崩壊した東部戦線へ、30代でパシャに昇進
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ガリポリの戦いで活躍したケマルですが、第一次世界大戦はまだ続いていました。ケマルは外務省に直談判して煙たがられていましたが、政府を握る統一と進歩委員会 ── 青年トルコ革命を主導した政治結社。第一次世界大戦期のオスマン帝国で政権を握り、エンヴェルらが中心人物でしたの側も、ケマルの指揮能力は高く評価していたといいます。
楊さんによると、その背景には深刻な人材不足がありました。ケマルはエディルネで歓迎されて自信をつけたあと、東部戦線に送られます。オスマン帝国にとっての東部戦線は、南下してくるロシアとの戦いの場です。
東部戦線では、ロシア軍が北と南から同時に進軍し、短期間でいくつもの都市を占領していました。以前エンヴェルがここで大敗して退却しており、戦線は完全に崩壊した状態でした。ケマルは、この戦線を立て直す役目を負って送り込まれます。
あららら。ピンチヒッターだね。
この段階でケマルは昇進し、ついに将軍、つまりパシャ ── オスマン帝国で将軍や高官に与えられた称号。軍では将官クラスを指し、ケマルもこの時に将軍としてパシャになりましたになります。まだ30代前半での昇進で、楊さんは「結構やばい昇進の仕方」と表現しています。
いや、だってちょっと前まではね、全然認められてなかったところからガリポリでバンって。
楊さんは、ケマルはもともとエリートで、パシャ候補の人材プールの一人ではあったと補足します。そのうえで、ガリポリを機に一気に出世したという見方です。ケマルは40日間かけて東部戦線へ移動し、着任後はオスマン軍の反撃が始まって、いくつかの都市をすぐに奪還したとされています。
ロシア軍もすぐに反攻に出て、東部戦線は取っては取り返される一進一退の状態になりました。やがて冬が到来し、戦闘はいったん中断します。
生涯の右腕イスメトとの出会いとロシア革命
東部戦線の時期に、ケマルはのちに極めて重要になる人物と出会います。後にイノニュとも呼ばれるイスメトです。楊さんは、イスメトがトルコ共和国を作っていく過程でナンバーツーとしてケマルを支え続けたと説明します。
ケマルはトルコの初代大統領で、イノニュは第二代目大統領なんですよ。
当時のイスメトは大佐で、将軍のケマルより下の立場でした。意外なことに、ケマルは最初イスメトを警戒していたといいます。理由は、イスメトがエンヴェルに忠誠を誓っているという噂があったからです。
エンヴェルは陸軍大臣で、陸軍全体の指揮権を持つ立場です。楊さんは、大佐が陸軍大臣に忠誠を誓うのは軍人として当たり前で、それを警戒するケマルのほうが普通に考えるとおかしいと笑います。深井さんは、エンヴェルとケマルの間には因縁があるからだと応じています。
それでもイスメトとケマルは、話すうちに互いを深く認め合うようになります。イスメトはケマルに忠誠を誓うようになり、二人の信頼関係がここで形成されました。
東部戦線の一進一退は数か月続きます。楊さんが重視するのは、ケマルが「やられていない」状態を保ったことです。その間に、ロシアでロシア革命が起こります。
外と戦争してる場合じゃなくなるんよ。
ロシア革命で皇帝一家は処刑され、レーニンが登場して社会主義国家が作られていきます。内部から崩壊したロシアは戦線を離脱し、オスマン帝国はロシアの侵攻を食い止めることに成功しました。エンヴェルが行けば大崩壊した戦線で、ケマルは一度も負けなかったことになります。
なぜデビューから負けない軍人がいるのか
ケマルの不敗ぶりから、話は軍事の才能そのものに広がります。楊さんは、ハンニバルやアレクサンドロスのように、デビューから負けない軍人がいることが不思議だと話します。
楊さんによると、ビジネスなら普通は失敗しながら上手くなるものです。ところが戦争では、最初からずっと強い人がいます。楊さんは、営業で最初から成果を出す人のように、特定の才能があるのかもしれないと考えつつ、それが何の才能なのか突き止めたいと語ります。
樋口さんは別の角度から、確率の話を持ち出します。人類の歴史全体で見れば、確率的に全勝する人が何人か出てきてもおかしくないという見方です。
10回連続で勝ち負け同等で出るんやったら1024分の1で全部勝ちますから。
この確率の数字を受けて、楊さんは「じゃんけんみたいな」と応じ、単純に必ず運がいい人がいるという可能性も認めます。最終的には、才能と運の合わせ技かもしれないという着地になりました。いずれにしても、ケマルはこうして不敗の将軍になっていきます。
アラビア戦線でまたドイツ人上司と衝突
ケマルは一貫して、オスマン帝国に来ていたドイツ人軍人と仲が悪い人物でした。ロシアが戦線を離脱すると、ケマルは今度はアラビア戦線に送られます。
アラビア戦線では、アラビアのロレンス ── イギリスの情報将校T・E・ロレンスの通称。第一次世界大戦中、アラブ人のオスマン帝国に対する反乱を支援したことで知られますと呼ばれるイギリスの情報将校が、アラブ人にオスマン帝国からの独立を焚きつけていました。樋口さんは、内側からアラブ人を独立させてオスマン帝国を弱体化させるイギリスの意図だと整理しています。
楊さんは、イギリスの戦略は一貫していて、標的の国の内部を煽って内紛を起こし、その間に利権を取りに行くやり方をとっていたと説明します。その結果、メッカのフセインがオスマン帝国に反旗を翻し、重要都市バグダッドが奪われる事態になっていました。
オスマン軍はアラビア戦線に、第4軍・第7軍・第8軍からなる大規模な軍集団を編成します。統括するのは、以前シュリーフェン・プランの話で登場したドイツ人のファルケンハインでした。ケマルは第7軍の司令官として、パレスチナに派遣されます。
ケマルは指揮権を渡されるや否や、ファルケンハインらドイツ人将校と激しく対立しました。ケマルの考えでは、ドイツ人はオスマン帝国のことを考えず、戦争を長期化させてドイツの利益を得ようとしていました。ケマルは、ドイツが勝てばオスマン帝国を植民地にする危険さえあると大宰相に意見書を送っています。
そのうえでケマルは、パレスチナ戦線の単独指揮権を要求します。楊さんは、参謀本部から指示が出る当時の戦争の常識からして、前線の将軍に全指揮権を与えるのはありえないと指摘します。
対立
ドイツ人上司の戦略とオスマン帝国軽視を批判
要求
パレスチナ戦線の単独指揮権を求める
拒否
ファルケンハインが要求を拒否する
帰還
ケマルは辞任し、指揮をフェブジーに渡してイスタンブールへ帰る
ケマルが指揮をフェブジーに渡して帰ってしまうのは、ガリポリのときに続いて2度目でした。楊さんは、第一次世界大戦中に指揮権を拒否されたから帰ることができ、しかもクビにならないことに驚いています。
皇太子とのベルリン訪問と「正論すぎる男」
陸軍省の大臣たちは、ケマルの帰還に困惑しながらも、ドイツ人に反抗するケマルにはもう慣れっこでした。楊さんによると、ケマルが有能だという評価は揺るがず、クビにはならなかったといいます。
ただし大臣たちは、ケマルがイスタンブールにいると何をするかわからないと考えます。そこで、ドイツを訪問する皇太子バフデッティン、後のメフメト6世のベルリン訪問に同行させ、ケマルを首都から遠ざけることにしました。
ベルリン訪問の間ずっと一緒にいたことで、ケマルは皇太子と個人的な関係を結びます。皇太子はのちにスルタンに即位するため、この関係はあとで響いてくると楊さんは予告します。
ベルリン訪問中、ケマルは皇太子に対し、オスマン帝国はもう事実上敗戦していると強い口調で訴えました。さらに、イスタンブールに司令部を置く第5軍の指揮権を皇太子が握り、自分が参謀になるという案まで持ちかけます。ケマルは一貫して、ドイツ人から指揮権を取り戻そうとしていたことになります。
楊さんが感心するのは、ケマルの主張が出世欲からではないように見える点です。楊さんは自分の想像だと断ったうえで、オスマン帝国のことを考えると合理的にそうなることを、ケマルはずっと言っていたのではないかと話します。
楊さんの見立てでは、周囲もそれをわかっていたため、ケマルは完全に切られるのではなく、距離を置かれる形で扱われました。言っていることは正しいが、ドイツと同盟を組んでいる以上そうはできないという、ドストレートな正論ゆえの煙たがられ方です。
戦時中の温泉保養と、再びのパレスチナ
37〜38歳ごろのケマルは、腎臓病を患って温泉保養地で療養していました。友人たちと語らいながら読書に没頭する日々だったと伝えられています。楊さんは、負けそうな第一次世界大戦中に将軍が温泉に入っていることが自分の常識にないと驚きます。
楊さんは、オスマン帝国の軍人のこの感覚を武士団に近いものと捉えます。戦国大名なら戦争中に温泉に入っていても何となくわかるように、訓練は近代軍でも、メンタリティは部族時代を引きずっているのかもしれないという見方です。ただし、これは確証のある話ではないと付け加えています。
療養中にスルタンが崩御し、皇太子バフデッティンがスルタンに即位します。ベルリンで親しくなっていたケマルは、即位から12日間で3回も謁見を許されました。3回目の謁見で、スルタン自ら戦場へ行くよう求め、ケマルは再び第7軍司令官としてパレスチナに送られます。
楊さんは、命をかける戦場と、しっかり休む温泉保養の切り替えを「ウィークデーで命かけて土日ちゃんと温泉入る」ようなオンオフだと面白がっています。
パレスチナでケマルは、学友のフワトやイスメトとともに、今度はザンデルスの指揮下に入ります。到着してすぐ、ケマルは前線が木綿糸のように伸び切っており長くは持たないと、ザンデルスに警告しました。その指摘どおり、第4軍・第7軍・第8軍は12時間で完全に敗走させられてしまいます。
スルタンへの直言電報と、崩れ落ちる戦線
敗走と同じ頃、ケマルはスルタンの名誉侍従武官に就任します。スルタンのそばに控える名誉職ですが、もともと反スルタンだったケマルは「くだらない職」と吐き捨てたといいます。
侍従武官になったケマルは、イスタンブールの宮廷に電報を打ちます。整然と撤退できたはずなのに、エンヴェルのような愚か者が陸軍大臣なので多くの兵が死んだ、無力な司令部でなければ何とかなったはずだ、もはや和平するしかない、という内容でした。
楊さんは、将軍が自分の上司であるドイツ人や陸軍大臣の無能さを皇帝に直接訴えることに驚きつつ、その理由を説明します。ケマルは、自分なら正しい判断がわかるのに、立場のせいでそれができないことにずっと苛立っていたのではないかという見方です。
それでもケマルは、防衛線の立て直しを模索し続けました。しかし連合国側の部隊が石鹸で知られるアレッポを占領し、ケマルの部隊は撤退を強いられます。
ロシアの離脱で一瞬生まれた楽観も消え、オスマン軍は各地で崩壊していきました。全体で万単位の兵士が脱走し、連合国軍が迫る中、司令部もついに敗戦を悟ります。脱走した兵士は戦線を離れただけで、オスマン帝国の中にいたのだろうと楊さんは説明しています。
サイクス・ピコ協定と民族自決の裏側
この頃、ロシアの革命政府が、帝政時代に結ばれた秘密協定を暴露します。イギリス・フランス・ロシアがオスマン帝国の分割を決めていたサイクス・ピコ協定 ── 1916年に英仏露が結んだ秘密協定。オスマン帝国のアラブ地域の分割を取り決め、現代の中東の国境線にも影響したとされますです。
楊さんによると、革命政府は帝政ロシアの悪さを示すために、この協定を公開しました。イギリスは複数の相手とそれぞれ土地を約束する協定を結んでおり、それらが互いに矛盾していることがこれで明らかになります。
もう一人の出演者は、これがいわゆる三枚舌外交 ── 第一次世界大戦中のイギリスが、アラブ・ユダヤ・英仏露に対して互いに矛盾する約束をした外交の通称で、今のパレスチナ問題の原因を作ったと指摘します。楊さんも、列強のふるまいの中でも特にひどいものの一つだと応じています。
追い打ちをかけたのが、アメリカのウィルソン大統領が出した民族自決の原則です。十四か条の原則の中で、民族的境界線に基づくオスマン帝国の解体が打ち出されました。
番組では、この民族自決の理念が世界中の民族を対象にしたものではなかった点が強調されます。適用されるのはヨーロッパの諸民族で、アジアなどの民族は「遅れている」として対象外とされていたといいます。
英仏露がオスマン帝国の分割を秘密裏に決めていた協定。ロシア革命政府の暴露で、イギリスの矛盾した約束が明らかに
ウィルソン大統領が民族的境界線に基づくオスマン帝国解体を提示。ただし適用対象はヨーロッパの諸民族に限られていた
楊さんは、差別意識と、自分たちが世界をコントロールしてよいという感覚がこの時代の列強の空気だったと指摘します。オスマン帝国は、ヨーロッパから見て自由に切り取ってよい側に置かれたまま、ドイツ側で敗戦を迎えることになりました。
ムドロス休戦協定と「彼らは去っていくだろう」
オスマン帝国は連合国とムドロス休戦協定 ── 1918年にオスマン帝国と連合国が結んだ休戦協定。オスマン帝国は事実上の降伏を受け入れましたを結びます。楊さんが紹介した連合国の要求は、国家の主権をほとんど認めない内容でした。
- アラブ諸州を放棄すること
- 連合国は脅威を感じればいつでも戦略的地点を占領できること
- 帝国領の分割について連合国に白紙委任すること
楊さんは、いつでも戦略的地点を占領できるという条件は、もはや植民地と同じだと評します。協定は直ちに実行され、ボスポラス海峡・ダーダネルス海峡をはじめオスマン領各地が占領されていきました。
同時に、ギリシア人やアルメニア人の組織は独立国家の樹立に動き出します。民族主義運動をしていた人々にとっては、オスマン帝国という枠が外れ、自分たちの国を作れる好機だったからです。楊さんは、ここからトルコ共和国ができることを何度も強調します。
休戦で戦えなくなったケマルがイスタンブールに戻ると、ボスポラス海峡には60隻を超える連合国艦隊が到着していました。かつてダーダネルス海峡で連合国艦隊を防いだケマルにとって、その光景は敗戦そのものだったはずです。
艦隊を見つめたケマルは、「彼らはやってきたのと同じように去っていくだろう」と語ったとされます。楊さんは真偽はわからないとしつつ、この段階でケマルは何も諦めていなかったと解釈しており、実際にのちに連合国を追い返すことになります。
出遅れが生んだ「ただ一人の清潔な英雄」
休戦によってドイツの軍事顧問団は任務を失い、いなくなります。ケマルはシリア方面の司令官になりますが、許された仕事は「どうやって負けるか」でした。
楊さんは、第一次世界大戦で実績を残したのはケマルぐらいしかいないと話します。ガリポリで帝国を救い、東部戦線でロシア軍を抑え、ドイツ人司令官がもたらした絶望的な状況でも指揮を執ってきたのはケマルだけでした。
決定的だったのは、休戦の半年ほど前にケマルが大衆紙のインタビューに答えたことです。これでケマルの功績が民衆に知れ渡り、英雄として認知され始めます。
ドイツとの同盟を主導し、ロシアに敗れ、敗戦と過酷な休戦条件を招いた人物に見える
一貫してエンヴェルとドイツを批判し、戦場では結果を出し続けた人物に見える
楊さんはここで、以前の回で触れたケマルの政治的な出遅れに話を戻します。もしケマルが早くから権力を握っていても、第一次世界大戦には勝てなかっただろうという見方です。敗戦の責任をエンヴェルたちに帰すことができたからこそ、ケマルは権力を握る土壌を得られたといいます。
そういうことか。最初のうちに言ってた出遅れたこと(の)意味があるって。
楊さんによると、青年トルコ革命以来オスマン政治の表舞台にいた統一と進歩委員会の人々は、敗戦によって責任を問われていました。その中で、ただ一人無傷の清潔な英雄として存在していたのがケマルでした。
楊さんはさらに、初期に政権を握っていたら独裁体制は築けなかったと指摘します。エリート集団として権力を握ったエンヴェルたちには独裁の理由がなかった一方、ケマルは独裁ができる経緯で登場したという見方です。
楊さんは、こうした運の要素がなければケマルは後世に語り継がれる立場になれなかっただろうと話します。いつも起こるわけではないものの、出遅れが長い目で見るとプラスになることが人生にはある、と楊さんは付け加えています。
英国将軍への一言と、断った縁談
ケマルは未来をある程度読める人物で、楊さんはそれを現状認識能力の高さによるものだと考えています。ケマルは敗戦の前から権力掌握に向けて動き始め、スルタンに自分を陸軍大臣にするよう頼みますが、これは叶いませんでした。ケマルは、敗戦後に国民を導くのは軍になるだろうとも考えていたといいます。
敗戦後のケマルには、いくつかのエピソードが残っています。ケマルは高級ホテルに泊まっていましたが、お金がなくなって短期間で引き払うことになりました。楊さんは、お金に対する戦略性がゼロだと笑います。
その高級ホテルには、イギリスの将軍も滞在していました。ケマルに気づいたイギリスの将軍が、こちらに来るよう誘ったところ、ケマルは「ゲストはあなたでしょ」と返したといいます。ここはオスマン帝国なのだから、そちらが来るべきだという意味です。
負けてんすよね。もう戦争負けてんすよね。
この頃、義理の父の姪であるフィクリエは、結婚はしていないものの内縁の妻のような存在になっていました。一方でケマルには皇族の女性との縁談が持ち上がり、ケマル自身も一瞬まんざらでもなかったそうです。
しかしケマルの友人は、君はしばらく経てばどんな女性にも飽きてしまうし、皇族と結婚すれば君が批判するエンヴェルと同じになる、と忠告します。ケマルはこの忠告を聞いて縁談を断りました。
逆に素直やな。ものすごい素直やな。
楊さんは、ケマルの女性観について、一夫一妻が絶対ではなかったイスラーム社会の人物を今の感覚で裁くべきではないと強調します。戦国武将の女性観を現代の基準で評価するのと同じで、感覚がまったく違う社会の人たちだという立場です。
トルコ人国家へ、そして首脳陣の退場
敗戦後、オスマン帝国の空気は大きく変わりました。ケマルたち青年トルコ人はもともとトルコ主義 ── トルコ人を中心に国民国家をまとめるべきだとする思想。多民族国家のオスマン帝国では公然と掲げにくい考えでしたを抱いていましたが、多民族のオスマン帝国では打ち出せませんでした。
切り取られていくばかりのオスマン帝国では、いよいよトルコ人の国民国家を作るしかないという空気になります。樋口さんは、縮小してでも生き残る道だと受け止めています。
ところが、トルコ人の国の国境がどこなのかという非常に難しい問題が生まれます。トルコ人、ギリシア人、クルド人、アルメニア人、アラブ人がそれぞれ思う境界は違い、主張は重なり合っていました。そこにイギリスの三枚舌外交が絡み、各民族が「イギリスが約束してくれた」と言う状態で、収拾がつかなくなっていたといいます。
ほぼ同時期に、ドイツも連合国に降伏します。オスマン帝国の三頭政治を担ったタラート、エンヴェル、ジェマルは、逮捕状が執行される寸前にイスタンブールから逃げました。
敗戦
オスマン帝国とドイツがともに敗れる
逃亡
タラート・エンヴェル・ジェマルに逮捕状が出され、執行寸前に国外へ逃れる
最期
3人とも数年のうちに暗殺などで命を落とす。エンヴェルは中央アジアで反乱を扇動し、共産主義者に殺される
空白
統一と進歩委員会の命脈が断たれ、首脳陣が不在になる
首脳陣が退場した混乱の中で、ケマルは「どうしよう」ではなく「こうすべき」と考えて動く人物だったと楊さんは話します。連合国はオスマン帝国を消滅させようとしており、次回以降、ごく狭い範囲から今の広いトルコの国土を取り戻していく過程が語られる予定です。
だって取締役会もうみんないないよ。
楊さんは、この状況を資金はショートし、社員は全員辞め、株主から集団訴訟を起こされている会社にたとえます。ここから盛り返すことが人間にはできるという好例だと語り、回は次回へ続きます。
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まとめ
第一次世界大戦の後半、ケマルは東部戦線とアラビア戦線を転戦し、ドイツ人上司と衝突しながらも不敗の将軍として評価を高めました。オスマン帝国の敗戦で統一と進歩委員会の首脳陣が退場したとき、ただ一人無傷の英雄として残ったことが、次の時代への足場になっていきます。
- ケマルは崩壊した東部戦線を立て直して30代前半でパシャに昇進し、生涯の右腕イスメトと出会った
- ドイツ人上司に単独指揮権を求めて拒否されると辞任するなど、正論を貫いて煙たがられながらも有能さで重用された
- サイクス・ピコ協定の暴露と欧州中心の民族自決、ムドロス休戦協定によって、オスマン帝国は分割の危機に追い込まれた
- 政治的な出遅れのおかげで敗戦の責任を負わず、ケマルは「ただ一人の清潔な英雄」として権力を握る土壌を得た
- エンヴェルら首脳陣が逃亡して命を落とし、トルコ人国家の国境という難題を抱えたまま物語は次回へ続く







