交渉テーブルに着いたペリー、しかし焦りも見え始める
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ペリー来航編第7回は、いよいよ日米交渉の本番から始まります。当初は幕府がビクビクで、ペリーのペースで進むと思われていました。
ところが、長く日本に滞在すること自体が、ペリー側にとってもリスクになってきます。深井さんは、その理由を2つ挙げます。
1つはペリー個人の事情です。ペリーには持病があり、体調やストレスがどんどん蓄積していく状況にあったと語られます。
もう1つは艦隊としての事情です。黒船だけを見れば強力な武力ですが、それを維持するには莫大なコストがかかり、日本では補給もできませんでした。
畳100畳分の交渉所と、ペリーが渡した条約草案
交渉場所が決まり、建物も建てられました。深井さんによれば、畳100畳分ほどの広い建物で、厨房も控え室も、各チームがクローズドに相談する小部屋まで備えていたそうです。
ここにペリーが500人ほどの乗組員を率いて上陸します。軍楽隊が行進曲を演奏する中、兵士たちが剣を抜いて行軍したと記録されています。第一ラウンドの開始です。
ペリーは早速、結びたい条約の草案を渡します。ペリー側の要求には優先順位があったとされます。
ただし、この優先順位はアメリカ側でも曖昧だったとする本もあると深井さんは補足します。ここでは石炭補給拠点の確保を第一とし、通商まで行ければベストという説で話が進められます。
一方で、このペリー側の要求は幕府の方針に反していました。交渉チームのトップである林復斎林復斎 ── 幕府の交渉責任者を務めた儒学者・大学頭。日米和親条約の交渉で日本側代表となった人物とされる。を中心に、幕府側のスタンスが整理されます。
石炭の供給はしてよい。ただしどの港を使わせるかが論点。漂流民の保護はすでに実施済みで論点にならない
通商。これはさすがに無理だと伝える方針
港についても、幕府は当初、すでに外交窓口だった長崎をアメリカにも使わせようと考えていました。中国とオランダが使っている長崎に、アメリカも加える発想です。
これに対しペリー側は、アメリカのために新しい港を開いてほしいと望んでいました。幕府は長崎に絞りたい。ここが早くも交渉の争点になります。
林復斎の反論、漂流民をめぐる第一ラウンド
ここからは、紙として残る記録をもとに、あたかも会話が交わされたかのように交渉の要点が語られます。まずは漂流民の救助についての議論です。
ペリーは、自国は人命尊重を第一に政策を進めてきたと主張します。国交のない国の漂流民でも救助し、手厚く扱ってきたというのです。実際、日本人漂流民もアメリカは助けていました。
あなたたちの国は人命を尊重せず、日本近海の難破船も救助もせず、海岸近くによれば発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い投獄する
これは方針を変える前、異国船打払令異国船打払令 ── 1825年に幕府が出した法令。日本に近づく外国船を武力で追い払うことを命じたもの。のちに方針転換される。が生きていた頃の日本の対応を指しています。ペリーはこれを改めなければ戦争も辞さないと、軍事力で脅しをかけました。
これに対し、林復斎が反論の口火を切ります。まず、外国船の救助ができなかったのは、日本が大きな船の建造を禁じてきたためだと事実関係を正します。
そのうえで林は、難破船には薪・水・食料を十分に提供し、漂流民は長崎に護送してオランダを通じて送還してきたと述べます。アメリカ人漂流民も同じ措置で送還済みだと反論しました。
だから戦争に及ぶ理由はないんじゃないの?ちゃんと考えてください
ペリーは打払令時代のことをネタに脅していましたが、林は「うちはもう方針を切り替えている」と冷静に返したわけです。ペリーはしばらく考えたのち、これを受け入れます。
なるほど、お宅の国ではすでに方針を改めたのかと。今後もそのような方針を維持されるのであれば結構である
通商論争と料理フルコースのもてなし
次に通商をめぐる議論です。ペリーは、貿易はどの国も盛んで、国を富ませ強くすると説き、日本も貿易すれば国益にかなうと迫ります。
これに対し林復斎は、日本は自国の産物だけで十分に足りていると答えます。さらに、もともと人命尊重と船の救助の話は済んだはずで、通商とは関係がないのではないかと切り返しました。
この反論を受け、ペリーはしばらく沈黙し、いったん個室に下がります。将棋でいう長考に入った、と深井さんは表現します。そして戻ったペリーは通商の要求を引っ込めました。
ただし深井さんは、これをペリーの負けと見なくてもよいと補足します。そもそも通商は優先順位の3番目で、ここで粘るメリットは薄く、強く主張しなかっただけではないか、というわけです。
でも林さんね、論破王やん
これで論点は絞られました。通商は撤回され、残るは石炭・薪・水・食料の供給と、難破船の修理のための港をどうするか。つまりアメリカにどの港を、いつ、いくつ開くかという点です。これで第一ラウンドが終了します。
会談後には、ちょっとしたイベントがありました。日本側からペリー一行に日本料理が振る舞われたのです。幕府のメンツをかけたフルコースでした。
一の膳・二の膳・三の膳と続き、全部で相当な数のおかずが出たとされます。魚のムツと卵と豆腐の炊き合わせや、鯛の塩焼きなどが提供されたそうです。
乗組員たちはマイスプーン、マイナイフ、マイフォークを持参していました。それを珍しがった役人が、小刀で食べ物を切り分け、小さな熊手のようなもので食べる、と記録しています。
刺身には手をつけず、甘くて味の濃いものばかりを食べ、酒はミリン酒ばかり飲んでいたそうです。焼酎や日本酒は飲まなかったといいます。それでも量が足りなかったと言う乗組員もいたとのことです。
5年後か、今か、港をめぐる膠着
交渉の話に戻ります。幕府はアメリカの草案には直接答えず、独自の草案を作成しました。
幕府の草案には、石炭・薪・水・食料の供給、漂流民の救助の承諾が盛り込まれました。そして港を開くことについては、5年の猶予期間を求めます。その間は長崎を使ってよい、という内容でした。
新しい港を開くのはちょっとやっぱ時間かかるんで、ちょっと5年待ってね
ペリーは提案を原則了承しつつ、反論します。5年後では確証がないと。今すぐ新しい港を開く条約を結びたいと迫りました。
ペリーには本国の事情もありました。5年後の約束では、アメリカから見て「結局何もできていない」と映りかねなかったからです。
さらにアメリカは、すでに中国との条約で複数の港を確保していました。日本でも複数を確保したいという狙いです。長崎だけならオランダと同じ扱いになり、それでは成果にならないと考えました。
樋口さんは、目的が中国なら長崎で十分ではないかと素朴な疑問を投げます。深井さんは、太平洋航路の開拓が狙いだと説明します。
アメリカの西海岸から中国に行く航路の上に日本があるわけですよね。太平洋側に港がないと不便じゃん
長崎ではぐるっと回り込む必要があり、中国側の島にはすでにアメリカが使える港もありました。だからこそペリーは、太平洋側に新しい港を開くことにこだわったのです。ここで交渉は一度、膠着状態に入ります。
蒸気機関車と電信機、ソフトパワーで攻めるペリー
膠着の中で、ペリーはソフトパワーの作戦に出ます。アメリカの工業力を示すため、多くの工業製品を幕府に献上しました。
特に日本側の関心を引いたのが、ミニサイズの汽車と電信機でした。汽車は実物の4分の1モデルながら、蒸気機関を備えて実際に走れるものでした。
汽車は小さく、6歳の子供がやっと乗れる程度でしたが、黒い煙を吹きながら走りました。これが日本で初めて汽車が走った日になったといいます。
きちんとした格好の役人たちが、このSL汽車の屋根にまたがる姿はとても滑稽だった
役人たちは屋根の縁に必死にしがみつき、あまりの面白さに歯をむき出して笑ったと、ペリーが書き残しています。
もう1つが電信機です。交渉した応接所から1キロメートル離れた地点と電線で結び、実際にデモンストレーションが行われました。役人たちは興味津々で、何度もやってくれと催促したそうです。
汽車も電信機も、日本で実用化されたのは明治維新の後でした。ただ、その原点はこのときのデモンストレーションにあったと深井さんは指摘します。明治維新後の急速な科学技術の受容の背後に、こうした原体験があったかもしれない、というのです。
ほかにもペリーは、ライフル銃、ピストル、救命艇、柱時計、ストーブ、望遠鏡、アメリカに関する書籍、シャンパン、ウイスキー、ビール、香水、鋤や鍬などの農具を持ち込んでいました。
戦争ではなく、人と人が交わった横浜村
さらに深井さんは、庶民レベルの交流にも触れます。ペリー艦隊の乗組員は、ちょくちょく横浜に上陸して散策していました。海の上のストレスを、陸で発散したかったのです。
乗組員は村に入り、お茶やタバコをくれと庶民に頼みます。金がないので、自分の服のボタンを外して渡すこともありました。和服にボタンを使わない日本の庶民は、それを珍しがったそうです。
背丈も肌の色も顔つきも違う外国人を一目見ようと、大勢が集まって混乱した記録も残っています。
樋口さんは、この光景を第一次世界大戦の前線での兵士同士の交流になぞらえます。
第一次世界大戦で前線で戦ってる兵士同士がガムいるかみたいな。チョコレートやるぜ、ヘイみたいな
深井さんも、日米交渉は政治と政治のぶつかり合いに注目されがちだが、その前に人と人が接する場面が生まれる、と応じます。
下田と函館、そして力士による肉体マウント
第二ラウンドで、ペリーは新しい港を開くよう改めて主張します。具体的には浦賀、神奈川、松前、那覇を要求しました。
幕府はここで譲歩します。深井さんは、この譲歩ラインは事前に定めていたものだろうと推測します。数カ所は難しいが、長崎が不便なら、もう1カ所、下田を候補にしてはどうか、という提案でした。
ペリーはさらに粘り、もう1港を求めます。押し引きの末、幕府はもう1つの港を検討する時間をくれと応じました。
下田の開港は幕府にとって大きな決断でした。首脳陣ではまだ合意が取れておらず、激しい議論が起きます。攘夷論者の徳川斉昭徳川斉昭 ── 水戸藩主。強い攘夷論者として知られ、開国方針に反対する立場を取った人物とされる。は強く反対しました。
最終的には阿部正弘阿部正弘 ── 当時の老中首座。ペリー来航期の幕政をまとめ、日米和親条約締結に向けて調整した人物とされる。がまとめ上げ、下田の開港が決まります。同時に、北海道の函館も案として提示することが決定されました。
第三回目の交渉で、幕府は函館も提示します。ペリーは函館がよい港だと知っており、すぐに了承しました。下田については、調査船を派遣して確認する許可を得ます。
ここで幕府側も、贈答品でお返しをします。硯箱、机、書棚、火鉢、絹織物、紙、刀、鉄砲、傘、人形、おちょこなど。乗組員全員への贈り物として、米200俵と鶏300羽も用意されました。
さらに幕府は、アメリカに肉体でマウントを取ろうとします。力士を召喚し、米俵を運ばせたのです。米俵1俵は約60キロで、力士は1人で2俵を運べたといいます。
米俵の運搬後には土俵まで作り、取り組みが行われました。ペリーの記録には、その驚きが残っています。
まるで巨大な像のように海岸を踏みつけながら歩いてくる巨漢の一団に釘付けになった
ある力士の腕を触って筋肉の硬さに驚いた一方、その巨体は必ずしも好評ではなかったとも記しています。深井さんは、これはペリーの言葉だと断ったうえで紹介します。
力士たちはいずれも肉がつきすぎて脂肪の塊にしか見えなかった
条約締結の成功がかかった、ペリーのプロ接待
港交渉の見通しがついた頃、今度はペリーが接待に出ます。幕府側の役人を自分たちの船に招き、晩餐会を開いたのです。ダメ押しのクロージングです。
招かれたのは交渉チームなど総勢70人ほど。日本側は、黒船の秘密を見る絶好の機会とばかりに、絵を描く人や隠密まで忍ばせていました。
一行はまず軍事調練を見学し、大砲の撃ち方や蒸気機関を見せてもらいます。目の前の蒸気機関に強い刺激を受け、幕府側はしきりに記録を取りました。
晩餐会では、船で飼育していた牛・羊・鶏の肉料理に、魚、野菜、果物、特上のワインが添えられました。シャンパン、ワイン、シェリー、ウイスキーが並び、専属シェフの料理はどれも好評でした。
幕府側の役人はコースの順番もお構いなしに、魚も鶏肉もスープもシロップも腹に詰め込んだといいます。中には鶏の丸焼きを1羽分、袖の中に入れて持ち帰った者もいたそうです。
この盛り上がりは偶然ではありませんでした。ペリーが乗組員に発破をかけていたのです。
条約の締結の成功がこの接待にかかってる
役人には何度も乾杯が繰り返され、浴びるように酒が振る舞われました。松崎満太郎松崎満太郎 ── 交渉に加わっていたとされる幕府側の役人。晩餐会での逸話として名が残る。という役人はすっかり酔い、ペリーの首に手を回して抱擁しようとしたといいます。
日本とアメリカは心一つだという風に日本語で繰り返して
ペリーが嫌がるのではと気遣う部下に対し、ペリーはこう答えたと伝わります。深井さんは、これをプロの接待だと評します。
さらに音楽隊の演奏やダンスもあり、扇子に詩や言葉を書いて交換し合ったといいます。深井さんは、バチバチにやり合う中でも、こうしたコミュニケーションが深層の意思決定に効くのではないか、と語ります。
下田了承、そして日米和親条約の誕生
第四回目の交渉です。ペリーは下田に調査船を派遣し、その結果を受けて下田を了承しました。これで函館と下田の2つの港が、アメリカ船のために開かれることが合意されます。
こうして結ばれたのが日米和親条約日米和親条約 ── 1854年に締結された、日本が初めて結んだ近代的な条約とされるもの。下田と函館の開港などを定めた。でした。日本が初めて結んだ近代的な条約です。深井さんは、その中身をこう整理します。
- 下田と函館の開港
- 石炭・薪・水・食料および足りないものの供給
- 遭難したアメリカ船の乗組員の待遇
- 最恵国待遇
このうち最恵国待遇最恵国待遇 ── ある国に与えた最も有利な条件を、条約相手国にも自動的に適用する取り決め。通常は双方向で結ばれることが多い。は、日本側にとって逆に不平等な形になったと深井さんは指摘します。
本来なら、アメリカも日本を最恵国として扱うべきでした。しかし条約は片務的で、アメリカが他国とより良い条約を結んでも、日本にそのメリットは自動的に及ばない内容だったのです。
樋口さんが理由を尋ねると、深井さんは、そこはよくわかっていないと率直に答えます。日本側がこの点に配慮した様子は、記録上どうもなかったといいます。
日本側の交渉チームがこれに対して配慮した様子が、なんかどうもなかったみたい
日本にとってのボーナスだったのか、単にどうでもよかったのか、諸説あって想像するしかないと深井さんは語ります。もう1つ、アメリカの領事が下田に駐在することも定められました。
不平等だが、押さえどころを押さえた条約
これで本丸の交渉は終了です。琉球、日本、中国を回り、還暦間近での大仕事でした。樋口さんは、自分たちが習った「不平等条約」という印象と、実際の内容の差に驚きます。
幕府が出した条件はある程度通っており、双方が押さえどころを押さえた条約になっていた、というのがこの回の見立てです。
なんかこう押さえるとこを押さえてるんですよ、お互い
深井さんは、戦争がなかったことが大きいと語ります。仮に交渉が決裂して戦争になれば、武力の差から幕府は高い確率で負けたはずです。
そして戦争で負けた後の条約交渉は、戦争を経ない交渉よりも不利な条件に着地します。戦争を回避できたことが、より不平等な条約を避けた理由だと深井さんは説明します。
ここで吉田松陰、そして次回へ
条約締結後、ペリーは横浜村に上陸して散歩を楽しみます。春の季節を満喫し、村人たちも親しみを持って接したそうです。村のリーダーの家を訪れ、茶菓子でもてなされたといいます。
その後、ペリーは自分の目で下田の港を確認するため、江戸湾を離れます。離れる前には、船員に江戸の実物を見せたいと、江戸の街が見えるところまで船を近づけました。
この日は4月10日で、ペリー60歳の誕生日でした。ただし、ペリーの日記に誕生日の記載は何もなかったそうです。
そして下田で、ペリー来航によって人生を変えられた人物が現れます。吉田松陰吉田松陰 ── 幕末の思想家・教育者。密航を企てて失敗し、後に松下村塾で多くの志士を育てた人物。です。松陰はポータハン号に乗り込み、アメリカ行きを望みました。
おいおいおい、もう終わったかと思ったわ。いきなり来たよ
条約締結直後のデリケートな時期に、ペリーは面倒を抱えたくなかったのでしょう。アメリカの法では無罪でも日本の法では犯罪だと理解しており、松陰を引き取り願う形になりました。
この事件の後、松陰は牢獄に入れられ、実家での謹慎中に松下村塾を引き受けます。ここから高杉晋作らを育てる流れにつながっていきます。
ペリーはその後、函館でも交渉し、下田に戻ってオプション条項を詰めて調印しました。約4か月の日本滞在を終え、琉球と条約を結んでから帰国します。
深井さんは最後に、ペリーの手腕を評価します。海図も整備されておらずGPSもない時代に、大艦隊を率いて未知の地に赴き、交渉して条約を結び、クリティカルな失敗をせずに帰ってきたからです。
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まとめ
武力を背景に迫るペリーと、事実で冷静に反論する林復斎。通商は撤回され、料理・汽車・力士・宴といった文化のマウント合戦を挟みながら、下田・函館の開港を柱とする日米和親条約が結ばれました。戦争を回避したことが、より不利な条約を避ける結果につながったと語られます。
- 長期滞在は補給できない艦隊にとってリスクで、時間は日本側に有利に働いた
- 林復斎は打払令時代を持ち出す脅しを事実で返し、通商をペリーに撤回させた
- 港をめぐる論点は、太平洋航路のための新規開港をペリーがこだわり膠着した
- 汽車・電信機のデモや力士、晩餐会など、交渉の合間に文化の見せ合いと交流が生まれた
- 日米和親条約は片務的な最恵国待遇を含みつつ、戦争回避によって過度な不平等を避けた条約となった




