追放された義昭は何をしたのか?
前回までの流れで、織田信長は将軍足利義昭を追放し、その代行者として天下を取り仕切り始めました。楊さんによると、義昭を京都へ戻す計画もあったものの、交渉は決裂したようです。
楊さんは、信長が最初からすべてを奪うつもりだったわけではないと見ています。義昭を追放した結果として、自分が取り仕切るしかなくなったのではないか、という見方です。
信玄の死でいったん収まった信長包囲網は、すぐに再び動き出します。まず石山本願寺 ── 大阪にあった浄土真宗(一向宗)の本山。寺内町を抱え、各地の門徒を動員できる大きな勢力でしたとも呼ばれる大阪本願寺が、講和を破棄して蜂起しました。
本願寺が蜂起したきっかけは、追放された義昭からの働きかけでした。追放されても義昭はまだ将軍なので、謀反人である信長を討ってほしいという呼びかけに本願寺が応じた形です。
さらに信玄の息子の武田勝頼が、父の死後も同じ方針で徳川家康の領国へ攻め込みます。この武田軍と織田・徳川軍の戦いが、有名な長篠の戦いです。
信長は当初、本願寺との戦いを優先したかったようです。しかし家康から何度も救援の要請が届き、しぶしぶ援軍を出すことにしました。深井さんは、長篠の戦いはあくまで武田と徳川の戦いで、織田は援軍という位置づけだと補足しています。
長篠の戦いの「三段撃ち」は本当にあったのか
長篠の戦いについて、楊さんは中学校の社会で「集団戦法による勝利」と習ったといいます。騎馬隊が強い武田軍に対し、織田軍は大量の火縄銃を3列に並べ、順番に撃って勝ったという説明です。
この説明の前提には、火縄銃は弾込めに時間がかかるという事情があります。深井さんによると、弾込めには15秒から20秒ほどかかったそうです。
ところが楊さんは、こうした三段撃ちの説明は最新の研究ではかなり変わってきていると話します。まず、武田軍にも鉄砲隊がいました。鉄砲は織田軍だけの武器ではなく、武田軍も騎馬隊だけに偏った編成ではなかったようです。
順番に一斉射撃をする戦法が本当に機能したのかについても、疑う説があります。敵は横一列で迫ってくるわけではないので、距離を測って届くときに撃たなければ意味がないはずだ、という指摘です。
弾込めの速さにも人によって差があります。全員で一斉に撃つには一番遅い人を待たなければならず、それが本当に合理的なのかという疑問も出ています。
楊さんによると、見方が分かれる原因は史料にあります。三段撃ちの細かい記述があるわけではなく、それらしいことが1行ほど書かれているだけなので、それを拡大解釈していた可能性があるのです。
三段撃ちのイメージが広まった経緯についても、番組では説明がありました。江戸時代の小説などに三段構えが盛り込まれ、明治時代には帝国陸軍が戦史を編纂するときに「三段撃ち」と書いたことで、この説が流布したといわれています。
騎馬隊の武田軍に対し、鉄砲を持つ織田軍が3列で順番に撃つ三段撃ちで勝った
武田軍にも鉄砲隊がいて、編成は騎馬隊だけではない。一斉射撃が機能したかにも疑問がある
ただし楊さんは、これも諸説あると強調しています。新しい説が正しいとは限らず、古い説のほうが正しい可能性もあるという慎重な立場です。
新技術の鉄砲はなぜすぐに広まったのか?
深井さんは、鉄砲という新しい技術が多くの大名に広まったこと自体が面白いと話します。中央集権国家であれば、新技術は権力者が独占し、生産や配分を管理するはずだからです。
新しいテクノロジーが来た時に、もうみんな使えるっていうのが本当にすごいなと思ったもんね。
深井さんによると、鉄砲は伝来の翌年ごろにはすでに国産化されていたはずで、堺などでも作れるようになりました。権力が統一されていない時代に伝わったからこそ、鉄砲はいろいろな大名に行き渡ったのではないか、というのが深井さんの見方です。
樋口さんは当時の技術力の高さに感心し、楊さんも日本はハードウェアに強いと応じています。
天下人に与えられた官位はどれほど高かったのか
長篠の戦いは、なぜ勝てたのかが諸説ある戦いです。それでも織田・徳川軍は武田軍に勝ち、武田家はこの敗戦をきっかけに段階的に衰え、最終的に勝頼の代で滅びます。
楊さんは、武田に勝ったことが天下を治める道を大きく近づけたと話します。義昭は追放され、武田も破れたため、朝廷の中でも実質的な権力者は信長だと認められるようになり、信長自身も公家に近づいていきました。
朝廷からは、ついに官位に就いてほしいという要請が届きます。このとき信長が得た役職は従三位権大納言兼右近衛大将という長い名前で、将軍義昭と同じくらいの位だったそうです。
楊さんによると、右近衛大将 ── 朝廷の武官の最高位の1つ。源頼朝が任じられて以来、武家の棟梁を象徴する官職と見なされてきましたは、朝廷の庇護を受ける武家の頭領に与えられる官職です。征夷大将軍はまだ義昭でしたが、信長は実質的に将軍と同等の武家の頭領になりました。
楊さんが強調するのは順番です。信長は実質的に天下人になったあとで右近衛大将をもらっているので、先に実があって、名前が後から付いてきたことになります。
信長はその後すぐに正二位右大臣兼右近衛大将へ昇進し、当時の武家として最高位に就きます。楊さんは、これで信長は将軍より上に行ったと説明しています。
名実ともにトップみたいな。
しかし信長は、数年後に官位を辞任します。理由については、息子に家督を継がせて官位を渡してもらうためという説と、朝廷のシステムに組み込まれたくなかったという説があり、楊さんによると最近は前者が有力だといいます。
信長の権力は室町幕府と何が違ったのか?
楊さんは、この時点での信長の権力を室町幕府と比べて説明します。室町幕府では、将軍と畿内の有力者が連立政権を作るのが特徴でした。将軍が専制を強めても連立に引き戻されることが何度かあり、やがて将軍の権力が落ちて応仁の乱に至ります。
将軍の権力が弱まっていく間は、有力守護たちが連合したり、一部が独占したりしながら権力を握っていました。
これに対して信長の場合は、畿内の有力者としての信長と、天下人としての信長が同じ人物でした。畿内にほかの有力者がいないわけではないものの、信長が圧倒的に強く、権威と軍事力の両方を一人で持っていたのです。
深井さんもこの状況は珍しいと応じ、楊さんは、幕府ができた当初の室町でさえこうはなっていなかったと話します。信長の権力は、かなり中央集権型になってきていたということです。
信長は同時に、本領の美濃と尾張を息子の信忠に譲ります。天下人である信長を中心に置き、その下に織田家当主の信忠を配置する体制で、信長が次の世代を意識し始めたことがうかがえます。
領土を広げるほど敵が増えたのはなぜか
追放された将軍義昭は、地方の有力者である毛利氏に協力を求めます。しかし毛利は信長と昔から同盟関係にあり、尼子氏とも戦っていたため、信長とまで敵対するのは避けたい立場でした。とはいえ、相手が将軍なので無下にもできません。
楊さんは、信長が畿内と美濃・尾張という広い範囲を押さえたことで、新しい問題が生まれたと説明します。これほど広い範囲を押さえた大名はそれまでおらず、領土が広がった分だけ多くの国と接するようになったのです。
領土の拡大
畿内と美濃・尾張という広い範囲を押さえる
接する国の増加
これまで接していなかった遠方の大名と境を接する
利害の対立
限られた土地を取り合うため、利害がぶつかる
新たな戦争
毛利や上杉など遠方の強豪との戦いに突入する
この流れで、信長は毛利や上杉といった強大な大名との戦争に入ります。楊さんによると、信長はこの戦争の途中で本能寺の変によって殺されることになります。
出演者の一人は、陣地取りのオセロのようだとたとえました。楊さんも、白か黒しかなく、マスの数が決まっているから戦争になるのだと応じています。こうして毛利とも対立し、毛利と義昭が手を組むことになりました。
安土城はなぜ派手に造られたのか?
義昭は京都を離れて毛利のもとにいながら、各地の大名に信長打倒を呼びかけ続けます。一方の信長は天下人としての役割に専念し、琵琶湖のそば、近江の安土に城を築きます。
楊さんによると、安土は京都へ物資を運ぶ要所であり、信長の領国である美濃・尾張からも遠くありません。京都を押さえつつ、領国にもにらみを利かせられる場所でした。
深井さんは、安土城を「やばい城」と表現します。城そのものは残っておらず石垣だけが残っていますが、復元されたものを初めて見たときの印象をこう語りました。
初めてこれ(安土城)見た時に、なんつうのかな、なんか魔改造した暴走族のバイクみたいな感じだった。
番組では、城は本来、防御力を高めた軍事拠点であるのに対し、安土城は防御力がそれほど高くなかったとも紹介されました。機能性やコストよりも目立つことを優先し、ほかの大名とは違う存在になった自分の権威を見える形にしたかったのではないか、という説です。
安土城は10階建てのビルに相当する高さで、外壁は金・青・赤・白・黒に塗り分けられた極彩色でした。瓦の1枚1枚に金箔が貼られ、当時一流の職人たちが費用を惜しまず集められたといいます。
楊さんは、安土城の築城を大きな転換点と見ています。当時の戦国大名は、在地領主として領国経営に専念し、自分たちを守るために戦うのが普通でした。信長は、天下を運営するにはどこに城を持つべきかという視点で安土を選んだのです。
城下町を作って経済圏を生み出せば、人や物の流れができ、税も取れて物資の調達も楽になる、という補足もありました。
視座が上がっている、という指摘に対して、楊さんは少し違う見方を示します。視座が高かったからではなく、一人だけそういう状況に置かれたからだというのです。永禄の政変で偶然めぐってきた上洛のチャンスを、ほかの大名が避けたリスクを取ってつかんだことが大きいと、楊さんは話しています。
深井さんは、信長と父の信秀が3、4回も城を移していることにも注目します。ほかの大名にはあまり見られない行動で、土地への帰属意識が薄く、一番よい位置へ合理的に移る選択をしやすい人たちだったのかもしれない、と深井さんは見ています。
楽市楽座は信長のオリジナル政策だったのか
楊さんは、天下人としての信長の政治を一言でまとめます。ほかの大名がやっているよい政策を、手堅く取り入れてきちんと実行した、というものです。
楊さんはこれを、今のチームづくりで心理的安全性を取り入れるようなものだとたとえました。きちんと実践しているものの、心理的安全性を最初に提唱したのは自分ではない、という感覚です。深井さんも、定石を押さえる感じだと応じています。
その代表例が楽市楽座です。従来は、自由な商売や交易を促し、都市を発展させて税を多く取るための、トップダウン型の革新的な施策だといわれてきました。ところが楊さんによると、楽市楽座は信長が始めたものではなく、六角氏をはじめとするほかの大名も行っていました。
楽市楽座の「座」は、商工業者のギルドにあたる相互扶助組合です。ただし非常に排他的で、よそから安くてよい品を持ってきた商人がいても売ることはできず、売っていれば取り上げてよいという決まりまでありました。
座は市場を支配していて、そこで物を売れるのはギルドのメンバーだけでした。楽市楽座は、この座を解体して市場を開放し、誰でも商売できるようにする政策です。
排他的なギルドである座が市場を支配し、よその商人は売ることができない
座を解体し、市場の税や労役も軽くして、誰でも商売できるようにする
楽市楽座を行った目的について、楊さんは、戦争で荒れた土地に人を呼び戻すためだったようだと話します。人口を増やして税収を上げ、都市として成り立たせる狙いがあり、深井さんはこれを都市形成とまとめています。
楽市楽座は今川、徳川、上杉なども行っていたそうです。トップダウンといわれてきた点についても、実際には地域住民の要望を聞きながら、地域ごとにカスタマイズしていたと書かれていたといいます。
深井さんが読んだ資料によると、信長が座を否定する命令を出したのは3回だけでした。京都や堺のようにすでに発展していた商業都市では、座をそのまま残したほうが得になるため、座を認めていたそうです。むしろ残したケースのほうが多かったともいわれています。
関所の撤廃と南蛮貿易に見る合理性
信長は楽市楽座と並んで、関所の撤廃や道路・橋の整備も進めました。楊さんによると、これも信長の独創ではありませんが、同時代にすでによい政策だと評価されていたそうです。
中世の日本には、朝廷や幕府、寺社などが設けた関所があちこちにあり、通るたびに関銭 ── 中世の関所で通行する人や物に課された通行料。関所を設けた領主や寺社の収入源になっていましたを取られていました。
関所の乱立
朝廷・幕府・寺社などがあちこちに関所を設ける
通行コストの増加
通るたびに関銭を払う必要がある
物流の停滞と物価高騰
商人が商売を控え、物の値段が上がる
関所の撤廃
ほかの大名にならい、信長も関所をなくしていく
深井さんは、関所には戦争中に物流を止める経済封鎖の役割もあったと補足します。米や火薬の材料、鉄砲の取引を関所で止めて、敵を弱らせる使い方です。
楊さんによると、火薬の原料の硝石 ── 火薬の主な原料になる鉱物。当時の日本では自給が難しく、主に海外との貿易で手に入れていましたは日本では作れず、貿易で手に入れていました。信長が南蛮人と親しく、キリスト教を保護したのも、火薬を仕入れる貿易相手として大事にしていたからだと楊さんは説明します。
深井さんは、内陸にあって港を持たなかった武田が、硝石や鉄砲の調達に苦労したといわれていると補足します。港を押さえた信長の判断は合理的だったというわけです。
楊さんは、こうしたことは当然思いつくものかもしれないとしつつ、信長のすごさは頭のよさより実際にやり切ったことにあると話します。信長の政治は天才型ではなく秀才型だった、というのが楊さんのまとめです。
次回予告:方面軍という新しいマネジメント
次回は、畿内を統一した信長が、毛利や上杉、四国の長宗我部など遠方の大名と戦う話に進みます。そこで信長は、信頼できる武将をリーダーとして派遣する「方面軍」という戦い方を取ります。
楊さんによると、信長の戦線は、一人で戦える範囲をはるかに超えていました。そこまで手を広げた戦国大名はそれまでおらず、信長は新しいマネジメントの方法を取り入れることになります。
深井さんは、信長の多忙ぶりも紹介しています。合戦が続いた時期は週に1回のペースで出陣していて、馬に乗りながら寝ていたという記述も残っているそうです。
まとめ
今回のエピソードで描かれた信長は、革新的な天才というより、周囲の状況と他の大名のよい政策を取り入れて、きちんと実行する天下人でした。長篠の三段撃ちや楽市楽座のような通説も、最新の研究では見直しが進んでいます。
- 長篠の戦いの三段撃ちは、史料のわずかな記述が拡大解釈されたものという見方があり、諸説ある
- 信長は実質的に天下人になってから官位を得ており、実が先で名が後だった
- 領土が広がるほど接する国が増え、毛利や上杉との戦争へ進む構造が生まれた
- 安土城は京都と領国の両方を押さえる要所に建てられ、権威を見せることに振り切った派手な城だった
- 楽市楽座や関所の撤廃は他の大名も行っていた政策で、信長はそれを手堅く取り入れて実行した





