劉備玄徳は「自称王族」の何でもないおじさん?
諸葛孔明編の3回目は、孔明を語るうえで欠かせない主君、劉備玄徳の人物像から始まります。深井さんによれば、劉備は「何でもないおっさん」でした。
単に旅、もう靴を編んでた、そこら辺のあまり出自のよろしくないおじさんで。
劉備の苗字「劉」は、漢帝国を築いた劉邦 ── 前漢の初代皇帝。農民出身から身を起こし、項羽を破って紀元前202年に漢を建国しましたと同じです。劉備はこれを根拠に、自分は漢帝国の王族の末裔だと自称していました。
深井さんは、劉備にとって王族の末裔という自称は「なけなしのブランディング」だったと説明します。金も身分も名家の出自もない劉備が、劉という苗字をネタに人を集め、そこに集まったのが関羽と張飛でした。
それ聞いたら関羽と張飛めっちゃバカじゃない?
樋口さんのツッコミに対して深井さんは、当時の人々は漢帝国が永遠に続くと考えていたため、その末裔を名乗ることには期待を集める力があったと答えています。
曹操・孫権と比べた劉備は「サラリーマン社長」
劉備の性格は兄貴肌、親分肌だったといいます。学はなくても、ついてきた男たちの面倒をよく見ていました。
一方で深井さんは、劉備のもとには筋肉系の人しか集まらず、それが曹操や孫権に比べて国づくりが遅れた原因になったと指摘します。
今で例えると、もうサラリーマン社長なんですよ。サラリーマン社長。もういいように使われてるサラリーマン社長。
曹操と孫権は、家柄、知力、戦略、お金、軍隊、人望、教養のすべてで劉備に勝っていたと深井さんは話します。楊さんも、特に曹操は優秀だったと補足しています。
アマゾンとグーグルがすでにマーケットを取った状態に対して、劉備がスタートアップに、もう立ち上げる未然に、まだサラリーマンの状態で、俺ちょっとマーケット取りてえみたいな、全くリアリティがないんですよね。
で、わらじ持ってるんですよ。これをどうやってアマゾンで。
家柄があり、知力・戦略・お金・軍隊・人望・教養を備え、すでに成功していた
家柄も金も身分もなく、学もない。人望と劉という苗字だけが頼りだった
負け続けても劉備の軍が大きくなった理由
劉備のもとに集まるのは目先の戦闘力が高い人ばかりでした。深井さんは、組織を強くするには戦略やマネジメント、交渉ができる人材が必要なのに、劉備陣営にはそれがなかったと説明します。
その結果、劉備は曹操など強い勢力の下につき、傭兵隊長として使い回されながら逃げ回ることになります。この状態は劉備が47歳になるまで続いたといいます。
面白いのは劉備って負け続けてるんですけど、軍隊ちょっとずつずっと大きくなり続けてるんですよ。
楊さんと深井さんは、劉備の軍が負けながらも大きくなった理由を人望に求めています。劉備は、エリートではない男たちからすごく好かれるキャラクターでした。
同じ腕っぷしの強さでも、孫権は事情が違います。孫権は親が後漢王朝で役職に就いた名家で、父と兄が築いた勢力を引き継いでいました。
樋口さんに人が集まった理由を問われた深井さんは、人望に加えて、劉という苗字と見た目を挙げます。当時の見た目は宗教的なレベルで重視され、劉邦も「龍顔」だったと言われるほどでした。
戦争孤児だった諸葛孔明の生い立ち
劉備よりも有望な勢力がたくさんある中で、諸葛亮が加わってから劉備は一気に台頭します。では、なぜ優秀な孔明は劉備を選んだのか。深井さんはまず孔明の生い立ちから説明します。
諸葛亮ってなかなか彼がそもそもどういう人なのかっていうと、彼って孤児だったんですよ。戦争孤児だったんですよね。
孔明は今の山東省で生まれ、十数歳の頃に親を亡くし、おじに伴われて流浪の旅に出ました。幼い孔明の住む近くでは大虐殺が起きており、それを起こしたのは曹操でした。
深井さんは、大企業のような曹操陣営に孔明が行かなかった理由の一つに、この経験があったのではないかと推測しています。
「臥龍」と呼ばれた孔明はなぜ仕官しなかったのか
流浪の末に荊州に落ち着いた孔明は、学問に励んで高く評価されるようになります。深井さんは、孔明は頭がキレッキレで、プライドも高かったと話します。
孔明が尊敬していたのは、数百年前の軍師や、知略を兼ね備えた将軍でした。孔明は、そうした人たちのようになるという志を実際に持っていたといいます。
荊州で孔明は、世に伏している龍という意味の臥龍 ── まだ世に出ていない傑出した人物のたとえ。後に孔明の代名詞として知られるあだ名ですと呼ばれました。周囲から、将来すごいことになる人物だと見られていたのです。
同じように学ぶ優秀な友人たちは、孫権や曹操のもとへ行こうとキャリアを考えていました。ところが孔明は、行けるのに行かず、まだ考えると言って勉強を続けます。
大学卒業したのに。
俺はちょっと違うと考えていた孔明が出会ったのが劉備であり、その出会いとして有名なのが三顧の礼 ── 劉備が孔明の庵を3度訪ね、ようやく迎え入れたという故事。目上の人が礼を尽くして人材を招くことのたとえになりましたです。劉備は噂を聞いて会いに行き、2回断られ、3回目でようやく承諾を得ました。
俺の友達も好きな女には3回までかかっていいって言ってます。
当時の人材獲得はなぜ生死を分けたのか
劉備が3度も足を運んだ背景について、深井さんは当時の人材の重要さは今とは比べものにならなかったと説明します。
当時の人材の重要さって今で今の比じゃないもんね。今の比じゃない。だからもう生死がかかってるんで。
当時の人材とは、勉強できる環境にあった地方のエリートたちでした。彼らはすでに地元で人脈や財力を持っていました。
人材を陣営に引き入れる
地方で人脈や財力を持つエリートが加わる
地方への影響力
その人物が治める地方をある程度治められる
資源の活用
人脈やお金、投資も使えるようになる
勢力の存続
誰が来てくれるかで、生きるか死ぬかが変わる
樋口さんがまとめたように、人材の価値は本人の能力だけでなく、そこに付いてくるさまざまな付加価値にもありました。
三顧の礼の前にあった、孔明の「面接」とは?
深井さんは、三顧の礼の前に劉備と孔明が実は出会っていたという説と記録も紹介します。当時の劉備は、事情があって孔明が住む荊州に逃げてきて、そこに居座っていました。
うだつは上がらないものの、漢帝国の復活を掲げて頑張っているおじさんとして、劉備の名はエリートの間で知られていました。孔明は、乱れた世でまだ高潔な志を抱いているのはどんな人物かと興味を持ち、劉備に会いに行きます。
ほかの客が帰っても孔明だけが残っていました。劉備は若者がいる程度に思い、手慰みに牛か何かの尻尾で編み物を始めます。草履を編んでいた頃の癖です。
それを初めて初対面の孔明が見て、劉備さ、劉備さんさ、それがあんたの夢なの?ってぶっ込むんですよ。
二人の年齢差は20歳ほどで、孔明は社会経験ゼロのエリートでした。劉備は少しキレますが、孔明はさらに、曹操や荊州の領主とあなたのどちらが優秀かと問い詰め、そんなことをしている場合ではないだろうと迫ります。
深井さんは、ここに劉備のすごさがあると話します。普通なら帰れと言ってもいい場面で、劉備はこの若者には何かちゃんとした話があるのではないかと考え、話を聞いたのです。
楊さんによれば、孔明が残した書物には人の力量を見極める方法が記されていて、その中に「わざと怒らせる」という項目があります。孔明は劉備の反応を見ていたのだろうと楊さんは推測しています。
- 善悪の判断を求める
- 言葉でやり込める
- 酒を飲ませる
- 利益で誘う
楊さんが紹介した見極め方は7つあり、上の項目も含まれています。深井さんは、この初対面を孔明なりの面接だったと表現しました。
孔明なりのそこの面接をしたんですよ。こいつは俺がつくのに値するかどうかという。
三顧の礼から天下三分の計へ
初対面の後日、劉備はぜひ孔明に陣営に入ってほしいと考え、3回訪ねます。これが三顧の礼につながります。
楊さんは、この三顧の礼の場で、孔明が劉備に「天下三分の計」という戦略を提案したと予告します。その詳細は次回に語られます。
樋口さんは、劉備という人物がわかると孔明も見えてくると振り返り、歴史は一人を理解するために周りの人物を知ることが面白いと締めくくりました。
まとめ
劉備は家柄も知略もない自称王族でしたが、男たちを惹きつける人望と、若者の言葉を聞く謙虚さを持っていました。戦争孤児として育った孔明は、そんな劉備を試したうえで、仕えるに値する人物として選んでいきます。
- 劉備は靴を編んでいた出自の低い人物で、劉という苗字を頼りに漢王族の末裔を名乗っていた
- 曹操・孫権にあらゆる面で劣りながら、人望によって劉備の軍は少しずつ大きくなった
- 孔明は戦争孤児として流浪し、曹操による虐殺も身近で起きていた
- 三顧の礼の前の初対面で、孔明はわざと劉備を怒らせ、その器を見極めたとみられる
- 次回は、三顧の礼で孔明が示した天下三分の計が語られる


