丸腰の民衆十字軍は、なぜすぐ壊滅したのか
第1回十字軍は、まず準備もそこそこに出発した「民衆十字軍」から動き出します。深井さんによると人数には諸説あるものの、3万人以上はいたとみられ、この集団がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに到着します。
コンスタンティノープルは東方教会の本拠地でもあり、ローマ教皇から見ればライバルの拠点です。そこへ、ほとんど武装していない数万人の集団がぞろぞろとやって来ました。
で、ビザンツ側の反応としては、は?みたいな感じなんだよね。
なんならむしろ怖いみたいな。
ビザンツ側は、秩序が乱れることを嫌い、民衆十字軍を早々に船で対岸へ渡らせます。民衆十字軍はそのままムスリムの支配地域に突入し、たちまち壊滅してしまいました。
そりゃそうやけど、(負けるのが)早ない?
深井さんは、老人や女性も含む民衆の集団が、ビザンツ帝国の領土を削り取っていた強いムスリム勢力にかなうはずがなかったと説明します。当時のイスラーム世界は、日本の戦国時代のように各勢力が争っている状態でした。
楊さんは、最初に民衆十字軍と遭遇したムスリムの君主として、セルジューク朝 ── 11世紀に興ったトルコ系のイスラーム王朝。西アジアに勢力を広げ、小アジアでビザンツ帝国の領土を奪っていきましたの若き王クルチ・アルスランクルチアルスランを紹介します。イスラーム側の記録によれば、ムスリムたちは相手が何者なのか皆目見当がつかなかったそうです。
クルチ・アルスランが部下に追跡と監視をさせて調べると、民衆十字軍の多くは非戦闘員で、共通点は赤い布を十字型に切って服に縫い付けていることくらいでした。本人たちが「ムスリムを殺しに来た」と言っていると知ったクルチ・アルスランは、待ち伏せして一気に滅ぼします。
あまりに弱かったため、クルチ・アルスランは民衆十字軍をそれほど問題視しませんでした。ところが、その後に本隊がやって来ます。
「めっちゃ野蛮人来たわ」。ビザンツ帝国は十字軍本隊をどう見たか
十字軍の本隊は、主にフランスやフランドル地方の騎士たちを中心とする、大きく4つの勢力に分かれた軍勢でした。本隊は民衆十字軍から1年ほど遅れてコンスタンティノープルに到着します。
救援を要請したのはビザンツ帝国自身でしたが、到着した本隊に対するビザンツ側の反応は、深井さんによれば「うわぁめっちゃ野蛮人来たわ」というものだったといいます。楊さんは、歴史ある古い都の人々にとって、日本でいう京都のような誇りがあったのかもしれないと補足します。
深井さんは、当時13歳だった皇女アンナ・コムネナ ── ビザンツ皇帝アレクシオス1世の娘。のちに父の治世を描いた歴史書『アレクシアス』を著し、十字軍を迎えた側の視点を伝える重要な史料を残しましたの記録を紹介します。そこには、アドリア海の向こうから「ヘラクレスの柱」、つまりジブラルタル海峡に至るまでの「蛮族のすべての民」が、家族を連れて群れをなしてアジアへ向かってきた、と書かれていました。
アンナ・コムネナの記録にはほかにも、ケルト人気質は激しやすく気まぐれで、富の前に大口を開け、契約を平然と踏みにじる民族だという趣旨の記述があります。深井さんは、ビザンツ側が助けに来た人々を、自分たちの領土を削るイスラーム勢力と同じくらい野蛮だと言っている点を指摘します。
ちょっと待って。もうだって蛮族扱いされてますもんね。
ただし深井さんは、十字軍が「助けに来た」という言い方には語弊があるといいます。十字軍の兵士たちは、前回までに語られたとおり贖罪のために来ていて、ビザンツ帝国を救う感覚はゼロではないにせよ、主な動機ではありませんでした。
削られた小アジアの領土を取り戻すために、援軍として兵を貸してほしい
贖罪のために、異教徒に汚された聖地を浄化しに来た
さらに深井さんによると、十字軍はこの後、ビザンツ帝国と同盟していたイスラーム諸国まで攻撃します。ビザンツ側から見れば、十字軍は事情をわかっていない蛮族が状況をかき回しに来たように映っていました。
ビザンツ側の記録には、十字軍の主力貴族ボヘモンドについて、一族郎党とともに帝都そのものを奪い取る野望を抱いているに「決まっている」とまで書かれています。ビザンツ側は、早くムスリムと戦って帰ってほしい、厄介払いしたいという感覚だったようです。
皇帝アレクシオスはなぜ十字軍に臣従を誓わせたのか
当時のビザンツ皇帝アレクシオスは、十字軍の司令官たちを信頼していませんでした。アレクシオスにとって十字軍を呼んだ目的は領土回復だけで、それが果たされなければ意味がなかったからです。
そこでアレクシオスは、自らをローマ皇帝の直系とする立場から、十字軍の指導者たちに臣従の誓いを立てさせます。トルコ人、つまりムスリムを追い出したら、その土地をビザンツ帝国に返すという約束でした。
で、それ(臣従の誓い)をね、その十字軍側もね、何言ってんのこいつみたいな感じで受け取るんですよ。は?みたいな。俺ら教皇の軍ですけどみたいな。
それでも十字軍は、船がないと渡れない場所を越えるためにビザンツ皇帝の協力を必要としていました。そのため、皇帝を軽蔑しながらも、仕方なく臣従の誓いを約束して先へ進みます。
実際(その)約束破るんすけどね。
十字軍は奪還した土地をビザンツ帝国に返さず、自分たちの国を作ってしまいます。この点は後半の十字軍国家の話につながっていきます。
フルプレートアーマーの騎士団に、ニケーアのムスリムは何を思ったか
ビザンツ側に煙たがられながらも、十字軍本隊はボスポラス海峡を渡り、ムスリムの領域である小アジアへ進みます。最初の目標は、かつてニケーア公会議 ── 325年にローマ皇帝コンスタンティヌスが招集した、キリスト教初の全教会規模の会議。三位一体論の基礎となる信条が定められましたが開かれた古いキリスト教の都市で、当時はトルコ人の拠点になっていたニケーアでした。
楊さんによると、ニケーアは民衆十字軍を滅ぼしたクルチ・アルスランが統治していた都市です。そこへ今度は、大人数のフルプレートアーマーの騎士が急に現れました。
深井さんは、当時のムスリムの世界観を説明します。ムスリムは自分たちこそ世界の中心だと考えていて、権威の象徴であるカリフ ── イスラーム共同体の最高指導者を指す称号。この時代には実権が弱まり、各地の君主が実際の統治を担っていましたのもとで、戦国武将のような実力者たちが争っていました。キリスト教徒といえばビザンツ帝国しか思いつかず、その向こうに文明があるとは考えていなかったといいます。
そのためムスリム側は、十字軍がローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけで聖地奪還に来たとは思っていませんでした。武装もしていない集団が来た1年後に、見たこともない鎧と戦術の軍勢が現れたので、「誰?」という反応になったわけです。
アルスランもそのなんか来てるよっていう報告を受けた時に、あ、また去年みたいな奴らが来たかと思ってたみたい。
クルチ・アルスランは当初、十字軍を脅威と見なしていませんでした。しかし実際に来たのは、本物の騎士と弓の射手で編成された重装備の軍勢で、ニケーアは一度は無血開城します。
その後も十字軍がどんどん進んでくるため、ムスリム側は戦わざるを得なくなります。最初の本格的な戦いはニケーア近くのドリュラエウムドリュリオンで行われた野戦で、十字軍が勝利しました。
軽騎兵で、主な武器は弓
フルプレートアーマーの騎士で、弓があまり効かず、ゆっくり前進してくる
深井さんは、クルチ・アルスランが戦い方もわからないまま、得体の知れない相手に負けて逃げたような状況だったと話します。
マジで宇宙人来たぐらいの感じだよ。
8ヶ月の包囲戦、アンティオキアは内通で落ちた
ニケーアを攻略し野戦に勝った十字軍は、エルサレムを目指して小アジアを南下し、シリアの入り口にあたるアンティオキアに到着します。アンティオキアは城壁に囲まれた非常に堅牢な都市で、落とすのに8ヶ月もかかりました。
深井さんによると、アンティオキアはアレクサンドロス大王の後継者の一人で、セレウコス朝 ── アレクサンドロス大王の死後、その部将セレウコスが興した王朝。シリアを中心に西アジアを支配し、アンティオキアを都としましたシリアを建てた人物が作った古い都市です。この時代にはすでにイスラーム側の支配下にありました。
アンティオキアは戦闘で落ちたのではなく、計略で落とされました。十字軍は内通者を作り、その内通者に城門を開けさせて攻め入ったのです。深井さんは、それほど堅牢な城だったのだと強調します。
当時のイスラーム諸国には、カトリックではないものの、キリスト教徒も普通に暮らしていました。城壁の中にキリスト教徒がいて、外からキリスト教徒が攻めてくる状況で、ムスリム側は内部のキリスト教徒をどう扱うかという問題を抱えます。
この対応について、十字軍側とイスラーム側の記録はまったく違うことを書いています。
総督ヤギ・シヤーンヤギシャーンが裏切りを警戒し、キリスト教徒の青年男子を城外に出したうえで、家族の安全を確約し、包囲軍と同じキャンプで暮らすことを許した
トルコ人が怒りに任せて市中のキリスト教徒を多数殺し、切り落とした首を投石機でフランク人の前に飛ばしてきた
深井さんは、どちらが本当かはわからないとしつつ、十字軍側の記録のほうが出来事から近い時期に書かれていると補足します。陥落の経緯についても、記録の書き方は大きく異なります。
イスラーム側の記録では、甲冑製造責任者のルズビーという人物が買収されて水門を開き、十字軍の騎士を市内に導いたため、城塞都市が瞬時に陥落したとされています。一方、十字軍側の記録では、神が一人のトルコ人の前に3度現れて内応を命じ、ついに決心させたと書かれています。
こういう感覚でお互い見てるよってことを紹介してるってことなんですけど。
イスラーム側はなぜ一枚岩になれなかったのか
楊さんは、アンティオキアの総督が焦って近隣のイスラーム領主2人に救援を求めたエピソードを紹介します。ところが2人とも、罠ではないか、留守中に自分の領地を他の人に取られるのではないかと疑い、なかなか軍を動かせませんでした。
ようやく2人の領主の軍がアンティオキアに到着すると、今度は領主同士が喧嘩を始め、結局どちらも戦わずに帰ってしまったといいます。
グッチャグチャやん。
グダグダなんですよね。だからこういうグダグダがやっぱ初期のその十字軍の時にイスラムのところであちこちで起きてるんですよね。
深井さんは、イスラーム側が団結していれば十字軍には十分勝てた可能性が高いと考えています。守る側は自分の土地で戦える一方、十字軍は長距離を遠征していて物資の確保も大変だったはずだからです。
戦国時代状態
イスラーム諸勢力が互いに争っていた
危機感の不一致
十字軍をどれほど深刻に扱うべきか合意がなく、攻められた都市以外は「ライバルが消えた」程度の感覚
援助の欠如
相互援助をあまりせず、十字軍と手を結んでライバルを倒そうとする君主もいた
各個撃破
都市が一つずつ落とされていった
深井さんは、シンプルな宗教戦争という構図ではなかったと指摘します。十字軍は贖罪の概念で動いていましたが、迎え撃つイスラーム側は、この時点ではまだ宗教戦争をしているつもりがありませんでした。
日本でいうと戦国時代で、織田信長とかさ、武田信玄とかがさ、それぞれ戦ってるところに急になんか中国から全然違う人来て、なんか毛利元就とかが倒されたみたいな。
深井さんのたとえでは、毛利元就が倒されるのは大事件でも、周りは全員ライバルなので、全力で助けに行くわけでもありません。楊さんは、各君主は自分に降りかかった火の粉は払っても、イスラーム全体がキリスト教から脅威を受けているという観念はなかったとまとめます。
互いへの解像度の低さは双方に共通していました。十字軍はトルコ人もアラブ人も区別せず「サラセン人」と呼び、イスラーム側は十字軍を一括して「フランク人」と呼んでいたといいます。
ロンギヌスの槍の発見で、十字軍の熱狂はどう高まったか
アンティオキアを落とした十字軍は少しずつ南へ進みますが、イスラーム側は相変わらず団結できない状態が続きます。そんな中、聖書の舞台に近づいたアンティオキアで、聖なる槍とされるロンギヌスの槍 ── 十字架にかけられたイエスの脇腹を刺したとされる槍。聖遺物として信仰の対象になり、各地で「本物」が伝わってきましたが見つかります。
深井さんは、発見が本当かどうかはわからないとしたうえで、十字軍の人々のテンションが大きく上がったと話します。当時の民衆は聖書を読んではいなかったものの、イエスの伝説に登場する品が目の前にあるという感覚だったのではないか、と深井さんは想像します。
イエスの伝説の何かみたいな。草薙の剣みたいな。マジでそこに目の前にあるみたいな。うわぁみたいな。
手薄だったエルサレムは、なぜ狙われたのか
十字軍はついに聖地エルサレムに到着し、包囲を始めます。当時のエルサレムは一辺1kmほどの正方形に近い街で、全体が城壁に囲まれていました。大砲も飛行機もない時代に、こうした城塞都市を落とすのは非常に困難でした。
十字軍側にも兵力の問題がありました。落とした都市を放っておくとムスリムに奪い返されて背後を脅かされるため、アンティオキアやエデッサ、トリポリなどに兵士を残してきたからです。エルサレムに着いた時の兵力は1万2000人ほどだったといわれています。
一方で、エルサレムを守る側も数百人ほどしかいなかったそうです。楊さんはその理由を、当時の勢力関係から説明します。
当時エルサレムを押さえていたのは、イスラーム王朝の一つファーティマ朝 ── エジプトを拠点としたイスラーム王朝。セルジューク朝とは宗派も異なり、対立関係にありましたでした。ファーティマ朝はビザンツ帝国の同盟相手で、十字軍という援軍が来たら共にセルジューク朝と戦おうと話していたため、エルサレムにはあまり軍を置いていなかったのです。
| 勢力 | 期待していたこと | 実際に起きたこと |
|---|---|---|
| ビザンツ帝国 | 十字軍が自分を削るトルコ人(セルジューク朝)と戦う | 十字軍が同盟相手のエルサレムを攻めた |
| ファーティマ朝 | 同盟者ビザンツの援軍とともにセルジューク朝と戦う | 援軍のはずの十字軍に自分のエルサレムを攻められた |
| 十字軍 | 贖罪として異教徒に汚された聖地を奪還し清める | 聖地エルサレムの攻撃に踏み切った |
もうビザンツ帝国からしてもファーティマ朝からしても、は?みたいなこと。
樋口さんが言うように、十字軍にとっては贖罪が目的なので、聖地の奪還こそに意味がありました。異教徒に汚された聖地を清めなければならないという「浄化の思想」があったと、深井さんは説明します。
エルサレム陥落とゴドフロワの建国
エルサレムの攻撃では、大きな城を相手にするため攻城兵器が欠かせませんでした。十字軍は投石機を用意して猛攻を仕掛け、さらに振り子の原理で丸太を門に打ちつける破城槌 ── 城門や城壁を壊すための攻城兵器。吊るした丸太や重い槌を繰り返し打ちつけて破ります波状土なども使いました。
兵力の少ないエルサレムはついに陥落します。一番乗りで入城したのは十字軍の貴族ゴドフロワで、ゴドフロワはエルサレムに自分の国を作り、王のような立場になりました。
これはこれで、そのローマ教会側からしたら、え?って感じだろうね。
なんていうか、その、奪い返せとは言ったっぽいけど、あなたの国作っていいっていう感じじゃないんだよなみたいな感じだと思うんですけど、国は作りますね。
エルサレムの大虐殺は双方の記録に何を残したか
エルサレムになだれ込んだ十字軍は、住民の大虐殺を行います。深井さんが読み上げたイスラーム側の記録には、住民は1週間にわたって市街を略奪するフランク人に斬り殺され、アル・アクサー寺院エルアクサ寺院では7万人以上が殺されたと書かれています。
同じ記録によれば、殺された人々の中には、聖地で隠遁生活を送るために郷里を捨ててきた信徒や苦行者、イスラーム学者が多くいました。さらにフランク人は、イスラームの聖地である岩のドーム ── エルサレムの神殿の丘に7世紀末に建てられたイスラームの聖堂。金色のドーム屋根で知られますを空にするほどの戦利品を奪い、銀の燭台40個や、50個以上の銀製と20個以上の金製の灯明などを持ち去ったとされています。
深井さんは、キリスト教側の記録にも虐殺が書かれていることから、実際に行われたのだろうと話します。十字軍に従軍した貴族レイモン伯について、城壁を越えて逃げるサラセン人を追いかけて斬り殺し続けたと記されています。
キリスト教側の記録には、ほかにも凄惨な描写が並びます。岩のドームに逃げ込んだ人々を矢で射落とした、血の池に脛まで浸かって歩いた、女性も子どもも誰一人生き延びられなかった、死体をあさって金品を集めた、といった内容です。
キリスト教側の記録で「サラセン人」と呼ばれた人々には、実際にはアラブ人、トルコ人、エジプト人、エチオピア人などさまざまな人がいました。兵士かどうか、身分の高低を問わず殺戮と強奪が繰り返され、ユダヤ人の虐殺も行われたといいます。
深井さんは、十字軍についてはムスリム側のほうが寛容だとよく言われると紹介します。ムスリムは後にエルサレムを奪還し直しますが、皆殺しにはしなかったからです。
一方で深井さんは、双方とも残酷で、今回はキリスト教側が勝ったから起きただけだという意見もあるため、これをもってキリスト教を評価する話にはしないほうがいいと考えています。そのうえで、殺すことで聖地を浄化するという感覚はあっただろうと本には書かれていた、ただしそれにも諸説ある、と述べています。
エルサレム奪還はウルバヌス2世に何をもたらしたか
エルサレムまで落としたことで、第1回十字軍はある意味で成功しました。ローマ教皇ウルバヌス2世も、西ヨーロッパに残っていた人々も、エルサレム陥落の知らせに大いに沸き立ったといいます。
深井さんによると、ウルバヌス2世は政治闘争として、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 ── 神聖ローマ皇帝。聖職者の任命権をめぐってローマ教皇と激しく対立し、「カノッサの屈辱」で知られますに対して優位を築きたいと考えていました。神の名のもとに国家を超えて軍隊が集まり、実際に聖地を奪還できたことで、その狙いは実現したことになります。
ワールドカップ優勝とかより嬉しいみたいな感じだと思う。
もっとも、ビザンツ帝国にとっては、奪還した土地が返されない限りあまり意味がありませんでした。
十字軍国家と「十字軍ネイティブ」の誕生
エルサレムを落としたあとも、周囲には多くのムスリムの国が残っていました。その中で十字軍は、エルサレム王国をはじめとする十字軍国家 ── 第1回十字軍が地中海東岸に築いたキリスト教国の総称。エルサレム王国のほか、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国がありましたを築いていきます。
エルサレム王国の初代国王にあたる立場に就いたのは、一番乗りで入城したゴドフロワでした。深井さんによると、ゴドフロワは王という立場を遠慮して「聖墳墓の守護者」を自称していたものの、実質的には王だったといいます。
十字軍は南下しながら落とした各都市に国を作り、ビザンツ帝国とは別の、カトリックの国がこの地域に次々と出現しました。
楊さんは、十字軍国家では世代交代が進み、十字軍国家で生まれ育つ人々が現れたと話します。樋口さんが「十字軍ネイティブ」と呼んだこの人々が家門を形成し、勢力を誇っていく構造も生まれていきました。
第1回の「成功」に、なぜ後の失敗の種があったのか
深井さんは、第1回十字軍の成功には、その後の失敗の原因がすでに含まれていたと指摘します。十字軍は第7回、第8回まで続きますが、第1回以降はほぼすべて失敗に終わります。
よくありますけど、歴史を勉強してたら。出来上がった時にもう滅ぶのが決まってるみたいなやつが、ここでもなんかそれが行われてるっていう感じですね。
深井さんが挙げる要因の一つは、エルサレムを「浄化」しようとしたことです。本来エルサレムはさまざまな民族・宗教の人々が暮らす場所で、共存しなければやっていけないのに、本国から遠い土地に建国した十字軍国家はジリ貧になっていきました。
もう一つの要因は、ムスリム側を団結させたことです。第1回十字軍が大虐殺を行ったことで、ムスリムは「あいつらやべえ」と警戒するようになり、第3回の頃には十字軍が宗教戦争として来ているのだと理解し始めます。
第1回では「なぜ来た?」と困惑し、各勢力がバラバラに対応した
第3回の頃には宗教戦争だと理解し、ある程度まとまって組織的に抵抗し始めた
深井さんと楊さんは、ムスリム側がまとまったのはあくまで「ある程度」だと念を押します。それでも十字軍は、敵がまとまる要因を自ら作ってしまったことになります。
楊さんによると、ムスリムの権力者たちが十字軍を敵として認定し、組織的な抵抗活動を始める人々が出てきます。その第3世代にあたるのが、このシリーズの主人公サラディンです。
教皇が手にした「十字軍」というフォーマット
深井さんは今回の内容を振り返り、ウルバヌス2世はこの後も皇帝権力との戦いに苦労するものの、十字軍は教皇が使えるフォーマットとして機能したと話します。一度成功させたことで、教皇に対抗する者が西ヨーロッパに現れても、十字軍を送るぞと圧力をかけられるようになりました。
樋口さんは、これは実質的に教皇が軍隊を保持できたように見えると問いかけます。深井さんは、保持というより、神の名のもとに聖戦を訴えれば軍隊を動かせる実例ができたのだと答えます。
(教皇が)自分が気に入らない相手に聖戦だって言ったら(軍隊が)動く可能性があるってことだから。
樋口さんは、国という実体なしに呼びかけで軍隊が動き、しかもその支持者があらゆる国の中にいることに注目します。深井さんも、皇帝にとってこれは大きな脅威だったと応じます。
第1回十字軍に従軍した貴族や民衆にとっても、この遠征は強い成功体験として刻まれました。多くの犠牲や苦労はあったにせよ、神の意志を教皇が告げ、その結果として聖地がキリスト教徒の手に戻り、自分たちは贖罪されるのだという高揚感と安心感がありました。
これ以上ない物語ですよね。
樋口さんは、普通なら国が軍隊を持つには兵の収集や資金調達、税金の工面が必要だったのに、第1回十字軍は思想で軍隊が動いたと驚きます。深井さんは、資金調達すら参加者自身に任せていたと付け加えます。次回は第2回十字軍と、この時期のイスラーム側の実情を掘り下げ、その後いよいよサラディンが登場する予定です。
まとめ
第1回十字軍は、ビザンツ帝国からは蛮族扱いされ、分裂していたイスラーム側からは正体不明の集団として扱われながら、各個撃破でエルサレムまで到達しました。その成功は教皇に強力な政治的手段を与えた一方で、聖地での大虐殺がムスリム側の警戒と団結を促し、後の十字軍の失敗につながっていきます。
- 民衆十字軍はほぼ丸腰で突入してすぐ壊滅し、本隊もビザンツ帝国から「野蛮人」と見なされていた
- ビザンツ帝国は領土回復、十字軍は贖罪と聖地浄化を目的としており、両者の思惑は大きくずれていた
- 戦国時代のように分裂していたイスラーム側は団結できず、この時点ではまだ宗教戦争だと認識していなかった
- エルサレム陥落時の大虐殺は双方の記録に残り、ゴドフロワらは十字軍国家を築いた
- 第1回十字軍の成功は教皇に「聖戦を唱えれば軍隊が動く」実例を与えたが、同時に敵を団結させる種もまいた






