正当性を求め続けた最強の上皇・後鳥羽
前回のエピソードはこちら
今回のエピソードは、鎌倉幕府にとってのラスボスとして登場する後鳥羽上皇の説明から始まります。後鳥羽が天皇に即位したのは1183年9月、わずか3歳のときでした。
この即位には大きな傷がありました。後白河上皇が安徳天皇を戻したくても戻せないため、しかたなく置いた天皇が後鳥羽だったからです。
さらに安徳天皇と三種の神器 ── 天皇の位を象徴する鏡・玉・剣の3つの宝物。正統な天皇であることの証とされ、即位の正当性に深く関わりましたを平家が持ち去っていたため、正当性を欠いた即位になってしまいました。
19歳になった後鳥羽は土御門天皇に位を譲り、上皇として院政を始めます。天皇時代の窮屈な生活から解放され、自由を謳歌するようになったといいます。
この後鳥羽が生涯を通じて最も強く意識したのが、正当な王であることでした。神器のうち鏡と玉は戻ったものの、宝剣の草薙の剣は壇ノ浦の海底に沈んだままだったからです。
後鳥羽の生涯というのは、正当な王たることを目指して、正当な王たることを自分自身で確信するための長い旅であったと言ってもいい、と書いてありました。
三歳でなってて、その答え(正当な王とは何か)を求め続ける。すげえ人生やな。
この終わりのない問いこそが、後鳥羽を並外れた能力の持ち主へと押し上げていきます。能力を発揮することで正当性を持たせようとし、それでも満たされないため、際限なく研鑽を続けたと語られます。
和歌・音楽・武芸まで極めた後鳥羽の万能ぶり
鎌倉幕府ができたその時代に、何百年ぶりかというほど能力の高い上皇が現れたと深井さんは語ります。義経が三種の神器を確保できなかったことが、皮肉にもここへつながっているという指摘もありました。
まず後鳥羽は歌人として超一流で、新古今和歌集 ── 後鳥羽上皇の命で編纂された勅撰和歌集。技巧を凝らした歌風で知られ、後鳥羽自身も選定に深く関わりましたの編纂を主導しました。歌の審査員を務めるほど、その世界で認められていたそうです。
音楽家としても当代一流でした。天皇在位中は笛を吹き、その後は琵琶に惹かれて驚異的な速さで頂点に上り、極めた者しか教わらない秘曲まで伝授されたといいます。
運動面でも人並み外れた体力の持ち主で、馬に乗り、川を泳ぎ、山野で鹿を追いました。笠懸では的を外した射手の代わりに自ら弓を射ることもあったと語られます。
武人としての逸話も残っています。京都周辺を荒らしていた盗賊の親玉・波多野八郎のもとへ、後鳥羽は自ら船で乗り込んでいきました。
後鳥羽が船の櫂をひょいと持ち上げると、それを見た波多野は背筋が凍り、いつの間にか捕まってしまったといいます。そのまま「これからは上皇様にお仕えします」と宣言したというエピソードです。
(盗賊の親玉のところに自ら行くのは)上皇としてあり得ない行為ですよね。
さらに後鳥羽は個人の能力だけでなく、経済力と軍事力も持っていました。皇室関連の荘園を自らの手元にどんどん集め、集金マシンと化していったと語られます。
以前の回で扱った領域型荘園 ── 「ここからここまでが自分の土地」と領域で区切って主張できる荘園の形。後鳥羽はこれを使って自分の荘園を増やしましたの仕組みを使いまくって、後鳥羽は経済基盤をがっちり固めていきました。
軍事面では西面の武士を新たに組織します。白河上皇の時代の北面の武士に加え、朝廷に仕える武士団を自ら組織化していったのです。
これは頼朝の鎌倉武士団のように、自分と主従関係を持つ武士団を作ろうとする動きでした。有力な御家人を引き抜くこともしています。
自ら(後鳥羽が)動員できる軍事力っていうのが、どんどんどんどん増えていくということをやってるわけですよね。
和歌で新古今和歌集を編纂し、琵琶の秘曲まで極めた
馬・水泳・弓・蹴鞠をこなし、盗賊の親玉を自ら捕らえた
荘園を自分の手元に集め、集金マシンと化した
西面の武士を組織し、御家人も引き抜いて軍事力を強めた
実朝暗殺で崩れる幕府と朝廷の蜜月
後鳥羽上皇は、三代将軍・源実朝ととても仲がよく、芸能の師匠のような存在でもありました。歌もできる実朝に、日本トップクラスの芸術家である後鳥羽が師として教えていたのです。
実朝の妻の人選を主導したのも後鳥羽で、実朝という名前も後鳥羽がつけたものでした。つまり後鳥羽は、鎌倉幕府の中枢に影響力を及ぼせる立場にいたことになります。
実朝が生きている間は、後鳥羽も弟子が将軍を務めていることで影響を及ぼせたため、幕府と朝廷はうまくいっていました。ただし朝廷リードの状態になっていたと語られます。
ところが1219年正月27日、雪の降る鶴岡八幡宮で惨劇が起こります。三代将軍・源実朝が暗殺されたのです。
実朝を殺したのは、二代将軍・頼家の息子である公暁でした。北条氏に殺されたとされる頼家の息子が、実朝を刺し殺してしまったのです。
これによって鎌倉幕府は将軍を失い、後継者が不在になります。朝廷と仲のよかった実朝を失ったことで、幕府と朝廷の関係は急速に破綻していきました。
実朝暗殺の真相は諸説あって、はっきりしていません。黒幕を後鳥羽上皇とする説、北条義時とする説などがあります。
樋口さんは、鎌倉の御家人たちの合意のうえで実朝が暗殺されたという説も紹介します。実朝があまりに京都に近づきすぎ、担ぐ神輿としてどうなのかという危機感が御家人にあった可能性です。
親王将軍を拒否した後鳥羽と続く駆け引き
将軍を失った幕府で、北条政子と北条義時は、朝廷から位の高い親王を将軍に迎えようと考えます。血筋がよく、北条家の言いなりになる将軍を求めたのです。
そこで後鳥羽上皇の息子を将軍に迎えたいと申し入れますが、後鳥羽はこれを拒否します。位の高い親王を鎌倉に送れば、日本国が二つに割れてしまうと考えたからです。
実朝が生きていれば影響を及ぼせるため幕府が強くなっても大丈夫でしたが、実朝を失った今、親王の派遣はできないという判断でした。敵に塩を送る理由はない、というわけです。
後鳥羽は拒否の姿勢を崩さず、それどころか実朝の弔問使として北面の武士・藤原忠綱を派遣します。忠綱は、北条義時が持つ摂津国の地頭を解任するよう要求してきました。
これは実質的に、北条義時の土地を明け渡せという嫌がらせでした。義時、弟の時房、息子の泰時、大江広元、そして政子が政所に集まって協議します。
この5人が、かつての十三人に代わる幕府の新しい中枢でした。北条家と大江広元だけになり、メンバーは大きく減っていました。
この会議の中で(後鳥羽側の要求を)拒否することになります。拒否をするということはどういうことかというと、対決姿勢を示すということになってきますよね。
政子の使者として、義時の弟・北条時房が千騎を率いて上京します。将軍不在のこの時期、実質的な第四代将軍として政子が幕府を仕切っていました。
千騎を率いて武力をちらつかせる幕府に対し、最終的に後鳥羽が折れます。自分の子の皇族は無理だが摂関家ならよいと譲歩し、九条家から九条道家の子である三寅を迎えることになりました。この時わずか2歳です。
血筋がなくても政子が幕府を仕切れた理由
将軍が2歳では政治はできないため、北条家が執権として実質的に政治を仕切ります。侍所と政所の両方の長官を兼ねる役職で、この時は政子が実権を握っていました。
もう政子でいいんちゃう。
政子じゃダメなんでしょうね。将軍になれないからね。
政子が将軍になれないのは血筋と、女性であることが理由でした。ただし政子の影響力は幕府の中でとても大きかったと樋口さんは語ります。
政子は頼朝の妻であり、代々の将軍の母でもあります。御家人にガバナンスを効かせるうえで、頼朝の血筋の正当性を政子が担保していたのです。
さらに樋口さんは、頼朝が生きていた頃から政子が潤滑油の役割を果たしていたという説を紹介します。貴族的な属性を持つ頼朝と坂東武者たちの意思疎通や合意形成に、政子が機能していたというのです。
だから御家人たちが政子の言うことなら、まあ納得するっていうふうな関係性ができてたんじゃないかなという。
将軍として送られる三寅には、わずかながら源氏の血が入っていました。義朝の玄孫という立場の人物だったと補足されています。
成功体験が後鳥羽を挙兵へ突き動かす
三寅が将軍として鎌倉へ送られる途中、また事件が起こります。京都にいた源頼茂という源氏の人物が、将軍の地位を望んで謀反を起こしたのです。
三寅より自分こそ将軍にふさわしいと立ち上がった頼茂を、後鳥羽上皇は自ら持つ武士で攻撃し、鎮圧してしまいます。
三寅を将軍にすることに反対する者を潰したこの行動は、北条義時や政子と利害が一致していました。皮肉にも、この鎮圧で後鳥羽は自分の武士団の忠誠心と戦闘力の高さを目にしてしまいます。
これによって、あれ、これもしかして幕府倒せるんじゃない、って思い始めるんです。
成功体験を武士で積んでしまった。
そして承久3年、1221年、後鳥羽上皇がついに動き出します。仏事守護というまったく別の名目で軍事動員を行い、在京御家人だけでなく畿内近国の武士も召集し、御所に千騎が集結したといいます。
後鳥羽は間髪入れず、北条義時追討の宣旨を発します。幕府に対する反乱であり、義時が急に賊軍になってしまったのです。
樋口さんは、後鳥羽の意図はわかると語ります。朝廷が頂点に立ち上皇が権力を振るう伝統的な世の在り方を、なんとか回復したいという強い思いがあったという説です。
義時追討の大義名分は、幼い三寅を傀儡として専横し朝廷をないがしろにする義時の行動は謀反だ、というものでした。ふわっとした理由ですが、上皇が発する宣旨として出されること自体が重要でした。
師弟関係
実朝と親密で、幕府の中枢に影響力を持っていた
実朝暗殺
将軍を失い、幕府と朝廷の関係が破綻する
親王将軍拒否
後鳥羽が息子の派遣を拒み、対決姿勢が強まる
頼茂の鎮圧
自分の武士団の強さを実感し、幕府を倒せると考える
義時追討の宣旨
仏事の名目で兵を集め、幕府に反乱を起こす
御家人の心を一つにした北条政子の名演説
挙兵した後鳥羽は、内部工作で幕府を切り崩そうとします。御家人を裏切らせて内部崩壊させれば勝てると考えたのです。実際、三浦義村の兄・三浦胤義は後鳥羽側に寝返っていました。
しかし弟の三浦義村は、迷わず北条義時と政子の味方につきます。第一の御家人となっていた義村が即座に義時側についたことで、組織の動揺が抑えられました。
御家人が北条義時のもとに集まると、ここで北条政子が名演説を行います。安達景盛を通じて伝えられた、教科書にも載るレベルの演説です。
亡き頼朝公が朝敵を征伐して鎌倉幕府を開いてから、御家人に与えた御恩はすでに山よりも高く、海よりも深いものです。
名誉を重んじる御家人は、早く(裏切った)藤原秀康、三浦胤義たちを討ち取り、三代にわたる将軍が残してくださった幕府を守るべきです。ただし、上皇に味方したい者はここで申し出なさい。
集まった御家人たちは、皆この演説に応じ、感動の涙でまともに返事もできないほどだったと語られます。頼朝から受けた御恩の大きさを、政子は御家人たちに思い出させたのです。
樋口さんは、この演説の巧みさを指摘します。政子は頼朝の妻であって源家の人ではありません。それなのに、頼朝への恩を返す先は鎌倉幕府だという転換を、御家人に疑問を持たせずにやってのけたのです。
御家人はもともと頼朝個人と主従関係を結んでいました。その恩を返す相手を鎌倉幕府へとすり替え、実権が北条家に移っていることを意識させないまま、団結を作り出したのです。
俗人性を剥がすことに成功してるじゃないですか。
樋口さんは、御家人にとって目に見える利権がいかに重要だったかも補足します。頼朝は御家人を立て、感謝の手紙を送り、戦った分だけ領地や褒賞を与えて信頼関係づくりに投資してきました。
ここで政子が、そういった目に見えないモヤモヤを全部一気に言語化して整理してくれたんですよ。
頼朝個人と主従関係を結び、恩は頼朝への恩と感じていた
恩を返す先は鎌倉幕府だと捉え、幕府を自分の一部と感じて団結した
わずか18騎で発ち、京へ攻め上る鎌倉軍
団結した幕府では、義時の邸宅に時房・泰時・大江広元・三浦義村らが集まり軍評会議が開かれます。攻めてくる敵を迎え撃つか、自分たちから京都へ攻め上るかで意見が割れました。
ここで大江広元が、上洛すべきだという意見を出します。時間が経てば経つほど不利になると考えたからです。
相手は後鳥羽上皇で、幕府は賊軍、朝廷が官軍になっています。時間が経てば御家人に迷いが生じるため、団結したエネルギーのあるうちに一気に出鼻をくじくのが勝ち方だ、という読みでした。
つまり、上皇の権威は時間が経てば経つほどめちゃめちゃ効いてくるっていう、彼は認識したわけですね。
政子も大江広元の主張を支持します。こうして北条泰時が、わずか18騎を率いて鎌倉を発つことになりました。
これは大軍を集めてから攻めるやり方ではなく、義経が少数で発って進みながら軍を大きくしたのと同じ、スピード重視の戦略でした。深井さんは、時間をかけていたら実際には負けていただろうと語ります。
鎌倉から京都への道は北陸道・東山道・東海道の三つに分かれます。18騎はこの三道に分かれ、御家人に集まれと呼びかけながら進みました。鎌倉での集結を待てば皆が迷うという判断です。
その結果、集まった軍は19万に膨れ上がったと伝えられます。ただし本郷先生は「嘘八百」と評しており、実際は1万ほどではないかと語られます。
十九万?え、何倍?え?
いずれにせよ大軍が集まり、後鳥羽側の官軍はその多さにビビって撤退していったといいます。後鳥羽は比叡山の僧兵に助けを求めますが断られ、瀬田や宇治川で戦うも鎌倉方に敗れました。
攻めてくる敵を鎌倉で待ち受ける守りの策
時間が経つほど不利になるため、団結したうちに京へ攻め上る策
兄弟の決戦と、武士の世をひらいた承久の乱
鎌倉軍が入京すると、後鳥羽上皇は使者を送り、義時追討の宣旨と院宣の撤回を申し出ます。さらに今回の挙兵は一部の側近の企てで、自分は関知していないという言い訳を始めました。
後鳥羽側についた兄・三浦胤義は、弟の義村と戦って敗れ、自害させられます。他の者を派遣せず、弟が自ら兄を討ちに行ったこの行動を、深井さんは仁義なき戦いだと語ります。
逆に自分の血の繋がった人を始末した方が、自分の格も上がったっていうふうに見られた可能性もありますしね。
こうして幕府方が勝利したこの戦いが、承久の乱です。生まれたばかりの鎌倉幕府と朝廷が戦い、幕府が勝ったことで、朝廷は完膚なきまでに力を失っていきます。
深井さんは、後鳥羽の戦略自体は悪くなかったと語ります。ある本では、自分が過ちを犯すはずはないという過信が敗因ではないかとされています。心が揺れないうちに鎌倉が動き、演説で団結してしまったことも大きかったのです。
朝廷を骨抜きにした戦後処理と武士の世
戦後、京都に六波羅探題が設置されます。これは朝廷に対して幕府が睨みを利かせるための機関でした。
樋口さんは、六波羅探題には三つの役割があったと説明します。朝廷の動向の監視と交渉、京都の治安維持、そして裁判です。京都のど真ん中に武士による行政機関ができ、優秀なスタッフが配置されたことのインパクトを語ります。
戦争に加わった者への処罰は、武士の論理で徹底して行われました。裏切った者は主従関係を破ったとして厳しく処刑されていきます。
衝撃的だったのは、後鳥羽の側近の貴族たちも処刑されたことです。武士は負ければ死ぬのが当たり前でしたが、貴族は政争に負けても基本的には流刑でした。それがこの時は貴族もどんどん処刑されたのです。
(貴族が)武士のルールでやるの?みたいな感じでやられていって。
これはやっぱり日本史の中でも大きなパラダイムシフトで、貴族、皇族と武士の関係性がガラッと変わるんですよね。
さらに後鳥羽上皇は隠岐島に流されます。これまで幽閉程度にとどめていたのに、島流しにしたのです。上皇に対して武士がこれを行うのは、極めて異例のことでした。
後鳥羽だけでなく、息子の順徳上皇と土御門上皇も全員島流しにされます。わずか4歳の仲恭天皇も廃され、新しい天皇が立てられました。後鳥羽の血統を天皇家から排除する狙いです。
天皇の位を幕府がもう自分で決められるようになっちゃってるよね、これ。
後鳥羽が持っていた膨大な経済基盤も、すべて奪われ御家人に分け与えられました。年収が5倍になるような感覚で、上皇に従わず幕府についてよかったと御家人は実感したはずだと語られます。
もともと鎌倉幕府は東日本中心の支配でしたが、後鳥羽が東に対抗させるために西国をまとめていたため、後鳥羽を倒したことでその基盤をそのまま幕府が取ることになりました。皮肉にも、これで御家人が日本全国に広がっていきます。
後鳥羽上皇が自らの力を高めてたがために、それを倒してしまって、その基盤を奪っていくという構図で、朝廷権力が骨抜きにされていくということが起こります。
このシリーズの次のエピソードはこちら
朝廷が頂点で、鎌倉幕府は東日本中心の支配にとどまっていた
上皇3人が島流しになり、幕府が皇位を左右し全国に御家人が広がった
まとめ
承久の乱は、正当性を求め続けて力を蓄えた最強の上皇・後鳥羽と、生まれたばかりの鎌倉幕府の激突でした。後鳥羽が強すぎたからこそ、それを倒した幕府は朝廷の基盤ごと奪い取り、武士の世が本格的に始まっていきます。
- 後鳥羽上皇は正当性を求めて和歌・音楽・武芸・経済・軍事のすべてを極めた、何百年ぶりかの傑出した上皇だった
- 実朝暗殺で幕府と朝廷の蜜月が崩れ、親王将軍の拒否や地頭解任要求を経て両者は対決姿勢を深めた
- 北条政子は名演説で、御家人の恩義を頼朝個人から鎌倉幕府へと転換させ、内部分裂を防いで団結を作った
- 大江広元の進言で18騎から一気に上洛する速攻策が当たり、鎌倉方は大軍を集めながら朝廷軍を破った
- 戦後は貴族の処刑や上皇3人の島流し、六波羅探題の設置により朝廷が骨抜きにされ、幕府が全国へ広がった







