第一次世界大戦の勃発、そのときケマルはどこにいた?
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前回の最後に、ケマルはブルガリアのソフィアに駐在武官として赴任していました。今回は、この時期に第一次世界大戦が始まるところから話が進みます。
楊さんの整理によると、第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて戦われた世界規模の戦争です。連合国側にイギリス、フランス、ロシア、中央同盟国側にドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国がつきました。
オスマン帝国がドイツ側についた背景として、番組ではドイツとの近さが挙げられています。楊さん自身は「本当はそんな簡単な理由ではない」と断りつつ、流れとしてはあったと話しています。
そうだね。(オスマン帝国は)ドイツ将校団を受け入れてるからね。
開戦のきっかけは、1914年7月にオーストリアがセルビアへ最後通牒 ── 交渉の打ち切りを告げ、要求を受け入れなければ実力行使に出ると通告する最終的な外交文書のことですを突きつけたことでした。その前にフランツ・フェルディナント ── オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者。1914年6月、サラエボでセルビア人青年に暗殺され、これが大戦の引き金になりました皇太子がセルビア人に暗殺されています。
楊さんは、多くの民族が入り組むバルカンは紛争の種になりやすく、列強が同盟関係で結ばれていたために、各国が引っ張られて世界大戦に突入していったと説明します。
(各国が)芋づる式にもうどんどんどんどん参戦していくっていうね。
民族の入り組み
バルカンには多くの民族が暮らし、民族主義運動で緊張が高い
列強の介入
列強がその対立を利用しようとし、紛争の種が常に残る
皇太子の暗殺
フランツ・フェルディナントがセルビア人に殺される
最後通牒
1914年7月、オーストリアがセルビアに最後通牒を突きつける
同盟の連鎖
同盟関係に引っ張られ、各国が次々に参戦する
この時点のケマルは中佐に昇進し、ブルガリア・セルビア・モンテネグロ担当の駐在武官でした。もともと重要ではなかったこの地域の担当が、開戦によって急に重い意味を持つようになります。
楊さんによると、オスマン帝国はドイツと同盟を結んだものの、バルカン戦争で国力が疲弊しており、ブルガリアやルーマニアが同盟に加わるまでは参戦を避けたいと考えていました。そのためにはブルガリア政府の説得が必要で、ソフィアの社交界で人脈を築いていたケマルが重要になったといいます。
一方のケマル本人は、戦争が起きた以上、軍人として激戦地に行きたいと望んでいました。楊さんは、そこにゴルツ ── オスマン軍の近代化を指導したドイツの軍人コルマール・フォン・デア・ゴルツ。国民全体が戦争に参加する「武装せる国民」の考え方で知られますの教育の影響があるのではないかと見ています。
ところがケマルは、ドイツとの同盟に一貫して反対し、エンヴェル ── 青年トルコ人の中心人物で、当時のオスマン帝国の陸軍大臣。ドイツとの同盟を推し進めた指導者の一人ですら指導部とも対立していました。楊さんによれば、エンヴェルの積極性は認めつつも内容を酷評するような人物だったため、危険人物扱いされ、転属希望もなかなか認められなかったそうです。
3万人が犠牲に。ロシア戦線で崩れたオスマン軍
ケマルが派閥の端に置かれている間、開戦直後のオスマン軍はひどい状態に陥っていました。ドイツ側の作戦に沿ってロシアと戦ったものの、大敗を喫します。
楊さんの説明では、オスマン軍はマイナス26度にもなる標高3000メートル級の山地を行軍し、寒さで次々と兵が倒れていきました。エンヴェルが率いたこの進軍で3万人の兵士が犠牲になり、さらに数千人が凍傷や負傷で戦えなくなったといいます。
一説では、8万人を連れて行って帝国領内に戻れたのは1万人ほどだったそうです。楊さん自身、この計算がどう成り立つのかは本を読んでもわからず、途中で逃げた人もいたのではないかと推測しています。さらにチフスも蔓延しました。
オスマン軍は序盤に電撃的な勝利を収める作戦を立てていましたが、いきなり出鼻をくじかれる形になりました。
チャーチルが狙ったダーダネルス海峡とは?
オスマン帝国の敵であるイギリスでは、ウィンストン・チャーチル ── 第二次世界大戦でイギリス首相としてヒトラーのドイツと戦った政治家。第一次世界大戦の時期は海軍大臣を務めていましたが海軍大臣を務めていました。
楊さんによると、国土が広く補給に難のあるロシアは、黒海からの補給をイギリスに要請します。黒海に入るには、オスマン帝国領の細い海峡を通るしかありませんでした。
その通り道がダーダネルス海峡 ── エーゲ海とマルマラ海を結ぶ細長い海峡。ボスポラス海峡とともに黒海への出入り口にあたり、古くから戦略上の要地ですです。楊さんは、黒海へ「南斜めから入っていくストロー」のような場所だとたとえています。
(ダーダネルス海峡は)黒海に南から入っていくみたいなイメージですよね。
そこでイギリス海軍は、ダーダネルス海峡を突破して補給ルートを確保する作戦を立てます。細い海峡は両岸から砲撃されやすく、本来は不利な突入のはずでした。
楊さんは、当時のイギリスがオスマン軍を侮っていたと見ています。チャーチルは「5万人の優れた陸軍と海軍力、それでトルコの脅威は終わるでしょう」という言葉を残しているそうです。
ただし楊さんは「舐めていた」という記述が本にあったわけではなく、さまざまな記述を総合した観察だと断っています。また、この海峡突破の構想は19世紀から20世紀初頭にもあり、オスマン側も知っていて防衛を重視していたとする本もあるそうです。
待望の召集、ソフィアの机から最激戦地へ
ロシア戦線でエンヴェルが大敗したころ、ずっと戦地行きを望んでいたケマルに、ようやくイスタンブールへの帰還命令が出ます。
猫の手も借りたい。
楊さんは、ケマルは扱いづらいものの成績優秀者だったため、使ってみようとなったのではないかと推測しています。樋口さんはこの状況を、幕末の高杉晋作 ── 長州藩の志士。藩の危機のたびに呼び戻され、奇兵隊を率いて活躍した人物ですになぞらえました。
もう(高杉)晋作、戻ってこいって感じなんだね。
帰還したケマルがエンヴェルを訪ねると、エンヴェルはひどくやつれていました。ケマルが「貴官は少々疲れているようだ」と言うと、エンヴェルは「それほどではない。貴官とは意見が合わないようだ」と返したといいます。楊さんは、この段階でも二人の仲は悪かったと読んでいます。
その後ケマルは、ダーダネルス海峡の西岸にあるガリポリ半島 ── ダーダネルス海峡の北西側に延びる細長い半島。第一次世界大戦の激戦「ガリポリの戦い」の舞台として知られますの付け根に配属され、第19師団を率いることになります。末端の兵ではなく、部隊の指揮官としての派遣でした。
楊さんが強調するのは、その落差です。数カ月前までソフィアでオペラを観劇し、事務仕事をこなし、失恋もしていた人物が、第一次世界大戦でも最も熾烈な戦いの一つに投入されました。
ソフィアの駐在武官として事務仕事をし、オペラを観劇する日々
突破されればオスマン帝国が終わりかねないガリポリの最前線で師団を率いる
楊さんは、このダーダネルスに集められた兵力の中で、ケマルが驚くほどの活躍を見せ、歴史の表舞台に出ていくと予告します。
12隻の連合艦隊はなぜダーダネルスで敗れたのか
イギリスのハーバート・アスキス首相は、「ヨーロッパだけでなく、アジアでもオスマンの支配を必ずや終わらせる」と語っていたそうです。滅びゆく国と見られていたうえ、ドイツ側についたオスマン帝国を潰す意思を示した言葉だと楊さんは説明します。
オスマン政府側も追い詰められていました。イスタンブールが危うく、首都をもっと東へ移すことまで計画していたといいます。
この緊迫した状況でダーダネルスのオスマン軍を指揮したのは、ドイツから派遣されたリーマン・フォン・ザンデルス将軍でした。楊さんによると、ザンデルスはもともとオスマン軍を足手まといと見て、同盟に否定的だった人物です。
楊さんは、ザンデルスがオスマン兵を「頭の回転の悪い農民」と呼んだとする本もあると紹介しつつ、本当に言ったかは確認できなかったと断っています。そのうえで、当時の人種差別の強さを考えるとそういう感覚だったのだろうと話しています。
1915年2月18日、ついに連合国の艦隊がダーダネルス海峡の入り口に姿を現します。イギリス海軍を主体に、イギリス・フランス・ロシアからなる12隻の艦隊でした。
しかし細い海峡は機雷や砲撃を準備しやすく、連合国艦隊は大きな損害を受けます。出演者の補足によると、現代の軍人による研究でも、連合国軍がオスマン軍を過小評価していたことが敗因の一つとされているそうです。
興味深いのは、敗北の後の認識のずれです。上級将校たちはオスマン軍の質と兵力を見直し始めた一方、兵士たちの高揚感は変わりませんでした。
オスマン軍の質と兵力は想定と違うのではないかと認識を修正しかける
高揚感と冒険心に包まれ、トルコ軍に阻止できるはずがないと考え続ける
番組では当時の兵士の記録として、遠征隊の者たちが「異常なまでの高揚感と冒険心」と「身震いするほどの期待感」によって団結していたという一節が読まれました。
ザンデルスへの挑発と、一人だけ当てた上陸地点
海からの突破に失敗した連合国は、陸からの攻撃に切り替えます。上陸部隊の中心は、イギリスが動員したオーストラリア兵やニュージーランド兵でした。
戦場となったガリポリ半島は、楊さんの説明では長さ80キロ、幅6〜20キロほどの細長い半島です。海軍の戦いでは何もしていなかったケマルが、この陸の戦いで活躍することになります。
その前段として、楊さんはケマルとザンデルスの衝突を紹介します。ケマルはドイツやフランスを学ぶ相手として尊重していましたが、ドイツ人がオスマン軍を指揮することには強く反発していました。
ザンデルスは、ソフィア駐在だったケマルに、なぜブルガリアが同盟国として参戦しないのかと尋ねます。暗にケマルを責める問いでした。
ケマルの答えは「それはドイツの勝利が定かではないからで、ブルガリア人の見解が正しいと僕も思っています」というものでした。楊さんは、同盟国から来た総指揮官に面と向かって言うこの発言を「喧嘩」だと評し、二人の仲はひどく悪くなったと話しています。
それでも楊さんが驚くのは、上陸地点の予測です。上陸された場所にいち早く兵を集めて防衛線を築けるかどうかが勝負を分けるため、どこに来るかの見極めは決定的に重要でした。楊さんは、日露戦争でバルチック艦隊の進路を読んだ問題の陸上版だとたとえています。
予測しかねていたが、最も可能性が高いのはガリポリ半島の付け根と考えた
半島の南端に来ると読み、実際にその読みが当たった
楊さんは、全員が予測を外すなかで一人だけ当て続けるケマルを、戦術と戦略の天才だろうと話しています。また、ガリポリで活躍したオスマン人将校はケマルだけでなく、彼らがドイツ人指揮官に依存せず機能していたという分析もあるそうです。
「死ねと命じているのだ」銃剣で止めた上陸部隊
上陸地点の近くに先行していたケマルは、自分を含めて部隊を急行させ、戦場を見渡せる丘の上に兵を配置しました。
しかし、敵が次々と上陸してくる様子を見た兵士たちは浮足立ち、逃げ出そうとします。ケマルは敵に背を向けて逃げるなと命じ、弾薬がないと訴える兵士に、銃剣があるだろうと答えました。
楊さんによると、ケマルはさらに「お前たちに攻撃を命令しているわけではない。死ねと命じているのだ」という趣旨の言葉で兵を送り出したといいます。聞き手からは「鬼やん」「武士だね」という声が上がりました。
結果として、弾薬がないとは思っていない敵は、銃剣を持って出てきた兵を見て進軍を止めます。楊さんは「メンタルで勝つ」と表現し、ケマル自身も後年、この瞬間を勝利の時として回想しているそうです。
上陸を目撃
敵が次々と上陸するのを見て、兵士が浮足立つ
退却の禁止
ケマルが敵に背を向けて逃げるなと命じる
銃剣での突撃
弾薬がない兵に銃剣を装着させ、死ぬ覚悟で前に出させる
敵の停止
弾薬切れを知らない敵が進軍を止める
援軍の到着
その間に次の部隊が到着し、防衛線が築かれる
ケマルの計算では、上陸を許しても地形は敵に不利でした。谷で分断され、兵は少しずつしか来られません。だからこそ、ここで気持ちで負けなければ、次の部隊が来るまで持ちこたえられると考えていたと楊さんは説明します。
その後オスマン軍は、なめてかかった連合国兵が驚くほど強さを見せます。自国の庭で戦うため兵站を築きやすく、兵士に食事が配給されカロリーも取れていたという記録があるそうです。
ケマルが守ったジョンクバユルの丘で持ちこたえる間に友軍が到着し、防衛線が完成しました。楊さんは、ケマル一人の手柄のように書く本もあるとしつつ、少なくとも大活躍して勲章を授与されたと話しています。
ダーダネルス委員会が選んだ「大部隊派遣」
海軍の突破にも陸軍の上陸にも失敗したイギリスでは、政治家が大きな打撃を受けます。アスキス首相は首相の座にとどまりつつも議席を失い、チャーチルは責任を取って海軍大臣を辞めさせられたといいます。
敗因を検討するために作られたのが、ダーダネルス委員会です。楊さんによると、委員会は3つの選択肢を示していました。
| 選択肢 | 内容 | 委員会の受け止め |
|---|---|---|
| 全面撤退 | ガリポリ戦を全面的に断念する | 撤退は論外とされた |
| 少しずつ増援 | 援軍を少しずつ送り、ゆっくり進める | 検討の対象として迷った |
| 大部隊派遣 | 大規模な部隊を送り込む | 最終的にこれが選ばれた |
撤退が論外とされた理由として、楊さんは、ここでオスマンが勝てばムスリム世界全体を奮い立たせてしまうという懸念を挙げています。結論として、イギリスは大部隊を送って必ず勝つ方針を固めました。
5メートル先の敵と、干しブドウを投げ合う塹壕
防衛線が固まった後、ガリポリは塹壕戦 ── 地面に掘った溝に兵が身を隠して向かい合う戦い方。攻め手が大損害を出しやすく、第一次世界大戦では各地で膠着状態を生みましたに入ります。楊さんによると、両軍の塹壕は最も近いところで5メートルほどしか離れていなかったそうです。
膠着の中で、フランス兵は塹壕の通路に「コンスタンティノープル通り」「パリ通り」と名前を付け、イギリス兵も「オックスフォードストリート」などと呼んでいたといいます。楊さんは、そうでもしないと気を紛らわせられなかったのではないかと話しています。
楊さんは、シュリーフェン・プラン ── ドイツがフランスとロシアの二正面を短期決戦で片付けようとした作戦計画。第一次世界大戦の初期に実行されましたが、失敗に終わりましたのもとで西部戦線を経験した兵士が、ガリポリのほうがはるかに過酷だと語ったという話も紹介しています。
過酷さの一つは、地下からの爆破でした。敵が真下にトンネルを掘り、爆薬を仕掛けてくるため、塹壕では神経が休まる時がなかったといいます。両軍の兵士が残した証言は、怖がるものが少し違っていました。
真下でつるはしの音を聞き、自分が塹壕の上の空高くに吹き飛ばされることを恐れた
7人が行方不明になった爆破を受け、意識があるまま生き埋めになることを恐れた
赤痢やチフスも蔓延するなか、至近距離の両軍はタバコや干しブドウを投げ合うこともあったそうです。殺し合いながら贈り物を交わす心理について、出演者は、人間的な行動で自分の精神を保っていたのかもしれないと話しています。
「全指揮権をオレに回せ」一中佐の要求
イギリスの増援が迫るなか、ザンデルスはケマルに、増援の上陸地点への防御を命じます。その場所はアルブルル地方とされています。
ここでケマルは、その戦闘地域の全指揮権を自分に渡せと要求しました。楊さんは、一度活躍しただけの中佐が総指揮官に向かってこう言うのは、とんでもないメンタルだと話しています。
ケマルの参謀長は驚き、そこまでの権限は不要ではないかと諫めます。するとケマルは、まったく逆で、権限が少なすぎるくらいだと答えたそうです。
ザンデルスはこの要求を受け入れ、ケマルに前線の指揮を統括させます。楊さんは、激戦が確実で死ぬかもしれない場所に自ら行くと言っている以上、覚悟は伝わるのだろうと見ています。
アナファルタでの戦闘は実際に激戦となり、ケマルも手榴弾の破片を受けて出血します。驚いた部下に対し、ケマルは黙っていろと返したといいます。楊さんは、実際には時計のおかげで軽傷だったとされる点も含め、日露戦争の秋山好古 ── 日露戦争で騎兵を率いた陸軍軍人。秋山真之の兄で、戦場でも酒を飲み泰然としていた逸話で知られますの逸話に似ていると話しています。
ケマルはこの猛攻を防ぎきり、戦いは再び塹壕戦に戻ります。さらにドイツから迫撃砲や榴弾砲、弾薬、砲兵の専門家が届き、連合国軍の勝ち目はいっそう小さくなっていきました。
戦闘のさなか、勝手に辞めてイスタンブールへ
戦闘はまだ続いていましたが、ケマルの戦略的な見立てでは、危機はすでに去っていました。そこでケマルは、全権を預かった司令官の立場を自ら降り、イスタンブールへ帰ってしまいます。
楊さんによると、ザンデルスは優秀なケマルを引き留めましたが、ケマルは後任にフェブジーを立てて去りました。楊さんは「こんな自由な軍人はあまり見たことがない」と驚いています。
辞めた理由として、番組では3つの説明が挙げられています。
- マラリアにかかって体調を崩していた
- ガリポリはもう大丈夫と判断し、もっと活躍できる場所に行きたかった
- ドイツ人が嫌いで、ザンデルスの下で働きたくなかった
周囲はまだ援軍が来るかもしれないと考えていましたが、ケマルは連合国がもう援軍を送らないと見抜いていたといいます。実際、楊さんによるとイギリス軍はその10日後ほどで撤退しました。
出演者の補足では、ケマルの活躍はオスマン軍の近代化の成果を示すものでもあり、このガリポリの戦いに限れば、オスマン軍のほうが連合国軍より経験も質も上だったとされています。
259日間の戦いが残した数字
ガリポリの戦いは、1915年4月25日の上陸に始まり、1916年1月9日の完全撤退まで、259日間続きました。
楊さんによると、イギリスは当初少ない兵力で片付けるつもりが、意地になって大規模に兵を追加し、それでも勝てませんでした。エピソード説明では、この戦いは「80万人規模の絶対に負けられない戦い」とされています。
死者数は、トルコ軍が8万6500、イギリス軍側が4万3000、フランスが1万4000とされ、死者数だけ見ればオスマン側のほうが多かったといいます。
それでもオスマン側にとって、この勝利は大きな意味を持ちました。出演者は、自分たちの師匠である列強の近代軍に勝てたことで、「頑張れば勝てる」という感覚が生まれたと話しています。
連合国側の事情として、陸海軍の統合と多国籍軍の連携に手間取り、訓練が不十分なまま時間を失ったことも指摘されています。その時間が、オスマン軍に防御を固める余裕を与えました。
功績はエンヴェルに。失意のケマルを迎えたエディルネ
ガリポリの功労者であるケマルですが、イスタンブールで称賛を浴びたわけではありませんでした。この段階では、勝利はエンヴェルの功績として称えられていたのです。
楊さんによると、ケマルは失意のうちにソフィアへ出かけ、1週間ほど旧交を温めていたそうです。大戦中の大佐がそうした行動を取ることに、楊さんは驚きを隠しません。遊牧民的なメンタリティーが残っていたのかもしれない、とも話しています。
軍を辞めようと考えていたという説もあるほど落ち込んでいたケマルは、次にエディルネへ派遣されます。そこにはガリポリでともに戦った兵士たちがいて、勝てたのはケマルのおかげだと町の人々に語っていました。
その結果、町の人々は「アナファルタの英雄」としてケマルを大歓迎します。国全体ではエンヴェルの名が語られていても、わかる人にはわかってくれる。楊さんは、この経験でケマルの自信がさらに深まったと説明しています。
外務省への直談判と、一将校ではない視座
自信を深めたケマルは、外務省に押しかけてオスマン政府に直接進言します。ドイツの軍事顧問団を激しく批判し、国のことを本当に考えている者がいないと訴えたのです。
外務大臣は困惑し、陸軍省にこの人物を罷免したほうがいいと伝えたといいます。楊さんは、ガリポリ直後のケマルを、上司の言うことをまったく聞かない人物として描いています。
ただし楊さんは、それを単なるエゴとは見ていません。国はこうすべきだと本気で考え、わかっていない上司に従う理由がないと感じる、合理思考の塊だったのではないかと話しています。
しかも、その読みが当たり続け、本人は戦場で強く、けがをしても気にしない胆力もありました。楊さんは、ここにもゴルツの教育の影響があるのだろうと見ています。
次回は、ガリポリで勝ったもののオスマン帝国が大戦に敗れ、厳しい条約を結ばされるなかで、ケマルがどう動くかが語られる予定です。楊さんは、ケマルはもともと一将校の視座で考えていない人物で、そこは高杉晋作にも通じると話しています。
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まとめ
今回は、組織の端に置かれていた駐在武官ケマルが、ガリポリの戦いで上陸地点を読み当て、銃剣突撃や全指揮権の要求といった大胆な行動で防衛を成功させるまでが語られました。一方で功績はすぐには認められず、ケマルはエディルネでの歓迎を経て、国の視点から政府に直言する存在になっていきます。
- オスマン帝国は疲弊したままドイツ側で参戦し、ロシア戦線で大敗した
- イギリスはオスマン軍を侮ってダーダネルス海峡突破を狙ったが、海でも陸でも失敗した
- ケマルは上陸地点を一人だけ読み当て、銃剣突撃と全指揮権の要求で防衛を成功させた
- 259日間の戦いは連合国軍の撤退で終わり、オスマン側に「頑張れば勝てる」という感覚を残した
- 功績はエンヴェルに帰されたが、エディルネでの歓迎がケマルの自信を深め、政府への直言につながった






