浦賀に来る黒船を、幕府はなぜ事前に知っていたのか
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いよいよペリー艦隊が江戸湾の浦賀にやってきます。楊さんによれば、一般的に「ペリー来航」「黒船来航」と呼ばれるのは、この浦賀への来航を指すことが多いといいます。
注目すべきは、幕府がペリーの来航をあらかじめ知っていた点です。この情報を伝えたのはオランダでした。アメリカ政府が日本に使節を送る計画があると、オランダ側から共有されていたのです。
ここで楊さんは、オランダと日本の関係を整理します。オランダは鎖国下の日本と公式な関係を続けていた唯一の西洋国でしたが、実は国同士の正式な国交は結んでいませんでした。
そうですね、出島でね。
ただ、別に条約は結んでないです。国同士のオフィシャルな国交というのはないです。
付き合いの実体は、オランダ東インド会社が出島 ── 長崎湾内に築かれた人工島。江戸時代、オランダとの貿易の窓口として使われた。に出先機関を置いて行う貿易だけでした。樋口さんはこれを「株式会社としての付き合い」と表現しています。
日本の開国を「時代の必然」と受け止めたオランダの計算
オランダは日蘭貿易の特権を西洋国の中で独占し、黒字も出していました。そこへアメリカが国交を求めてくる。楊さんは、これに対するオランダのスタンスを説明します。
日本の開国は時代の必然だからしょうがねえって考えたんですね。さすがに。
オランダは、アメリカやイギリスのアプローチを自分たちが阻止できるはずはないと自覚していました。だからこそ、開国は避けられないとしても、その中で相対的な優位を保つ方向へ舵を切ります。
その戦略が、日本のメンター役になることでした。ペリー来航の情報共有もその一環で、開国自体もオランダから進言し、「オランダはずっと味方だ」とアピールする狙いがあったといいます。
一方で、オランダには抜け目なさもありました。幕府が異国船への方針を柔らかく変えたことを知っていながら、あえて他国には伏せていたのです。
いずれ知れ渡るけれども、積極的にライバルたちに対して有利な情報を別に与えようとはしないっていう。
4隻でも「過去最大」だった黒船の衝撃
オランダからの情報はかなり正確でした。大統領の親書を持つ使節が来ること、蒸気船用の石炭補給港を日本で確保したいこと、司令長官がペリーであること、蒸気軍艦も含まれることまで、幕府首脳陣に共有されていました。
この情報に幕府は衝撃を受けます。艦隊の規模も来航の目的も、当時の体制を揺るがしかねないものでした。ペリーは本来10隻から12隻を連れてきたかったものの、1回目に来たのは4隻でした。
数だけ見れば少なく感じますが、日本側の視点は違いました。これまで日本に来た西洋の軍艦はせいぜい1隻か2隻。4隻は過去最大の規模だったのです。
大きさも桁違いでした。旗艦のサスケハナ号は蒸気軍艦で全長78メートル。船の両側に水車のような大きな車輪が付いていて、それが回って進む構造でした。
これはでかいな。
これはビビるな。確かに来たら。
26歳で老中首座、対ペリー交渉を率いた阿部正弘
対ペリー交渉の総指揮官となったのが、老中トップの阿部正弘でした。楊さんは、この役職を今の内閣総理大臣にほぼ相当すると説明しています。
阿部正弘は、ペリー来航の8年前から老中首座を務めていました。つまり26歳で国のトップに立っていたことになります。譜代大名の名門・阿部家の若きエリートでした。
外交実績もありました。以前来航したビットル司令官に対して早く去るよう告げたのも阿部正弘です。楊さんは、彼の能力を次のように評します。
複数の利害対立の中で絶妙なコンセンサスを形成する手腕に優れてたんだって。
阿部正弘は、ペリー来航の情報が入るとすぐに幕府中枢で共有し、早い段階から合意形成の議論を始めました。話をまとめる力を、この局面で発揮しようとしたわけです。
議論はしても、防衛の準備はほとんどできなかった
議論は進んでも、実際の来航への準備はほとんど整いませんでした。幕府がやれたのは、浦賀奉行所に通訳を配置する体制補強くらいだったといいます。樋口さんは、通訳が誰でもできる仕事ではなく希少だった点に触れています。
本来必要だった江戸湾の防衛強化は、資金不足でほとんど進みませんでした。前回触れたように、幕府には設備投資の余力がなかったのです。
一応、蒸気軍艦ではないものの軍艦を1隻配備し、江戸湾沿いに大砲も備え付けました。しかしペリー艦隊の大砲と比べると、命中率も破壊力も比べようがないほど低いものでした。
参考文献には、日本側の軍備はペリー艦隊の10分の1にも満たなかったと推定されていると書かれています。
なんかね、据え置き型でできるのに移動型に負けてるっていうね。
ゴッホ誕生と黒船来航、意外なつながり
浦賀への第一回来航は、1853年7月8日、夏の朝のことでした。ここで楊さんは、この年の春にゴッホが生まれたと、時系列の目印として触れます。
急にゴッホ出てきた。
一見無関係に思えますが、楊さんはつながりを示します。日本が開国したあと、日本の文化芸術がヨーロッパに流れ込み、ジャポニスム ── 19世紀後半にヨーロッパで起きた日本美術・文化のブーム。印象派の画家などに影響を与えたとされる。という日本ブームを起こし、ゴッホもその影響を強く受けたのです。
日本は開国によって奪われるだけでなく、文化を世界へ送り出す側にもなりました。楊さんは、こうしたつながりを見いだせるのが歴史を学ぶ面白さだと話しています。
漁師が見た「黒い巨大怪物」と、飛脚を追い抜く黒船
ペリー艦隊が最初に目撃されたのは、伊豆半島南端に近い下田の沖でした。漁に出ていた漁師が、靄のかかった海の上に異様な船団を見てしまいます。黒い煙を上げ、両側の大きな車輪を回して快速で走る船でした。
いや、これその瞬間想像したらやばいね。漁師さんが。なんじゃありゃって。
マジで宇宙船見たぐらいの衝撃やろな。
漁師たちは下田の港へ戻って役所に通報し、役人は飛脚で浦賀奉行所に知らせようとします。ところが黒船のスピードは飛脚をはるかに上回り、飛脚が浦賀に着く前にペリーが先に到着してしまいました。
午後4時過ぎ、浦賀に着いたペリーがまずやったのは、大砲に実弾を込めさせることでした。戦艦を一列に並べ、街に大砲を向けます。楊さんはこれを「ちゃんと砲艦外交してる」と表現します。
600隻の船が取り囲む、緊張と野次馬が混ざる現場
沿岸の漁師からは浦賀奉行所へ通報が殺到し、奉行所は多数の警備船を出して黒船を取り囲みます。しかしペリー艦隊も強気で、乗り込もうとする武士に水兵が短剣や小銃を見せて威嚇しました。
さらにペリー艦隊は測量船を出し、巨大な軍艦が座礁しないよう江戸湾の水深を測ります。それを守るように砲門を岸へ向け、幕府の警備船と睨み合う状態になりました。
楊さんによれば、このときの日本側の反応は大きく二つに分かれました。一つは驚きと不安です。沿岸警備に駆り出された武士の中には、「生きた心地もしなかった」という言葉を残した人もいました。
武力を使わずに、これを見せつけて恐怖で揺さぶるペリーの戦術っていうのはまず当たったんです。
もう一つの反応は、好奇心と怖いもの見たさの野次馬根性でした。黒船が現れるや、陸からも海からも見物人が押し寄せ、黒船見物ブームが起きたといいます。
俺そっちかもな。
楊さんが記録から挙げた数字は衝撃的です。ペリー艦隊を取り囲んだ船は約600隻。そのすべてが幕府の警備船ではなく、もっと近くで黒船を見たい野次馬の船も多く含まれていたとみられています。
沿岸警備の武士は「生きた心地もしなかった」と記録。武力を見せて恐怖で揺さぶるペリーの戦術が当たった。
陸からも海からも見物人が押し寄せ、黒船見物ブームが発生。約600隻の中には野次馬の船も多かった。
黒船来航のニュースは、手紙や口コミ、浮世絵、瓦版などで瞬く間に国内に広まります。幕府は接近するなという御触れを繰り返し出しましたが、庶民の好奇心の方が勝り、あまり機能しなかったといいます。
楊さんはこの点を強調します。人心が動揺したのは確かでも、統制できないほど大規模なパニックにはなっていないというのが実態でした。緊張と恐怖に、好奇心が入り混じっていたのです。
「この人がお偉いさんです」 嘘が潤滑油になったファーストコンタクト
いよいよペリー艦隊と幕府側の役人が接触します。役人は奉行所のスタッフとオランダ語の通訳を連れ、旗艦サスケハナ号に向かいました。
ここで工夫があります。事前情報でアメリカの船だとわかっていたため、日本側はあえて英語で呼びかけました。オランダ語の通訳が少し英語を理解していたので、船に向かって「私はオランダ語を話すことができる」と英語で伝えたのです。誤解や小競り合いを避けるための判断でした。
ペリー側からは、位の高い官僚だけの乗船を希望すると返ってきます。そこで通訳は、とっさに嘘をつきます。同行した浦賀奉行所のスタッフを指して「この人がお偉いさんです」と、決裁権のある副奉行だと偽ったのです。
えー。おもろ。三谷幸喜やん。やっぱり。
この嘘が方便として機能しました。ペリーは勘違いし、二人を船に上げます。「最初がうまくいった」と手応えを感じたペリー本人はまだ姿を見せず、部下が交渉にあたりました。
ペリー側は「目的は大統領の親書を渡すこと」だと伝えます。日本側は自分たちに権限がないとして、翌朝もっと位の高い役人が交渉に来ると告げ、この日のやり取りは終わりました。
なりすまし。地面師や。
戦闘回避、国書は受け取らない 徹夜で固めた幕府の方針
幕府首脳陣は、まさにどうするかの意思決定を迫られます。阿部正弘は他の老中や首脳を集め、江戸城内で徹夜の協議を行いました。
そこで決まった大方針は、できるだけ戦闘を避けることでした。海軍を持たない幕府に、巨大な艦隊へ対抗する術はありません。原則として軍事的解決を避け、外交で対応するという方向です。
同時に、この時点では国交を結ぶ意思もありませんでした。大統領の国書についても、基本的に受け取らない方針でした。受け取ればやり取りを始めなければならず、それを避けたかったのです。
戦略は「粘って諦めさせる」ことでした。まず江戸湾からペリー艦隊を遠ざけ、唯一の外交窓口である長崎へ行かせ、そこでゆっくり粘って諦めてもらおうと考えていました。
日米ともに戦闘回避 偶然重なったお家事情
楊さんが面白いと指摘するのは、日米双方が独自に戦闘回避の基本方針を持っていた点です。しかもそれがタイミングよく重なりました。
日米両国とも戦闘を回避する基本方針を各自で持ってたっていうことですよね。
この偶然の一致が、武力衝突につながらなかった理由の一つになったといいます。双方のお家事情が絡み合い、戦争ではなく交渉ベースのやり取りが運よく実現したのです。
樋口さんは、もう少し前の時代なら日本は来た瞬間に攻撃していただろうと指摘します。楊さんも、そうなればペリーはぶっ放していたはずだと応じ、歴史が変わっていた可能性に触れました。
「拒むなら武力で上陸する」 脅しに折れた幕府の重大決断
幕府はペリーに、大統領の国書は受け取れず、外交窓口は長崎だから長崎へ行ってほしいと伝えます。返答も長崎で行うという内容でした。しかしペリーは、これを一切受け付けません。
こっちの要求を拒むんだったら、強力な武力をもってアメリカ大統領の国書を渡すために上陸しますっていう。
結果、幕府は折れます。もう一度議論をした末に、やはり戦いを避けることを貫こうとなり、大統領国書の受け取りが決まりました。
これは大きな政治的決断でした。鎖国政策を敷き、国交のない国の大統領から国家の政治的意思を示すメッセージを公式に受け取ること自体、重い判断だったのです。脅しが効いた瞬間でした。
ドア開けて片足だけ入っちゃったみたいな感じですね。
久里浜で行われた国書受け取りの儀式
次のステップは国書の受け取りです。場所はアメリカ側との折衝で久里浜、今の神奈川県横須賀市に決まりました。浦賀より南で、江戸から少し離れることができる場所でした。
幕府は儀式のための建物を建て、そこへペリーが上陸します。上陸したアメリカ人水兵は約300人。彼らが2列に並び、その間をペリーが進んでいきました。
もう演出入れてくるね、本当に。
楊さんは、この演出には意味があったと説明します。以前のビットル艦長のように国書を下っ端役人へポロッと渡せば、その程度のスタンスと受け止められ、なめられてしまう。だからこそ儀式感を大切にしたのです。
受け取りはスムーズに終わりました。この場では交渉をしないことが事前に双方で合意されており、ペリー側も浦賀奉行側もほとんど言葉を交わさないまま式典は終了しました。
最後にもう一発 品川を射程に入れたかまし
第一の目的である国書を渡し終えると、ペリーはさらにもう一発かまそうと考えます。圧倒的な軍事力を見せつけ、翌年の来航に向けた仕込みをしようとしたのです。
ペリーは艦隊の蒸気軍艦ミシシッピ号を江戸湾の奥深くまで侵入させ、品川の市街地を射程に置きました。これが幕府を大いに怯えさせます。
ただし、これはペリーにとっても賭けでした。岸に近かったため攻撃される危険もあったのです。それでもこのかましを最後に行い、翌年また来ると告げて江戸湾を退去しました。
返事を待たずに帰った理由と、隠された台所事情
ペリーが大統領国書への即答を求めずに帰った理由を、楊さんは複数挙げます。まず、受け取らせること自体が最初の目的であり、それが達成されたと考えたことです。
もう一つが時間差攻撃でした。時間をおいて繰り返し力で威嚇する波状戦術 ── 時間差で攻撃を繰り返し、相手を心理的・物理的に疲弊させる戦術。ペリーが海賊掃討作戦で学んだとされる。の実行で、「期限までに返事を考えておけ、また来るからな」という心理作戦でもありました。
さらにリアルな事情もありました。ペリー艦隊は、日本近海に長く滞在できるだけの食料を持っていなかったのです。この後、琉球や中国へ寄って補給する必要がありました。
なるほどね。オラオラつって歩いてる時に腹グーッなってるんです。
即答を求めれば交渉が長引き、補給できないまま背水の陣 ── 川や海を背にして退路を断ち、必死で戦う陣立て。転じて、後がない状況を指す。のようにジリ貧になり、最悪は回答も得られず帰国する恐れがありました。それを避けるため、一度離れて補給し、翌年に出直す判断をしたのです。
加えて、後続の船がまだ到着していませんでした。時間差で出発した艦や、中国にいる外交官に使われた艦などをかき集めてから来た方がインパクトが出せると考え、陣容を補強して再訪しようとしたのです。
弱みを隠し、はったりで押し切るペリーの必死さ
自分たちの苦しい台所事情を、ペリーは日本側に意図的に隠しました。隠すだけでなく、はったりまでかけます。
アメリカからお宅のところまでは二十日ぐらいで来れますよというふうにハッタリをかますんですよ。
太平洋の航路開拓もまだ十分でなかったのに、「いつでも軍艦を率いて来れる、援軍もすぐ来る」と強く印象づけようとしました。楊さんは、裏事情を知ると少し可愛く見えると言いつつ、ペリーもまた必死だったと語ります。
今だからこそ、このペリーの裏事情を知れてさ、ちょっと可愛いなと思ったりもするけど、ペリーもペリーで必死だったわけです。
40分間ずっと「かまし」 解像度を上げて歴史を見る面白さ
樋口さんは、この回を振り返って、ペリーが日本に対してかましをし続けた話だったと整理します。約40分間ずっとはったりを続けていた、というわけです。
ハッタリを四十分ぐらいずっと。
楊さんは、その一つ一つの意思決定の背景に、より複雑な要素があったはずだと補足します。押すか引くか、どうコミュニケーションを取るかを細かく判断できたのは、ペリーの膨大な日本研究があったからだと考えられます。
樋口さんは、日本人の性質や幕府の状態を把握したうえで押して引いて、時に嘘もつく心理戦を、ペリーが一旦は制したとまとめます。国書を受け取らせたという点で、心象の勝負に勝ったのです。
楊さんは、解像度を上げて歴史を見ることの面白さがここにあると語ります。一行の要約では見えない苦労やセンス、海軍司令官としてのレベルの高さが、細部を追うことで初めて見えてくるのです。
次回は、ペリーが退去したあとの江戸幕府のアクションです。国書を受け取ってしまった以上、返事が必要になり、幕府は国を開くかどうかの決断を迫られていきます。
国書を受け取っちゃったので、賽は投げられたっていうことですよね。
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まとめ
ペリー来航は、大砲という圧倒的な軍事力を背景にしつつ、嘘やはったり、時間差の威嚇といった心理戦で幕府に国書を受け取らせた出来事でした。日米双方のお家事情と偶然のタイミングが重なり、武力衝突を避けて交渉が始まった経緯を、細部から追った回です。
- 幕府はオランダからの情報でペリー来航を事前に知っており、オランダは開国を必然と見て自国の優位維持を狙っていた
- 4隻でも日本側には過去最大の脅威で、軍備はペリー艦隊の10分の1にも満たなかったと推定される
- ファーストコンタクトでは通訳のとっさの嘘が潤滑油となり、トラブルなく着地した
- 日米ともに戦闘回避の方針を独自に持っていたことが、武力衝突を避けた一因になった
- 即答を待たずに帰ったのは、食料不足や後続艦の未到着など弱みを隠すためで、はったりで援軍の即応を印象づけた




