「国家安康」は呪いの言葉? 方広寺の鐘が生んだ事件
家康が征夷大将軍になり、実質的には天下を取った段階でも、豊臣家はまだ存在していました。今回のエピソードは、その豊臣家に家康が動きを起こすところから始まります。
舞台は京都の方広寺 ── 京都市東山区にある寺院。豊臣秀吉が大仏殿を建立したことで知られ、現在も「国家安康」の銘がある鐘が残っていますです。秀吉が朝廷の権威に対抗するために巨大な大仏を建てようとしていた寺で、1586年に着工しました。
方広寺の大仏は、朝鮮出兵で工事が中断されたり、1602年に一度完成したのに焼失したりして、なかなか完成しませんでした。やっと出来上がったのは1614年で、着工から28年ほどかかったと楊さんは説明します。
楊さんによると、方広寺の大仏は高さ19メートルで、奈良の大仏の15メートルを上回ったといいます。深井さんもその大きさに驚いています。
え、でか。え、(方広寺の大仏は)奈良よりでかいん。
方広寺には3.2メートルの巨大な鐘も造られました。この鐘に彫られた文字が問題になり、方広寺鐘銘事件と呼ばれる事件が起こります。
鐘銘には「国家安康」「君臣豊楽」という文字がありました。「国家安康」には「家康」が、「君臣豊楽」には「豊臣」が入っており、文字を考えた人がサービス精神で家康の名前を入れていたといいます。
ところが当時は、生きている目上の人の名前を呼ぶこと自体が失礼とされていました。深井さんは、そうした文化があること自体に驚いています。
そんな(目上の人の名前を呼ばない)文化がそもそもあるんですね。
家康側は、「国家安康」は「家」と「康」の間に文字が入っていて家康の名前を分断している、徳川を呪詛するものだ、と言いがかりをつけました。楊さんは、通説では言いがかりとされるものの、名前を入れたこと自体は実際に失礼で、ヘタをこいたところを揚げ足取りして責めた面もあると整理しています。
板挟みの片桐且元はなぜ追放されたのか
方広寺鐘銘事件で責められたのが、大仏造営のプロジェクトマネージャーにあたる大仏造営奉行の片桐且元です。片桐且元は大仏開眼供養の許可を取るため、家康のいる駿府に赴いていました。
片桐且元は、もともと家康から豊臣方に送られた家臣でした。元のボスである家康を怒らせてしまい、何度も弁明に行きますが、家康はまったく許しません。
家康は片桐且元に、何をしたら許されるかは自分で考えろ、という趣旨のことを言ったとされます。楊さんは、これはローマがカルタゴに言ったのと同じで、許すつもりのない人の言葉だと話しています。
片桐且元は、家康がここまで怒っているなら、豊臣秀頼が大坂城を明け渡す、淀殿を人質に出す、秀頼が江戸に参勤するといった大きな対応をしないと許されないと考え、淀殿らに進言しました。
ところが淀殿が家康に直接話しに行くと、家康はとても優しく、そんなに怒っていない、豊臣家にそんなことは言わない、という態度を見せます。淀殿と秀頼から見ると、片桐且元が過剰反応しているように映りました。樋口さんはこの状況を一言で言い当てています。
あーなるほどね、(豊臣家と片桐且元の)分断ですね。
片桐且元は裏切り者とみなされ、豊臣家中で激昂する人も多く、一方的に追放されました。すると今度は家康が、徳川からパイプ役として送った片桐且元を追放するとはどういうことだ、と豊臣家に文句を言います。
うわ、(片桐且元は)かわいそう、マジで。
鐘銘へのいちゃもん
「国家安康」が家康を呪詛していると家康側が責める
片桐且元への激詰め
家康は許さず、許される方法を自分で考えろと迫る
豊臣家中の分断
家康が淀殿には優しく接し、片桐且元が過剰反応したように見える
片桐且元の追放
豊臣家が追放すると、家康はそれを新たな口実にする
大坂冬の陣
家康が大坂攻めを決定する
楊さんは、この前段として豊臣家が領地が少なすぎると要求していたことにも触れています。家康からすれば、実力もないのに名前だけで立場にとどめてやっているのに何を言っているのか、という思いがあり、口実をずっと探していたのではないかと推測しています。
大坂攻め決定。なぜ豊臣恩顧の大名は集まらなかったのか
片桐且元の一件を受けて、樋口さんは家康のやり方をこう評しています。
仁義ねえなこれ。
家康は片桐且元の追放を口実に大坂攻めを決定し、駿府を出発しました。ただし、福島正則 ── 豊臣秀吉子飼いの武将。賤ヶ岳の七本槍の一人として知られ、関ヶ原の戦いでは東軍につきましたや黒田長政など豊臣恩顧の大名は江戸に残しています。秀頼と戦う場面で内通されることを警戒したためだと言われています。
家康は方広寺鐘銘事件の前から、イギリス商人から大砲を大量に買っていました。楊さんは、家康はもともと戦うつもりだったのだろうと見ています。
イギリス商人は、火薬や鉛の値段をつり上げるためにわざと品薄にし、値上がりしてから徳川方と豊臣方の両方に売っていたといいます。樋口さんはこれを「列強」らしい振る舞いだと笑っています。
いいね、列強してるな、列強。
豊臣家は、秀吉に恩がある大名たちに味方するよう呼びかけましたが、誰もついてきませんでした。集まったのは主君を持たない牢人や、関ヶ原で領地を奪われた長宗我部盛親 ── 土佐の戦国大名・長宗我部元親の子。関ヶ原の戦いで西軍について改易され、大坂の陣で豊臣方に加わりましたのような人たちです。
牢人たちは日々の生活にも困る状況で、お金を豊富に持つ豊臣家に加われば報酬がもらえるうえ、再び武将に返り咲くチャンスもありました。一方で、それ以外の大名は集まらず、楊さんは秀頼と淀殿にとって大きなショックだったと話しています。
鉄壁の大坂城に籠城。完全包囲と「橙武者」
大坂方には真田幸村や後藤又兵衛といった有名な武将も加わり、軍議が開かれました。豊臣家の首脳部は、鉄壁の大坂城に籠もって戦う籠城戦を主張します。
楊さんは、この籠城という選択に疑問を投げかけます。包囲されて1年、2年持ちこたえたとしても、福島正則らは家康にグリップされていて裏切り者が出る可能性は低く、籠城は野戦以上に勝ち目がないように感じるといいます。
また、大坂方に集まったのは牢人が中心で、統一された指揮命令系統がなく、バラバラに戦うだけだったとも語られています。
家康方は20万近い大軍で大坂に着き、周囲の砦を次々と落として包囲網を狭めていきました。楊さんは布陣図を見ると、全方向が完全に包囲され、どの面にも有名な武将がいて笑えるほどだと話しています。
包囲の中の面白いエピソードとして、豊臣方の砦を守っていた勇猛な武将・薄田兼相の話も紹介されました。攻め込まれたとき薄田兼相は砦を留守にしており、風俗で遊んでいたために砦が陥落したといいます。
薄田兼相は大坂城内の女性たちから「橙武者」と呼ばれました。正月飾りに使う橙のように、見た目はいいけれど役に立たない、という不名誉なあだ名です。
戦いたくない家康、主戦論の秀忠。和睦交渉の行方は?
家康は大坂城の堅牢さを承知しており、20万で攻めても犠牲が出ること、関ヶ原と違って勝っても分け与える恩賞が少ないことから、実は交渉で決着したいと考えていました。
一方、息子の秀忠は関ヶ原での失敗の雪辱を晴らそうとしてか、ずっと戦うべきだと主張していました。家康は、小さい敵でも侮ってはいけない、戦わずに勝つのがよい武将だと諭したといいます。
豊臣方の内部では意見が分かれていました。譜代の家臣には停戦を望む人が多い一方、牢人たちは戦争が終われば再び路頭に迷うため、戦いたいと考えていました。
20代の青年だった秀頼は、片桐且元があれほど頑張っても駄目だったことから、家康の怒りは逃れられないと考え、死んでも構わないから潔く籠城して戦いたいと言い出します。淀殿は、高齢の家康はもうすぐ死ぬので、今は和睦して家康の死後に兵を起こせばよい、と秀頼を説得しようとしました。
真田幸村が大坂城南方の真田丸で善戦したこともあり、勢いづいた大坂方は強気の和睦案を出します。これに対して徳川方も案を示しました。
淀殿が人質として江戸に下る代わりに、籠城する牢人たちに知行を与えるための加増を求める
淀殿を人質として江戸に送り、秀頼には四国を与える代わりに大坂城から退去させ、牢人には扶持を与える
楊さんによると、大坂城を退去して四国に移ることは、単なる移転ではなく、家康に臣従して一大名に落ちることを意味しました。石高が減っても大坂城にいることが豊臣家の最後のプライドであり、淀殿はこれを受け入れられず、交渉は暗礁に乗り上げます。
大砲の直撃と堀の埋め立て。なめられる大坂方
交渉が停滞するなか、天皇から和睦の申し入れがありましたが、家康は断っています。家康はカルバリン砲 ── 16〜17世紀のヨーロッパで使われた長砲身の大砲。射程が長く、大坂の陣では徳川方がイギリスなどから入手したものを使ったとされますなどの大砲で大坂城を撃ちまくりました。
大砲の弾が淀殿のいる場所に直撃し、侍女が亡くなりました。それまで武具に身を固めて指揮に当たっていた淀殿は恐怖で錯乱し、不利な和睦条件の受け入れに傾いていきます。
淀殿の江戸行きはなくなったものの、新たに大坂城の二の丸・三の丸を壊し、堀を埋めるという条件が出され、翌日に和議が結ばれました。大坂城は軍事拠点として骨抜きにされたことになります。
堀の埋め立てや破却は、本来は大坂方が自分たちで行う約束でした。ところが家康方が勝手に埋め立てや破壊を始め、大坂方が抗議すると「手伝ってあげているだけ」と返されたといいます。楊さんは、大坂方は手の上で転がされ、もう相手になっていなかったと話しています。
大砲の直撃
淀殿が恐怖から和睦に傾く
和議の締結
二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てが条件になる
家康方の勝手な工事
約束に反して家康方が堀を埋め立てる
大坂方の反発
堀を掘り返し、牢人をさらに集める
再戦の口実
家康が軍備増強をとがめる
再びのいちゃもん。豊臣家はプライドを捨てられなかったのか
大坂城の諸将は怒って堀を掘り返し、牢人をさらに集めましたが、それが家康に再戦の口実を与えることになりました。さらに、大坂方が京都に放火するのではないかという噂が流れます。楊さんは、この噂も家康が流したものだろうと見ています。
大坂方の大野治長が噂は嘘だと釈明するため駿府に向かいますが、家康は態度を硬化させます。秀頼が大坂城を出て大和か伊勢に移るか、牢人をすべて大坂城から追放するか、二つに一つだと迫りました。
楊さんは、プライドを捨てて和睦に応じていれば、豊臣家が消滅することはなかったかもしれないと話します。秀吉の死後、実力では何もできず家康にいいようにされ続けたものの、プライドだけは捨てきれなかったのではないかという見方です。
これに対しては、天下人という権威と権力を得てしまった家が、普通の大名になるのは相当難しいという意見も出ています。当時の命の捉え方が現代と違う可能性もあり、どんな心境とロジックで動いていたかはわからない、とも語られています。
淀殿の立場についても補足がありました。戦国時代の武家では当主の妻にも発言権があり、家中からは社長が2人いるように認識されることもあったため、淀殿が前に出ていたのは出しゃばりではなかったといいます。
その淀殿は、夜眠れず食事もとれない状態で、薬を多く飲んでいたとされます。豊臣家中も慢性的な人材不足に陥り、じり貧の状態でした。
大坂夏の陣。15万5000対5万5000の結末
家康は京都放火の疑いをとがめながら出陣を始めました。秀頼は国替えの免除を嘆願しますが、家康は取り合いません。家康は九男の義直の結婚を名目に名古屋に向かい、その軍勢のまま大坂を目指しました。
この頃には豊臣家を見限る武将も相次ぎ、徳川方は総勢15万5000の軍を家康と秀忠の2隊に分けて進軍します。大坂方も5万5000を集めましたが、堀を埋められた大坂城は城として機能せず、城外で野戦に打って出るしかありませんでした。
大坂方は懸命に戦い、真田幸村は死ぬまで戦い、長宗我部盛親も奮戦した後に捕らえられました。それでも兵力差は覆らず、大坂方は敗れます。
落城が決定的になると、大野治長は秀頼の正室で家康の孫娘でもある千姫を城外に逃がし、秀頼と淀殿の助命を家康に願いました。家康は助命を認めたものの、秀忠が反対したことで沙汰止みになったといいます。
山里曲輪に逃れていた秀頼と淀殿は自害しました。秀頼は23歳、淀殿は49歳でした。側室との子である8歳の国松は伏見で捕らえられ六条河原で斬首され、7歳の娘は鎌倉の東慶寺 ── 鎌倉にある臨済宗の尼寺。江戸時代には縁切寺として知られ、女性の駆け込み寺の役割も果たしましたに入れられ、のちに37歳で亡くなりました。
こうして豊臣家は途絶え、徳川と豊臣が名実ともに入れ替わり、徳川の天下となりました。秀吉はこの未来を想定できただろうか、という言葉で本編は締めくくられ、次回は家康の死とその後の幕府を扱う最終回になると予告されています。
まとめ
今回のエピソードでは、方広寺鐘銘事件をきっかけに、家康が口実を重ねて豊臣家を追い詰め、大坂冬の陣・夏の陣を経て豊臣家が滅亡するまでが語られました。家康の揺さぶりの巧みさと、天下人の家としてのプライドを手放せなかった豊臣家の苦しさが対照的に描かれています。
- 方広寺の鐘銘「国家安康」は、家康の名前を入れたこと自体が失礼で、家康はその揚げ足を取って大坂攻めの口実にした
- 家康は淀殿には優しく接して片桐且元を孤立させ、その追放までも新たな口実に使った
- 和睦で大坂城を退去することは一大名に落ちることを意味し、豊臣家は受け入れられなかった
- 冬の陣の和議で堀を埋められた大坂城は機能を失い、夏の陣で15万5000対5万5000の野戦に敗れて豊臣家は滅亡した





