今どういう状況か。ここまでの復習
前回のエピソードはこちら
ペリー来航編も6回目に入り、樋口さんの求めでまず状況が整理されます。深井さんがアメリカと日本、双方の思惑をおさらいしていきます。
アメリカの目標は、西洋列強との競争の中で中国マーケットを制することでした。新興国のアメリカは、最強のイギリスを出し抜くために、西海岸から太平洋を最短で横断する蒸気船ルートを開拓したかったのです。
ただし蒸気船は石炭を必要とします。太平洋航路の途中で石炭を補給できる港が不可欠で、その理想的な場所が日本でした。日本近海ではアメリカの捕鯨船も操業しており、その補給や船員保護にも日本の港を使いたかったのです。
アメリカの最優先の目的は、200年続く鎖国を解いて日本を開国させることでした。貿易ができれば理想ですが、通商は最優先ではなかったと深井さんは説明します。
さらにアメリカが重視したのが、他国に先駆けて一番乗りで日本と条約を結ぶことでした。理由は最恵国待遇です。
先行者利益みたいな。
この最恵国待遇は日本側にとっても重大でした。最初に結ぶ条約がベースラインになるため、悪い条件で結ぶとずっと不利が続くからです。
だからこそ日本側は、手強すぎるイギリスより、新興国のアメリカと最初に結ぶ方がマシだと考えました。こうした双方の思惑の中で、白羽の矢が立ったのがペリーでした。
アメリカ東海岸を出発
アフリカ南端を回りインド方面へ北上
東南アジアを経由
日本へ向かう
琉球王国に寄港
武力で威嚇する
浦賀に来航
幕府に国書を受け取らせる
賽は投げられた。開国の重さを今に置き換えると
国書を受け取った時点で、幕府は何らかの返事をしなければならなくなりました。深井さんはこれを「賽は投げられた」と表現します。
アメリカが求める国交を開くことは、200年続いた鎖国政策の放棄を意味します。これはコンセンサスを取るコストが極めて高い決断でした。
深井さんは、この重さを現代に置き換えて説明します。開国から約200年後の今、外国との貿易や人の往来は当たり前になっています。それを明日から全部シャットダウンすると考えれば、当時の江戸の人の感覚がわかるというのです。
全部鎖国しますってなったら、いや無理じゃね?って普通思いますよね。
中国とかが今インターネットを壁で囲ってるじゃないですか。あれのやばいバージョンよりもっとをやるって、今考えたらかなり反発来るでしょうね。
深井さんは、中国のネット規制は言論の制限であって、人の往来や貿易は行われていると補足します。鎖国はオランダ人と中国人以外の外国人を拒否し、貿易もほぼ行わない状態であり、今の日本で明日から実行するのは無理だろうと語ります。
孤独なリーダー、阿部正弘の悩み
この難題に対処しなければならなかったのが、老中首座の阿部正弘です。老中の代表格で、現代でいえば内閣総理大臣に該当する立場でした。
阿部正弘はまず幕府としての出方を決める必要がありました。研究によれば、ペリー来航時点で開国を容認する藩は約30パーセント、穏健に拒絶すべきと考えた藩が約50パーセント、過激な攘夷を主張した藩が約15パーセントだったといいます。
強硬論の代表格が水戸藩でした。徳川御三家のひとつで攘夷の急先鋒であり、元藩主の徳川斉昭が過激な提言をしていたと深井さんは紹介します。
徳川斉昭は、陸戦なら簡単に皆殺しにできる、対談を装って船に入り兵士を突き刺せば少人数でも船員を屠れる、といった趣旨の意見を述べていたそうです。深井さんは黒船相手にそれは無理だろうと苦笑しつつ、こうした攘夷の過激論も存在したと語ります。
深井さんは、幕藩体制が長く続いたことでその均衡を正当化する思想が生まれたと指摘します。ただ、そうした内部の均衡を説明する思想は不測の事態とは相性が悪く、既存のロジックで説明できない出来事からの転換はホモサピエンスには難しい、と述べます。
阿部正弘はこの時まだ30代でした。老中首座とはいえ、簡単に自分の意思を通せる立場ではなかったといいます。
意思決定には将軍の強い後押しが必要でしたが、当時の将軍・徳川家定は病弱で人前に出ることを嫌い、あまり将軍の器ではなかったと本には書かれているそうです。
阿部正弘は自分の意思決定を援護してくれる将軍がいないんです。結構孤独なリーダーだったというふうな書き方がされてますね。
深井さんは、阿部正弘を代表取締役に、将軍を援護射撃しない会長にたとえ、その孤独さを説明しました。
国書を全国に公開。前例なき意見公募
幕府はまずアメリカの国書を分析し、3つの要求を抽出しました。
アメリカは要求とともに、自分たちに侵略の意思はないこと、日本が鎖国状態にあることは承知していること、しかし時代が変わったので方針を変更すべきだ、というスタンスも示していました。
ここで阿部正弘は前例のないことを行います。国家の一大事だから密室で決めるのは良くないと考え、すべての大名と一定身分以上の旗本に、ペリーからの国書や書簡の翻訳をすべて公開したのです。
さらに驚くべきことに、この内容は一般庶民にも伝えられ、意見が公募されました。下級武士や江戸の町の人の中にも、幕府にフィードバックする人が現れたといいます。
Googleフォームないから、当時。まず集めるの難しくないですか、その意見を。伝えるのもPDFをサイトにポンと貼るわけにはいかないから。
深井さんは、意見を公募した理由の一つに世論をつかむ狙いがあったと説明します。あまりに世論の感触を把握せず自分たちで決めれば、どこかで地雷を踏みかねないという判断です。
樋口さんは、一般の人からすると意見を言う場を与えられること自体に意味があると指摘します。地域の町づくりでも、全員の意見を反映できなくても一旦説明会で聞くという「儀式」が必要だ、と自身の経験を重ねました。
意見言ったけど反映されてなかったけど、すいません、全部反映できなくてって言う、これの儀式が必要みたいな。
深井さんは、この意見公募がきっかけの一つとなって多くの人が政治的な発言をするようになり、この後の動乱の時代につながっていったと補足します。
寄せられた3つの意見と、幕府が選んだ「逃げ」の方針
寄せられた意見は、ざっくり3つに分類されました。
開国要求は阻止できず開戦も不可能。石炭供給など最小限の妥協にとどめ、期間を決めて貿易しつつその間に軍備を増強する。大名の間で根強い支持があった
開国要求は拒否できない点は同じだが、富国強兵を目指して積極的に貿易し、その財源で軍艦を持ち海軍を作るべきだとする
1つ目は、アメリカの要求を拒絶して現状を維持すべきという意見でした。2つ目は部分的に開国に応じる消極的な開国論、3つ目は積極的に貿易する積極的開国論です。
樋口さんは、消極的な開国論を「バランス派」と呼び、間を取ってここに落ち着きそうだと感想を述べます。積極的開国論については、新しいゲームルールに則ってパフォーマンスを出せばいいという発想で、イノベーターが言いそうだと重ねました。
ところが幕府首脳陣が最終的に落ち着いた方針は、意外なものでした。深井さんによれば、結局アメリカの要求にちゃんと応えず、交渉をできるだけ引き延ばすという方針です。
これは琉球王国がアメリカにやろうとしたことと同じで、諦めてくれるまでお茶を濁し続けるやり方でした。従来の方針と特に変わらず、勝手に諦めて去ってくれれば開国も妥協もせずに済む、という理想でもあったのです。
いろいろ言ったけど、普通のとこに行くわな。平均取ったら。
ただし深井さんは、逃げの方針というアウトプットの裏で、実際にペリーが強く出てきた場合の妥協ラインをどこにするかという論点の洗い出しは、幕府首脳陣の中で議論されていたのではないかと推測します。
方針としては、日本側からは攻撃しないという従来の姿勢を守りつつ、アメリカから攻撃を受けた場合は全力で戦う、というものでした。他藩の藩士からは弱腰だという批判もありました。
一方で幕府は大きな決断も下します。大型船の解禁です。オランダ東インド会社に対して蒸気船を購入できないかという打診も始まりました。
ジョン万次郎からの情報収集
幕府は準備活動も進めます。まず行ったのが、アメリカに関する情報を集めるヒアリングで、そのためにジョン万次郎が召喚されました。
深井さんは、教科書でいじられがちなこの人物を「ペリーよりも面白いかも」と語ります。ジョン万次郎は土佐に生まれた漁師の子供でした。
アメリカに初めて上陸した日本人であるジョン万次郎は、幕府に召喚されてヒアリングを受けます。国際政治、軍事事情、風俗習慣、航海術など、自らの経験を役人に語り、役人も熱心に勉強したといいます。
ジョン万次郎が伝えた内容には、アメリカは土地が広く産物も多く人口が増えつつあること、外国との交易が盛んで豊かな国であることなどがありました。
さらに、アメリカは元々イギリスの所属だったが独立して共和政治を立てたこと、国王はおらず国政を司る大統領は人民の選挙で選ばれること、といった正確な情報も含まれていました。
これは貴重な情報でしょうね。今まではもう出島でオランダ経由でしか海外の情報が入ってこなかったわけですよね。
深井さんは、これが日本語を話せる人物が実際に見聞きした「生の情報」だったと強調します。ただし、ジョン万次郎を対ペリー交渉チームに入れる動きには反対意見も出ました。アメリカに有利な動きをするのではないかと疑われ、外されたのです。
台場を作れ。5000人が動いた砲台建設
もう一つの課題は、黒船の武力にどう備えるかでした。警備を増強するしかなく、幕府は品川沖に砲台を作り始めます。
これは海の中に石や土を築き、その上に砲台を作る計画で、砲台が海の上に浮かぶ形になります。この砲台は台場と呼ばれ、今のお台場の由来になっています。
工事は急ピッチで進み、品川沖には毎日資材を運ぶ船が数千隻も停泊し、石の職人や肉体労働者は5000人以上に達したといいます。この地域は建築工事で好景気になったと記録に残っています。
ところが、ペリーがもう一度来るまでに台場は一つも間に合いませんでした。
間に合わなかった。意味なかったんや。切ないな。5000人切ないな、これ。
深井さんは、幕府なりに頑張ったがここが限界だったという印象だとまとめます。そうこうしているうちに、ペリーが返事を聞かせろと再びやってくるのです。
9隻の再来航。前回の倍の衝撃
1度目の来航から7カ月後、ペリー艦隊が再び日本に向かいます。それまで艦隊は中国沿岸で、太平天国の乱の中で在留アメリカ人を保護する任務についていました。
1854年2月8日、駿河湾を東へ航行するペリー艦隊が目撃されます。情報はすぐ江戸幕府に入り、阿部正弘は関係役人に登城を命じました。
今度の艦隊は前回を上回る規模でした。前回の4隻に対し、時間差で集結して最終的に9隻になったのです。
UFOが4つ来ただけでもやばいのに、あれ9も来たみたいな。
多くの江戸の人が、人生で初めての光景を目にしました。しかも艦隊は前回の浦賀より江戸湾の奥に入り、今の横浜市の沖合に止まります。
浦賀奉行側は、前回国書を受け取った久里浜まで引いてくれと求めますが、ペリーは断ります。ちょっとずつ江戸に近づいて既成事実を作るのがペリーの戦術でした。前回は長崎回れと言った幕府も、今回はもう言えなかったといいます。
もう怖すぎて。そんな言ったら怒られるもんね。
なぜ真冬に来たのか。焦るペリーの事情
ここで深井さんはペリー艦隊側の事情に話を移します。2度目の来航は2月の寒い時期で、航海には最悪の季節でした。それでもペリーは予定を繰り上げて日本に来たのです。
理由は、他の列強が日本にアプローチし始めたことでした。ロシアはペリー来航を知ってすぐ船を出し、長崎に来ましたが、幕府の外交が効いたのか何もできずに帰りました。フランスも出航準備をしているという噂がペリーの耳に入っていました。
是が非でも一番乗りで条約を結ばなければならないペリーは焦り、真冬に日本へ向かったのです。
最恵国になりたい。
ペリー自身も過酷な状況にありました。石炭の確保に苦労していたところ、なんと自分の国のアメリカ商人が、買い占めていた石炭をロシア艦隊に売ったことを知ります。
国のためにやっとんじゃこっちはと。お前の会社の利益のためか知らんけども、何やっとんじゃと。
さらにペリー自身もリウマチの関節炎が悪化していました。アメリカ出港から14カ月が経過し、海軍勤務40年を超える猛者とはいえ、彼は間もなく還暦でした。
船員たちもハードな環境で働き、4年間連続で艦隊勤務についた者や、死者・病人、過労で任務を解除された者も記録されています。
モチベーション維持に苦心するペリー
ペリーは艦隊司令官として、船員たちのモチベーション維持に苦労しました。船の中の印刷機をフルに使って艦隊新聞のようなメディアを発行していたといいます。
社内メディア。
ほかにもパーティーや演奏会、演劇会など、こまめな活動を企画していました。樋口さんは、この辺りは会社と同じで、レクリエーションでモチベーションを保っていたと重ねます。
最初の交渉に入るにあたり、まず交渉場所をめぐってペリーと幕府がもめます。ペリーは既成事実を積み上げ、圧をかけるためにより江戸に近い場所を望み、幕府側は当然それを嫌がりました。
(欧米では国の)使節を首都でもてなすのが常識なんだと。それができないんだったら、江戸の近くまで蒸気船を乗り入れますよと。
最終的に交渉場所は横浜村に決まり、結果的にペリーは去年より江戸に近づけました。深井さんはこれをペリーの粘り勝ちと表現します。
横浜村は農家の多い普通の村でした。交渉のために農家は撤去され、交渉決裂で戦争が始まることを恐れた民衆が家財道具を持ち出す事態も起きました。
さらっと言ったけど、農家撤去されたんや。めっちゃ嫌やん、農家。
敵に塩を送る。緊張の裏のコミュニケーション
交渉場所をめぐって一週間以上もめたことで、ペリーはかなりイライラし、体調も崩しました。深井さんは、これは逆に見れば幕府の「ノロマ作戦」が効いているのだと指摘します。
交渉が長引くほどペリーにとってもデメリットになるからです。緊張が続く一方で、幕府側はペリーに病気のお見舞いとして贈り物をしました。
その内容は記録に残っており、大根800本、人参1500本、みかん10箱、鶏50羽、鶏の卵1000個などをペリー艦隊に贈ったといいます。
樋口さんは、冷蔵庫がなく野菜をあまり食べられない船上では、こうした贈り物は嬉しかっただろうと語ります。深井さんは、ペリー側の態度を柔らかくさせる打算もあったかもしれないとしつつ、単にバチバチにやり合う以外のコミュニケーションもあったと述べます。
トップ知識人・林復斎の方針転換
交渉場所が決まると、幕府は交渉チームを組みます。リーダーに抜擢されたのが林復斎です。
林復斎は昌平坂学問所の塾頭でした。これは幕府直轄の人材教育機関で、今風にいえば国立大学の学長のような超知識人にあたります。
外交経験もある林復斎は首席全権委員として交渉チームのトップに就き、幕府に意見を提示して方針転換を促します。
当初の幕府は、戦闘を避けつつ具体的な回答を引き延ばす方針でした。しかし林復斎は、要求を拒否すれば艦隊が江戸湾の奥まで侵入し戦闘が勃発しかねず、防御が整っていない江戸への黒船接近は何としても阻止すべきだと主張します。
そのうえで林復斎は、アメリカとの通商を含むペリーの要求を認めるべきだと述べました。回答をしないという方針は撤回され、大きな方針転換となります。
深井さんは、ペリーの強硬な姿勢と武力を前に、幕府が現実認識を変えざるを得なかったと見ます。林復斎は現実を一度アップデートしたうえで、どんな妥協ラインが設定できるかを話し合おうというスタンスだったのだろうと語ります。
効かなかったブラフ。動じない林復斎
一方でペリーはまだイライラしていました。交渉のための建物を日本側が建てることになったものの、なかなか完成せず、最終チェックや日程も決まらなかったからです。
ついに限界を迎えたペリーは、条約締結が受け入れられなければ戦争になるかもしれないと幕府側に伝えます。近海に50隻の軍艦を待機させ、本国のカリフォルニアにさらに50隻あり、この100隻は20日ほどで来られる、と主張しました。
これは超ブラフでした。実際はアメリカ海軍全体でも100隻には達しておらず、事態が期待ほど進まず焦ったペリーのハッタリだったのです。
ところが林復斎の記録では、この発言に動じた様子はなかったといいます。深井さんはそのやり取りを、贈り物をあげ、体調を気遣うようなトーンで演じてみせます。
ふーん、そうですか。じゃあちょっと贈り物あげますねって。
樋口さんは、愚かな幕府というイメージとは違い、堂々と落ち着いている印象だと感想を述べました。
最終的に建物も建てられ、第一回目の日米交渉が始まります。その様子は次回に続きます。
樋口さんは、交渉のためだけに建物を一から建てる展開を面白がり、適切な場所が一つもなかった点に注目します。深井さんは、江戸城にペリーを来させるわけにいかず、妥協した横浜村が農村だったため、きちんとした建物を建てる必要があったと説明しました。
このシリーズの次のエピソードはこちら
まとめ
国書を受け取った幕府は、意見を全国に公募しながらも交渉を引き延ばす「逃げ」の方針を選びました。一方でペリーも、列強との競争や補給難、自身の病と還暦を抱えて奮闘していました。双方が内部事情を抱える中、林復斎の方針転換で潮目が変わっていきます。
- アメリカの狙いは中国マーケットのための補給地確保で、最優先は通商ではなく開国と一番乗りの条約締結だった
- 阿部正弘は前例を破り、国書を大名・旗本・庶民にまで公開して意見を公募したが、最終方針は交渉を引き延ばす従来路線に落ち着いた
- 品川沖には5000人以上が動員され台場が築かれたが、ペリー再来までに一つも間に合わなかった
- ペリーは列強との競争、石炭をロシアに売られる誤算、リウマチの悪化を抱え、真冬に9隻で再来航した
- 交渉チームのトップに就いた林復斎は、通商を含む要求を認めるべきと方針転換を促し、ペリーのブラフにも動じなかった




