兵力5倍差のサルフの戦い、明軍はなぜ崩れ始めたのか
ヌルハチ編の4回目は、ヌルハチの戦いの中でも特に有名なサルフの戦い ── 1619年、後金のヌルハチが明とその同盟軍を撃破した戦い。明の衰退と後の清の台頭を決定づけた戦いとされますが中心です。明軍とヌルハチ軍の兵力には、約5倍の差がありました。
楊さんによると、サルフの戦いは複数の戦闘の総称で、この回では重要な3つの戦闘が紹介されます。明は軍を4つの軍団に分けて攻め込み、それぞれの軍団長が率いる軍に、ヌルハチ軍がぶつかっていく構図です。
分かれて進む明軍にとって大事だったのは、タイミングを合わせて連携し、ヌルハチを追い詰めることでした。ところが最初にぶつかった軍団長の杜松 ── 明の武将。番組の前回では、体の刀傷を自慢する猛将として紹介されていた人物ですは、先に手柄を立てようと他の軍と連携せず、単独で先行してしまいます。
楊さんは、明軍が戦っている場所は騎馬民族の地元であり、いわば狩場だと表現します。群れからはぐれた獲物は狩られるしかない、という例えに、樋口さんも思わず反応していました。
狩場ってこわ。
サルフ山とジャイフヤン山、ヌルハチはどちらを先に攻めたのか
ヌルハチは本拠地をヘトゥアラ ── ヌルハチが拠点とした都城。現在の中国遼寧省にあたる地域にあり、後金建国の地とされますに構えていました。杜松はその近くにあるサルフ山を占領して守備兵を残し、もう一つの拠点であるジャイフヤン山ジャイフヤン山を攻めて、そこから本拠地を突く作戦を立てます。
明軍到来の報を受けたヌルハチは、ただちにサルフ山へ出撃し、6時間で50キロを移動したとされます。楊さんは、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍1万が52キロを5時間で移動したのとほぼ同じ速さで、約2万の兵を動かしたと説明しました。
到着したのは日没前の夕方でした。ジャイフヤン山では杜松率いる明軍主力が後金の守備兵を追撃し、サルフ山にはすでに明軍の陣地が築かれていました。
ヌルハチの部下たちは、味方を追撃している杜松の軍を攻めようと提案します。しかしヌルハチは逆に、火砲部隊のいるサルフ山の陣地から攻めると決めました。
到着直後
自軍は着いたばかりで最も良い状態にある
敵の油断
明軍は主力到着を知らず、もう一方の山の戦いに集中している
夕暮れ
日が暮れかけて月や星の明かりもなく、明軍の火砲が威力を発揮しにくい
決断
最も効果の大きいサルフ山の陣地へ、万全の兵を突っ込ませる
ヌルハチは8つの軍団である八旗 ── ヌルハチが整えた軍事・社会組織。旗の色で8つの集団に分け、兵士とその家族をまとめて管理しましたのうち、2旗をジャイフヤン山に送って明軍を牽制させ、残る6旗でサルフ山を奇襲します。陣地は白兵戦で壊滅しました。
6旗はそのまま休まずジャイフヤン山の明軍主力へ向かい、牽制の2旗と山の守備兵とともに3方向から杜松軍を挟み撃ちにします。逃げた兵も10キロ以上追跡され、杜松は戦死しました。楊さんはこれを、獲物を追い込む「巻き狩り」だと表現しています。
馬林軍はなぜ堅い陣地を築いても負けたのか
2つ目の戦闘の相手は、本来は杜松と連携するはずだった馬林の軍です。馬林軍は杜松軍の壊滅を知っていたため、大砲を配置し、前後左右どこからの襲撃にも対応できる厳重な陣地を築いていました。
両軍がにらみ合うなか、ヌルハチは近くの山に兵を登らせ、高所から攻撃させようとします。それを見た明軍が山を攻めに陣から兵を動かすと、ヌルハチは作戦を変え、陣に突っ込ませて白兵戦に持ち込みました。
楊さんによると、馬林は運も悪かったといいます。後方部隊の指揮官は才能がなかったのか、馬林と関係が悪かったのか、援軍を出しませんでした。馬林軍は壊滅し、後方部隊も殲滅されます。
明軍についていたイェヘ部 ── 女真の有力部族の一つ。ヌルハチに最後まで服従せず、明と結んで対抗していましたイヘブの軍は、この知らせを聞いて勝手に撤退してしまいました。
なんかね、チームワークというか、なんというか、連携というか。
劉鋌軍が伏兵に遭った原因は、ずさんな現状認識
3つ目の戦闘は、72キロの重い刀を振り回すとされた劉鋌の軍です。2つの軍団が壊滅した時点で、総司令官の楊鎬は残る2軍団に退却を命じますが、その命令が届く前に劉鋌軍はヌルハチ軍と正面から遭遇しました。
楊さんは、遭遇の原因を明軍の情報収集のずさんさに見ます。劉鋌は「杜松軍がヌルハチ軍を破り、本拠地に迫っている」と、事実と逆の情報を信じていました。さらに杜松に先に手柄を立てさせたくないと焦り、進軍を急がせていたといいます。
驚いた劉鋌軍は丘の上に陣地を築きますが、ヌルハチ軍は2手に分かれて左右から囲み、さらに劉鋌軍が通ってきた道の森林から伏兵が現れます。3方向から攻められ、劉鋌も戦死しました。
手柄争いで動く明軍と、生き残りをかけて連携するヌルハチ軍を比べ、樋口さんは現状認識の大切さを指摘します。深井さんは、現状認識が人間にとって後回しにされやすい理由を語りました。
やっぱ現状認識できてないって、どのパターンでもやっぱり基本成功しないんですよね。だからすごい大事なんだけど、現状認識ってモチベーションがないと人間やらないんで。
(功を立てたいという目的に)対して、現状認識って間接的にしか機能しないじゃないですか。だから直接関係ないと思われたら、それ飛ばして行っちゃうじゃん。
現状認識にちゃんとコスト割くって結構大変なんだよね、人間にとって。
深井さんはさらに、大軍の強みは同時に攻めることにあるのに、明の指揮官は全員が兵力を分散させ、自分から各個撃破されに行ったようなものだと話しています。
後金の圧勝、ヌルハチが勝てた理由とは
残る最後の武将、李如柏 ── 明の武将で、遼東で力を持った李成梁の息子。サルフの戦いでは退却命令に従って戦わずに引き上げましたは退却命令を受けて逃げ出し、サルフの戦いは後金軍の圧勝に終わります。
特に指揮官クラスを300人以上失ったことが明には痛手で、以後ヌルハチが明の勢力圏に攻め込むと、支えきれずに城を次々と落とされていきます。総大将の楊鎬は処刑され、逃げた李如柏も罪を問われて自殺しました。
楊さんが挙げる勝因の1つ目は情報収集です。ヌルハチは明軍の動きも自軍の状況も逐一把握でき、意思決定に必要な情報が常に手に入っていました。2つ目は、複数の軍団がほぼリアルタイムで動きを合わせ、包囲する集団戦法の練度の高さです。
また、ヌルハチは勢いまかせの人物ではなく、兵力が集まるまで少人数で突入するな、兵が少なければ後退して主力のもとへ敵を誘い込め、と慎重な用兵を徹底させていたといいます。兵力が少ない後金は、兵を死なせずに効率よく勝つ必要がありました。
勝利に部下は感激しましたが、ヌルハチ自身はこの勝利をあまり語らなかったとされます。他国は後金の兵力が多かったと思うだろうが、それはそれで思わせておけばいい、と笑いながら話したという逸話も紹介されました。
戦争に勝っても国は安定しない、強制移住が生んだ食料不足
ヌルハチはこの後、最後まで残ったイェヘ部も併合し、女真統一を果たします。さらに明の辺境都市を次々に攻め、労働力や家畜、食料を奪っていきました。
楊さんによると、小さな国である後金の安定は農業生産力にかかっていましたが、それまで頼っていた明との交易の穴は簡単には埋まりません。大企業との取引で規模を拡大した会社が、突然契約を切られて新規開拓に追われる状態に例えられています。
明が遠征してくる側で、後金は地元で迎え撃てばよかった
後金が遠征する側になり、軍事コストが増え、落とした拠点の経営まで必要になった
ヌルハチは支配下に入った漢族を大規模かつ連続して強制移住させました。ガバナンスを効かせるための移住でしたが、移住が続いたことで、漢族の労働力をなかなか食料生産のサイクルに乗せられませんでした。
だって農家と思ったらね、いきなりバーンって違うとこ行って、さあやれって言われても、結構むずそうっすもんね、なんか。
食料を作る存在として、漢族を保護する方針
食料不足が深刻になり、農業生産が見込めない漢族を処刑する圧迫へ転換
軍事負担も増していきました。拠点防衛に兵を割かれ、堅固な城を長期にわたって包囲する戦いが増え、戦争は大規模化・長期化していきます。
辮髪の強制はなぜ漢族の反発を招いたのか
楊さんは、ヌルハチが抱えた最大の課題は漢族の統治だったと言います。当初のヌルハチは善政に努め、主従が互いを愛せ、同じ釜の飯を食えと諭し、市場で代金を払わない女真人には公定価格どおり払えと指示していました。
それでも統治はうまくいきません。女真側には、直前まで戦い、野蛮人と軽蔑されてきた漢族への恨みが根強くありました。楊さんは、漢族が反発した理由を3つ挙げています。
1つ目は辮髪 ── 頭髪の一部を残して剃り、残りを編んで垂らす髪型。女真(満洲)の習俗で、清代には服従の証として漢族にも強制されましたの強制です。漢族にとっては大きな屈辱でした。
楊さんは自身の考えとして、人数も多く文化的にも先進的な漢族を治めるため、ヌルハチは形から一体性を作ろうと必死だったのではないかと話します。ケマル・アタテュルク ── トルコ共和国の初代大統領。近代化政策の一環としてトルコ帽を禁じ、西洋式の帽子の着用を進めましたがトルコ帽を廃止したのと同じ意図だった可能性がある、という見方です。
2つ目は、土地の収奪や奴隷化、強制移住です。これが反乱を招き、鎮圧のためにヌルハチが大量虐殺を起こすことになりました。3つ目は女真人による虐待や強奪で、漢族は逃亡し、後金は労働力を失いました。
漢族の抵抗は、女真人の井戸に毒を入れる、女真兵を襲う、税を集めに来た女真人を殺すといった形でエスカレートします。ヌルハチは漢族を危険な人と善良な人に振り分け、危険とされた人を一律に処刑しました。
この組織的な抹殺は女真内部でも問題視され、ヌルハチの死後には政権中枢から良くなかったという声が出たといいます。後を継いだ息子のホンタイジ ── ヌルハチの第八子で後金の第2代君主。国号を清と改め、明との戦いを続けましたが、その尻拭いをすることになりました。
漢族官僚は「不満の的」、ヌルハチの激詰め記録
ヌルハチは優秀な漢族を官僚に登用しましたが、全幅の信頼は置きませんでした。楊さんによると、徴税や犯罪の審理を漢族官僚に担わせたのは、支配地域の漢族の不満が女真人に向かわないようにするための「的当て」だったといいます。
国の意思決定に漢族官僚は関わらせず、ただ使い潰した形でした。不信感はマイクロマネジメントにも表れ、綿や穀物を管理していた漢族官僚が、誰に何を与えたのか、兵の数はいくらか、全部文書にして報告せよと激しく詰められた記録が残っています。
まあでも余裕がなくなったらこういう挙動を取りますよね、人間って。
後継者問題、チュエンの幽閉とフルガンへの賄賂
女真には後継者を指名する習慣はありませんが、ヌルハチは生前から後継候補を後押ししようとしました。54歳のとき、息子のチュエンチュエンに権力の一部を委譲します。
ところがチュエンは、弟たちや五大臣に「従わなければ父の死後に全員粛清する」と強気に出ます。助けを求められたヌルハチはチュエンを排除して幽閉し、チュエンはそのまま亡くなりました。
もう一つの騒動は、有力な五大臣の一人フルガンフルガンをめぐるものです。後継レースで支持を得ようとした甥や孫たちが賄賂を贈り、フルガンが受け取ったことが発覚します。
ヌルハチはフルガンをクビにして政治参加の資格を奪い、賄賂を贈った3人には女物の服を着せて3日間外にさらし、最後に顔に唾を吐いて家に帰したといいます。深井さんはこれを、マッチョな文化の表れだと受け止めました。
楊さんは、チュエンを死刑でなく幽閉にしたのも含め、血族をすぐ死刑にする前例を作らないバランス感覚があったと考えられると話します。中央集権体制は作ったものの、絶妙なバランスの上でなんとか保たれていた印象だといいます。
同じようなことが起こったら、また死刑にしないといけないし。
生涯最後の戦いで敗北、寧遠の袁崇煥
明との戦いを続けたヌルハチは、生涯最後の戦いで敗れます。中国史で知られる寧遠の戦い ── 1626年、ヌルハチが明の寧遠城を攻めて撃退された戦い。ヌルハチはこの年に亡くなりましたです。楊さんは、この成功しきれない感じが好きだと語っています。
寧遠城を守ったのは、中国では偉人扱いされる袁崇煥 ── 明末の官僚・武将。科挙に合格した文官ながら軍事に優れ、後金の攻撃を防いだことで知られますです。楊さんは、キングダムの李牧のような存在だと例えます。
明軍はポルトガルから輸入した大砲でヌルハチ軍を撃ち、ヌルハチ軍は500人ほどの戦死者を出して退却しました。20代から連戦連勝だったヌルハチが、唯一落とせなかった城とされます。
袁崇煥は後にホンタイジの攻撃も撃退します。戦場で倒せないホンタイジは、宦官を買収して謀反の噂を皇帝の耳に入れ、袁崇煥を処刑させました。袁崇煥は凌遅刑 ── 体の肉を少しずつ削いで死に至らせる、中国の極めて残酷な処刑法で処刑されています。
やっぱこういう買収される宦官みたいなやつがいっぱい出てくるよね、末期って。自分のことしか考えてない人がいっぱいいて、満を持して全員で落ちるっていう。
楊さんは、ヌルハチ自身が私利私欲を強く戒めていたと振り返ります。女真が分裂するのは財産を独占したい私利私欲があるからだと考え、その構造的な弱点を仕組みで抑えようとしたのがヌルハチだった、という見立てです。
ヌルハチの死と、孫の代で訪れた清の安定
多くの課題を解決できないまま、ヌルハチは67歳で亡くなります。食料不足は慢性化し、漢族の反乱も続いていました。楊さんは、会社を作ったものの中身が創業者の手に負えず、ボロボロのまま創業者が亡くなった状態だと表現しています。
ホンタイジには、人口を増やして食料生産を確保し、明に攻め込んで食料と人口を獲得するという方針以外の代替案がありませんでした。孫のフリン ── ヌルハチの孫で、清の順治帝。その治世に清は北京へ入り、中国支配を始めましたの代になって、ようやく国は安定し、200年以上続く帝国となります。
これでなんか清が滅亡してたら歴史に刻まれてないんや多分。
楊さんは、清が続かなければヌルハチは「ちょっと頑張った中小企業の親父」のような存在だったかもしれないと応じます。明の領域は現代の中華人民共和国にほぼ引き継がれ、多民族国家という構造的な課題も受け継がれていると話しました。
支配民族が変わっても「中華」であり続ける理由
4回を終えた感想として、楊さんは大陸で国を作ることの大変さを挙げ、自身の中国での生活や仕事の体験を思い出したと語ります。樋口さんは、日本では民族そのものが入れ替わる王朝交代の感覚がつかみにくいと話しました。
深井さんは、清は北方民族の国としてモンゴル帝国の後継とも見られる一方で、広大な土地を漢字の文書行政と官僚制で治める点では、統治システムがずっと一緒だと指摘します。
北方民族の国であり、最終的にモンゴルも統一するので、モンゴル帝国の後継とも見られる
漢字の文書行政と皇帝官僚制を使い続けるので、中華の国と見られる
楊さんは、そもそも「民族」という枠組みは近代の西洋から入ってきたもので、当時の人々のカテゴリーの境界線は想像以上に曖昧だった可能性があると補足しました。
10万の兵を活かせなかった明、リソースは使い方次第
樋口さんは、サルフの戦いから、まとまっている方が強いこと、一人一人の力や連携が昔ほど重要になることを感じたと話します。深井さんは、それは現代も同じだと応じ、リソースの運用の話へ広げました。
深井さんによると、この時の明は運用が非常に下手で、10万のリソースを1万にも満たない程度にしか使えていませんでした。経営でも、大金を調達して全部無駄にすることも、少ない資金で大きな事業を作ることもできるといいます。
なんでやっぱそのリソースって使い方でめっちゃ変わるっていう感覚があるんで。
深井さんは、日本は斜陽国家だと言われがちでも、まあまあリソースはあり、活かし方次第でどうにでも変わると考えています。樋口さんは、人口やGDPの数字だけで悲観する見方を、サルフの戦いの兵力差にたとえました。
一方で深井さんは、組織はリソースが多いほど効率が悪くなると指摘します。官僚制は大規模な運用としてはうまくいっている方でも、10人の組織と比べれば効率は大きく劣り、そこに小さな組織の勝ち目があるといいます。
組織の強さを決めるコンセンサスと、まとまらないあだ名会議
深井さんが歴史を学ぶうえで注目し続けているのは、コンセンサスが取れるかどうかです。日本語の「合意形成」よりも、言語化された目標に向かって進む感覚に近いものだといいます。
結局そのリソースをうまく生かすのに最も重要なファクターがコンセンサスなんですよ。
人数が多い明はコンセンサスを取るコストが高かった一方、後金は攻めてきた明を倒すという1つの目標に、異論を持つ人がほとんどいなかったと考えられます。深井さんは、それはヌルハチ個人がすごいからというより状況によるもので、どの状況に身を置くかは今の自分たちが選べる、と話しました。
楊さんは、ヌルハチもコンセンサスに気を配っていたと補足します。後金という国号は、約500年前年数に女真が建てた金王朝から取られ、血筋のつながりは怪しくても、金の再興という物語をまとまりの核にした可能性があるといいます。八旗制度も、コンセンサスのハードルが低い仕組みとして導入されたのかもしれないと語られました。
辮髪の強制について深井さんは、当時の人々から見れば失敗に見えても、後の清にとって功を奏した面が多く、全体として失敗と言えるかは微妙だと話しています。
最後は、ヌルハチのあだ名をみんなで決めようという話になり、「ヌルパチーノ」「ヌ」「大清グルン」と案が割れて、まったくまとまらないまま終わりました。
僕はヌですよ。もう絶対これはもう合意形成取れないです。コンセンサス無理です。
まとめ
サルフの戦いでヌルハチが5倍の明軍を破れたのは、正確な情報収集と軍団同士の連携があったからでした。しかしその後の遠征と漢族統治で後金は苦しみ、清の安定は孫の代まで持ち越されます。番組は、リソースの量より、それを活かす運用とコンセンサスが組織の強さを決めるという教訓にたどり着きました。
- 明軍は4軍団が連携せず手柄を争い、ヌルハチに各個撃破された
- 勝因は、情報収集による的確な意思決定と、軍団間の高い連携の練度だった
- 戦後の後金は、強制移住や辮髪の強制で漢族の反発を招き、食料不足に苦しんだ
- 清の安定は、明の自滅に乗じた孫のフリンの代でようやく実現した
- 深井さんは、リソースを活かす鍵は現状認識とコンセンサスにあると語った

