関羽と張飛はなぜ相次いで命を落としたのか
諸葛孔明編5の主題は、劉備が亡くなった後に諸葛孔明が蜀という国でどんな働きをしたかです。楊さんは、孔明の本当の真価が輝くのは劉備の死後だと語ります。
まずおさらいとして、孔明は三顧の礼から14年で劉備を皇帝の座につかせ、蜀という国を作りました。劉備が皇帝になったのは61歳のときで、孔明は今でいう総理大臣にあたる丞相 ── 古代中国で皇帝を補佐し、政治全般を取りまとめた最高位の官職。孔明は蜀でこの地位に就きましたになります。
しかし蜀の建国直後から、劉備の義兄弟である関羽と張飛をめぐって事件が続きます。同じ釜の飯を食い、同じベッドで寝ていたほど仲の良い三兄弟のうち、まず関羽が曹操と孫権に謀殺されてしまいます。
当時、孫権と劉備は同盟関係にありましたが、いざこざで関係は危うくなっていました。孫権陣営では劉備との協調を唱えていた魯粛 ── 孫権に仕えた呉の重臣。劉備と手を組んで曹操に対抗する路線を支えた人物として知られますが亡くなり、劉備を滅ぼすべきだと考える呂蒙が台頭したことで、呉の戦略が変わったと楊さんは説明します。
男子三日会わざればっていう、語源になった人なんですけど。その人(呂蒙)が政治の舞台に上がったことによって、孫権の国としての戦略が変わっていくんですよ。
関羽は下の者には優しい一方で、プライドが高く、エリートや官僚に盾突いていました。孔明のそばにいたころはうまくマネジメントされていましたが、劉備の最初の根拠地である荊州を任されて孔明と離れたことで、苦手な外交でミスを重ねていたといいます。
張飛は逆に、目上の人には敬意を払うものの、部下には厳しい人物でした。少しの失敗で鞭打ちの刑を科し、劉備から注意されても聞き入れなかったといいます。
お前そんなに厳しいことをやった後に、そういう人たちを身の回りに置いておくのって危険なんじゃねえのと忠告もされたのに、いや全然いいよ、だって俺フォローしてるしみたいな。
結局、張飛は部下に暗殺されて首を切られ、その首は呉に持ち去られてしまいました。
劉備の報復戦が招いた「創業者全滅」
関羽と張飛を失った劉備は激怒し、軍を起こして孫権を攻めようとします。楊さんは、この出兵は戦略的にまったく意味がなく、自殺行為だったと指摘します。
蜀のマニフェストは、魏を滅ぼして漢の皇室を復活させることでした。呉はその目的とは直接関係がなく、本来はずっと同盟を結んでおくべき相手です。孔明の戦略もそうなっていましたが、劉備はそれを破ってしまいました。
孔明はそこでもやっぱり止められなかったし、その軍が一夜にして全部焼かれてしまうんですよ。
劉備の報復戦は惨敗に終わり、国の予算をほとんど注ぎ込んだ数万の軍が一夜で失われました。その約2年後に劉備も病死し、蜀は創業者を全員失うことになります。
ここまでの経緯は、一つの判断ミスが次の崩壊を呼ぶ連鎖として整理できます。
呉の方針転換
劉備との協調派の魯粛が亡くなり、劉備打倒派の呂蒙が台頭する
関羽・張飛の死
関羽は曹操と孫権に謀殺され、張飛は部下に暗殺される
劉備の報復戦
戦略的に意味のない呉への出兵で、数万の軍を一夜で失う
劉備の病死
約2年後に劉備も亡くなり、創業者が全員いなくなる
楊さんはこの状況を、創業者がみんな亡くなり、執行役員が一人だけ残された弱小の会社にたとえます。その一人が孔明でした。
よそ者政権の蜀は、なぜ滅亡寸前だったのか
楊さんによれば、三國志の物語ではあまり語られませんが、孔明たちの政権は外から来て蜀を乗っ取った「外来政権」でした。もともと蜀にいた人々には歓迎する人もいましたが、「よそ者が」と反発する人のほうが圧倒的に多かったといいます。
創業者一族を失った蜀には不安が渦巻き、実際に内乱も起きていました。さらに曹操側からは、投降を勧める使者まで送られてきたと楊さんは語ります。
国もこんなちっちゃいし、お前ぐらいの優秀な人だったらいくらでも生きる道あるじゃないか。もしかしたらそんなことも言ってたかもしれない。
それでも孔明は踏みとどまり、あらゆる課題に一人で当たっていきます。樋口さんが「Mやん」と突っ込むと、楊さんは孔明が実際に過労死していると返します。
2代目の劉禅は劉備よりさらに出来が悪く、優秀な人材は不足し、金もなく、軍も劉備の出兵でほとんど失われていました。いつ攻め滅ぼされたり、M&Aされたりしてもおかしくない状況です。
孔明が最初に打った手は呉との和解
孔明は全生命をかけて蜀の延命に取り組みました。楊さんは、孔明が状況を冷静に分析し、優先順位を立てて一つずつ実行していったと説明します。
孔明が最初に手をつけたのは外交です。魏と呉の2国が両方とも敵という状況には出口がないため、関羽の外交下手でこじれた呉との関係を、孔明自らが表に出て修復しました。
今魏という大きな敵があるから、とりあえず今はちょっと仲良くしようよというふうに、まずここで国交を回復させます。
呉との国交を回復した後、孔明は内政にメスを入れます。蜀の中には、もともといた勢力や地元のエリートなど、さまざまな勢力がありました。孔明は各勢力と自分たちの関係をどう組み立てれば安定につながるかを細かく分析していきます。
当時、益州で学問を修めたエリートの社会的地位は低いままでした。人材が足りない劉備政権にとって、それは好ましくない状態でした。
そこで孔明は、益州のエリートのコミュニティ作りに力を注ぎます。彼らが取り組んでいた学問に予算をつけ、その中から優秀な人を抜擢して政権に取り込んでいきました。樋口さんは「もともとあるリソースを見つけていった」と受け止めています。
泣いて馬謖を斬る、法治を優先した理由
外来政権である蜀は、支持がどうしても揺らぎがちでした。孔明はそれを確かなものにするため、法律ですべてを公平に決める法治を徹底させます。
その象徴が「泣いて馬謖を斬る」の故事です。孔明がかわいがっていた若い武将の馬謖が、命令を聞かずに戦争で負けたとき、孔明は人材不足の中でも彼を処刑しました。
人材不足だから。本当はね、困るんですよ、処刑すると。けど、その法律というか、ルールを徹底するところの方を彼は優先するんですけど。
深井さんは、馬謖の処刑を国家づくりの根幹としての判断だと捉え、現代企業の採用判断になぞらえます。
自分の自社の文化を最も大切にするために、すごく優秀だけど文化にマッチしない人は採用しないみたいなことをするっていうような感じの決断の古代バージョンみたいなことをやってる感じですね。
楊さんは、同じ失敗でも身内だけが咎められない人事を見れば、社員や地元の人々は不信を抱くと補足します。孔明の政権は、ルールを例外なく適用することで腐敗を排除したといえます。
ここまでの孔明の再建策は、優先順位をつけた手順として整理できます。
劉備より人気だった孔明、「怖いが公平」な政治
楊さんによれば、孔明は今も中国や日本で人気があり、死後の人気は当時から劉備を圧倒していました。蜀の地元の人々は、孔明を祀る廟を建てたいと何度も陳情したといいます。
政権側は、劉備を差し置いて部下の孔明を祀るのはおかしいとして止めていましたが、最終的には熱意に押されて祀り始めます。民間の人々が勝手に廟を作るほどの人気だったそうです。深井さんは「劉備かわいそう」とこぼし、楊さんは「普通のおっさんだから」と返しています。
深井さんは、孔明の経済政策が民の生活を豊かにしたことも人気の理由ではないかと推測します。楊さんは、孔明の政治について残された言葉を紹介します。
楊さんは、孔明が綺麗な政治で支持率を大きく上げたと評価します。深井さんが「今の政治家も聞いた方がいい」と振ると、楊さんは中国籍で選挙権がないので、そこまでは言えないと笑いを交えて返しました。
まとめ
劉備・関羽・張飛を相次いで失い、外来政権として支持も弱かった蜀を、諸葛孔明は優先順位をつけた施策で立て直しました。楊さんは、その姿にこそ孔明の真価があると語っています。
- 関羽・張飛の死と劉備の無謀な報復戦で、蜀は創業者をすべて失った
- 蜀は地元の支持が弱い外来政権で、空中分解一歩手前のベンチャーのような状況だった
- 孔明はまず呉との国交を回復し、次に益州のエリートを育てて人材を取り込んだ
- 泣いて馬謖を斬るに象徴される法治の徹底で、腐敗を排除し支持を高めた
- 「怖いが公平」な政治により、孔明の死後の人気は劉備を上回った


