戦勝国はトルコ人をどう見ていたのか?
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第一次世界大戦に敗れた直後のオスマン帝国には、ある種の希望的観測がありました。アメリカのウィルソン大統領が民族自決を掲げた14か条 ── 1918年にウィルソン大統領が発表した戦後秩序の原則。民族自決や秘密外交の廃止などを掲げ、各地の民族運動に影響を与えましたを出したのだから、トルコ人の権利にもある程度は配慮してくれるだろう、という期待です。
オスマン帝国側は、ムドロス休戦協定で連合国が自由に領土を決められると書かれていても、トルコ人への配慮はあるはずだと考えていました。しかし深井さんによれば、実際のイギリスやフランスはトルコ人を強く差別していたといいます。
イギリスのロイド・ジョージ首相は、トルコ人は荷物をまとめてアナトリア沿海部から出て行くべきだと主張していました。戦時中には、文明の地を荒れ果てた砂漠にしたトルコ人には二度とその土地を支配させてはならない、とも語っていたそうです。
トルコ人は細胞全てを腐らせて、彼らが支配した土地の人間にじわじわと死の苦しみを与える人間のガンだみたいなことをロイドジョージが言ってるんだよね。
フランスのクレマンソー首相も、もともとは青年トルコ人を支持していたものの、エンヴェルたちの政策に幻滅し、大戦の終わりには完全にトルコ人を見放していました。トルコ人が支配した土地は衰え、トルコ人が退くと繁栄する、という趣旨の発言まで残しています。
これも事実に基づかないものすごい偏見ですよね。だから黒人差別とかと同じような水準で、やっぱこういう形でトルコ人を差別してるってことですよね。
樋口さんは、ウィルソン大統領自身もヨーロッパ以外の有色人種は近代的でも進歩的でもないと考えていたと補足します。こうした感覚を持つ人々が戦勝国として領土を決めていくのに、オスマン側はまだそのことに気づいていませんでした。
楊睿之さんは、この差別を「形を変えた中華思想」と表現し、周辺の人々を野蛮と見なすのはホモサピエンスに共通する傾向かもしれないと話します。深井さんも、プライドの持ち方がこうした差別に向かいやすいと受けています。
こういうやり方ではない形でプライドを持つには我々はどうしたらいいかとかを考えるとかも、僕は歴史から学ぶってことだなって思いますけどね。
話は日常のマウント取りにも広がり、樋口さんは、マウントの軸がかつては宗教、この時代は民族、今なら年収や地位へと移り変わっているだけではないか、と整理しています。
やりすぎた戦後処理が、トルコ人を立ち上がらせた
連合国側の差別的な態度が少しずつオスマン側に伝わると、世論は危機感に包まれていきます。アラブ人、アルメニア人、ギリシャ人、クルド人、シオニストがオスマン領の分割を要求し、イギリスやフランスはオスマンをほぼ解体する構想を持っていました。
深井さんは、この構想が「やりすぎ」だったと指摘します。トルコ人をないがしろにしすぎた結果、オスマンとして負けたけれど、トルコとしてもう一度立ち上がろうという機運が生まれ、そのリーダーにケマルが選ばれていきます。
第一次世界大戦の後の戦後処理がひどすぎて反発を食らうっていう現象はドイツでも起こりますよね。フランスが賠償金を課しすぎてヒトラーが出てくるよね。
一方で、敗戦直後のケマルはイスタンブールで高い地位を得ようと動いていました。スルタンに陸軍大臣にしてほしいと願い出ても叶わず、ジャーナリズムの世界で社説を書くなど、民衆を味方につける試みもしますが、大きな関心は集まりませんでした。
そんななか、ギリシャがイスタンブールの南、アナトリアの都市イズミルを占領します。古代にはギリシャの地だったことを大義にした動きでしたが、深井さんは「どさくさに紛れた領土拡大」だと説明します。
イズミル占領をきっかけに、トルコ人の中で決起の覚悟が固まり、草の根の抵抗運動が盛り上がっていきました。流れを整理すると次のようになります。
連合国の差別
イギリス・フランスの首相がトルコ人を公然と見下す
分割要求
諸民族がオスマン領の分割を求め、英仏は解体を構想する
イズミル占領
ギリシャが民族自決を掲げて占領する
草の根の決起
政府に任せていられないと、元兵士らが集まり始める
「長州藩に送ってはいけない人」を送った政府
深井さんは、この状況を明治維新にたとえます。幕府が頼りなく、各地の武士が日本の将来を話し合いながら集まり、やがて明治政府を樹立した構図に近いというのです。
オスマン帝国で長州や薩摩にあたったのは、トルコ人が多く住むアナトリアの東の方でした。そして政府は、抵抗運動の中心地になっていたその東の地域に、ケマルを派遣してしまいます。
ケマルはこの時点で、スルタンを廃止し、トルコ人の国民国家を作ろうと考えていました。ところが政府の首脳陣は、ケマルがドイツ人に文句を言い、スルタンと仲が良く、エンヴェルとは仲が悪かったことから、スルタンに忠実な人物だと見誤っていたといいます。
一番長州藩に送っちゃダメな人、長州藩に送っちゃったみたいな感じです。
ただし深井さんは、詳細を見れば勘違いが起こり得る状況だったのかもしれないとも付け加えています。楊さんも、ケマルが一時期オスマン主義を唱えていたことが判断材料になった可能性に触れています。
東部に着いたケマルは、すぐに抵抗運動の指導者として動き出します。トルコ民族主義者の会合に参加し、任侠のような民兵たちを支援しました。本来は抵抗運動を鎮圧するために送られていたため、政府はイスタンブールへの帰還を命じますが、ケマルは拒否します。
スルタンはケマルを解任し、ケマルは自ら軍籍を離れて抵抗運動に正式に加わります。こうしてケマルはスルタン政府に対して、あからさまに反旗を翻しました。
カリフを掲げて糾合する、マフィアの会合のような会議
楊さんは、ケマルが抵抗勢力をまとめる際、あえてオスマンの名前とスルタン・カリフを旗印に使ったと説明します。多様な宗派や言語の人々が入り交じるアナトリアでは、それがまだ人をまとめる力を持っていたからです。ケマルたちは、自分たちこそカリフをいただく正統な政権だと打ち出しました。
そのうえでケマルが開いたのが、エルズルム会議とスィヴァス会議です。深井さんはこれを、映画『ゴッドファーザー』でマーロン・ブランドが各マフィアのボスを集めて話し合う場面にたとえます。
その人たちを一つの場所にボーンと集めて、お前らのトータルのボス、俺ね。
政府の役職を持たないナショナリストたちがそれぞれのボスのもとで動いていたため、エルズルム会議はその人たちを集めて方向性、合意、序列を決める場でした。2週間の激論の末、東部アナトリアと黒海東部の諸州はあらゆる外国の侵略に一体となって抵抗する、スルタンとカリフは残す、帝国の領土を守るために国民軍を作る、といった方針が決まります。
深井さんが強調するのは、スルタンとカリフを残すという決定です。ケマル自身は両方を廃止すべきだと強く考えていましたが、団結して敵を追い返す今は、その主張を優先すべき時ではないと判断していました。
深井さんはこれをビスマルク ── 19世紀プロイセン・ドイツの宰相。ドイツ統一を主導し、目的のために手段を柔軟に使い分ける現実主義的な政治で知られます的だと評します。やり方はイデオロギーと違っても、大きな戦略の中ではイデオロギーに沿っている、狡猾ともいえる動き方です。
会議では、国民主権が至上であること、中央政府は国民の意思に従うべきこと、アルメニア人やギリシャ人への領土割譲に抵抗することも確認されました。非ムスリムに特権を与える計画に反対するという決定は、多民族共存を掲げたオスマン主義を手放し、ムスリム・トルコ人で固まる方針を示しています。
会議を回したら政府ができた?アンカラ政府の誕生
エルズルム会議でケマルを長とする9人の執行部が設けられ、ケマルは指導者の地位を固めます。その約1か月半後には全国規模のスィヴァス会議が開かれました。深井さんは、まずコアな東部の仲間で方向をそろえてから全体へ広げる段階の踏み方も戦略的だと見ています。
スィヴァス会議で決まった最も重要なことは、新しい政府の樹立です。これがアンカラ政府で、今のトルコ共和国の首都がイスタンブールではなくアンカラなのは、ここから共和国を作った人々が出てきたためだと深井さんは説明します。
さらに、ムドロス休戦協定の時点で外国に占領されていなかったオスマン領はすべてトルコ人の領土として守る、と宣言されました。これからの講和で領土を縮められても従わない、という意思表示です。
アンカラ政府はイスタンブール政府に最後通牒を出し、大宰相が無視すると、各地の行政官や軍司令官にイスタンブール政府の命令を聞くなと呼びかけます。すると、ほとんどの人がアンカラ政府に従いました。
なんか福岡の人とかが勝手に俺らが日本政府だっつって。東京の経産省とかの人たちに対して、もう国会の言うことを聞くなと。
樋口さんは、イスタンブール政府の信頼が失われていたことと、ケマル自身の信頼の両方があったからだと整理します。深井さんも驚きを隠しません。
俺もすごいびっくりした。こんな感じでできるんだと思った。会議回したら政府ってできるんだと思って。
オスマン帝国政府は自らの合法性は主張しつつも、両会議の決議を受け入れ、アンカラ政府を暫定政府として認めました。自分が給料を払っている公務員が言うことを聞かない以上、認めざるを得なかったのだろうと深井さんは見ています。
選挙の圧勝とイギリスの介入が、アンカラを本物の政府にした
両会議では議会を開くことも決めていたため、国会議員を選ぶ総選挙が行われました。結果は抵抗運動側の圧勝です。イギリスのチャーチルは、トルコ人が投票したが不幸にもほとんどが間違った投票をした、と侮辱を込めて語ったといいます。
連合国から見れば、オスマン帝国に勝ったはずが、約束を守らないと宣言する新しい政府が出来上がってしまった状態です。ロシアで革命政府が生まれたのと同じように、アンカラ政府も旧政府の約束は自分たちに関係ないという姿勢を取りました。
ここがちょっと複雑ですけど、日本人である我々は理解しやすいよね。天皇がいるから。似たようなことしまくってるから。
アンカラ政府もスルタンをいただいている以上、形の上ではまだオスマン帝国の一部です。どちらが官軍かを主張し合う構図だと深井さんは説明します。
スルタンが両会議の内容を認めたことに驚いたイギリスは、イスタンブールを占領し、抵抗勢力の人々を逮捕してマルタ島へ追放するなど、オスマン政府を管理下に置きました。その結果、イスタンブールの議会は解散させられてしまいます。
逃れた議員と抵抗運動の人々を合わせて、アンカラ政府は新しい議会を作りました。議会を持つのがアンカラだけになったことで、イギリスの介入が逆にアンカラを本当の政府らしくしていったのです。
酒好きのケマルが禁酒法?大国民議会のイスラム色
アンカラで招集された議会は大国民議会と名付けられ、ケマルはここでも現実に即した戦略を取ります。その1つが、国民の支持を集めるためにイスラム色を強く打ち出すことでした。
ケマルの出身地テッサロニキは科学を重んじる非イスラム的な人が多い地域でしたが、アンカラを中心に抵抗運動をしていた東部のトルコ人にとって、ムスリムであることは非常に重要でした。ケマルはこの人々に合わせて、議会で宗教的な儀式を盛んに行います。
議員の入場時にコーランを朗読する、議員に礼拝を求める、アルコールの製造・販売・消費を禁じて違反者を鞭打ちにする法律を出すなど、タンジマート ── 19世紀半ばからオスマン帝国で進められた西欧型の近代化改革。法制度や行政、教育などの改革が行われました以前のイスラム的道徳を強調しました。
自分めっちゃ酒好きなのに。
深井さんは、ケマルはあくまで手段としてやっていて、心は込めていなかったのではないかと見ています。非イスラム的だったのはオスマン帝国のエリート層だけで、社会全体はムスリム色が濃く、カリフの正統性を強調することはイスラム色を強調することとほぼ同じ意味を持っていました。
その宗教的正当性を誰からどういうふうに保証されるかみたいなことがすごく重要なので、このような動き方をしているっていうのがまず一つ目。
嫌いな共産主義を語ってソ連に近づく
ケマルのもう1つの戦略は、周囲が敵だらけの中で敵を1つずつ減らし、最後に戦わなければならない相手だけを残すことでした。ギリシャ人もアルメニア人も連合国も敵という状況で、狙いを付けたのがソビエト連邦です。
ロシアとは戦っていたものの、共産主義者が新しい国を作ったことで関係は一度リセットされていました。どう近づくかをこれから決められる相手だったため、ケマルは共産主義者のように振る舞って接近します。
面白いのはめちゃくちゃ嫌いなんですよ、彼、共産主義者のことが。
大国民議会では、資本主義と帝国主義の残忍性と抑圧からトルコの人々を解放するといった宣言をし、ブルジョワジーの力は終わりを迎えると確信している、とまで語っていました。ソ連を味方につけ、仲介役として他の国との利害を調整していくのが次のフェーズです。
ただし深井さんによれば、ケマルは共産主義を正確に理解しておらず、後でボロが出ていきます。好きだったルソー ── 18世紀フランスの思想家。『社会契約論』で人民主権を説き、フランス革命に大きな影響を与えましたについても、モンテスキュー ── 18世紀フランスの思想家。『法の精神』で三権分立を説いたことで知られますと混同するほど理解していなかったといいます。
本心と表向きの主張の使い分けを整理すると、次のようになります。
| テーマ | ケマルの本心 | 表向きの打ち出し方 |
|---|---|---|
| スルタン・カリフ | 廃止すべきだと考えている | 正統性の旗印として残す |
| 宗教 | 科学を信奉している | コーラン朗読や禁酒などイスラム色を強調する |
| 共産主義 | 嫌っていて理解もしていない | 資本主義批判を語りソ連に近づく |
すごいリアリストで現状認識能力が高いけど、思想に対しての感度はすごい低いみたいな。
三権を握る議会と、納得しない学友たち
大国民議会は、ロベスピエールらジャコバン派の権力体制をモデルにしていました。そのため立法・行政・司法の三権をすべて持つ、三権分立ではない強大な組織として作られます。
ケマルは議長でありながら、実質的にはアンカラ政府の首相として采配を握りました。この時期には、無視しているオスマン帝国憲法に代わる、憲法のようなものも作られています。
ただし深井さんは、ケマルの学友たちの存在にも触れます。幼い頃から共に育ち、第一次世界大戦も同じ軍で戦った彼らは、戦功は自分たちにもあると考えていました。
この時点では学友の多くが戦地の近くにいて、アンカラで政治的に動けたのがケマルだけだったため、自然とケマルがリーダーになっていました。のちに学友たちはこの状況に納得せず、抗争のフェーズに入っていくと予告されています。
俺にもなんかもう少し権力あってもいいだろみたいになったんだよね。この後ね。
セーヴル条約はどれほど過酷だったのか?
アンカラ政府がイスタンブール政府を骨抜きにしていく中、ついに敗戦条約であるセーヴル条約が結ばれます。連合国から見て正式なオスマン政府はまだイスタンブールにあったため、アンカラ政府ではなくイスタンブール政府と署名しました。
条約の内容は過酷で、トルコの領土はイスタンブール周辺以外ではアナトリア北部の約3分の1まで縮められることになりました。深井さんは、今のトルコ共和国のおよそ4分の1程度の領土が想定されたと説明します。
| 地域 | 行き先 |
|---|---|
| イズミル周辺・トラキア | ギリシャ |
| 地中海沿岸 | イタリア |
| シリア・アナトリア南東部 | フランス |
| イラク・パレスチナ | イギリス |
このほかアルメニア人の国家の建国や、イギリスの支配のもとでのクルド人自治区の設定も盛り込まれました。楊さんはこれを「ケーキ」と表現しています。
楊さんによれば、セーヴル条約は議会で批准されず、国際法上の効力を持たなかったとする本もあります。一方で、最盛期と比べると残される領土は5%程度だったという記述もあり、実行されれば国としてほぼ消えてしまう内容でした。
深井さんが紹介した本では、この条約がトルコの人々に深いトラウマを残し、欧米にトルコが侵食・分断されかねないという危機意識が「セーヴル・シンドローム」として今も残っていると書かれていたそうです。ただし深井さん自身は、トルコの人に直接確かめたわけではないと断っています。
幕府が結んだ不平等条約取り返すのってさ、日本はすごい時間かかったんですよ。ケマルはなんとかしますからね、この後。
本来なら、敗戦国が条約に従わなければ再び戦争になり、打ち負かされて終わるはずです。武力で脅してくる連合国を、敗戦国と出来たての政府でどう退けるのか。その答えは次回以降に持ち越されます。
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まとめ
敗戦後のオスマン帝国で、ケマルは差別的な連合国と頼りない旧政府の間に立ち、会議と議会を使って新しい政府を作り上げました。その根底には、自分の信念をいったん脇に置き、目的のために使える手段を選ぶ現実主義があります。
- 戦勝国のトルコ人差別と過剰な戦後処理が、かえってトルコ人の決起を招いた
- オスマン政府はケマルを見誤り、抵抗運動の中心地である東部へ送ってしまった
- エルズルム会議とスィヴァス会議を経て、アンカラ政府が旧政府に代わる実質的な政府になった
- ケマルはスルタン・カリフ、イスラム、共産主義を、本心とは別に戦略として使い分けた
- セーヴル条約は領土を大きく削る過酷な内容で、その対抗策が次回以降の焦点になる







