青柳三部作とやなせたかし編、反響の余韻
コテンラジオの秀吉・家康編は、前シリーズの反響を振り返るところから始まります。収録時点では、樋口さんが代表を務める株式会社ブックの青柳さんを取り上げた三部作の配信が終わったばかりでした。
樋口さんによると、後編の公開から1日ほどで「泣きました」というコメントが多く届いたそうです。人生でやりたいことができていないという話に泣いたのか、話の怖さに泣いたのかはわからない、と笑いを交えて話しています。
楊睿之さんは、青柳さんが同じ日に公開した半生をつづるnoteにも触れました。樋口さんの説明では、4月15日は株式会社ブックの設立記念日で、その日に合わせて青柳さんが数日前から書いていた文章が、ちょうど配信日と重なったといいます。
俺も知らないこと(青柳さんのnoteに)いっぱいあったもん。
あわせて、やなせたかし編の反響も大きかったことが語られます。深井さんは、語り手を務めた楊さんのストーリーテリングについて高く評価しています。
ほんとヤンヤンのストーリーテリングのスキル、なんかある一定の領域に達した感あるもんね。
やなせたかし編、青柳編、そして次に控えるジャンヌ・ダルク編という並びについて、樋口さんは「エモい」流れだと感じていると話し、今回の本題に入っていきます。
「ホトトギス系男子」三英傑の本当の顔
今回のシリーズタイトルは「豊臣秀吉と徳川家康、歴史を動かす信長イズムの継承」です。樋口さんは、信長・秀吉・家康という三英傑 ── 戦国時代から江戸時代初期にかけて天下統一を進めた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人を指す呼び名ですが1つのタイトルに並んでいることに注目します。
3人といえば、性格の違いを詠んだとされるホトトギスの句が有名です。深井さんはこれを「ホトトギス系男子」と呼び、それぞれの句を紹介しました。
泣かぬなら殺してしまおう
泣かぬなら泣かして見せよう
徳川家康の句は「泣くまで待とう」とされています。
ただし深井さんは、このイメージは史実とまったく違うと言い切ります。家康も待ってなどいない、というのです。
理由は、3人が戦国時代のトップオブトップだからです。楊さんは、3人を武士業界のトップ3と表現し、この3人で「武士トーナメントの決勝戦」の決着がつく流れだと説明しています。
信長編から続く時代背景の超ダイジェスト
深井さんは、今回のシリーズは織田信長編を前提にしているため、単独で聴くのはあまり推奨しないと断ったうえで、信長編までの流れを超ダイジェストで振り返ります。
室町幕府の弱体化
将軍の権威と権力がどちらも下がっていく
各地の武将の台頭
武将たちが好き勝手に動き始める
信長の方面軍
家臣に仕事を任せ、同時にいろいろな場所を攻める
本能寺の変
全国統一が見え始めた頃、明智光秀に裏切られて殺される
深井さんによれば、信長以前の武将は、どれほど強くても自分が戦場に出て戦う「プレイングマネージャー」でした。信長は柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉らに仕事を完全に任せ、初めて「ガチマネージャー」になったといいます。
それで同時並行でいろんなとこ攻めて、みんな(信長の家臣たちは)強いんだよね、しかも。バンバン勝っていくわけですよ。
武士がなぜ生まれたのかという話も信長編で扱っているため、今回はそこまでは語らない方針だと説明されています。
「マジ武士たち怖え」を生んだ世界認識とは
楊さんは、日本史は資料が細かく残っているため、武士たちの行動や迷いまで比較的再現できると話します。そのうえで今回伝えたい面白さとして、「マジ武士たち怖え」という点を挙げました。
楊さんによると、小説やドラマ、漫画で武士にはポジティブなイメージがついていますが、実際の彼らは殺す、略奪する、人狩りや人身売買をする、といったことを普通にしていたといいます。深井さんも、幼児を処刑することさえ普通にあったと補足しました。
下手すると家康が平和主義者みたいな語られ方することあるけど、とんでもないです。
深井さんは、戦国時代をホッブズ ── 17世紀イングランドの政治哲学者。著書『リヴァイアサン』で、国家のない自然状態を「万人の万人に対する闘争」と表現しましたが言った「万人の闘争状態」そのものだと表現します。誰が誰を殺すかわからず、危険があれば先に相手を殺したほうがましという世界で、それをやり続けてきた頂点が三英傑だというわけです。
なるほど。アウトレイジだ。
楊さんは、善悪の判断をここですることには意味がなく、殺し合う時代構造の中で生きていたと捉えることが大事だと話します。深井さんは、ホトトギスの句が示すような性格や戦略の違いにも、環境要因が非常に大きいと続けました。
深井さんによると、武士たちは親戚や親子でさえ殺し合いになる世界で、全員を敵だと思って生きていました。それでも孤立すれば死ぬので、一緒に仕事はする、という感覚です。だからこそ、現代人フィルターで彼らを見ないことが大切だと強調しています。
樋口さんは、この感覚に一番近いのはボードゲームのカタン ── 島の開拓をテーマにしたドイツ発のボードゲーム。資源の交渉を通じて、プレイヤー同士の協力と駆け引きが生まれますだと話し、深井さんも「虎視眈々と裏切りを狙ってます」と応じました。
ある程度の人を味方とみなして行動する
親戚や親子さえ疑い、危険があれば先に動く
楊さんは、この世界認識は武士だけのものではなかったと付け加えます。農民も武装し、自分たちを守るために流血沙汰や紛争、落ち武者狩りをしていたといい、深井さんは信長編でも触れた「ソマリアのようだ」という表現を改めて紹介しました。
出自すら不明、秀吉はどこから来たのか
本題に入ると、いきなり秀吉が登場します。前置きの長いコテンラジオに慣れた樋口さんは「最初から出てくるとか、何かがおかしい」と驚いていました。
深井さんによると、秀吉の出自は結論から言うとよくわかっていません。太閤記 ── 豊臣秀吉の生涯を描いた伝記の総称。江戸時代に書かれたものも多く、脚色が含まれることが知られていますなどの資料にはすでに間違いが確認されており、どこまで信じていいかわからない記録しか残っていないといいます。
そのため番組では、細かく分岐する学説をすべて紹介するのではなく、通説と、ありうる新説を並べる形で進めると説明されました。確実なのは、秀吉が非常に低い身分から天下人になった、つまり異常な出世をしたという点です。
秀吉の生年は1537年とされていますが、深井さんはこれもはっきりしないのだろうと話します。幼名を日吉丸とし、母が日輪がお腹に入る夢を見て身ごもったという逸話も、後世の創作とみられています。楊さんはこれを「後付けのブランディング用の物語」と表現しました。
家族関係も不明な点が多く、実父は木下弥右衛門、養父は竹阿弥と伝わります。秀吉は養父と折り合いが悪く、中高生ほどの年齢で家を出たとされます。学者の中には、比較的有力な農民の家だった、あるいは父が織田家の家臣だったと見る人もいるそうです。
生まれ育ったのは今の愛知県名古屋市中村区です。後に家臣となる加藤清正は母方の親戚とされ、福島正則も親戚かもしれないと言われています。楊さんは、出世していなければ歴史に登場しない普通の人物だったと話します。
家を出た後の秀吉について、深井さんはルイス・フロイス ── 戦国時代に来日したポルトガル人のイエズス会宣教師。『日本史』を著し、信長や秀吉についての貴重な記録を残しましたの記録を紹介します。極貧の頃、秀吉は古いむしろ以外に身を覆うものがなかったといい、深井さんはホームレス状態だったと解釈しています。
ほかにも、秀吉は指が6本あったと言われていること、大道芸を見せながら針を売る「針売り」をしていたことが語られました。針売りは身分の低い人の仕事だったとされ、ここからも出自の低さがうかがえるといいます。
雑用から出世、信長のもとでこそ開いた道
深井さんによると、秀吉は18歳ぐらいで織田家に使用人として仕え始めたとされます。その前に今川家に仕えていたという説もありますが、詳しいことはわかっていません。楊さんは、家のグレードを決める家系図すら持たない、本当に何者でもない人だったと補足します。
低い身分でも仕官できた背景として、深井さんは当時の戦争が「一攫千金」の場でもあった点を挙げます。足軽でも有名な武将の首を取れば大金や出世につながり、楊さんによれば略奪で食べ物や金目のものも手に入りました。使用人として武将の荷物運びなどをすることで、上の身分とのつながりもできたといいます。
仕えてから10年ほど、秀吉の名前は記録にあまり出てきません。体が小さく、武力で押す武辺者ではなかったため、機転を利かせて少しずつ出世したと推測されています。有名なのが、信長の草履を懐で温めたという話です。
あれ(草履取りの話)が本当かどうかもわからないんだけど、嘘だとしても、あれぐらい機転が利く人間であったことはそうでしょうね。
深井さんは、これほど低い出自から大名クラスに上がった人物は、ほかに斎藤道三ぐらいしかいないと話します。現場の仕事を一つずつ経験してきたため業務の習熟度が高いことが秀吉の強みになる一方、家柄が大切な封建制の中では出自の弱さが後々の弱みにもなるといいます。
楊さんは、戦国時代は実力主義のイメージがあるものの、ベースは伝統や世襲、血筋だったと説明します。家柄のいい家臣団に素性の知れない人物を入れると秩序を乱す者とみなされ、採用した主君にも反感が向きかねないからです。
そのなかで信長は、能力に全振りした人事をしていました。楊さんは信長のもとでこそ秀吉は出世できたと話し、深井さんも、信長のいるエリアでなければ秀吉のような人物は出てこられないと同意しています。
松平家の苦境と今川家への接近
続いて家康が登場します。深井さんによると、3人の年齢差は小さく、秀吉は信長の2歳下、家康はさらに秀吉の6歳下です。楊さんは、3人とも今の愛知県出身だと指摘し、深井さんは「信長がいたからこの人たちが出てきた」と考えていると話します。
家康の元の苗字は徳川ではなく松平です。祖とされる松平親氏は、もとは徳阿弥という時宗 ── 鎌倉時代に一遍が開いた浄土教系の宗派。念仏を唱えながら各地を遊行することで知られていますの僧侶で、放浪の末に三河国に根を下ろしたと言われています。
子孫の松平清康、つまり家康の祖父の代で勢力を広げ、三河を平定します。しかし清康は家臣に殺され、10歳の松平広忠が跡を継ぎますが、岡崎城を追われてしまいます。
広忠が頼ったのが、駿河や遠江、今の静岡県あたりを治めていた今川義元でした。深井さんは、後に桶狭間で信長に「ジャイアントキリング」される人物だと紹介しています。今川義元が軍勢を出して広忠を岡崎城主に戻したことで、松平氏は今川氏と主従に近い関係になっていきました。
樋口さんは、秀吉と家康では残っている情報量がまったく違うと驚きます。深井さんの答えは「まあまあいい家なんで」というものでした。
家康は1542年、岡崎城主の松平広忠と於大の間に生まれ、幼名は竹千代でした。竹千代が幼い頃、父の広忠と、その叔父である大叔父が松平家の主導権を争い、両者が織田家と今川家を頼ったことで代理戦争化していきます。深井さんは、これが織田と今川の戦い、ひいては桶狭間につながっていったと説明しています。
人質か、エリート教育か。家康の幼少期の通説と新説
深井さんは、このあたりのディテールから学者の見解が大きく分かれていると注意を促します。通説を否定する説が何種類も出ており、番組で紹介する説に対しても、すでに違うという意見がある状態だといいます。
新説に沿うと、大叔父は織田側に、父の広忠と竹千代は今川側につきました。通説では、家康は今川義元に人質として送られ、苦しい幼少時代に忍耐力を身につけたとされますが、深井さんによれば、ほとんどの新説でこれは否定されています。
新説での経緯はこうです。父の広忠が24歳ほどで病死し、竹千代は8歳前後で後ろ盾を失います。今川家としては、傘下の松平家を竹千代が継いでくれないと困るうえ、幼くて危ないので、自分の本拠に連れてきたというのです。
僕たちが思い浮かぶ人質じゃなくて、本当になんかこう、子会社の次期社長を親会社で育ててあげてるみたいな感じ。
通説: 今川家の人質として苦しい幼少期を過ごし、忍耐力を身につけた
新説: 父の病死後、傘下の次期当主として今川家に預けられ、育てられた
深井さんが重要だと強調するのは、今川家の本拠である駿府の環境です。岡崎に比べて駿府は圧倒的な都会で、当時の日本のトップ3から5に入る都市だったといいます。深井さんは「マジで名古屋みたいなとこ」とたとえました。
駿府では、政治や外交、軍事のエッセンスを教える臨済宗 ── 禅宗の一派。中世には武家との結びつきが強く、禅僧が学問や外交の顧問を務めることもありましたの僧侶が先生としてついていたとされます。家康はこの環境で14歳まで育ちました。
まあね、通説では恵まれてないというふうに言われてたんだけど、ある意味ラッキーだよね。
元服と初陣、今川一門としての元康
家康は14歳で元服し、竹千代から元信へと名を改めます。「元」の字は今川義元からもらったものです。さらに今川氏の一門で有力家臣である関口親永の娘、築山殿と結婚し、今川家からは親族衆に近い扱いを受けるようになりました。
その後、名を元康に改め、松平元康となります。深井さんによると、「元」は今川義元から、「康」は祖父の清康から取ったとされます。
初陣も14歳頃で、織田方の鈴木という武将と戦い、武功を挙げました。褒美として領地の一部と刀を贈られたといいます。樋口さんが若さに驚くと、深井さんは当時は元服がこの年齢で、中学生ぐらいで戦場に出るのが普通だったと答え、初陣で死ぬこともあったと付け加えました。
ここで深井さんは、秀吉と家康のスタートがまったく違うことを確認します。
出自不明で家系図もなく、むしろ一枚のホームレス状態から、使用人として織田家に仕える
岡崎城主の家に生まれ、都会の駿府で教育を受け、将来の当主として14歳で初陣を飾る
深井さんは、城主であることは徴税権や裁判権を持つことを意味し、家康は地域を治める将来を約束された人間だったと説明します。楊さんは、物語になりやすいのは裸一貫から天下人になる秀吉のほうだと話しています。
強敵に囲まれた境目の地、三河
最後に深井さんは、家康の地元である三河の特徴を紹介します。1つ目は強敵がひしめくエリアだということです。三河は西に尾張の織田、北に美濃の斎藤、信濃に進出してきた武田、東に駿河・遠江の今川と、名だたる大名に囲まれていました。
なかでも武田信玄について、深井さんは信長世代の人は誰も勝てなかった「バチクソに強い」人物だと表現しています。楊さんはレジェンド世代と呼び、ゲーム『戦国無双』でもメインのプレイキャラとして登場すると補足しました。
なんか2日間ぐらい気抜いたら死ぬみたいな。恐ろしい世界。万人の闘争状態だからね。
樋口さんが、常に戦争しているわけではないのかと尋ねると、深井さんは日常的にめっちゃ戦争していると答えます。楊さんは、日常的に飢饉が起きて食べ物が足りず、それがさらに戦争を駆り立てる循環があったと説明しました。
深井さんによると、こうした場所にいる勢力は、滅ぼされるか属国になるのが普通です。ところが家康は、織田の属国になる時期はあっても、自身が非常に強くなっていきました。深井さんはこれを「一番面白いこと」が起きたケースとして語っています。
2つ目の特徴として、三河は日本の東西の境目、潮目にあたる土地だと言われます。地質学的にも裂け目にあり、東西文化がせめぎ合う場所で、頻繁な紛争地帯でもあったといいます。
樋口さんは、強敵に囲まれた環境に加え、都会の駿府で育ったことから、家康は多くの刺激を受けていたのではないかとまとめます。秀吉と家康はまだ交わっておらず、2人が歴史の中でどう交わっていくかは次回以降に続きます。
まとめ
秀吉・家康編の初回は、戦国武士が「全員を敵とみなす世界認識」の中で生きていたという前提を確認したうえで、出自不明の秀吉と、今川家で育った家康の対照的な生い立ちを描きました。3人の行動を性格ではなく環境と世界認識から読むという視点が、シリーズ全体の軸になりそうです。
- ホトトギスの句のイメージとは違い、三英傑は万人の闘争状態を勝ち抜いた「全員殺してしまおう」側の人たちだった
- 秀吉は出自がほとんどわからない極貧の身から、能力重視の信長のもとで少しずつ出世していった
- 家康の幼少期は、通説の「苦しい人質生活」ではなく、今川家で次期当主として育てられたとする新説が多い
- 家康の地元・三河は、織田・斎藤・武田・今川に囲まれた東西の境目で、日常的に戦争と飢饉が続く土地だった





