伊藤野枝はなぜエマ・ゴールドマンに惹かれたのか
今回は伊藤野枝編の折り返し地点です。冒頭では楊さんが、ここまでの流れをおさらいしています。
伊藤野枝は、自分のガッツと文章の力で、女性を縛る古い習わしから抜け出し続けてきた人物です。家父長制の縛り、意にそぐわない結婚、家庭に入って良妻賢母になることなどから、なんとか脱出しようともがいてきました。
その結果として伊藤野枝は青鞜社 ── 1911年に平塚らいてうらが立ち上げた女性だけの文学団体。雑誌『青鞜』を発行し、のちに女性問題を扱う場へと性格を変えていきましたに入り、東京へ出てきます。『青鞜』は女性たちが自分の言葉を世に発信する最初の場で、文芸誌として始まったあと、世間のバッシングをきっかけに女性問題を扱う雑誌へ移っていきました。
青鞜社に集まった女性たちは外国語ができたため、洋書を原文で読み、翻訳や議論を通じて自分に合うロールモデルを見つけていきました。伊藤野枝が感動したのは、アメリカで主に活動したエマ・ゴールドマン ── リトアニア出身でアメリカで活動した無政府主義者・フェミニスト。労働運動や女性の性と生殖の自由を訴え、のちに国外追放されましたです。
エマ・ゴールドマンも父親の支配から逃れてアメリカへ移民した人物で、女性問題と労働者問題に積極的に関わり、ときには国家にも激しく抵抗しました。伊藤野枝はそこに自分の人生を重ね、「この生き方いいな」と思うようになります。
楊さんによれば、エマ・ゴールドマンの思想の根幹は「今ここで、女性にとって理想的な状況を作り出す自由を実践すること」でした。「今ここで」の部分がアナキズム ── 国家や権力による支配を否定し、個人の自由と自発的な協力にもとづく社会をめざす思想。無政府主義とも訳されますから、「女性にとっての理想的な状況」の部分がフェミニズムから来ています。
エマ・ゴールドマンにとって、どちらか一方の思想だけでは女性を本当の意味で解放できませんでした。その理由は、次のように整理できます。
運動の多数派が男性で、女性特有の課題が後回しにされる。運動の中にも一般社会と同じ男女の支配構造が持ち込まれる
国家や家庭という既存のシステム自体が信用できない。その中で女性が権利を得ても、あまり意味がない
そこでエマ・ゴールドマンは、女性を縛る根本である結婚と家庭制度を組み直す必要があると訴えました。ただし慣習は女性の内面に刻み込まれているので、まずそれを自覚し、思考を変え、行為を変え、日常生活から新しい状況を作っていこうと呼びかけたといいます。
伊藤野枝は、社会運動を通じて女性の生きづらさと戦うエマ・ゴールドマンの姿を自分のロールモデルにしました。ところが、伊藤野枝が立っていた足場である青鞜社そのものが、ここから崩れていきます。
いいですね。もうなんか(おさらいを聞けば)ここから聞いてもわかる。
わずか4年で崩れた青鞜社、何が人を遠ざけたのか
楊さんによると、青鞜社が活動していたのはわずか4年ほどでした。女性解放という社会問題の発信に軸足を移して以降、バッシングがあまりに凄まじくなったためです。
青鞜社は、教育業界、マスメディア、宗教家、保護者などから集中砲火を浴びました。「若い女性の道を誤らせる危険な人たちだ」とされ、学校が生徒に「青鞜社に近づくな」と勧告することもあったそうです。
過激派レジスタンスみたいな扱われ方されてますね。
楊さんは、カルト的な集団に近い見られ方だったのではないかと補足します。青鞜社のメンバーが一般女性向けの勉強会を企画しても、会場すら貸してもらえない状態でした。
やがて世間の反発に耐えられない社員が続出します。平塚らいてうは「自分たちこそ新しい女だ」と打ち出しましたが、社内でも「私は新しい女じゃない」と守りに入る態度が目立ち、脱退する人も少なくありませんでした。
立ち上げのときに応援してくれた与謝野晶子 ── 明治から昭和にかけて活躍した歌人。歌集『みだれ髪』で知られ、女性の自立をめぐる論争にも積極的に参加しましたも、「私は青鞜と関係ない」という趣旨のことを言い出したそうです。部数は最も多いときで3000部まで伸びましたが徐々に減り、オリジナルメンバーは平塚らいてう1人になってしまいます。
楊さんは、社会問題について発信し始めると周りから距離を取られる現象は今もあると話します。日常をつぶやいていた人がある時から社会問題や政治の話をし始め、徐々に距離を置かれるような場面です。
わかる。両方の気持ちわかる。
楊さん自身も、そうした発言をする人から距離を取ったことも、逆の立場になったこともあると明かしています。
樋口さんは、同じ理念を持っていても、やり方の違いで過激派と穏健派に分かれることもあると指摘します。
僕とかは構造は変えたいと思っているけど、過激には絶対したくない派なんですね、なんか。
楊さんは、過激派は周りから過激と呼ばれているだけで本人たちはそう思っておらず、逆に穏健派を「ぬるい」と責める、その分断そのものに切なさを感じると話します。一方で、怒る人には怒る理由があることも理解したいといいます。
多分怒らないと変わらなかった構造とか、歴史上あるので。
だから怒りの感情とか自体を別に否定する気はないけど、なんかあとはなんかどっちが好きなやり方かとか。
樋口さんは、青鞜社を辞めた人たちは思想についていけなかった人ばかりではなく、スタンスややり方についていけなかった人もいたのだろうと想像しています。
創刊者・平塚らいてうの離脱は「逃げ」だったのか
社会問題が解決していないのに、解決しようとした人たちが分かれ、去っていく。そんな中で、ついに創刊者の平塚らいてう ── 明治末から昭和にかけての女性解放運動家。青鞜社を創設し、創刊号の「元始、女性は太陽であった」で知られますも離脱します。
楊さんによると、平塚らいてうはメンタルをやられていました。持病の頭痛がひどくなり、郵便物を整理する簡単な作業さえできなくなったといいます。雑誌の販売不振や社員の空中分解への悩みも大きかったそうです。
平塚らいてうは実家を出て、5歳年下の美術家の男性と結婚します。そして、自分たちが新しい女として世間に戦いを挑んだ時代はもう終わったと語り、社会という虚構と格闘するよりも、自分で抱えられる平和な日常を大切にしたいという言葉を残しています。
何も否定できないですね。
楊さんも、自分が同じ立場ならそうなりたいと話します。社会問題に関わるには相当なエネルギーとリスクを背負わなければならず、これを逃げと捉えることもできるけれど、個人的には仕方ないと考えているそうです。
平塚らいてうは、静かに本を読み、静かに文章を書く時間がほしい、今のままでは自分の心の生活が失われてしまいそうだとも述べていました。楊さんは、社会課題を背負うより自分自身を高めることを優先したのだと解説します。
もともと平塚らいてうの軸は禅 ── 坐禅などの修行を通じて自己の本性を見きわめようとする仏教の一派。平塚らいてうは若い頃から参禅していましたでした。自分をアップデートするあり方の方へ、軸を戻したと言えるかもしれないと楊さんは話しています。
1人だけ戦い続けた伊藤野枝、武者小路実篤への反論
崩壊寸前の青鞜社の中で、1人だけ怒り続けていたのが伊藤野枝でした。楊さんはその様子を「ずっとサイヤ人してる」と表現します。
伊藤野枝は、青鞜社への批判が載った新聞や雑誌を叩きつけ、「書いてやるわ」とペンを取って反論を発表していきました。楊さんによれば、この時期の文章は体系的な思想というより、批判へのリアクションとして文章で殴り返すようなものが目立つそうです。
当時の伊藤野枝はまだ10代でした。それでも恐れることなく、有名な文化人への非難を堂々と発表しています。
その一例が、小説家の武者小路実篤 ── 白樺派を代表する小説家。『友情』などで知られ、理想主義的な作風で大正期の文壇に大きな影響を与えましたへの反論です。武者小路実篤が雑誌に、女の考えはいい加減で自分に都合よく考えるから共感されない、という趣旨のことを書いたのに対し、伊藤野枝は文章で切り返しました。
伊藤野枝の反論は「あなたは女というものを軽蔑してかかっていらっしゃるから、しゃくに障るのです」というものでした。さらに、あなたの周りにいる女性はきっと心の狭い薄っぺらな人ばかりなのだろう、とまで書いています。
(それを)引用リツイートで。
こうした反論を重ねるなかで、伊藤野枝の思想にも変化が起きます。社会事は我が事、我が事は社会事として捉えるようになっていくのです。
伊藤野枝は、社会の問題は痛切な私の問題であり、同時に数万、数億の他人の目の前に迫っている問題でもある、と書いています。ようやく社会問題を自分の問題として考えられるようになった、小さな私の問題が社会へ広がっていった、という言葉も残しています。
もうまさにこれ、ソーシャルビジネスの世界。
楊さんは、自分は個人主義で、日々の生活が社会とつながっている感覚はまだつかみきれていないと正直に話します。一方の樋口さんは、自分はかなりこの感覚で生きているかもしれないと答えます。
僕、パレットパレットやってる理由とか、個人の問題じゃない。社会の問題だと思ってるから。
樋口さんの場合、大きなきっかけがあったわけではないそうです。個人の欲求が満たされ、自分や自分の会社でできることに区切りがついたとき、次に見つけた面白そうなゲームが社会問題だったといいます。
カンストしたから次に行ったという感じでもない(のが野枝さんの場合)。
足尾銅山鉱毒事件は伊藤野枝に何を気づかせたのか
楊さんは、伊藤野枝が社会問題に関心を持った具体的なきっかけとして足尾銅山鉱毒事件 ── 栃木県の足尾銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川流域の農地に大きな被害を与えた事件。田中正造が被害民救済に奔走したことでも知られますを挙げます。日本初の公害事件と言われる出来事です。
足尾銅山から流出した鉱毒は川に流れ込み、農地に壊滅的な被害を与えました。最も被害を受けたのが谷中村です。政府は有害物質を沈殿させるため、谷中村を廃村にして水をためる政策を決めました。
谷中村の農家は強制的に立ち退かされ、村に残ろうと抵抗した人たちも、最終的には強制執行で家を壊されて追い出されました。伊藤野枝がこれを知ったのは、事件から10年ほど後のことです。
鉱毒の流出
足尾銅山の鉱毒が川に流れ込み、農地に壊滅的な被害が出る
谷中村の廃村
政府が有害物質をためるため谷中村を廃村にし、住民を強制的に立ち退かせる
伊藤野枝が知る
約10年後にこの話を知り、激しく怒る
我が事としての理解
出来事はよそ事でも、その裏にある不条理や横暴は自分も体験してきたものだと捉える
伊藤野枝はこの話を知ってひどく怒りました。出来事そのものは自分と関係ないよそ事でも、その裏で動いている不条理や横暴は、自分も体験してきたものだと考えたのです。これが社会問題へ踏み込んでいく1つのきっかけになったと楊さんは説明します。
20歳の新編集長はどんな覚悟で『青鞜』を引き継いだのか
平塚らいてうが離脱したあと、『青鞜』は伊藤野枝の手に渡ります。伊藤野枝自身も主宰したいと考えており、今の関わり方では中途半端なので任せてほしいと、平塚らいてうに手紙で申し出ていました。
平塚らいてうは迷いました。手放すくらいなら廃刊にしたいとも考えていましたが、伊藤野枝の熱意を受けて、続けてもらう方向へ傾いていきます。平塚らいてうの目には、伊藤野枝は絶え間なく忙しい生活の中で本当の自分を見出していくタイプに映っていたそうです。
もうだから(らいてうには)戦闘民族(に)見えてる。
平塚らいてうは青鞜社の責任も残った財産もすべて伊藤野枝に渡し、自分は原稿を寄せる寄稿者の立場になりました。こうして20歳の伊藤野枝が『青鞜』の新しい編集長になります。
伊藤野枝は就任にあたり、社会運動の中に飛び込んでも自分には矛盾も苦痛もなさそうだ、という抱負を語っています。楊さんは「ある意味無敵の人」だと驚きます。
無敵やん。
樋口さんは、自分が1人で会社を継ぐと決めたときの気持ちに重なると話します。
もう破産するならすりゃいいやねぇかって思ってたんで。僕だからその攻撃性はないけど、覚悟とかは一緒かもしれない。
だから僕その時殺すなら殺せって(口癖で言ってたんで)。
楊さんによると、伊藤野枝もこれに似た言葉を残しています。『青鞜』の責任を全部背負ったことで、伊藤野枝の可能性がここで開花していくと楊さんは話します。
ワンオペ育児の編集長が『青鞜』を「掲示板」にした理由
伊藤野枝が編集責任者になったとき、青鞜社は経営危機にありました。人は辞めて残っておらず、しかも伊藤野枝は家事と育児をずっと担っていました。夫の辻は働いていなかったといいます。
伊藤野枝は家事と育児をしながら、広告を取りに行き、届いた原稿を選び、印刷所や紙屋へ足を運びました。世間から嫌われていたため広告は1つも取れず、あざけりや侮蔑ばかり受けて帰る日もあったそうです。
疲れ切って帰ると、お腹を空かせた子どもが待っています。楊さんは「大きな子供も一人いますけど」と夫の辻を皮肉り、樋口さんも「子供部屋おじさん」と応じています。洗濯、食事、校正作業まで、すべてを1人でこなす状態でした。
その状況で伊藤野枝は『青鞜』の方針を変えます。それまで寄稿者は教養ある文化人の女性が中心でしたが、伊藤野枝は紙面を一般の女性にも開放し、日常で感じたことを何でも送ってほしいと呼びかけました。楊さんはこれを「掲示板にした」と表現します。
背景には、伊藤野枝自身の生い立ちがあります。九州の田舎の貧しい家に生まれ、働かない父のもとで親戚をたらい回しにされ、叔父に頭を下げて東京で学び、望まない結婚から駆け落ちし、子どもを産み、働かない夫を抱えて稼いできた人です。
トピックを箇条書きにしたってエグい。
青鞜社の新年会では電車賃も払えなかったという伊藤野枝は、上流階級の女性たちとの違いを強く感じていました。自分のような女性は世の中にもっとたくさんいて、その声を届けるべきだと考えたのです。
伊藤野枝は、これまでの青鞜社の規則をすべて取り去り、主義も方針も規則もない雑誌をすべての女性に提供すると宣言しました。ただし社会問題に関わるというゴールは変わらず、そのためにエリート女性だけでなく、生きづらさを抱える多くの女性と連帯しようとしたと楊さんは説明します。
これ面白い。だから会社としても理念や方向性あるし、個人としてはあるんだけど、雑誌としてはそれを達成するために一旦広く。
伊藤野枝は形式も取り払いました。それまでの投稿は小説、エッセイ、評論などかっちりしたものでしたが、生活に追われる女性にそんなものを書く暇はありません。そこで、はがき1枚でも、どんな些細なことでもいいと呼びかけました。
伊藤野枝は、考えることは重大なことばかりではなく、日常の中にもあり、それ自体に価値があると述べています。集まった投稿から面白いものを取り上げ、誌上でみんなが議論し合う形にしました。
寄稿者は教養ある文化人の女性が中心。小説、エッセイ、評論などかっちりした形式
一般の女性にも紙面を開放。はがき1枚の日常の気づきでもよく、編集長が選んで取り上げ、誌上で議論する
樋口さんはこれを、今でいうUGC ── ユーザー生成コンテンツ(User Generated Content)の略。企業ではなく一般の利用者が作って投稿するコンテンツを指しますとキュレーションを組み合わせたものだと整理します。
だからメディアからプラットフォームみたいな。
楊さんは、伊藤野枝はこれを完全に感覚でやっていたのだろうと話します。『青鞜』は、女性たちの日常から社会問題を見つけ、議論し、学び合う場として機能し始めました。
女性が声を上げ始めた背景には何があったのか
楊さんは、伊藤野枝のように自分の考えを表現し行動する女性が現れた社会背景にも触れています。要因はいくつもありますが、楊さんが挙げたのは次の流れです。
女子教育の整備
明治維新後、女性が知識や思想、芸術を学ぶ機会が制度として得られるようになる
大戦景気
第一次世界大戦の主戦場がヨーロッパで、日本は好景気になる
社会進出
女性も職業を持ち、社会に出て働くようになる
構造への気づき
社会が女性に優しくできていないこと、話したいことも話させてくれないことに気づく
楊さんは、この「あれ、おかしい」という気づきがスタート地点だったように見えると話します。樋口さんは、社会構造は変わって女性がその場に入れるようになっても、人々の文化が追いついていなかったのだろうと応じています。
三大論争の1つ目、廃娼をめぐる伊藤野枝と青山きくえの対立
議論の場になった『青鞜』は、かなりデリケートなテーマを誌上で扱いました。楊さんが紹介する三大論争は、廃娼、堕胎、貞操の3つです。
楊さんは、賛否はあるとしたうえで、あくまで女性たちが本気で論じ合った雰囲気を感じてほしいと前置きしています。
(コテンラジオとしては)なんかの主張を今からするわけではないってことですね。こういうことが書かれてたってこと。
1つ目の廃娼論争は、公的な制度として認められていた売春を廃止すべきかという議論です。伊藤野枝は、廃止できるならそれに越したことはないが、男性が本来持つ要求と長い歴史があるので簡単にはなくせない、と主張しました。
そのうえで伊藤野枝は、食べるために体を売らざるを得なかった女性を蔑んではいけない、彼女たちにも尊厳があると訴えます。解決策として、売春をする女性たちに教育の機会を与え、自ら現状を見つめ直せるよう促すべきだとしました。
これに反論したのが青山きくえ青山きくえです。楊さんによれば、日本の女性解放運動の歴史の中でも超有名で、非常にロジックの強い人物だそうです。
青山きくえは、売春は男性の本来の要求ではなく不自然な社会制度から起きるものだとし、制度は廃止すべきであり、廃止は可能だと主張しました。改善を示すデータも開示したうえで、売春をせざるを得ない女性への経済的支援も必要だと訴えています。
制度は簡単にはなくせない。女性を蔑まず、教育の機会を与え、当事者の主体性で解決を促す
売春は不自然な社会制度に由来する。制度は廃止すべきで可能。生活難を和らげる経済的支援も必要
なんか面白いですね。両方わかるというか、アプローチが違うというか。
堕胎と貞操、ド直球のテーマで何が論じられたのか
2つ目は堕胎、つまり中絶をめぐる論争です。楊さんは、当時使われていた言葉としてそのまま「堕胎」と呼んでいると断っています。当時、堕胎は犯罪でしたが、肯定論もありました。
伊藤野枝は堕胎に反対しました。お腹の中にいても未来を持った命であり、自分たちの都合で命を奪うのは自然を侮辱し、生命を軽視する行為だという主張です。楊さんは、伊藤野枝はお腹の子にも人格を認めていたのだと説明します。
これに反論したのは、先輩の平塚らいてうでした。生命を侮蔑した不自然なことだという大雑把な理由で絶対的な罪と断定するのはどうか、堕胎を望む女性に罪悪感を抱かせるべきではない、女性は子を産むべきという古い価値観にとらわれていないか、と原稿を寄せています。
反対。お腹の中の子も命であり、都合で奪うのは生命を軽視する行為
絶対的な罪と断定するのは疑問。本人や社会の現在と未来にとって何が正しいかという観点が必要
これもね、本当に話し出したら永遠に(答えが出ない)。
3つ目の貞操論争は、女性が生きるために貞操を差し出すことの是非を問うものです。やむを得ないという意見と、貞操は人間の尊厳であり生活を理由にするのは弱者の言い逃れだという意見がありました。
伊藤野枝は、まずそうした境遇の悲しさに共感したうえで、避けられないなら自分は未練なく差し出す、それは恥ずべきことではないと書きました。処女かどうかで女性の道徳的価値が決まるのはおかしいという主張です。
さらに伊藤野枝は、なぜ女性だけが責められ、男性の貞操は問われないのかと問いかけます。食べ物か貞操かという小さな問題ではなく、女性だけをとがめる社会の欠陥にこそ目を向け、正すべきだという立場でした。
いやすごいな。ずっとリプ(欄)で言い合いしてますね。
100年前の『青鞜』が女性たちの成長の場になった意味
楊さんがこれらの論争を取り上げたのは、およそ100年前の日本に、女性たちがバッシングに耐えながら知性と情熱を使って自分たちの問題を本気で議論し合った場があったことを知ってほしいからだといいます。それを知ることが歴史を学ぶ価値の1つだと話しています。
雑誌を作ったことによって、この議論が公開でできるようになったっていうのが、おそらく一番の価値なんじゃないかなって。
楊さんはもう1つの価値として、『青鞜』が女性たちの成長の場だったことを挙げます。議論しながら学び合い、方向性を修正し、成長していく。ここに関わった青山きくえや白須賀愛子白須賀愛子らは、のちに女性解放の分野で活躍していったそうです。
楊さんは、伊藤野枝が高等教育を受けておらず、文章や思考の論理性では他の女性と同じレベルではなかったことにも触れます。伊藤野枝自身もそれを自覚し、勉強不足を認めながら書き続けていました。
樋口さんは、改革後の『青鞜』の変化を、テーマが社会課題に踏み込んだこと、対象者が増えたこと、短く軽い意見も採用するようになったことの3点にまとめています。
まさに場づくり、プラットフォームづくりみたいなものを感じました。
しかし、忙しさの中で伊藤野枝の家庭は限界を迎えます。夫の辻や姑との関係が崩れていき、次回はその家庭の話になると予告されています。
ちょっとハードモードすぎへん?この人、人生。
楊さんは、女性であることと時代のせいで、男性とはレベルの違うしんどさがあったはずだと話します。樋口さんも、歴史上の話として構造的なハンディキャップを背負っていたとはっきり言っていいと応じています。
まとめ
バッシングで仲間が去り、創刊者の平塚らいてうも離れた『青鞜』を、20歳の伊藤野枝は家事と育児を抱えながら引き継ぎました。社会の問題を自分の問題として捉える視点から、誰でも声を上げられる議論の場へと雑誌をつくり替えていったのが今回の話です。
- 青鞜社は社会問題へ踏み込んだことで激しいバッシングを受け、わずか4年ほどで崩壊寸前になった
- 平塚らいてうは心身の限界から離脱し、1人だけ戦い続けた伊藤野枝が20歳で編集長になった
- 足尾銅山鉱毒事件などを通じ、伊藤野枝は「社会事は我が事」と考えるようになった
- 伊藤野枝は形式や規則を取り払い、一般女性の日常の声を集めて議論する誌面に変えた
- 廃娼・堕胎・貞操の三大論争は、女性たちが公開の場で本気で論じ合い、成長していく場になった





