池田屋事件から禁門の変へ、なぜ長州は四面楚歌になったのか
この回は、長州藩が四面楚歌に陥る一方で、高杉晋作が牢獄の中にいる場面から始まります。当時の長州藩では、京都に攻め上ろうとする人たちが藩を動かしていました。
そこに追い打ちをかけたのが池田屋事件 ── 1864年、京都の旅館・池田屋に集まっていた尊王攘夷派の志士たちを新選組が襲撃した事件。多くの志士が殺害・捕縛されましたです。新選組が尊王攘夷の志士たちが集まる池田屋に討ち入り、多くの志士が殺されました。
(新選組は)幕府の下位組織なんだよね。立ち位置で言ったら。
楊さんによれば、長州から見ると「幕府がそこまで強硬手段に出たか」という出来事でした。池田屋事件をきっかけに、京都へ攻め上ろうとする進発派を止められなくなります。
長州藩はついに京都へ攻め上り、薩摩藩・会津藩と戦って敗れます。この戦いが禁門の変 ── 1864年、長州藩が京都御所周辺で薩摩・会津などの軍と戦い敗れた事件。蛤御門の変とも呼ばれ、長州は朝敵とされましたです。久坂玄瑞は自殺し、桂小五郎は逃走しました。
だけど晋作は野山獄にいるから生き残るんです。
守ってくれたんですね、牢獄が。
高杉晋作が獄中にいたことは、結果的に晋作の命を救いました。深井さんは、晋作が戦いに行っていたら長州はあまりぱっとしなかっただろうと話しています。
しかし、長州の危機はこれで終わりませんでした。禁門の変によって朝敵とされ、朝廷経由の命令で幕府の征長軍が差し向けられます。ほぼ同時に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四カ国連合艦隊が下関攻撃に向かっているという知らせも入りました。
ロンドンに留学していた伊藤博文と井上聞多は、このままでは長州が滅びると考えて帰国します。長州は応戦しようとしましたが、禁門の変の敗報で弱気になり、四カ国連合艦隊にも敗れました。
長州が四面楚歌になるまでの流れは、次のように整理できます。
もう終わりですよ。普通に考えたら。
敗戦交渉で賠償金を幕府に押しつけた晋作の論理とは
優秀な人材が死んだり逃げたりした長州藩では、再び高杉晋作に白羽の矢が立ちます。高杉晋作は獄中の囚人から、一気に重臣へ昇進しました。
晋作が最初に任されたのは、四カ国連合艦隊との敗戦交渉です。長州藩には、使者として送れるまともな人材が残っていませんでした。
まず1回目はですね、晋作が逆ギレしてます。
長州は攻撃の意思のないアメリカ商船を自ら攻撃し、仕返しされて負けた立場でした。それにもかかわらず強気で現れた高杉晋作に、相手側は驚いたといいます。
楊さんによれば、アーネスト・サトウ ── 幕末から明治にかけて日本に滞在したイギリスの外交官。通訳として活動し、幕末の日本について詳しい記録を残しましたは書物の中で、交渉に臨む晋作の態度を「悪魔のような傲然とした態度」と書いています。通訳は井上聞多と伊藤博文が務めました。
交渉で最大の焦点になったのは、300万ドルの賠償金です。高杉晋作たちは、長州ではなく幕府が賠償金を払うべきだと主張しました。
(幕府の)将軍はね、攘夷決行を朝廷に約束したんだと。その攘夷決行の日が来たから、僕たちはそれを守っただけです。
その守っただけなのに、なんで僕たちが責められるんですかと。約束した将軍にちゃんと請求してくださいって言うんです。
高杉晋作の主張には幕府も反論できず、賠償金の支払いは幕府に回されました。晋作の交渉の論理は、次のようにつながっています。
将軍の約束
幕府の将軍が朝廷に攘夷決行を約束した
長州の行動
長州は約束された攘夷決行の日に従っただけだと主張する
請求先の転換
責任は約束した将軍にあるとして、幕府への請求を求める
結果
幕府は反論できず、300万ドルの賠償金は幕府に回る
いやまあまあすごいし、ロジックもなるほどですけど、むちゃくちゃしますね。
高杉晋作は、長州藩には主君のために命を投げ出せる者がまだ何人もいるとイギリス側に伝えています。これ以上長州とやり合うと面倒だから、幕府に請求したほうが楽だというはったりでした。
その後、イギリスは長州を交渉に足る相手と認め、長州とイギリスは近づいていきます。長州藩は近代兵器を一気に導入し、征長軍を追い返しますが、その武器はイギリスから買ったものでした。
楊さんは、この仲介に坂本龍馬が関わっていたとも話しています。長州と薩摩が後に結びつく過程にも、坂本龍馬の仲介があったと言われることがあるそうです。
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朝敵となった長州で、晋作はなぜ逃げたのか
敗戦交渉を乗り切っても、征長軍の脅威は残っていました。朝敵となった長州藩では、藩主が持っていた朝廷の役職も奪われていました。
この状況で長州藩の内部では、過激派のせいでこうなったという反動が起こります。周布政之助は自殺し、井上聞多は刺客に襲われて瀕死の重傷を負い、高杉晋作も任を解かれました。
長州藩では、幕府に恭順の態度を示さなければ征長軍に滅ぼされるかもしれないと考える派閥が大きくなります。高杉晋作は逃亡し、楊さんは、逃げていなければ処刑されていただろうと話しています。
ここで(晋作が)逃亡したのは松陰が言ってたじゃないですか。再三出しますけど、生きて大業の見込みがあるんだったら、いつまでも生きろと。
楊さんは、高杉晋作が逃げられたのは吉田松陰の教えがあったからだろうと見ています。
高杉晋作は九州へ渡り、佐賀藩や福岡藩の藩主に軍事的な援助を求めましたが、断られます。その後、平尾の山荘に潜伏し、野村望東尼 ── 幕末の福岡の歌人・勤王家。平尾山荘で高杉晋作をかくまったことで知られていますと交流しました。
その間、晋作のそばにいた長州の政治家たちは次々と処刑されます。長州藩ではなく彼らがやったと幕府に示し、謝罪するためでした。藩主親子は謝罪文を出し、山口城の破壊も求められていました。
楊さんは、ここで長州がそのまま幕府に恭順していたら、明治維新がどうなっていたかはわからないと話します。薩摩藩だけでどこまで行けたかわからない、という見方です。
たった一人で始めたクーデターに、なぜ伊藤博文は加わったのか
クーデターを起こすんです、彼(晋作)が。彼がたった一人でクーデターを起こします。
高杉晋作は逃亡先から仲間を集めようとしましたが、誰も賛同しませんでした。天皇の敵とされ、幕府から攻められ、薩摩藩とも仲が悪く、欧米との戦いにも負けた長州は、誰が見ても終わった国だったからです。
高杉晋作にただ一人賛同したのが伊藤博文でした。楊さんは、伊藤博文が後に初代総理大臣にまで上り詰めたのは、この時の選択があったからではないかと語ります。
伊藤博文は多分死んだと思ったと。もう俺死んだと思ってると思う。
伊藤博文は、80人ほどの力士隊という隊を率いていました。高杉晋作は、この力士隊の80人を味方に、長州藩正規軍の兵数を相手にクーデターを起こします。
高杉晋作はまず一人で、長州に逃れていた尊王攘夷派の公家のもとを訪ねました。8月18日の政変で都を追われた公家たちは、1人が死に、1人が逃走して5人になっていました。
(晋作が)まず言ったのが、これよりは長州男児の腕前、お目にかけ申すべしって言って。
楊さんによれば、高杉晋作は絶望的な状況の中で、これから長州男児の腕前を見せてやるという啖呵を切ったのです。晋作は力士隊とともに下関の藩の施設を襲い、守りの薄い軍艦を奪取します。
死を覚悟した高杉晋作は遺書を書いていました。遺書の自己紹介には、「毛利家恩古の臣」と「奇兵隊創設者」の2つの肩書きが並んでいます。
楊さんは、前者は封建社会そのものの表現で、後者は封建社会から外れた表現だと説明します。樋口さんは、2つのアイデンティティを晋作が自分の中で統合できた瞬間だろうと受け止めています。
山県有朋の参加と藩論の転換、形勢はどう変わったか
高杉晋作は奇兵隊にも決起を呼びかけましたが、断られています。当時の奇兵隊を率いていたのは、後に陸軍の元帥となる山県有朋でした。
山県有朋も松下村塾で学んだ人物です。伊藤博文が兄貴分の高杉晋作の頼みを受けた一方で、山県有朋は断りました。樋口さんは、山県有朋の判断のほうが普通だろうと話しています。
ところが、軍艦を奪って攻め続ける高杉晋作を見て、山県有朋は勝機があると判断し、晋作の側に加わります。形勢が変わるにつれ、晋作の側に加わる人がどんどん増えていきました。
参加してきた山県有朋に向けて、高杉晋作は「わしとお前は焼山かづら、うらは切れても根は切れぬ」と歌ったといいます。楊さんによれば、上が燃えても根ではつながっている、という意味の歌です。
かっこいいよね。直接言うんじゃないんだよ、そういうこと。
高杉晋作のクーデターは藩主を担ぐところまで進みます。征長軍に恭順を示すためにできた俗論派の政権は倒れ、長州の藩論は再び過激派の側に戻りました。
長州藩の方針は、クーデターの前後で次のように変わりました。
幕府に恭順し、征長軍に謝罪するために晋作の周囲の政治家を処刑する
幕府には恭順の姿勢を見せつつ、裏で軍備を増強する
征長軍はいったん長州へ来たものの、引き返しています。長州が首を差し出したことに加え、途中で徳川将軍が亡くなったことも理由だと話されています。
長州は幕府や朝廷と戦う覚悟を固め、幕府を無視して下関を開港しようとします。しかしイギリスは、幕府と結んだ約束を理由にこれを断りました。
このあと高杉晋作は政権を握り、表舞台で活躍しますが、まもなく結核で病死します。晋作の最期は、次回で語られる予定です。
全員が諦めた時に動いた晋作の何が人を動かしたのか
楊さんは、高杉晋作に味方した伊藤博文の判断にも注目します。伊藤博文に断られていたら、晋作一人ではどうにもならなかっただろうというのです。
伊藤博文は英国大使館、一緒に焼き打ちとかしてる仲だし、多分その(晋作)に対しての人間関係がそうさせたんだと思うんですけど、まあ死のうかって一緒になったんだと思う。
楊さんは、先に散った久坂玄瑞たちへの申し訳なさも高杉晋作にあったと見ています。晋作は半分死ぬ気で、半分は成功させるつもりで決起した、という解釈です。
ロジックで伊藤博文は説得できないよ。メリットないもん、ゼロだよ。勝てるメリット、勝てる算段もゼロだよ。80人で。
楊さんは、高杉晋作のクーデターが成功した理由を論理的には説明できないと話します。それでも、歴史の中ではこういうことが起こってきたという事実を認識したほうがいいというのです。
楊さんは、スキルや戦略で勝ったのではなく、高杉晋作のエネルギーが周囲に伝わったのだと見ています。そしてその根には吉田松陰の魂があると語り、話は晋作の最期を描く次回へと続きます。
まとめ
禁門の変と下関での敗北で、長州藩は朝敵として滅亡寸前に追い込まれました。その中で高杉晋作は、敗戦交渉の強気な論理と、伊藤博文の力士隊80人から始めたクーデターによって、長州藩の藩論を再び倒幕へと動かしました。
- 池田屋事件から禁門の変、四カ国連合艦隊への敗北で、長州は四面楚歌に陥った
- 敗戦交渉では、攘夷決行は将軍の約束だという論理で、300万ドルの賠償金を幕府に回した
- 恭順派が力を持つ中で晋作は逃亡し、吉田松陰の「生きよ」という教えが命を救ったと語られる
- 誰も賛同しない中、伊藤博文だけが加わったクーデターは、山県有朋らの参加を呼んで政権交代に至った
- 楊さんは、成功の理由は論理では説明できず、諦めなかったことそのものが歴史を動かしたと語る


