与える土地がない。戦国時代はなぜ終わったのか
大坂の陣で豊臣家は滅亡しましたが、深井さんによると、勝った側が得られた恩賞はわずかでした。豊臣家の持っていた領地は65万石ほどで、関ヶ原のあとに分け合った600万石あまりと比べると、10分の1ほどしかありません。
深井さんは、戦った武士にとっては1日で決着した関ヶ原より大坂の陣のほうが大変だったはずだと話します。それでも恩賞が少ないため、家康は代わりに茶器を贈ったり、官位を上げたり、松平姓を与えたりしたといいます。
代わりに茶器とかいろいろあげたらしいんだけど、まあまあやっぱみんないらなかったみたいね。
命かけて茶器かよみたいなね。
ただ深井さんは、恩賞が少なかったことを、単に報われなかった話とは見ていません。もう与える土地がないということは、戦っても得るものがない、つまり戦う理由そのものが消えたということです。
この時の家康は74歳で、深井さんの感覚では今の90歳ほどです。それでも幕府の中で強い存在感を保ち、最後まで頭は冴えていただろうと二人は話しています。
無能でも将軍が務まる仕組み。長子相続の覚悟
家康には、まだ統治のシステム化という仕事が残っていました。その1つとして深井さんが挙げるのが、長男が家を継ぐと決めた長子相続 ── 最初に生まれた男子が家督や地位を継ぐ仕組み。能力による選抜を避け、後継者争いを防ぐ効果があるとされますのルールです。
3代将軍になる家光には、実は弟のほうが優秀だったという話があります。深井さんは、家光がかわいらしい絵を描いていたことにも触れ、父の秀忠が不安を感じていた可能性を指摘します。
(秀忠たちは)やっぱ強えやつがずーっと正しいという世界観で生きてきてるから。
秀忠は家光を将軍候補から外そうとしますが、それを止めたのが家康でした。深井さんは、家康の意図を次のように説明します。
楊さんも、才能や力ではなく、ルールに従って後継ぎを自動的に決めるシステムを大事にしたのだと補足しています。
家康が生きてるうちにちょっと頼りない人が出てきて、ダメだって言ったっていう事実を残したっていうのって結構でかいなと。
深井さんによると、この後も長男以外が継ぐことはありましたが、そのたびに「家康はああ言っていた」という先例として持ち出されるようになったといいます。
400の城が数日で消える。一国一城令と武家諸法度
家康は、徳川家がトップであることを仕組みで示す法令も次々と出しました。1つ目が、戦国時代に乱立していた城を大幅に減らす一国一城令 ── 1615年に出された法令で、大名の居城を原則1国に1つに限り、それ以外の城を破却させたものです。
深井さんによると、発布からわずか数日で約400もの城が壊されたといわれています。深井さんは、力で治めた人ならではのガバナンスの強さだと驚いています。
楊さんは、一国一城令が大名にとって損ばかりではなかった点も挙げます。領内の城が大名の居城だけになることで、領内で反乱を起こされるリスクが減ったからです。
次に出されたのが武家諸法度 ── 江戸幕府が武士に対して定めた基本法。将軍の代替わりごとに改訂されましたです。1615年7月、夏の陣のわずか3か月後に制定されたことから、深井さんは豊臣家を滅ぼす前から準備していたのだろうと見ています。
楊さんによると、武家諸法度には「国の主は政務の器用を選ぶべき」という趣旨の条文があります。求める人材像が、強い人から政治の遂行能力がある人へ変わったことを示しています。
さらに、主君に背いた武士を別の領主が召し抱えることも禁じられました。戦国期のように主君と対立したら別の大名に仕える、ということができなくなり、大名の家臣に対する優位が固まったと楊さんは説明します。
転職なんてするもんじゃないっていう、この一つの主家に仕え続けるのが美徳なんだっていう、その概念とかも、この後江戸時代にその創出されていくんだよね。
深井さんは、1つの組織に仕え続けることを美徳とする価値観が、平成まで続いていたとも話しています。
家光の時代には、武家諸法度に参勤交代 ── 大名が江戸と領地を1年おきなどで行き来する制度。大名の妻子は江戸に住まわされましたが加わります。深井さんが強調するのは、参勤交代が「ルール」として位置づけられた点です。
家康がすごいから、大名は伏見城や駿府に参勤していた
将軍がすごいかどうかに関係なく、参勤するものだから参勤する
参勤するもんだからするってなったら、もう徳川家の勝ちなわけだよね。
一方で、戦国の気風はすぐには消えませんでした。楊さんによると、法度に違反して領地を没収される例は家光の時代まで続き、派手な衣装で乱暴を働く「歌舞伎者」も現れました。深井さんは、福島正則のような豊臣寄りの外様大名も、法度違反を理由に潰されていったと付け加えます。
天皇の行為まで法で決める。禁中並公家諸法度
家康が武士の次にルールを定めたのが、公家に向けた禁中並公家諸法度 ── 1615年に江戸幕府が朝廷と公家に対して定めた法令。天皇の役割や公家の序列などを規定しましたです。楊さんが読んだ文献では、日本の歴史上初めて天皇の行為を法で定めたものだとされています。
深井さんは、本来は天皇や関白より下の征夷大将軍が、そのルールを示していることの異様さを指摘します。第1条は、天皇は学問を第一とするという内容で始まります。
だからもう政治関わってくんなよってことですよね、これ。
楊さんは別の説も紹介しています。ここでいう学問は国家祭祀や儀式を指し、幕府の権力を天皇の権威で補うために、宗教的な役割を果たしてほしいという目的もあったという見方です。
武士に向けたルール集。城の修築や家臣の召し抱え、のちに参勤交代などを定めた
天皇と公家に向けたルール集。第1条で天皇は学問を第一とすると定めた
深井さんは、こうした法度がルールとして機能し続けたことが、徳川幕府が長く続いた理由だと見ています。秀吉もルールは作りましたが、すぐに家康に破られました。
秀吉の場合は、秀頼が幼かったことや、秀次を切腹させたことも重なり、次の代へにらみを利かせたまま移行できなかったと深井さんは話します。家康がそこに気を配れた前提には、長生きだったことがありました。
健康オタクの最期。駿府で終えた生涯
健康オタクとして知られた家康も、高齢になると体力が衰えていきます。駿河の田中、今の静岡県藤枝市へ鷹狩りに出かけた家康は、茶屋四郎次郎の勧めで、榊原清久が用意した鯛の天ぷらを食べ、具合を悪くしたといいます。
一時は回復に向かったものの病状は再び悪化し、朝廷は闘病中の家康に太政大臣の位を与えます。家康は諸大名に形見分けをし、遺言を残しました。
深井さんによると、遺言は遺体を駿府城のそばに、葬儀を江戸に、位牌を岡崎にと、ゆかりの深い土地に自分を分けるような内容でした。樋口さんは、各地に象徴的な場所を作ることで統治に影響したのではと推測しますが、深井さんは「よくわかんない」と保留しています。
深井さんが心を動かされたのは、家康が亡くなった場所が駿府城だったことです。今川家の保護下で幼少期を過ごした土地でした。
桶狭間以降の彼の人生を見てると、まあ駿府時代が一番リラックスしてたんだろうね。
楊さんは、志半ばで倒れた信長や秀吉と比べて、家康は志を遂げてから亡くなったと話します。深井さんも、本人には心配事が残っていたにせよ、できることを全部やった感じはあったかもしれないと応じています。
律儀すぎる秀忠。「嘘は親父なら売れる」
家康は秀忠に将軍職を譲ったあと、大名と会って話す、ものを贈るなど、関係づくりのノウハウまで細かく引き継いでいたと楊さんは語ります。そのとき家康は、秀忠を「律儀すぎる」とたしなめていました。
まああんたが律儀じゃなさすぎるんだろと思いますけどね、俺から見ると。
楊さんが紹介したのは、家臣が秀忠に「たまには嘘をおっしゃったらいい」と冗談を言った場面です。秀忠は笑って、父の嘘なら買う人がいくらでもいるが、自分は何も成し遂げていないので嘘をついても相手にされない、と答えたといいます。
めっちゃ現状認識力高いじゃないですか。
樋口さんは、戦国のルールが終われば嘘をつかないほうが得になっていくと話し、深井さんも信頼がなければ成り立たないからだと同意します。楊さんによると、秀忠は家康の路線を引き継いで盤石にしたと評価する学者もいるそうです。
話は、裏切りを悪とする価値観も時代で変わるという方向へ広がります。深井さんは、ホッブズ ── 17世紀イギリスの思想家。『リヴァイアサン』で、放っておけば「万人の万人に対する闘争」になると論じましたやロック ── 17世紀イギリスの思想家。社会契約による政府の成立を論じ、近代民主主義の理論に影響を与えました、ルソーが、放っておいたらどうなるかを考えたうえで社会の約束を論じたことを挙げ、今の社会もその上にあると話しています。
三成と家康、どちらが正しかったのか
本編のあと、3人はシリーズを振り返ります。樋口さんが心に残ったのは、関ヶ原の前の石田三成と家康の対立でした。三成は秀吉が残したルールを守ろうとし、家康は実際に動かしている自分が正しいという論理で人を集めました。
ジョブズがこうこうこういうルールでAppleの製品作ってくれって言って残したと。じゃあその言い伝えをずっと守るべきなのか。
深井さんの答えは、大事なのは「何をするか」より「なぜそうするか」という動機だというものです。保身のためにルールを変えないなら、以前扱ったオスマン帝国の末期のようになるだろうと話します。
豊臣家を守るため、1つの大名に主導権を握らせたくない
自分たちが生き残るため、自ら主導権を握りたい
深井さんは、どちらが正しいかはないとしたうえで、この動機の違いが鮮明に出たと振り返っています。
武士のしんどさと、定説が残る理由
楊さんの感想は「しんどい」でした。常に生存が脅かされる時代のしんどさに加え、武将はキャラクターとして好きでも、解像度を上げて学ぶと隣にはいたくないと感じたといいます。
楊さんがもう1つ挙げたのは、通説と新説の関係です。新説には面白いものもある一方で、教科書に載る定説は数多くの検証に耐え、今も高い説明能力を持っていると感じたそうです。
村上春樹のノルウェイの森っていう小説の中で、本を薦めるっていうシーンがあるんですけど、時の洗礼を受けてない本は無駄っていうセリフがあって。
楊さんは、定説も新説も無条件に受け入れず、説明能力を検証していくことが大事だと話します。資料の中で「この説は間違っている」と書く学者もいて、学者の先生たちも戦国をやっていると笑いました。
だからなんか一、二冊読んだぐらいで文句言わないでほしいなとは思いました。
最初から天下を狙っていたのか
深井さんは学ぶ前、秀吉は清須会議の頃から、家康は秀吉の死の直後から政権奪取を画策していたと考えていました。そうした説もありますが、今回しっくりきたのは、直前まで強く意識していたわけではないという見方でした。
深井さんによると、2人は取って代わる可能性を抱えつつも、戦略的にそれを狙っていたというより、主導権を握り続けようと動いていたのではないかといいます。深井さんはこれを、スタートアップで社長へのクーデターが起きる現象を見た経験と重ねています。
あわよくば取って代わるのもそれはあり得るよねって思ってたと思うし。一方で主導権を握るという動きに対してフルベットし続けるのは当たり前だよねって思ってただろうし。
主家への忠誠も含め、そのすべてがあったうえで状況によって転んだのだろう、と深井さんは見ています。楊さんも、動機は基本的に複合的なものだと応じています。
性格ではなく環境が選ばせる。武威の論理
深井さんがもう1つ学びとして挙げたのが、力で威を示す「武威の論理」です。書き起こしでは「Vの論理」と表記されている箇所で、深井さんは株式会社の売上の論理と同じだと話します。
深井さんが強調するのは、本人たちがその論理を好きだったからではなく、使わないとだめだと思っていたから使った、という点です。
家康が小牧・長久手の時に取れる選択肢はほとんどなく、自分の家を守ろうとすれば大坂の陣で豊臣家から奪うという流れも、確率的には高かったと深井さんは見ています。
だからその「鳴くまで待とうホトトギス」とかっていうのはさ、なんかこの、まるで彼らの性格が彼らの人生を分岐させたかのように語ってるけど。
樋口さんは、もし最初の天下統一が家康だったら、秀吉の失敗を見ていないぶん同じように朝鮮出兵をしたかもしれないと話します。深井さんも、家康が朝鮮出兵を検討していたという説や、外交方針を基本的に受け継いでいたとする本があると紹介しました。
出自と経緯
秀吉や家康は、それぞれの生まれと出世の道筋を背負っている
置かれた立場
その瞬間の状況で、取れる選択肢は限られている
行動
武威の論理を使うなど、その立場の人間がとりがちな行動をとる
深井さんは、武威の論理は家光の代まで続き、そこで方針が大きく変わると補足します。そのうえで、売上だけを追って不正をしてしまう人も愚かなのではなく環境の影響だとし、現代の私たちはどの環境に行くかを選べると話しています。
家康と輝元を分けた「世界の見え方」
深井さんは、家康と毛利輝元では見ている世界が違ったと話します。家康は世界を本気で万人の闘争状態だと認識していましたが、輝元はそれより甘く、だからこそ開城してしまったのではないかという見立てです。
世界を本気で万人の闘争状態だと認識していた
家康より緩く捉え、開城すれば死ぬかもしれないという想定が少なかった
深井さんは、この違いは現代にも通じると言います。詐欺広告を出し続けるような行為は、世界を殺伐としたものと捉えているからできることで、世界を仲間だと思っている人はしないだろうという見方です。
これで別にソーシャルグッドが素晴らしいとかいう倫理観を語りたいわけではなく、これが環境因子なんだってことで。
樋口さんは、殺伐とした側が勝つ場面もあると認めつつ、仲間の範囲を広げたり時間軸を長く取ったりすれば、局所で戦うのは損だとわかると話します。
どの認知を持つかは選べる上で、僕は戦わない認知を取りたいなと思ったっていうのが結構あります、俺の中で。
深井さんも、今の時代なら戦わない認知を取れると同意します。ただ、武田とあれだけ戦ってきた家康に「余裕のある行動を」と言っても通じないだろうとも話し、彼らの立場への理解も示しました。
シリーズの締めくくりに深井さんは、今回のシリーズと鎌倉武士団シリーズ、信長シリーズで、日本の中世史はかなり理解できるはずだと語っています。
おすすめの3冊と、番組からのお願い
深井さんは今回の参考書籍から3冊を紹介しました。直前の説明で、3冊の著者と書名がわかります。
- 本郷和人『天下人の軍事革新』。読みやすく万人におすすめ
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』。家康の一生を新しい説でまとめる
- 黒嶋敏『天下統一 秀吉から家康へ』。構造的理解が進み、武威の論理も書かれている
次のシリーズは、放送が近づいたら深井さんやコテンのXアカウントで告知するとのことです。
深井さんは、コテンラジオが広告費に頼らない形をあえて選んでいると改めて説明しました。人文知にお金が流れる世界になるべきだと考え、ビジネスと人文知の両方に通じた調査チームに人件費を払うためにも、価値を感じた人にはCOTEN CREWとして支えてほしいと呼びかけています。
まとめ
大坂の陣のあと、家康は長子相続、一国一城令、武家諸法度、禁中並公家諸法度によって、実力ではなくルールで回る統治への移行を進めました。シリーズの振り返りでは、秀吉や家康の選択を性格ではなく環境から読み解く視点が語られ、現代の私たちはどの環境と世界の見え方を選ぶかを問われている、という着地になりました。
- 与える土地がなくなったことで、戦う理由そのものが消え、戦国時代は終わった
- 家康は家光の廃嫡を止め、無能な将軍でも回るルールとシステムを優先した
- 参勤交代は「将軍がすごいから」ではなく「そういうものだから」行うルールへと変わった
- 深井さんは、秀吉や家康の行動を性格ではなく、置かれた環境が選ばせたものと捉えた
- どの環境や世界認知を選ぶかは、現代の私たちなら自分で選べる





