秀吉の朝鮮出兵が、なぜ明を傾けたのか
ヌルハチ編の第3回は、日本の読者にもなじみのある豊臣秀吉の話から始まります。前回までに、明の将軍・李成梁 ── 明の遼東地方を長く守った武将。女真族の有力者と結びつき、辺境を安定させる一方で癒着も指摘されましたとヌルハチが互いに利益のある関係を築き、女真族の地域はある程度平定されていました。
楊睿之さんによると、この状況を大きく変えたのが、秀吉の朝鮮出兵です。明は朝鮮に援軍を送りましたが、その軍事費が莫大で、深刻な財政危機に陥りました。
楊さんは、原因は朝鮮出兵だけではないとも補足しています。同じ時期に国内で別の内乱が2つほど起き、3つの戦争が同時に進んでいたことも、明の衰退を加速させたといいます。
衰退した明では、これまで築いてきた対モンゴルの辺境防衛の体制が崩れていきます。樋口さんは、日本側から見た朝鮮出兵の印象との違いに驚いていました。
なんかこれ(朝鮮出兵は)秀吉側から見てたら失敗みたいなイメージじゃないですか。
失敗して意味なかったみたいなイメージだけど、明から見たらめっちゃ普通にダメージなんですね。
楊さんは、この明の衰退が、明を後ろ盾にしていたヌルハチにとっても危機になったと指摘しています。
朝鮮出兵
秀吉の出兵に対し、明が朝鮮へ援軍を派遣
財政危機
援軍の軍事費に、国内の内乱も重なって財政が悪化
増税
財政を立て直すための増税が民衆の反感を買う
辺境防衛の崩壊
対モンゴルの防衛体制が崩れ、明の統制が効かなくなる
財政難を埋めるための増税も、明の評判を落とします。皇帝は宦官 ── 去勢して宮廷に仕えた皇帝の側近。中国の王朝では皇帝に近い立場を利用して大きな権力を持つこともありましたを全国に送り、鉱山開発を名目に税を取り立てさせました。
楊さんが紹介した宦官の振る舞いは露骨です。チンピラを従えて金持ちの家に行き、「家が鉱脈の上に建っているから立ち退け、嫌なら金を払え」と脅して金を巻き上げたといいます。
宦官はヌルハチとも揉めました。野生の人参の取引に介入して買い占め、高値で転売したうえに、大金を踏み倒したそうです。樋口さんは「仁義なき感があるな」と反応し、楊さんは滅びる王朝の末期らしい、統制の効かない状況だと説明しています。
3万の連合軍に囲まれて、なぜヌルハチは寝たのか
明が傾く一方で、ヌルハチ自身も危機に陥ります。ほかの女真部族が連合軍を作って攻め込んできた、グレの戦い ── 1593年ごろ、ヌルハチが女真・モンゴルの諸部族連合軍を破った戦い。ヌルハチの台頭を決定づけた戦いとされますです。
深井さんは、織田信長やナポレオンの例を挙げ、突出して強くなると周りが連携して倒しにくる構図だと話しています。楊さんによると、ヌルハチが征服した地域の住民を自分の国へ強制移住させる集住政策も、周囲に強い警戒感を与えていました。
連合軍の兵力は3万で、ヌルハチ側の兵力は不明ながら、それより少なかったとみられています。連合軍の中には、イェヘ部という女真の部族がいました。
開戦前、イェヘ部とヌルハチは使者を通じて言葉をぶつけ合います。イェヘ部の部族長は領土の割譲を求め、ヌルハチは「国は馬や牛とは違う、分けられるはずがない」と拒否しました。
イェヘ部からは「戦になれば、俺はお前の国の国境の上に立ってやる。お前は俺の国の国境に立てるか」という挑発が届きます。ヌルハチは刀を抜いて机を壊し、「夜中にお前の国の国境の上に立って、そのまま帰ってやる」と返したそうです。
いいね。なんか(使者同士のやり取りが)ラップバトルみたいな。
実際に敵軍が攻めてくると、ヌルハチは寝てしまいます。驚いた妻が起こすと、ヌルハチは「大軍がいつ来るか心配だったが、来ると確認できたからホッとした」と答えたといいます。
肝は据わってますよね。いつどれぐらいの軍が来るかっていうことが、彼(ヌルハチ)にとって重要だったんだろうね。
3万という数に動揺する味方には、ヌルハチは「相手は烏合の衆で、指揮官が多すぎて統率が取れていない。指揮官を狙え」と励ましました。
ヌルハチは守りやすく攻めにくい山の険しい場所に陣を敷き、100人ほどの兵で敵を挑発して誘い込みます。挑発に乗って突っ込んできたイェヘ部の指揮官の一人は、木につまずいた馬ごと倒れ、ヌルハチ軍に首を取られました。
指揮官が討たれたのを見たほかの指揮官たちは逃げ出し、連合軍は混乱します。ヌルハチ軍はそこを奇襲し、首を4000ほど挙げたと記録されています。この勝利でヌルハチの権威は急速に高まり、周辺の部族が相次いで従うようになりました。
後ろ盾の李成梁が失脚すると、何が起きたか
グレの戦いを乗り切っても、ヌルハチの状況は予断を許しません。後ろ盾だった明が風前の灯火となるなか、パトロンだった李成梁が失脚します。
楊さんはこれを、ずっと大型案件を発注してくれた大企業の取締役が失脚するようなものだと例えています。李成梁は戦果を明の朝廷に偽って報告したとされ、ヌルハチとの癒着も問題視されて、政治的な駆け引きに敗れたといいます。
ヌルハチと明の関係が悪化した理由は、李成梁の失脚だけではありません。明の当初の思惑は、ヌルハチを使ってモンゴルを牽制させることで、力を持ちすぎるのは困るというものでした。
ところがヌルハチの勢力は伸び続けます。明の中では、「立場をわきまえていないのではないか」「女真族全体を統一してしまうのではないか」「ここで釘を刺さないといけない」という認識が広がっていったと楊さんは説明しています。
人参の代金を5000騎で催促した貿易摩擦
関係悪化のもう一つの火種が、野生の人参をめぐる貿易摩擦です。北京の明の上流階級では、精がつくとして野生の人参がブームになっていました。
楊さんによると、品種はオタネニンジン ── 朝鮮人参とも呼ばれるウコギ科の植物。根が滋養強壮の生薬として珍重され、古くから高値で取引されてきましたです。人参はヌルハチの国にとって超重要な財源で、今でいえばレアメタルのような位置づけだったといいます。
ところが高値に目をつけた漢族の中から、女真族の領地に入り込んで人参を盗む者が出てきました。楊さんは、価格の高騰だけでなく、明の東北辺境のガバナンスが効かなくなっていたことも背景にあると話しています。
ヌルハチは明に取り締まりを求める一方、捕らえた漢族を見せしめに殺していきます。さらに5000の騎馬兵を率いて明の都市撫順へ向かい、人参の代金を払えと迫るデモまで行いました。明の官僚は驚き、食事でもしながら一度引いてほしいと頼んだそうです。
樋口さんは、明の側からすれば個人が勝手に盗んでいるだけなのに、と明の立場の難しさを指摘します。楊さんは、建前上は漢族を管理する責任は明にあるが、ガバナンスが崩れつつある明には余裕がなかったと答えています。
この騒動をきっかけに、ヌルハチは明への態度を変えます。貢ぎ物を出さないと宣言し、人参を言い値で買えと迫るなど、力関係の変化につけ込んで主導権を握ろうとしました。
その結果、李成梁が去った後の明は政策を大転換し、満州を潰す方向に動きます。楊さんは「敵対的買収を仕掛けるようなもの。満州ベンチャーは調子に乗りすぎた」と表現しています。
明が使ったのは、貿易許可証を出さないという経済封鎖でした。ヌルハチの国の経済力と権威は、明との交易の上に成り立っていたため、この一手が深く刺さります。
貿易許可証の停止
明が許可証を出さず、交易が止まる
求心力の低下
許可証を臣下に分配して保っていた求心力が使えなくなる
不良在庫
毛皮や人参が売れず、莫大な損失になる
食糧危機
痩せた土地で不足分を明からの輸入に頼っていたため、食糧が足りなくなる
明はさらに、ヌルハチの傘下に入っていない唯一の女真部族であるイェヘ部を支援し、包囲網を作ります。
なんかね、だから満州使ってモンゴルをやったことと同じことを今されてるってことですね、満州が。
八旗制度は、狩りの陣形をどう国の仕組みにしたのか
国家的な危機に対するヌルハチの答えは、楊さんによれば「リソースの集中運用」というシンプルなものでした。複数の有力者が国を分割して治める体制は非効率で危険なので、自分がトップダウンで指示を出せる体制を作る必要があったのです。
ヌルハチが抱えていた課題は複数あります。強制移住で人口を増やして農地を開墾し、食糧を自給すること、小規模な軍を効率よく動かすこと、許可証の分配に代わる新しい求心力を作ることです。
もう一つが利益配分です。ヌルハチは、女真族が内紛や分裂を起こすのは財産に対する私利私欲が原因だと理解していました。そのためルールを決め、合意を図り、貧困層にも配分して格差が広がりすぎないよう、非常に気を使っていたといいます。
こうした施策を打つための体制づくりの目玉が、歴史学でもホットな研究テーマだという八旗制度 ── ヌルハチが整えた、軍事と行政を一体化した組織。後の清王朝でも支配層の基盤として続きましたです。楊さんは諸説あると断ったうえで、エッセンスを紹介しています。
八旗制度は、行政と軍事動員を同じ組織で行う仕組みです。女真族が伝統的に使っていた「ニル」という狩猟組織、特に巻き狩り ── 獲物を大勢で囲い込み、包囲を狭めて仕留める狩猟法。騎馬民族の間で広く行われ、軍事訓練の意味も持ちましたの陣形を、そのまま国の統治に広げたといいます。
ヌルハチはこの4つの部隊に合わせて4つの器を作り、国の構成員を全員そのどれかに入れました。4つの軍団であり、4つの行政組織でもあるこの仕組みが後に8つに拡大され、それぞれが色違いの旗を持ったことから八旗と呼ばれます。
すべての女真族や漢族がいずれかの旗に配属され、そこで戸籍が管理されました。これによって元の氏族や部族の単位が解体され、ヌルハチは部族の制約にとらわれず、人や軍団を機械的に動かせるようになります。
氏族や部族の単位で人が集まり、有力者が分割して治める。楊さんの例えでは、仲間同士のサークル活動の延長でビジネスをしている状態
全員が旗に所属して戸籍管理され、兵役・労働力・税・戦利品の分配も旗を通じて行う。法人を作り、会社組織と役職を整えた状態
例えば農地の開墾が決まると、それぞれの旗に「男を何人出せ」と指示が下り、労働力が体系的に集められました。各旗はヌルハチとその息子たち、つまり王族が「旗王」として率いましたが、特定の軍団を長く掌握させないように、全体の指揮者はその都度定められたといいます。
楊さんが最も重要だとするのは、八旗制度が女真族になじみのある組織編成だったことです。中央集権化を目指しながら、そのやり方は女真族に合っていて、導入のハードルが低かったのです。
かつその(八旗制度は)部族とか氏族の繋がりを断ち切った。
楊さんは、半分は慣れたやり方で、半分は慣れないことをさせられるハイブリッド型だったからこそ受け入れられたと話します。全部が新しいわけではないという絶妙な妥協点が、後の清王朝でも機能していったと研究されているそうです。
深井さんの感嘆に対し、楊さんは「選択肢もなかったのだと思う」と応じています。
後金建国と「皇帝」の名乗りは何を意味したのか
八旗制度などの手を打ちながら、ヌルハチは国の名前を変え、新たに後金 ── 1616年にヌルハチが建てた国。12世紀の女真族の王朝「金」を受け継ぐ意味を込めた名で、後に清と改められますを建てます。明から経済制裁を受けて3年後のことで、楊さんはこれを、明と完全に決別して独立する道を選んだものだと説明しています。
ヌルハチは臣下からハン ── 遊牧民の世界で君主を指す称号。チンギス・カンの「カン」も同じ系統の言葉ですに推戴されました。ほかの女真部族にはすでにハンを名乗る者がいたため、ヌルハチも同じ立ち位置に立つ必要があったのです。
さらに重要なのは、ヌルハチが明などとの外交文書で皇帝を名乗ったことです。明には皇帝がいて、皇帝は唯一でなければなりません。楊さんは、皇帝を名乗るのは冊封体制 ── 中国の皇帝が周辺国の君主に称号を与え、君臣関係を結ぶ国際秩序。朝貢と引き換えに交易などの利益を得る仕組みでしたから外れ、「あなたのマネジメント下にはいない」と宣言したことになると話しています。
この名乗りが決定打となり、ヌルハチは明との開戦に踏み切ります。しかも、軍事衝突を仕掛けたのはヌルハチの側でした。
楊さんによると、後金は相当追い詰められていました。経済制裁が効いていたうえに、農業を頑張っても凶作で、毛皮も売れません。自力で解決する道がなく、経済基盤を得るには明から戦争で奪うしかなかったのです。
2万対10万、サルフの戦いの顔ぶれ
こうして建国間もない後金の存亡をかけた決戦、サルフの戦い ── 1619年、後金軍が明と朝鮮などの連合軍を撃破した戦い。明清交代の流れを決定づけた戦いとして知られますが始まります。楊さんは明治日本がロシアと戦うような構図だと表現しています。明は後金を討つため、10万の大軍を送り込みました。
このときヌルハチは60歳でした。深井さんは驚き、楊さんはヌルハチが急な成り上がりに見えて、実は30年ほどかけて着実に勢力を築いていたと補足しています。
満州国平定までが早くて、それから長くずっと、要は既得権益で生きてたってことですね。明との。李成梁と一緒に。
後金軍は約2万で、諸説あります。総大将はヌルハチで、前回紹介された五大臣が主な武将を務め、息子たちも出陣しました。
五大臣は、挙兵の時からの付き合いで60歳の筆頭エイドゥ、頭の切れる参謀型のフィオンドン、娘婿のホホリ、祖父の代からの郎党アンバフィヤング、養子のフルガンです。息子には後に清の初代皇帝となるホンタイジやダイシャンがいて、14歳で父の仇を討ちその肉を食べたというヤングリも名を連ねます。
一方の明軍は10万で、イェヘ部や朝鮮の軍も加わっていました。総大将の楊鎬は東北の防衛を担当した経験があり、秀吉の朝鮮出兵では明側の総司令官を務めた人物で、楊さんは「加藤清正に負けてますけどね」と添えています。
楊鎬の下には4つの軍団があり、軍団長の多くも朝鮮出兵で豊臣軍と戦っていました。楊さんはこれを野球の「打線」のように紹介しています。
| 軍団長 | 経歴 | 楊さんが紹介した特徴 |
|---|---|---|
| 杜松 | 対モンゴルの戦いで常勝 | 体の30か所の刀傷を人に見せて自慢する |
| 劉綎 | 朝鮮出兵で指揮官として出陣 | 重さ72キロの大刀を馬上で振り回す |
| 李如柏 | 李成梁の息子で、朝鮮出兵で小西行長を破る | 病気で退役し、20年のブランクがある |
| 馬林 | 東北地方の防衛長官の経験者 | 大軍と戦った経験はない |
やばくない?72キロ。やばい、馬がやばい。
ヌルハチの勝利条件は、なぜ「めちゃくちゃシビア」だったのか
明軍の作戦は、全軍を4つの軍団に分けて別ルートで進ませ、ヌルハチの本拠地を一挙に叩くというものでした。楊さんによると、これは外線作戦 ── 複数の部隊を別方向から進ませ、敵を包囲して戦場の主導権を握る用兵。兵力で勝る側に有利な戦い方とされますと呼ばれる用兵で、守る側は兵力を分散するか各個撃破するしかありません。
兵力で劣るヌルハチには、分散する余地はありません。女真族は騎馬の野戦に強い一方で籠城戦に弱く、明軍は最新式の火砲を備えていたため、木造の要塞が中心の女真族の城では持ちこたえられないとみられました。
残る道は各個撃破ですが、楊さんはその条件がめちゃくちゃシビアだと説明しています。
ヌルハチの基本構想は、明軍の必殺技である火砲を封じることでした。明軍を野戦に引っ張り出して白兵戦に持ち込めば、重くて装填に時間のかかる火砲は力を発揮できないと踏んだのです。
後金側の強みは、ヌルハチ一家の鉄壁の連携と機動力です。明側は軍団長同士の関係があまり良くなく、急いでかき集めた10万人は訓練不足でした。
さらに戦場はヌルハチの勢力圏内で、土地勘を生かせ、移動も情報収集も有利です。何より、明軍のように大規模な兵站を用意する必要がないことが、後金側のアドバンテージだったと楊さんは説明しています。
7つの恨みを天に訴えて、追い詰められた開戦へ
開戦にあたり、ヌルハチは明がこれまで犯してきた7つの罪状を紙に書いて読み上げ、戦勝祈願の儀式を行いました。祖父と父を殺されたことや国境侵犯などを挙げ、正義の戦いであると天に訴えたのです。
祈りの後、ヌルハチは頭を地面にこすりつけてお辞儀をし、紙を焼き捨てて儀式を終え、戦いに向かいました。楊さんは、後金は尻に火がついた状態で追い詰められて開戦したと繰り返しています。
どう勝ったのかは次回に持ち越されます。楊さんは資料を読んでいて、よく後金が空中分解しなかったと感じたそうです。この疑問に対して、樋口さんはトップの人格が大きいのではないかと考えています。
トップがすっごい焦ってたりしたらすごいみんなも焦ると思うし、そういう属人的なところが結構こういう時の危機的状況で(影響する)。
楊さんは「戦の前で寝ちゃうぐらいだからな」と応じたうえで、個人的なイメージとして、ヌルハチは輝かしいタイプではなく、サラディンのような真面目な人物だと語ります。一手一手を着実に踏んでいく人で、自分が偉いという態度は出さなかったといいます。
まとめ
秀吉の朝鮮出兵をきっかけに明が衰退し、後ろ盾を失ったヌルハチは経済封鎖で追い詰められます。ヌルハチは狩りの陣形をもとにした八旗制度で国を作り直し、後金を建てて皇帝を名乗り、10万の明軍とのサルフの戦いに踏み切りました。
- 秀吉の朝鮮出兵は、明の財政危機と辺境防衛の崩壊を加速させた
- 李成梁の失脚と人参をめぐる摩擦を経て、明は貿易許可証の停止という経済封鎖に出た
- 八旗制度は、なじみのある巻き狩りの陣形を使いながら部族の繋がりを断ち切るハイブリッド型の仕組みだった
- 皇帝の名乗りは冊封体制からの離脱宣言であり、追い詰められた後金は自ら明に戦いを仕掛けた
- 2万対10万のサルフの戦いでは、4つの軍団を各個撃破するというシビアな条件が課されていた

