四方の敵に信長はどう立ち向かったのか
天下人となった信長は、領土が広がったことで、それまで接していなかった勢力と国境を接するようになります。しかも、その相手の多くは畿内から遠く離れた人たちでした。
将軍の足利義昭は、この時期も将軍の地位にとどまっています。深井さんによると、義昭は信長の権力を認めない人たちの旗頭のような立場になり、その呼びかけに各地の勢力が呼応して、信長と対立する状況が生まれます。
信長が戦った相手は、毛利、長宗我部、武田、上杉などです。これだけの相手に信長が一人で対応することはできないため、軍司令官を任命して各地に派遣し、大きな権限を任せる戦い方を取りました。これが方面軍 ── 特定の地域の攻略や防衛を任された軍団のこと。信長は軍団長に大きな軍事権限を与え、複数の戦線を同時に進めさせましたです。
深井さんは、方面軍は他の大名には見られない戦い方だと説明します。他の大名はそもそも、方面軍を派遣しなければならない状況に置かれていなかったからです。
自分の領国守ってるだけだから、基本的には。そんな広範囲に一人で対応できないレベルで、同時多発的に戦争するみたいなことをやってるっていう人はいないわけですよ。
同時に多くの戦線を抱える状況は信長が初めて経験するもので、ここで信長のマネジメント手法も変わっていきます。各方面軍の配置は次のように整理できます。
| 軍団長 | 方面 | 主な相手・役割 |
|---|---|---|
| 織田信忠 | 武田攻め | 織田軍の主戦力として武田と戦う |
| 神戸信孝 | 四国方面 | 長宗我部 |
| 柴田勝家 | 北陸方面 | 加賀・能登を制圧し上杉と対峙 |
| 佐久間信盛 | 大坂方面 | 本願寺(一向宗) |
| 羽柴秀吉 | 中国方面 | 毛利 |
| 滝川一益 | 信濃方面 | 関東との外交 |
| 明智光秀 | 畿内方面 | 中央権力の近くで畿内を防衛 |
明智光秀が任された畿内方面軍は、中央権力のいちばん近くで畿内を守る軍隊でした。樋口さんが「めっちゃ信頼されてるよね」と反応すると、深井さんも「超信頼されてる」と応じています。
方面軍の軍団長のうち、信長の息子以外の柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀は、実力主義でのし上がった非常に優秀な人たちでした。楊さんは、織田の家臣団の中では会社のような熾烈な出世競争があり、伸び悩む人や戦死する人、結果が出ずに外されるベテランもいたと補足しています。
勝ち続けた軍団と追放された宿老
方面軍の戦いぶりは軍団ごとに大きく違いました。まず織田信忠の軍は、長篠の合戦で武田を破り、その後の甲州征伐 ── 長篠の合戦後、織田軍が甲斐の武田氏を攻めた戦い。1582年、武田勝頼の自害で武田氏は滅亡しましたでも活躍します。
甲州征伐では信長が総大将となり、家督を継いだ信忠が参戦しました。信忠の軍は武田信玄の息子である武田勝頼を自害に追い込み、武田氏は滅亡します。
深井さんによると、この信忠軍の活躍は滝川一益のおかげだとも言われています。滝川一益は関東方面の抑えとして外交を担当しながら、実際の戦いでも功績を残していました。
一方、四国方面軍を率いた神戸信孝は、長宗我部を攻める前に本能寺の変が起こったため、何もできずに終わりました。
北陸方面の柴田勝家は、上杉謙信や一向宗というかなり強い相手と戦い続けながら、ある程度の功績を上げていきます。滝川一益は信忠とともに関東を平定し、その後は関東管領 ── 室町幕府が関東の統治のために置いた役職。深井さんは、滝川一益が関東管領のような立場で関東を治めたと表現していますのように関東を治め、外交を任されました。
対照的なのが、本願寺攻めを命じられた佐久間信盛です。佐久間信盛は信長の初期には主戦力として活躍した宿老でしたが、本願寺を倒せないまま和睦に至り、成果が出ないとして追放されました。
楊さんによると、信長は佐久間信盛に手紙を送り、悪い点を並べて厳しく詰めたうえで、親子ともども頭を丸めて高野山へ行くか、実績を出すかを迫ったといいます。佐久間信盛は出家を選び、追放されました。
楊さんは、信長の手紙には佐久間信盛が収入を茶器ばかりに使っているのではないかという指摘まであったと紹介し、深井さんも「そんなこと言われるんや」と驚いています。
羽柴秀吉と明智光秀はどう出世したのか
羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉は、とても低い身分から信長に取り立てられ、方面軍の軍団長にまで抜擢された人物です。深井さんは、これはかなりすごいことだと話します。
身分が低かった秀吉には、もともと譜代 ── 先祖代々その家に仕えてきた家臣のこと。身分の低い出身の秀吉には、こうした家臣がいませんでしたの家臣がいませんでした。そのため秀吉は、信長側の子を養子に迎えるなど、人間関係を工夫しながら信頼関係で家臣を作っていきます。
秀吉は信長の美濃攻めの頃に頭角を現し、各地を転戦し、京都では行政職も務めていたといいます。浅井攻めの頃には、重臣の丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」を1字ずつもらい、苗字を羽柴に改めました。深井さんは、こうして人間関係を作っていたのだろうと見ています。
秀吉はもともと毛利との外交を担当しており、その流れで中国方面軍に任命されました。外交がうまく、籠城する相手にも水攻めで対抗するなど強さを見せます。高松城を水攻めしている最中に本能寺の変が起こり、秀吉は毛利とすぐに和睦して引き返し、光秀を討ち取りました。
楊さんが有名な中国大返し ── 本能寺の変の後、秀吉が中国地方から畿内へ軍を急いで戻したとされる行軍。驚異的な速さとして語られてきましたに触れると、深井さんは、実は常識的な速度だったというのが新説だと紹介しています。
そして明智光秀です。深井さんは、光秀こそが実質的にいちばん信頼されていた家臣だったのではないかと考えています。
実質的におそらく一番信頼されてたのは彼(明智光秀)だったんじゃないかなと思うぐらい、バチクソに優秀です。
光秀は何を任せてもこなせる人物で、延暦寺の攻略も任され、惟任 ── 信長が明智光秀に与えた姓。光秀は「惟任日向守」とも呼ばれましたという新しい名字も与えられました。深井さんは、これは非常に光栄なことだったと説明します。
明智光秀は、主な軍団長の中で最も遅く信長の部下になった人物です。もともとは将軍義昭の部下で、義昭と信長の間を取り持つ立場から、両者が対立したときに信長側につき、そこから方面軍の軍団長にまで上り詰めました。
優秀な光秀は、武田攻めへの従軍や秀吉の中国攻めの支援など、各地に連れ回されます。そして中国地方へ向かう途中、光秀はその命令に従わず本能寺に攻め入りました。これが本能寺の変です。
なぜ光秀が本能寺を攻めたのかについて、深井さんは、推論はいくつも挙げられるものの、本当のところはもうわからないと話しています。
方面軍を可能にした信長の強さとは
信長軍が強かった理由について、深井さんは、歴史学の定説ではなく本を読んだうえでの考えだと前置きしながら、いくつかの要素を挙げます。1つ目は、家臣団に対する統制の強さです。
信長は家長になる過程で家臣の力をあまり借りておらず、家臣から恩を受けていませんでした。そのため比較的専制的な体制を築くことができ、中央集権的に命令を出すことが自然にできたといいます。
この統制の強さがあったからこそ、同時多発的な戦争に対して方面軍を作ることができました。信長は、軍団長が攻め取った土地をそのまま与えるのではなく、主に軍事の権限を渡していたと深井さんは説明します。
普通の大名の軍は、自分の土地を持つ在地領主とその家臣がワンセットになっています。信長の方面軍では、たとえば柴田勝家も、その下にいる前田利家も、それぞれ土地を持つ在地領主のままです。そのうえで、そのプロジェクトに関する軍事動員権を軍団長の柴田勝家に持たせていました。
在地領主が自分の土地と家臣をワンセットで率いて戦う
土地はそれぞれが持ったまま、軍団長に軍事動員権を与えて複数の領主を率いさせる
深井さんは、信長がこうした仕組みで土地と人の動きを切り離したことを重視しています。
ただし深井さんは、武士にとって土地から離れることはリスクなので、この仕組みは信長の力が強くなければ実現できなかったとも話しています。
もう1つの要素は、尾張と美濃という土地の良さです。尾張と美濃は生産力が高く人口も多いうえ、上洛によって信長は、もともと人口が多いのに政治的には細かく分断されていた畿内を押さえることができました。
深井さんによると、他の地方の武将の人口を全部足しても信長に届かないほど、畿内の人口は多かったといいます。楊さんも、畿内は人口密度の高い都会だったと相づちを打っています。
深井さんは、信長の強さには本人の能力だけでなく、ルーツや権力の形成過程といった幸運な要素も影響していると考えています。それでも方面軍を指揮できたこと自体は相当すごいことだと評価しています。
いちいちね、コンセンサス取ってやりながらしたら、あんまりスピーディーな軍事展開できないだろうしね。
信長はなぜ何度も裏切られたのか
信長は、松永久秀、荒木村重、別所長治、明智光秀、浅井長政など、多くの人物に裏切られています。この裏切りの多さは、信長の切れやすい性格のせいだと語られることが少なくありません。
しかし深井さんは、信長の性格を示す話の多くは二次資料に基づくもので、創作の可能性があると指摘します。光秀に対してひどい仕打ちをしたという話も、意外と信用できないと言われているそうです。
深井さんが裏切りの理由として考える1つ目は、負担と見返りの偏りです。信長は領土を広げながら家臣に大きな負担をかけますが、最終的に得をするのは基本的に信長の家であり、信長の息子たちが優遇されました。
身内や尾張出身の武将が大事にされる一方で、外様 ── 主家に途中から仕えるようになった家臣のこと。代々仕えてきた家臣に比べ、主君との結びつきが弱い立場でしたの武将は、ないがしろにされていると感じることがあったかもしれません。深井さんは、裏切った人たちは比較的こうした立場の人だったと話し、樋口さんも「明智も外様だよね」と応じています。
家臣同士のつながりも関係していた可能性があります。尾張出身で信長が台頭する前から仕えていた秀吉の場合は、秀吉の家臣も信長と信頼関係を持っていました。一方で、光秀のように裏切った武将の家臣は、信長と直接の関係があまりなかったといいます。
確かに家臣がさ、信長と関係性があったらさ、なかなかね、当主が裏切ろうって言っても、そのコンセンサスを取るのにすごいハードルがかかったりするもんね。
もう1つの理由は、信長の活動量の多さです。深井さんは、当時は誰もが裏切られていたものの、信長がいちばん積極的に動いていたため、裏切られる機会も多かったのではないかと考えています。
深井さんは、信長の性格よりも、活動量や裏切りやすい条件が重なったことのほうが説明として妥当だと話します。そのうえで、会社でも起きることは大体属人的な理由ではないという考えを示しています。
ある性格の人がある地位に就くこと自体が起こりうる以上、それは環境の因子だと深井さんは考えます。個人の問題に帰結させると解決も本質の理解もできないとし、信長の問題も同じように見ると面白いと、個人的な見解として語っています。
樋口さんが「裏切りがデフォルト」とまとめると、深井さんは会社の地元出身者のつながりや学閥にも触れ、信長の周りにも似た力学があったのかもしれないと話します。次回はシリーズ最終回として、いよいよ本能寺の変が語られます。
まとめ
今回の回では、信長が同時多発的な戦争に対応するために方面軍を作り、明智光秀や羽柴秀吉ら優秀な武将に大きな軍事権限を渡した仕組みが語られました。信長の強さと裏切りの多さは、どちらも性格より統治の構造や環境から説明できるかもしれない、という視点が示されています。
- 信長は毛利、長宗我部、武田、上杉などと同時に戦うため、方面軍を各地に派遣しました
- 方面軍は、土地を持つ在地領主のまま、軍団長に軍事動員権を与える仕組みでした
- 明智光秀は畿内防衛を任され、深井さんはいちばん信頼されていた家臣だったのではないかと見ています
- 統制の強さと、尾張・美濃・畿内の人口の多さが方面軍を支えたと考えられます
- 裏切りの多さは、外様の不満や家臣同士の関係、信長の活動量といった環境から説明できると深井さんは話しています





