なぜサラディンはエルサレム王国に向かったのか
エジプトとシリアを押さえたサラディンは、いよいよエルサレムを狙い始めます。深井さんは、サラディンの勢力が十字軍国家とすぐ隣り合っていたため、互いに無視できない関係だったと説明します。
十字軍国家の中心は、第1回十字軍でゴドフロワが初代の王となったエルサレム王国です。西ヨーロッパ側でも、サラディンがシリアとエジプトをまとめたことは大きな脅威として認識されていました。
シリアとエジプトまとまっちゃったよ、やばいよみたいな。まあイスラーム全部から含めると、本当ごく一部がまとまっただけなんだけど。
深井さんによれば、イスラーム世界全体から見ればごく一部の統一にすぎません。それでも、出先に作られた「出張国家」のような十字軍国家にとっては十分な脅威だったといいます。
休戦を破ったルノー・ド・シャティヨンの襲撃
サラディンと十字軍国家は小競り合いのあと、一度休戦協定を結んでいます。その休戦を破ったのが、アンティオキア公のルノー・ド・シャティヨンルノード・シャティオンでした。
アンティオキアは大司教 ── キリスト教で、複数の教区を束ねる上位の聖職者。古い大都市に置かれることが多い地位ですも置かれたキリスト教の古い都市で、ビザンツ帝国領からムスリムの支配下に入り、それを十字軍国家が取り返した街だと説明されています。
この人がなんか休戦協定結んでんのに、サラディンの妹がなんかこう、帯同していたと言われているムスリムのキャラバンを襲って、急に休戦破棄するんですよ。
サラディンはこれに反撃し、休戦から1ヶ月もしないうちにエルサレム王国へ侵入します。この最初の衝突では、サラディンの息子アル・アフダルが7000人のイスラーム教徒戦士を率い、140名のキリスト教徒の騎士を打ち破ったといいます。
休戦協定
サラディンと十字軍国家が一度休戦する
休戦破棄
ルノー・ド・シャティヨンがサラディンの妹が帯同したキャラバンを襲う
反撃と侵入
1ヶ月以内にサラディンがエルサレム王国へ侵入し、7000対140の衝突で圧勝
決戦
ハッティンで大きな戦いが起こる
両軍の戦力と、まとまらない十字軍国家
ハッティンの戦いの戦力について、深井さんは書物の記述を紹介します。キリスト教側は、3つの十字軍国家の全軍人に、先の敗戦を生き延びたわずかなテンプル騎士 ── テンプル騎士団の騎士。第1回十字軍後に聖地巡礼者の保護を目的に結成された修道会的な騎士団ですと聖ヨハネ騎士団、緊急に集められた兵士が加わっていました。
対するムスリム軍は1万2000騎とされます。ただし深井さんは、こうした数字は毎回のことながらあまり信頼できないと断っています。
十字軍国家側でまとめ役を担ったのは、エルサレム王のギーです。深井さんは、十字軍国家の人々と、西ヨーロッパから改めてやって来る十字軍とでは、この時点ですでに感覚が違うため分けて考えるべきだと補足します。
ギーっていう人が頑張ってまとめようとするんだけど、めちゃめちゃ内輪揉めしてんだって。もうこの頃の十字軍って十字軍国家軍って。
ギーは自分の王国に侵入されながらも、諸侯の分裂のために指揮力を発揮できない状態でした。
水路を絶って煙を送る、サラディンの包囲戦術
ハッティンの戦いでサラディンが取った戦略を、深井さんは「えぐい」と表現します。最初に行ったのは、十字軍国家軍の水の補給を断つことでした。
土地柄暑く喉が渇く地域で、十字軍国家軍は喉がからからのまま一昼夜を過ごします。そこへサラディン軍は小枝や草を燃やした煙を送り込み、さらに息苦しくさせました。
息を詰まらせて、もう水が欲しくてしょうがないっていう状態にして、その水までの動線みたいなのを確定させるんですよ。
水までの動線に兵士を置き、水を飲みに来た兵士を倒していく。ハッティンの丘の泉を目指して集まってきた十字軍国家軍を、サラディンの大軍が包囲して粉砕しました。
戦いは夜明けから午後3時まで8時間続いたと言われます。深井さんは、紹介している書物ではサラディン軍の方が多いとも書かれており数字は信用しきれないとしつつ、数で上回る状況を利用して包囲したという記述があると話します。
三国志みたいな感じ。
息子が回想した戦場のサラディン
この戦いの最中のサラディンの様子を、息子アル・アフダルが回想した記述が残っています。深井さんはそれを、サラディンの人柄がわかるものとして紹介します。
アル・アフダルの回想によれば、サラディンはフランク人の軍が押し寄せるたびに神経質に顎ひげを引っ張り、配下に発破をかけて「悪魔の偽りを証明せよ」と叫んだといいます。深井さんは、宗教的な言葉で兵を鼓舞していたと解釈しています。
また、性急にイスラーム教徒の勝利を予測したアル・アフダルを、サラディンは腹立たしげに叱り飛ばしたとも書かれています。
油断すんな、まだ終わってねえぞ。
やがてエルサレム王ギーの赤い天幕が倒れ、王が降伏し、聖十字架がサラディン軍に押収されます。サラディンは馬から降りて地面に身を投げ出し、神に祈って喜びに泣いたといいます。
その後サラディンは、バグダードのアッバース朝カリフに手紙を書き、神の敵をいかに倒したかを報告しています。
水を与えなかった捕虜、ルノー・ド・シャティヨンの処刑
ハッティンの戦いでは、十字軍国家の主要な指揮官がほぼ出陣しており、そのほとんどが捕らえられました。エルサレム王ギー、王の弟アモーリー、司教のユーグなどの有力者が含まれていました。
ギーや弟は身代金と引き換えに解放されます。しかし、休戦を破ってキャラバンを襲ったルノー・ド・シャティヨンだけは許されず、サラディンが自ら三日月刀 ── 刀身が大きく湾曲した片刃の刀。西アジアやイスラーム世界で用いられた刀剣を指す呼び名として使われますで殺したといいます。
深井さんは、別の本で読んだエピソードとして、喉の渇いた捕虜たちにサラディンが水を飲ませた場面を紹介します。
で、ルノード・シャティヨンもそれ(水)取ろうとしたら、いや、お前には言ってねえからって言って、それで処刑したらしいです。
ちゃんと筋を自分の中で基準っていうか、筋っていうのを持ってるんだろうね。
さらに、200名のテンプル騎士と聖ヨハネ騎士、および従士は、サラディンの腹心や宗教関係者によって儀式にのっとって斬首されました。深井さんは、筋は通っているものの、厳しいときは厳しい人物だと評しています。
主力壊滅から2ヶ月でエルサレムの城壁へ
ハッティンの戦いの結果、十字軍国家の主力は壊滅し、十字軍国家は事実上無力化されます。エルサレムはまだ奪還されていないものの、決戦で主力を一気に潰した形です。
その後サラディン軍は、ジブレ、ベイルート、シドン、アッコン、ティベリアス、ナザレ、ナブルス、ハイファ、カイザリア、アルスーフ、ヤッファ、アスカロン、リッタ、イブラン、トロン、ベツレヘム、ヘブロンと、エルサレム周辺の都市を次々に手中に収めます。
そうか、もう一発でバーンと無力化してるから、あとはサクサクサクっといったと。
これらをおよそ2ヶ月で落とし、サラディン軍はついにエルサレムの城壁前に到着しました。
身代金22万ディナールで開いたエルサレム
エルサレムの防衛軍を率いたのはバリアン・ディブランです。深井さんは、体中が毛深く熊のようだったという記述を紹介し、樋口さんと「その特徴いる?」と笑い合います。
エルサレムの防衛軍は、主力が敗れて処刑されたこともあり、最初から兵士が少ない状態でした。サラディン軍はカタパルトやはしごなどの攻城兵器を持ち込み、激しく攻めます。
これ絶対殺されるじゃんってなるわけじゃないですか。だってね、自分たちがこの街(エルサレム)を取る時、ほぼ皆殺しにしたわけだからさ。
勝てないと判断したバリアン・ディブランは、サラディンに休戦協定を持ちかけます。サラディンは身代金を払えば解放するという条件を出し、寛容な措置として扱われました。
この身代金で22万ディナールが集まり、サラディンはそれを配下に分けたといいます。
自分の兵士の給料をいかに確保するのかって、軍団維持でめちゃくちゃ重要だったんですよね。この時サラディンは身代金を自分の兵士の給料にしたっていうことですよね。
ムハンマドの夜の旅の日を選んだ入城の演出
休戦協定が成り、サラディンはエルサレムに入城します。入城日は10月2日の金曜日で、深井さんによれば、ムハンマドがメッカからエルサレムへ夜間飛行したという伝承の日と重なるよう選ばれていました。
深井さんは、サラディンには劇的なものを見せる感覚が強く、エルサレムを取ったことがどう伝わるかを戦略的に考えていたようだと話します。
当時の武将たちにとっては、権威をつどつど主張してアピールすることって、やっぱほんと自分の勢力の基盤を固めるために(非常に重要だったんですよね)。
楊さんによれば、サラディンの支配領域の有力者やムスリムの武将は、いったん従っているにすぎません。サラディンがヌールッディーンに対してしたように、弱みを見せればいつ取って代わられてもおかしくない構造だったといいます。
入城後、サラディンは岩のドームに掲げられていた大きな十字架を下ろし、モスクの洗浄を行います。教会の土地や建物も没収してイスラームの公共施設にしました。一方で聖墳墓教会は、十字軍以前の保有者であるギリシャ正教会に戻され、キリスト教の施設として残されたといいます。
サラディンの「寛容さ」はどこから来たのか
エルサレム奪還の場面では、キリスト教徒を虐殺しなかったサラディンと、かつて虐殺した十字軍とがよく対比されます。深井さんは、この対比には慎重な立場を示します。
虐殺自体は当時結構普通のことだったっていう捉え方もできるので、特段そこでキリスト教が特段残酷で、それに対してムスリムはすごく寛容でというよりは、そういう捉え方はしなくてもいいのかなとは思ってますけどね。
楊さんも、サラディンの寛容さはイスラーム社会の慣行に従ったもので、個人の性格によるものではないという見解があると補足します。
虐殺した十字軍に対し、虐殺しなかったサラディンは寛容だった
虐殺は当時は珍しくなく、サラディンの対応もイスラーム社会の慣行に沿ったものという見方もある
ただし深井さんは、読んだ本の9割ほどは十字軍が残酷だったという書き方をしていたとも話しています。
70通の書簡と賞賛の書物による宣伝戦
エルサレム奪還のあと、サラディンは宣伝戦略を巧みに使います。楊さんは、それが権力基盤を固めるために必要だったと指摘します。
サラディンはシリアやエジプトの著名な知識人を記録者として同行させ、70通あまりの書簡をイスラーム圏の支配者に送りました。さらに、メッカやメディナ、バグダード、ダマスカス、カイロに向けて、エルサレムの重要性を説く賞賛の書物を多数書かせています。
アッバース朝カリフをはじめとする要人には、本人が手紙を送りました。その中では、エルサレムの地は清められ、3つであった神は再び1つになったと述べ、エルサレムをイスラームの勢力圏に取り戻したことを伝えています。
軍事的成功が招いたカリフ・ナースィルの警戒
サラディンはカリフに権威を認めてもらおうとしますが、当時のアッバース朝第34代カリフのナースィルナースルは、塩対応をします。
楊さんによれば、カリフを傀儡にしていたセルジューク朝が分裂して力を落とし、カリフは自らの権力基盤を取り戻そうと動き始めていました。ナースィルは国際情勢に積極的に働きかけ、牽制や連携を重ねる人物でした。
ちょっと日本史でいうと[[後白河上皇]]みたいな人なんですよ。
楊さんのたとえに出た後白河上皇は、平安末期に院政を行い、武士勢力を巧みに操った人物として知られます。ナースィルはサラディンを政治的な存在として警戒し、叱責の手紙を送ることもあったといいます。
だから彼のサラディンの軍事的な成功が、逆に政治的な危機を招いているという風にも言えるんですよね。
それでもサラディンは、カリフに反論できませんでした。カリフの権威は自分の権力基盤の一部でもあり、統治体制がまだ緩く反逆のリスクを抱えるなか、損をしてでもカリフの権威を立てる必要があったと楊さんは説明します。
英雄サラディンの本番は第3回十字軍
深井さんは、エルサレム奪還を、ムスリムにとっては奪われたものの奪還、十字軍側にとってはせっかく奪ったものを奪い返された大事件だとまとめます。そしてこの出来事が、西ヨーロッパに衝撃を走らせることになります。
樋口さんが、サラディンが英雄と呼ばれるのはエルサレム奪還のためかと尋ねると、深井さんは、それは奪還の話で、この後に防衛が続くと答えます。
これが強かったんですよ。これ(第3回十字軍)をなんとかするので、それで英雄になる。
楊さんは第3回十字軍を「十字軍オールスター」のようだと表現し、サラディンがそれをどう守るかは次回に語られます。
まとめ
ハッティンの戦いで十字軍国家の主力を壊滅させたサラディンは、周辺都市を次々に落としてエルサレムを奪還します。その過程では、容赦ない戦術、筋を通した処罰、演出と宣伝による権威づけが一体となっていました。一方で、その成功はカリフの警戒を招き、サラディンは権威の板挟みにもなっていきます。
- ハッティンの戦いでは、水の補給を断ち、煙で追い込み、泉への動線で待ち伏せる戦術で十字軍国家軍を粉砕した
- 休戦を破ったルノー・ド・シャティヨンだけを処刑するなど、サラディンは自分なりの筋に基づいて厳しく振る舞った
- エルサレムは身代金による休戦で開城し、集まった22万ディナールは兵士に分けられた
- 入城日の演出や70通の書簡、賞賛の書物などで、サラディンは奪還を権威の強化に結びつけた
- 軍事的成功はカリフ・ナースィルの警戒を招き、英雄としての本番は次の第3回十字軍との戦いになる





