、この交代は教科書ではあまりクーデターとして紹介されないものの、実態はクーデターだと話しています。
その貴族がさ、クーデターを起こして王様になっちゃったらさ、え?なんでお前が王様だった?みたいになるじゃん。
ピピンは王位の正当性を得るため、クーデターの前からローマ教皇に王として認めてもらう準備を進めていました。そしてお礼として、ローマ教会に教皇領 ── ローマ教皇が世俗の君主として直接支配した領土。756年のピピンの寄進が起源とされ、19世紀のイタリア統一まで続きましたを寄進します。
深井さんによれば、それまで信者からの寄付に頼っていたローマ教会は、この寄進で収入を生み続ける領地を持ち、大名のような一つの勢力として成り立ち始めます。クーデター政権だからこそ正当性を求める動機が強かったのではないか、とも深井さんは見ています。
ゲルマン人の国家から見ると、自分たちより権威のある存在は、すでに滅びたローマ帝国しかありませんでした。そのかつての首都にいる教皇に認めてもらうことが、被統治者や周囲の貴族を納得させる手段になったのです。
「あなたこそローマ皇帝」カール大帝が描いたキリスト教帝国
ピピンの息子が、有名なカール大帝です。ピピンが王として認められただけだったのに対し、カール大帝は教皇からローマ皇帝の冠を授けられるという、一段上の認められ方をしました。
だってローマ帝国って滅びてるわけじゃん。西ローマ。で、何百年か経ってるわけじゃん。
カール大帝の時代から、フランク王国とキリスト教会の関係は質的に変わります。ただのパートナーシップではなく、カトリックを国家の土台に据え、教育施設の中身にもキリスト教の要素が深く入るようになりました。
カール大帝は、フランク王国はローマ・カトリック教会の守護者であり、皇帝である自分は聖なる職務を担うという理念を掲げます。異教徒に改宗を迫り、イスラーム教徒と戦ってトゥール・ポワティエ間の戦い ── 732年、フランク王国の宮宰カール・マルテルがイスラーム勢力を破った戦い。一般にはカール大帝の祖父の時代の出来事とされていますをしたとも語られ、名実ともに守護者らしくなっていきます。
ちなみに深井さんによると、トランプのハートのキングのモデルはカール大帝だといいます。ヨーロッパでそれほど偉大な人物として扱われているということです。
一方で、カロリング朝の地方の教会は、ローマ教皇の指示で動いていたわけではありませんでした。深井さんたちが50〜60冊の本を読んでも答えが見つからず、学者の先生に確かめたところ、地方の司教は土地の有力者で、教皇の権力はほとんど届いていなかったそうです。
地方の教会がまず従うべき相手は、その土地の領主や、さらに上のフランク王でした。キリスト教の権力は、まず為政者と手を組み、その後に地域へ浸透していくというステップをたどる、と深井さんはまとめています。
それでもカール大帝と教皇の関係は、互いに得をするものでした。カール大帝は宗教面からも国内に影響力を及ぼせるようになり、教皇はカール大帝が各地を攻めてカトリック化してくれることを歓迎しました。コンスタンティノープルへの対抗意識も、教皇側にはあったといいます。
フランク王国の分裂と神聖ローマ帝国の誕生
カトリックはその後11世紀にかけて、スラヴ人やスカンディナビアの人々、ハンガリー人にも広まり、勢力を伸ばしていきます。しかし、キリスト教帝国というイデオロギーが続いたのは、実はカール大帝の代だけでした。
西ヨーロッパで大きな力を持っていたフランク王国は、大きくなりすぎたこともあって西フランク、中部フランク、東フランクの3つに分裂し、力を失います。この3つが、のちのフランス、イタリア、ドイツの原型になります。
10世紀ごろ、東フランクにオットー1世が現れ、教皇ヨハネス12世が改めてローマ皇帝の帝冠を授けます。深井さんは、教皇がカール大帝の時のような関係を再び築きたかったのではないかとしつつ、諸説あるとしたうえで、少なくとも後ろ盾が欲しかったのは間違いないと話しています。
こうして成立したのが神聖ローマ帝国 ── 962年のオットー1世の戴冠を起点とする国家。現在のドイツやオーストリアを中心に、1806年まで名目上存続しましたです。宗教改革で登場したルターの出身地でもあります。
ゲルマン人の国家がローマ帝国の名を受け継いでいく様子に、樋口さんは「フランク王国なのにローマ帝国」と驚きます。
そういう国を統治する上では、暖簾って大事なのかもしれないですね。
オットー1世は3つのうちの1つを治める「ワンオブゼム」で、王権が弱い立場でした。楊さんは、だからこそオットー1世は使えるリソースを何でも使いたかったようだと補足しています。
助けを求めた皇帝が教会を「社員」にしてしまう
オットー1世以降、王権と教会の結びつきの質はさらに変わります。深井さんは、王権の強さによる違いを「統治スコア」という例えで説明しています。
王権が強く、国内は言うことを聞いている。守護者として教会の権威を借り、統治を70点から80点に上げる感覚
王権が弱く、教会の力をもっと借りる必要がある。国内の教会組織を統治制度にがっつり取り込む
教会組織を統治制度に取り込むことは、聖職者が皇帝の部下になることを意味しました。皇帝は部下への指示命令権を求めますが、ローマ教皇から見れば、その組織は名義上ローマ教会のものです。
教会側からすると独立性が失われてるっていう感覚なんですよ。こっちが権威を貸してやってるのに、すごい明確な序列関係、指示命令系統に組み込まれて、
あれ、ちょっとおかしいよねっていう風に教会側が違和感を覚え始める。
深井さんは、この対立が王権の弱さから生まれた点を面白いと話します。樋口さんも、助けてほしくて取り込んだはずなのに支配になっている、と反応します。
助けすぎて、いやなんかお前のメンバーみたいになってるけど、お前んとこの社員じゃないんですけどって思ってるってことですよね。
インターンシップで出したのに、なんで勝手にみたいな。
この対立が叙任権闘争 ── 聖職者を任命する権利をめぐって、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝などの世俗君主が争った出来事。11〜12世紀に激しくなりましたです。聖職者を任命する権利、楊さんの言葉でいえば「人事権」を、教皇と皇帝のどちらが持つかをめぐる争いでした。
オットー1世以降、この人事権は皇帝側にありました。その結果、妻帯が禁じられているはずの聖職者の妻帯が当たり前になり、お金を払えば聖職者になれる聖職売買も広がっていきます。
聖職者側から見れば、それは全くカトリックらしくない腐敗でした。自分たちでふさわしい人を任命したい教会と、手放せば王権が崩れてしまう皇帝がぶつかることになります。
腐敗を批判したクリュニー修道院と、それを採用した皇帝
腐敗を最初に強く批判したのは、修道院でした。修道院は俗世から離れて信仰を深めようとした人々の場であり、勢力を得るほど俗世に取り込まれる面はあったものの、そこから純粋な考え方が出てきます。
聖職売買も聖職者の妻帯もだめだという声は、有力なクリュニー修道院 ── 910年にフランス中東部のブルゴーニュに創設された修道院。教会の刷新を目指すクリュニー改革の中心となりましたから上がりました。修道院から見れば、ローマ教会そのものも腐敗していたのです。
意外なことに、その声を取り上げたのは神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世でした。深井さんは本に書かれていない想像だと断ったうえで、皇帝も叙任権を手放すつもりはなかったが、腐敗した人が神聖な領域を担うのは気持ち悪かったのかもしれない、と話します。
当時の皇帝は、誰を教皇にするかにまで力を及ぼせました。ハインリヒ3世が改革派のレオ9世を教皇にしたことで、聖職者の妻帯や聖職売買を禁じる派閥が、一気に教会のトップに立ちます。
その聖職者が独身をなんか維持するみたいな、そういう建前ではあったんですけれども、実際あんまり実践できてない人も多くて、格段に問題にされなかったんですよね。
実態と大きく離れた主張でしたが、教皇が言う以上、発言力は大きくなります。その流れを受け継ぎ、クリュニー修道院の思想を持つグレゴリウス7世が教皇になり、叙任権を皇帝が持つこと自体がおかしいと主張しました。
人事権が皇帝側に
教会組織が統治制度に組み込まれ、聖職売買や妻帯が広がる
修道院の批判
クリュニー修道院から、腐敗をやめるべきだという声が上がる
皇帝が採用
ハインリヒ3世が改革派のレオ9世を教皇にする
根本への批判
グレゴリウス7世が、皇帝が叙任権を持つこと自体を否定する
叙任権闘争
ハインリヒ3世の息子、ハインリヒ4世と対立する
楊さんは、この展開を会社に例えます。腐敗という個別の課題を解くために選んだ人が、権力構造の前提そのものに異を唱えてきたという構図です。
なんかそもそも会社の理念と違うことやってるじゃないか。いやいや、現場はそうは言ってもこれで回ってるんだみたいな。いや、この前提自体がちゃうやろみたいな。
カノッサの屈辱で皇帝は何を恐れたのか
1075年、11世紀のことです。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世が、ついに正面から衝突します。グレゴリウス7世は、ハインリヒ4世を破門しました。
破門されると天国に行けず、葬式もできないなど宗教的な不利益があります。ただ深井さんは、ハインリヒ4世が一番困ったのは別の点だったと見ています。
ハインリヒ4世の皇帝としての地位は、自分の王権の強さではなく、教皇からローマ皇帝と認められることで担保されていました。破門は、その権威のはしごを外すことだったのです。
バリバリ政治リスクなんですよね。だから彼のその権力構造の中に、思いっきりキリストカトリック教の権威が、その何て言うか、不可欠な要素として組み込まれてるんですよね。
深井さんによれば、ハインリヒ4世の周りには、自分が皇帝になると言って攻めてきそうな貴族や王が大勢いました。のちの2回目の破門ではあまり動じていないことから、1回目は権力が弱い時期に食らった、まずいタイミングの破門だったといいます。
ハインリヒ4世は教皇のもとへ出向き、雪の中でひざまずいて謝罪し、なんとか許されます。これがカノッサの屈辱 ── 1077年、破門されたハインリヒ4世が北イタリアのカノッサ城に滞在する教皇を訪ね、赦しを請うた事件。教皇権の強さを示す出来事として知られますです。
ただし深井さんは、これを境に教皇権が一気に強まったわけではないと強調します。その後グレゴリウス7世はハインリヒ4世との争いで劣勢となり、2回目の破門は効かず、ローマから追い出されることになりました。
一回ハインリヒ四世ちゃんと謝るんだけど、その後からずっとふざけんなって思ってるってことよね。
ウルバヌス2世が十字軍を発するまで
教皇と皇帝の争いがグレゴリウス7世の代で終わらなかったことが、十字軍に直接つながっていきます。グレゴリウス7世の次の次の代ごろ、クリュニー修道院出身のウルバヌス2世が教皇になります。
ウルバヌス2世が教皇になった頃は、教皇側が劣勢でした。クリュニーの流れをくむ人々は、カトリック教会こそが世の統治者だと考え、皇帝に邪魔をするなと思っていました。一方のハインリヒ4世は、権威は使わせてもらうが口は出すなと思っていたといいます。
そうした時期に、ウルバヌス2世は十字軍を発します。詳しい経緯は次回に語られますが、深井さんは、どちらが勝ってもおかしくない試合がずっと続いていたことを覚えておいてほしいと話しています。
樋口さんは、「キリスト教が十字軍を立ち上げた」の一文で片付けがちだが、そのキリスト教が何を指すのか見えにくいと感想を述べます。実際にはローマ教皇、神聖ローマ皇帝のほか、コンスタンティノープルにもライバルの大司教がいました。
なんならさ、西ローマ帝国滅びてから、何お前勝手にローマ帝国とか言ってんの?って東ローマの人思ってるんです。
深井さんは、全員が自分こそ正当で社会を統べるべきだと考え、利用し合いながらぶつかっていたと整理します。その中で、純粋な宗教心から出た議題が権力構造を大きく揺さぶりました。
見えないところから来たパンチで一回ノックアウトされてる感じだと思うよ。叙任権闘争のハインリヒ四世とかは。
なぜ十字軍なのか、それがハインリヒ4世に対してどんな意味を持つのかという疑問は、次回へ持ち越されます。
まとめ
ローマ教会と王権は、正当性と保護を交換するパートナーとして始まりましたが、王権の弱さから教会を取り込んだことで人事権をめぐる対立が生まれました。叙任権闘争とカノッサの屈辱を経ても決着はつかず、その拮抗の中でウルバヌス2世が十字軍を発することになります。
- ピピンやカール大帝は、教皇に認められることで王位や皇帝位の正当性を得て、教会は領地と保護を得た
- 王権の弱いオットー1世以降、教会組織が統治制度に組み込まれ、聖職売買や妻帯などの腐敗が広がった
- クリュニー修道院の改革思想を皇帝自身が採用したことが、のちの叙任権闘争につながった
- カノッサの屈辱の後も教皇権はすぐには強まらず、教皇と皇帝の拮抗が十字軍の背景になった






