47歳の劉備に孔明が告げた「まず社長になれ」とは?
この回のテーマは、諸葛孔明が劉備に示した「天下三分の計」です。前回扱った三顧の礼 ── 劉備が若い孔明を迎えるために、その住まいを3度訪ねたとされる故事。目上の人が礼を尽くして人材を招くことのたとえにもなっていますの頃、劉備たちが孔明を訪ねたタイミングで、孔明から劉備に出された提案だと深井さんは説明します。
深井さんによると、劉備には志がありながら、なかなか実績が伴わない状態が47歳まで続いていました。楊さんは、当時の47歳は今でいえば70歳ぐらいの感覚だと補足します。
引退してもいいよ。もう夢いいんじゃないの?みたいな。で言ってもおかしくない年齢なんですよ。
それでも夢を諦めきれない劉備は、孔明に「自分はどうしたらいいのか」と相談しに行きます。孔明の答えは、劉備にも国を獲る方法はあるが、その前にまず自分の国を作りなさい、というものでした。
要は創業しろ、まず社長になれって言ってるんですよ。
深井さんは、それまでの劉備をサラリーマンにたとえます。強い誰かの下について、その勢いやリソースを借りながら、漢帝国を復活させるという夢を叶えようとしてきた劉備にとって、自分で一国一城の主になるという発想は衝撃だったといいます。
あ、自分で創業するってできるんやみたいな。
楊さんは、この提案の難しさを現代の企業にたとえています。
GoogleとAmazonの中にもう一個作って戦うっていう戦略だから、これ(天下三分の計は)。
劉備がそこまで考えられなかった理由について、深井さんは周囲の環境を挙げます。劉備の周りにいたのは、目の前の戦いに勝つことに喜びを感じる武力系の男たちばかりで、先を見て戦略を形にできる人材も、助言してくれる人もいませんでした。戦略を描ける人材がいないことが、劉備集団の構造的なネックだったと深井さんは見ています。
三国が互いに牽制し合う状態をどう作るのか
楊さんは、天下三分の計とは天下を3つに分けること、つまり三国志の時代を作るという提案であり、それが実現したのが三国志だと説明します。当時はまだ多くの勢力があり、曹操や孫権が戦いながら勢力が絞られていく途中だったといいます。
深井さんによると、天下三分の計には「孫権と結んで曹操に対抗せよ」という戦略が含まれていました。劉備がこの土地で立てば、孫権は曹操より劉備と組むほうにメリットを感じるはずだ、というように、人間関係やポジショニング、各国の思惑を総合して、どこで何をすべきかが具体的に示されていたといいます。
楊さんは、この分析の文章が今も残っているので、興味のある人にはぜひ読んでほしいと話します。中身は、地政学的な優位性や経済力、そして劉備がどの場所で立てば誰がどう反応し、結果として三国時代に突入するのか、という予測でした。
樋口さんが「それは予想ですよね」と尋ねると、楊さんは「予想だけど合ってた」と答えます。劉備が今の領主からギリギリ奪える益州 ── 現在の四川省周辺にあたる地域。山に囲まれた盆地で、のちに劉備が建てた蜀の本拠地になりましたを取れば、その土地と経済力を得られ、他の勢力も攻めてくるコストを払えないため、力を蓄える時間も確保できるという読みでした。
(益州の劉備は)弱いけど誰も攻めてこんよ。
楊さんは、三国時代の国力差を数字で示します。魏・呉・蜀の比はおおよそ7対3対1で、蜀は魏の7分の1ほどの人口や軍隊しか持っていませんでした。
それでも魏が蜀を攻めなかった理由として、楊さんは2つを挙げます。蜀が非常に攻めづらい場所にあったこと、そして魏が蜀を攻めている間に孫権が攻めてくることです。1つの国が別の国を攻めると、残る国に背後を突かれるので動きづらい、というのが三国という状態の意味だといいます。
深井さんは、この戦略を大戦略と中戦略に分けて整理します。中戦略としては、どこへでも攻めていける荊州 ── 長江中流域にあたる地域。中国の南北と東西をつなぐ交通の要所で、三国の争奪の的になりましたを押さえることを「オセロの角を取ったのと一緒」とたとえています。大戦略の流れは次のとおりです。
創業する
劉備がまず自分の国を持つ
三国の状態を作る
互いに牽制し合う構図を生み出す
曹操を滅ぼす
孫権と連携して曹操に当たる
孫権を滅ぼす
最後に孫権を倒す
楊さんによると、孔明は各地方の領主が民衆からどれだけ人望を得ているかまで分析し、人望の薄いところを狙って国を横取りせよと劉備に示しました。樋口さんは当初、ゼロから人を集めて国を作る話だと思っていたと話し、楊さんは「今ある領主の土地を奪って皇帝を名乗れということ」だと応じます。
三顧の礼から14年後、蜀の建国へ
天下三分の計は実際に成功します。深井さんによると、孔明は三顧の礼から14年後に劉備を皇帝の座につかせ、蜀を建国させました。
ただし、劉備は建国から2年ほどで亡くなります。深井さんは、劉備にとって本当に人生ギリギリのところで咲かせた最後の一花だったと話します。楊さんも、劉備は有言実行して、そこで人生を終えたと語ります。
深井さんは、孔明がいなければ蜀という国は絶対になかったと断言します。楊さんも、三国時代自体が訪れず、曹操の魏王朝がそのまま中国を統一していたかもしれないと付け加えます。
筋肉系の武将たちを、孔明はどう動かしたのか
深井さんは、孔明が劉備集団に入ったことで何が変わったのかに話を進めます。孔明は勉強のできるエリートで、実行力もあり、戦略も立てられる人物でした。
一方で深井さんが面白いと話すのは、孔明が劉備の下にいた筋肉系の男たちとも十分にコミュニケーションできていた点です。育った環境や価値観が違う人たちを動かし、戦力にしていく力は、今の会社でも大事な能力だと深井さんは言います。
何でお前らできねえんだよ、全然ダメだなとかじゃなくて、考えたやつ(戦略)を実現するところまで組織形成させていくところ(がすごい)。
楊さんと深井さんは、たとえば張飛 ── 劉備の義兄弟とされる豪傑。武勇に優れた一方、短気で荒っぽい人物として三国志の物語に描かれますなら、地政学的な優位性や経済力の話をされても全くわからなかっただろうと冗談まじりに語ります。外から来たばかりの頭のいい人間に言われて動くわけがない、という反発です。
頭いいことに価値なんて見出してないから。みんながですよ。
楊さんによると、大企業である曹操の陣営には、人事担当や経済担当など担当ごとに優秀な人材が大勢いました。しかし蜀にはそうした人材が1人もおらず、孔明が武力以外をすべて担当していきます。
大企業を選ばなかった孔明の判断基準とは
深井さんは、孔明がなぜ大企業にあたる曹操や孫権の陣営に行かなかったのかを考えます。孔明の友人たちはそちらに仕官し、孔明自身にも行ける実力がありましたが、大企業では駒になるだけかもしれない、と考えた可能性があるといいます。
実際、曹操のもとに行った孔明の同期の友人たちは、すでに優秀な人材が大勢いるため、ある程度のところで出世が止まっていたと深井さんは説明します。それに対して孔明は、最弱の蜀にいながら国のトップになり、国作りのすべてをデザインし、実行していました。
楊さんは、孔明が蜀を簡単に乗っ取れる立場にありながら、劉備の息子を立て続けた点にも注目します。孔明が尊敬する人物に岳飛 ── 南宋の武将。国を守るために戦い、忠義の人として中国で広く尊敬されています。番組ではキングダム編で触れられましたがいて、岳飛も国を乗っ取れたのに乗っ取らなかった人物だと楊さんは話します。
楊さんは、そうした孔明を実際に「フルリリース」させた劉備もすごいと話します。孔明が入った当初は周囲から反発があったものの、劉備が「俺がこいつを信頼してるから黙れ、孔明の言うことは聞け」と抑えたといいます。孔明の才能を活かせる場を劉備が用意したことが、天下三分の計の実現を支えていたと考えられます。
次回は、劉備の死後に蜀と孔明がどうなっていくのかが掘り下げられる予定です。
まとめ
天下三分の計は、47歳まで実績を出せなかった劉備に「まず創業しろ」と迫り、緻密な情勢分析で三国の牽制状態を作り出す戦略でした。孔明はその戦略を描くだけでなく、武力系の仲間を動かして実行し、三顧の礼から14年後に蜀の建国を実現させています。
- 天下三分の計の第一歩は、劉備が他人の下を離れて自分の国を持つことでした
- 魏・呉・蜀が7対3対1の国力でも、互いの牽制で蜀は攻められにくい構図になっていました
- 孔明は戦略の立案だけでなく、価値観の違う武将たちを動かして実行まで担いました
- 孔明が大企業ではなく劉備を選んだのは、自分の力を出し切れる環境を求めたためだと番組では見ています
- 劉備も反発を抑えて孔明を信頼し、その才能を発揮させました


