破門し合った相手からの「助けて」
十字軍の話は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)からの救援要請から始まります。ちょうどローマ教皇と神聖ローマ皇帝が叙任権闘争 ── 聖職者を任命する権利をめぐる、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の争い。11世紀後半に激化し、教皇権と世俗権力の力関係を左右しましたで激しく争っていた頃、それとはまったく関係なく、コンスタンティノープルから西ヨーロッパの各地へ助けを求める声が届きました。
当時のビザンツ帝国は、権威と栄光はまだ持っていたものの、イスラム勢力に押されて領土がどんどん縮んでいました。深井さんは、明日にも滅びるかもしれないという危機感を抱えていた状態だと説明します。
楊さんによると、ビザンツ帝国を脅かしていたのはイスラム勢力だけではありません。北からはペチェネグ人、ほかにもノルマン人など、強い勢力が次々と押し寄せていたといいます。
面白いのは、ビザンツ帝国とローマ教会がもともと「自分こそがローマ帝国を引き継ぐ教会だ」と張り合うライバルだったことです。交流が遮断されるなかで関係はさらに悪化し、ついには大シスマ ── 東西教会の分裂。1054年に東方正教会とローマ・カトリック教会が互いを破門し合ったことが、一般に決定的な分裂とされていますと呼ばれる、互いを破門し合う分裂にまで至っていました。
お前なんて破門だって言った人が、ごめん、助けて。
破門し合った相手にさえ助けを求めるほど、ビザンツ帝国は追い詰められていたということです。
教皇はなぜ「今」十字軍を呼びかけたのか
救援要請を受けたウルバヌス2世が何を考えたのかについて、深井さんは、直接本に書いてあるわけではない自分の仮説だと断ったうえで、いろいろな本を要約した解釈を語ります。その解釈では、ウルバヌス2世はかなり政治的な動きをしていたといいます。
ウルバヌス2世の立場では、神聖ローマ皇帝との戦いで、先々代のグレゴリウス7世が一度は勝ったものの、その後は再びやり込められている状態でした。クリュニー修道院出身の彼は、教会の独立を確立したいと考える派閥に属していました。
しかしローマ教会は、宗教の法理を司る存在であり、軍隊を持っていません。一方で、4〜5世紀にはまだ浸透しきっていなかったキリスト教が、カール大帝やオットー1世の時代を経て、この頃には民衆の死生観や贖罪の概念にまでだいぶ根づいていました。
このだいぶ切り替わってる時に、自分がこういうことを言ったら、皇帝より権力得られるんじゃね?っていうのが十字軍なんですよ。
深井さんによれば、ウルバヌス2世の狙いは、西ヨーロッパは皇帝ではなく教皇に従う世界だと見せつけることでした。楊さんはこれを「オセロの隅に置いたらひっくり返るんじゃないか」という感覚にたとえています。
皇帝との劣勢
神聖ローマ皇帝との権力闘争で、教皇側はやり込められていた
軍事力がない
ローマ教会は宗教の法理を司る立場で、自前の軍隊を持たない
信仰の浸透
キリスト教が民衆レベルまで浸透していた
呼びかけ
救援要請を機に、教皇の言葉で人々を動かす
権力の誇示
西ヨーロッパは教皇の世界だと示し、権力闘争で優位に立つ
1095年11月27日、ウルバヌス2世はクレルモン公会議 ── 1095年にフランス中部のクレルモンで開かれた教会会議。その最後の演説で、ウルバヌス2世が東方への遠征を呼びかけたとされていますの最後に演説を行いました。深井さんが抜粋して読み上げた演説では、トルコの民とアラブの民が東方の信徒同胞を襲い、7度の戦いで打ち破り、教会を破壊していると語られます。
演説の後半では、ウルバヌス2世は「我」ではなく「主」を持ち出し、騎士も歩兵も、富める者も貧者も、すべての者を説き伏せて同胞を助けに行けと訴えています。深井さんは、この後に教皇権がどんどん増していくことから、彼の戦略勝ちだったと見ています。
神の平和運動が植え付けた「聖地の浄化」
では、なぜこの演説で人々が命と財産をかけて動いたのか。深井さんはまず、10世紀末、つまり演説の100年ほど前にフランスで始まった「神の平和運動」をその前提として挙げます。
当時のフランスは王権が弱く、領主同士が争い合う、日本の戦国時代のような状態でした。土地は荒れ、農民も教会も被害を受けます。そこで司教たちが中心となり、神の前で争いをやめると貴族に誓わせる運動を始めました。
やめて喧嘩やめてって。もうそれはもうみんなのためにならないからと。
深井さんによると、神の平和運動そのものは大きな効果はなかったものの、ドイツやイングランド、イタリアにも広がりました。民衆にとっては、自分たちの利害を代弁してくれる教会は頼もしく、キリスト教がさらに重要なものになっていきます。
深井さんは『十字軍の思想』という本を引いて、この運動を通じて「浄化思想」が広まったと紹介します。ほかの本には書かれていないため、どこまでそうなのかは微妙だと留保しつつ、エルサレムが異教徒によって汚されているという感覚があったと説明します。
エルサレムは、イエス・キリストが活動し、十字架にかけられ、復活を遂げた場所で、聖墳墓教会もある最重要の聖地です。深井さんは、西ヨーロッパの人々にとってのエルサレムを、実在するのに行けない「極楽浄土」のような場所にたとえました。
楊さんは、エルサレム周辺の現実について補足します。そこにはイスラム教徒もキリスト教徒もユダヤ教徒も暮らしていて、理念上は一神教であっても、現実には妥協しながら共に生きていました。
異教徒が近くにいる現実を受け入れ、妥協しながら一緒に暮らしていた
行けない理想の聖地だからこそ、理念どおり全部浄化しなければならないと考えた
行けないからこそね、そこ(エルサレム)が極端に全員いなくさせないといけないみたいな感覚になっていくっていうこと。
迫る終末と「参加するだけで贖罪」
深井さんが、浄化思想よりおそらく重要だと話すのが終末思想です。ウルバヌス2世は演説の中で「反キリストの時が近い」と語ったとされます。反キリストの時とは、終末の日、つまり魂が救われるかどうかが確定する審判の日を意味します。
キリストの死後1000年ほど、1033年頃に終末が来ると言われていましたが、この時点ですでに50〜60年ほど過ぎていました。深井さんは、ノストラダムスやマヤの予言の「スーパーバージョン」のような状況だったと表現しています。
樋口さんが言うように、そこには恐怖もありました。救われないまま審判の日を迎えるのは怖いので、早く贖罪したいという切実な「贖罪ニーズ」が当時のキリスト教徒の中にあったといいます。
参加しただけで贖罪されるよって言ったんですよ。死んでもいいよと。もう贖罪されてるからと。
終末の予感
キリストの死後1000年頃に来るはずの審判の日が、すでに過ぎていた
贖罪ニーズ
魂が救われないまま審判を迎えることへの強い恐怖
教皇の宣言
十字軍は神の意志であり、参加すれば贖罪されるとした
参加の決断
死んでも生きて帰っても救われるなら、行く理由になる
楊さんは、現代の感覚では死は一つの終わりだが、当時のキリスト教徒にとって死後には「次のステージ」があり、そこへ向けて投資しなければならない感覚だったと説明します。樋口さんは、これを「参加するだけで全員1万ポイント」のようなものだと受け止めました。
深井さんは、この贖罪の概念が後にエスカレートし、従軍せずお金を払うだけでよいとされるようになって、宗教改革 ── 16世紀にルターらが始めたカトリック教会への批判と改革運動。贖宥状の販売への批判がきっかけの一つとされますのときに崩れていくと触れています。ただ、この時点では教皇は神の代理人であり、その言葉は絶大な重みを持っていました。
苦難の旅と聖遺物に宿る救い
深井さんが挙げるもう一つの動機は、エルサレムまでのつらい道のりそのものです。聖地へ向かう苦難はキリストの苦難になぞらえられ、それを追体験することが魂の救いにつながる感覚があったといいます。
楊さんは、中世の巡礼の姿を具体的に語ります。余裕のある人は遠くの偉大な教会やエルサレムを目指しましたが、道中では盗賊や獣に襲われ、病気で命を落とすこともありました。
自分の故郷に戻ったら、いろんな人に自分の冒険談を話して、そして自分の中で、この旅は私の人生最大の冒険だったなという風に何度も何度も思い出しながら、それで一生生きていく
深井さんは、聖地にある聖遺物 ── キリストや聖人にゆかりのある遺骸や遺品。中世ヨーロッパでは奇跡や救いをもたらすものとして熱心に崇敬され、盛んに取引されましたを集めることも魂の救済にとって重要だったと話します。十字架の破片や、キリストの脇腹を突いたロンギヌスの槍 ── 十字架上のキリストの死を確かめるため、ローマ兵が脇腹を突いたとされる槍。聖遺物として各地で伝承されていますの一部などを持ち帰る熱が、この頃に最高潮に達していました。
楊さんによれば、聖遺物でなくても、エルサレムで売られているつまらない土産物でさえ、故郷ではとてもありがたがられたといいます。樋口さんはこれを「月の砂」と同じだと表現し、深井さんは「極楽浄土から蓮の花を持ってきた」と言われたら驚くのと同じ感覚だと重ねました。
そのうえで深井さんは、こうした要素の中でも贖罪の概念が特に重要で、ウルバヌス2世はそれをうまく使ったとまとめます。同時に、ウルバヌス2世自身も自分が神の代弁者だと本気で思っていて、宗教的な信念と政治的なニーズの複合要因で呼びかけたと見ています。
騎士の戦いを「贖罪」に変えたロジック
楊さんは、贖罪の概念について騎士の側から補足します。騎士はもともと領主と主従関係を結んで仕える存在でしたが、同時にキリスト教徒でもありました。少し前の時代にグレゴリウス7世が、その騎士たちの戦うモチベーションを「贖罪のために戦いなさい」と定義し直したといいます。
深井さんは、これが「フォーマット」になり、何度も繰り返されると話します。神に命じられ、神と共に戦い、行けば贖罪されて魂が救われる。それをローマ教皇を介して命じられることが、ひとつのパッケージになっていました。
これはね、だからその戦争でもあるんだが、巡礼でもあるんだよね。どっちかっていうと、倒すことよりも行って魂が救われることが重要なのであって。
楊さんによると、戦うことで救われるというロジック自体は新しいものではありません。5世紀のローマ帝国時代にアウグスティヌス ── 4〜5世紀の北アフリカの司教で、西方キリスト教を代表する神学者。正当な戦争についての考え方を示したことでも知られますが、異端のキリスト教と戦うために言い出したものとされ、それが叙任権闘争の中で皇帝を敵と認定する理論として復活しました。
深井さんは、このロジックが通用するほど、キリスト教が民衆と貴族に広まっていたということだと受け止めています。
人は一つの理由では動かない
深井さんは、ここまでの流れを整理します。ローマ教会はもともとそれほど力を持っていませんでしたが、フランク王国や神聖ローマ帝国と政治的に結びつきながら、何百年もかけて西ヨーロッパにキリスト教を広めてきました。その成果が、11世紀末に呼びかけ一つで人が動くほどの宗教的権威として結実したといいます。
ただし十字軍の動機は本当に様々で、略奪したいだけの人も、新しい領土を取りたい人もいたはずだと深井さんは話します。重要なのは、雑多な動機を一つにまとめる理由としてキリスト教が機能したことでした。
実際はそれに参加している社員の方とか、いろんな理由で思ってやってると思うんだよね。だけどその一言で説明できるわけ。神のためだつって。
深井さんは、本を何十冊読んでもわからないことがあるとして、京都産業大学の梶原洋一准教授に質問して理解を確かめたと明かします。そのうえで、間違いがあれば台本チェックをしてもらったわけではない自分たちの責任だと断っています。
梶原先生の話で深井さんが最も納得したのが、十字軍の参加動機は一つではなく様々で、イスラム側も同じだという指摘でした。人間とはそういうものだ、という話です。
樋口さんは会社にたとえて共感します。100人の社員が理念に向かって走っているように見えても、実際には有名になりたい、儲けたい、今のメンバーが楽しい、初期からいるからなんとなく、など理由は人それぞれだといいます。
その信心はみんなあるわけ、大体。(中略)あるんだが、0、100じゃないんだよね。
深井さんは、聖遺物を集めたい、エルサレムに行けたら気持ちいい、贖罪されたい、地元で嫌われているから出ていきたいなど、いろいろな人がいたはずだと想像します。樋口さんは「好きな人が行くって言ったから」という理由も挙げました。
歴史を語るうえで、共通認識を取るためにある程度の単純化は必要です。それでも深井さんは、人は常に複合要因の中で生きていることを忘れてはならないと強調します。
皇帝権力に対抗したい
贖罪されたい、エルサレム側に新しい領域を作りたい
武器も持たずに出発した民衆十字軍
十字軍の第一陣として出発したのは、民衆十字軍と呼ばれる有象無象の集団でした。率いたのは、深井さんが「よくわかんない人」と表現する隠者ピエールで、ドイツのケルンに人々が集まりました。
樋口さんが驚いたのは、教皇が誰かを指名して送り出したのではなく、呼びかけに応じて勝手にリーダーが現れたことです。深井さんは、トップダウンの動きはこの後に出てくるが、第一陣は隠者ピエールの「行くぞ」でみんなが出発したと説明します。
騎士階級っていうのは一応ちょっといたらしいんだけど、ほとんど農民なんだって。これ(民衆十字軍)武器とかも持ってないんだって。
武器を持たずに行った理由は、ここまでの話から見えてきます。行くだけで贖罪され、死んでも次のステージへ行ける。しかも神の命令なので、モーセのように神が助けてくれると考えていたのだと深井さんは話します。
民衆十字軍は、異教徒が聖地を汚しているという感覚を持ったまま、道中でユダヤ人を迫害しながら進んでいきました。
第二陣としては、ウルバヌス2世の代理として司教アデマールが従軍し、軍事指揮官は複数のフランス諸侯でした。ゴドフロワ・ド・ブイヨン、フランドル伯ロベール、ノルマンディー公ロベール、フランス王フィリップの弟ヴェルマンドワ伯ユーグ、トゥールーズ伯レーモン・ド・サン=ジル、タンクレードらが名を連ねます。
深井さんは、一人のリーダーがいない、世俗権力が分散した世界だからこそ、教皇の言葉にみんなが集まったと指摘します。名前の語感を楽しむ深井さんに、樋口さんが「人の名前をおちょくる」とツッコむ場面もありました。
ビザンツ帝国が見た「思ってたのと違う」援軍
第二陣はフルプレートアーマーの騎士を集めて正式に出発しますが、深井さんが面白いと話すのは、第一陣の民衆十字軍がビザンツ側からどう見えたかです。武器も持たない人たちが、5万人ほども押し寄せてきました。
確かに救援要請は言ったけど、わけわかんない人たちばーって来るみたいな。しかもめっちゃ来るんだよ。
深井さんによると、ビザンツ帝国が求めていたのは傭兵程度の援軍でした。ところが西ヨーロッパからは、第一陣も後の本格的な十字軍も、理念ベースで一気にやってきます。現地の人々やイスラムの王朝にとっては、何者なのかずっとわからない「コントのような構図」が続きました。
救援要請に応える傭兵程度の援軍
武器も持たない民衆を含む、理念で動く大集団
背景には、ビザンツ帝国が自らを古代ローマやオリエントを継承する文明の中心だと考え、西ヨーロッパを野蛮な周縁と見ていたことがあります。深井さんは、この時代の西ヨーロッパはビザンツやムスリムから文明ではないと思われていた、と覚えておいてほしいと話します。
また、第二陣がフランス諸侯中心だった理由として、深井さんは神の平和運動がフランスを中心に広がったことと、教皇と対立する神聖ローマ帝国がドイツ側だったことを挙げています。
樋口さんは、思想を語るだけで勝手にいろいろなプロジェクトが始まる様子を、全然違うと断りつつ「切り抜き動画」にたとえ、人間は面白いと締めくくりました。
まとめ
ウルバヌス2世の呼びかけに多くの人が命をかけて応じた背景には、政治的な計算、浄化思想、終末への恐怖と贖罪ニーズ、巡礼や聖遺物への熱狂など、いくつもの要因が重なっていました。そして一人ひとりの中でも動機は様々で、それらが一つのベクトルにまとまったときに大きな動きが生まれたと語られています。
- ウルバヌス2世は、ビザンツからの救援要請を、皇帝より教皇の権力を示す機会として使ったと深井さんは読み解く
- 参加するだけで贖罪されるという宣言が、終末を恐れる人々にとって強い動機になった
- 十字軍は戦争であると同時に巡礼でもあり、苦難の旅や聖遺物にも救いが見出されていた
- 参加者の動機は一つではなく、キリスト教がそれを一言でまとめる役割を果たした
- 武器も持たない民衆十字軍の到来に、傭兵を期待していたビザンツ帝国は困惑した






