三国同盟と、ビスマルクを理解できなかった皇帝
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前回はナポレオン戦争以後のヨーロッパと、ビスマルクの登場までが語られました。今回の出発点は、ビスマルク体制の柱の一つである三国同盟 ── 1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの間で結ばれた秘密軍事同盟。フランスの孤立を主な狙いとしていましたです。
楊さんによると、三国同盟はドイツ・オーストリア・イタリアの同盟で、その意図の一つはフランスを孤立させることでした。この三国同盟の勢力が、のちの第一次世界大戦で一方の陣営になり、それに対抗して三国協商ができあがります。
ところが、ドイツ皇帝がヴィルヘルム1世からヴィルヘルム2世に代替わりしたことで状況が変わります。楊さんは、多くの本で酷評されるヴィルヘルム2世を「めっちゃバカだとは思わない」とし、この時期に皇帝になった運の悪さを指摘します。
ただし、ヴィルヘルム2世はビスマルクがなぜその条約や同盟を結んでいたのか、真意を理解していなかったといいます。ヴィルヘルム2世は拡張路線に移り、フランス孤立政策や拡張抑制政策をやめ、ビスマルク自身も辞めさせてしまいます。
その結果、ビスマルクがイギリスとフランスを対立させるなどして保っていた構図が崩れ、イギリス・フランス・ロシアが結ぶようになります。最終的な構図はドイツ・オーストリア対英仏露で、イタリアはオーストリアとの不仲から、結果的にイギリス側につくことになります。
一番くっついて欲しくなかったフランスとロシアがくっついちゃった。
再保障条約は、なぜ更新されなかったのか?
英仏露が結ぶ発端として楊さんが挙げるのが、ドイツがロシアと結んでいた再保障条約 ── 1887年にビスマルクがロシアと結んだ秘密条約。フランスとロシアの接近を防ぐ狙いがありましたです。
再保障条約の内容は、ドイツがフランスと戦争になればロシアは中立を守り、ロシアがオーストリアもしくはイギリスと戦争になればドイツは中立を守る、というものでした。ヴィルヘルム2世は、この条約の更新時期が来たときに更新しませんでした。
楊さんによると、ヴィルヘルム2世はもともと更新に反対していなかったらしいといいます。再保障条約はビスマルクの象徴的な仕事だったため、ビスマルク派閥ではない人たちには、不更新によってビスマルクの退場を決定的にしたいという政治的な思惑があったようです。
楊さんはこれを、組織が腐りかけて「向いてるベクトルが内になっちゃってる」状態だと表現します。最終判断を下したのはヴィルヘルム2世ですが、若い皇帝もビスマルクを疎ましく思っており、その感情が純粋な事実認識を妨げた可能性は高いと話されています。
間接的な背景として、ドイツとロシアの貿易摩擦もありました。ロシアはドイツから機械や化学製品、穀物を大量に輸入して貿易収支が赤字になり、穀物輸出のマーケットもドイツに奪われつつあったといいます。
楊さんは、経済のグローバル化で国同士の結びつきは強まる一方、近くなったからこそ生まれる対立もあると指摘し、昭和期の日米貿易摩擦やジャパンバッシングに似た構造だと例えます。
再保障条約は単独で見ると、ドイツがほかの国と結んだ同盟と内容が矛盾していました。全体構想ではバランスが取れていても局地的には取れておらず、それを理解できたのはビスマルクだけだったといいます。ビスマルクは更新の理由を説明しましたが、周囲には伝わりませんでした。
楊さんは、属人的な能力で国を押し上げても持続できないことをこの事例は示していると語ります。出演者の一人は、誰もビジョンを理解できなかったカエサルの最期に似ていると重ね、立場によって妥当な結論が変わる状況は会社やコロナ禍の判断にもある、という話へ広がりました。
ビスマルクの退場
ヴィルヘルム2世と反ビスマルク派が、ビスマルクの象徴的な仕事を終わらせたがる
条約の不更新
局地的な矛盾を理由に、再保障条約が更新されない
ロシアの不信
ドイツがロシアを考慮していないと受け取られる
露仏の接近
ロシア国内で親仏派が優勢になり、フランスと急接近する
「更新しなくても大丈夫」という読み違い
ヴィルヘルム2世を含むドイツ首脳部は、再保障条約をやめてもロシアはフランスと結ばないと考えていました。ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世はいとこ同士で、ヴィルヘルム2世はニコライ2世を「言うこと聞いてくれる」相手だと感じていたといいます。
ドイツ側が楽観していたもう一つの理由は、ロシア皇帝の周りを親独派が占めていたことです。ところが実際のロシア国内では、親独派と親仏派が拮抗していました。
再保障条約の不更新は、ロシアから見ると「ドイツはロシアを考慮していない」という合図に映りました。そのため、それまで抑えられていた親仏派の意見を抑えきれなくなり、ロシアはフランスへ急接近します。
楊さんは、この構図を会社の人間関係にたとえます。人の感情は段階的に下がっていくのではなく、相反する気持ちがせめぎ合っていて、あるきっかけで堰を切ったように一気に変わる。それが国家レベルのロシアで起こり、ドイツは読み切れなかったというのです。
さらに楊さんは、「自分はこういうつもりで、そのつもりが伝わっているだろう」と考えてコミュニケーションを取ると、相手が拡大解釈や過小解釈をして恐怖や期待が膨らみ、関係が壊れていくと話します。その不幸な連鎖が世界大戦で大量に起きていた、という見立てです。
あれですね、だろう運転ですね。かもしれない運転をしないといけないのに。
一方で当時のヨーロッパでは、そもそも国としてのコミュニケーションが難しかったと出演者の一人は補足します。時代とシステムの転換点にあり、国の中で意思決定者が統一されていなかったからです。
皇帝、政治家、官僚がそれぞれ自分の考えを、あたかも統一見解のように外へバラバラに発信していました。ある外交官の言うことと、同じ国の皇帝の言うことが違う、という事態が現場で頻繁に起きていたといいます。
窓口がいっぱいいたみたいな。
国の公式見解を1つの機関や人物が発信する仕組みがなかったため、当時の国同士のコミュニケーションコストは、今では考えられないほど高かったと語られています。
シーパワー論に魅せられたヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世の拡張路線は帝国主義的なもので、その背景には当時登場した地政学 ── 地理的条件と政治・国際関係を結びつけて考える学問・考え方。シーパワーやランドパワーといった概念で知られますの影響がありました。
楊さんが紹介するのは、アメリカの軍人マハン ── アルフレッド・セイヤー・マハン。アメリカ海軍の軍人・戦略家で、著書『海上権力史論』で海軍力の重要性を説きましたの理論です。海上覇権を確保した国が世界の覇権を取り、そのためには大艦隊を建設して海を制し、貿易を制して経済を発展させなければイギリスには勝てない、という主張でした。
多くの国がこの理論に触発され、艦隊競争へ突入していきます。なかでも一番影響を受けたのがヴィルヘルム2世で、枕元に置いて毎晩のように愛読し、軍艦設計のアイデアスケッチを描いて海外首脳に見せていたらしいといいます。
出演者の一人は、ヴィルヘルム2世が海外の政治家に会うたびに、国内の合意形成なしで「こんなことやりたい」と語っていたことも、誤解を生んだ一因だという説を紹介します。
ドイツが大艦隊の整備を始めると、今度はイギリスが警戒します。パクス・ブリタニカ ── 19世紀、イギリスの圧倒的な海軍力と経済力のもとで保たれた比較的安定した国際秩序を指す言葉のもとで海上覇権によって世界経済を主導してきたイギリスにとって、ドイツの艦隊建設は自国への挑戦に見えました。こうしてドイツは、ロシアとイギリスの両方に喧嘩を売った形になります。
露仏同盟とシベリア鉄道、揺らぐイギリス
まず成立したのが、ロシアとフランスの露仏同盟です。ビスマルク時代のドイツは「誠実な仲介者」として周辺国の仲介をし、ヨーロッパの均衡を保っていました。再保障条約の不更新は、ドイツがその地位を捨てたように見え、ロシアの親仏派を勢いづかせます。
露仏接近の中で起きたことの一つが、フランスの資本協力によるロシアのシベリア鉄道建設です。楊さんによると、この鉄道によってロシアは極東、つまり日本や中国の方向へ大量の軍隊を動員できるようになり、極東情勢は刻一刻と変わって日露戦争へとつながっていきます。
一方のイギリスは、ドイツの艦隊建設に脅威を感じていました。当時のイギリスは栄光ある孤立 ── 19世紀後半のイギリスが、どの国とも恒常的な同盟を結ばずに行動の自由を保った外交方針を保った一強時代から脱落し始めていたといいます。
南アフリカではボーア人との戦争が起き、アメリカとスペインの戦争には干渉したくても余力がない。経済力はあり国民国家モデルもうまくいっていたものの、植民地があまりに遠く各地にありすぎて、管理しきれなくなっていたと語られています。
栄光ある孤立を捨て、日本と手を組んだイギリス
そこへドイツが、日清戦争後の極東やアフリカ、中国など各地へ一気に進出し始めます。楊さんによると、新興国で仲介者を続けてきたドイツは植民地をあまり持っておらず、自分たちだけ持っていないことが逆に怖かったのだといいます。
樋口さんが「富国強兵をしないと潰されるという危機感があったのか」と尋ねると、楊さんはそのとおりだと答えます。しかしドイツの利害獲得はイギリスには大きな脅威に映り、イギリスは栄光ある孤立を捨てて日本と結ぶことを選びます。
当時の日本はロシアを仮想敵国としていました。ロシアは極東へ鉄道を整えつつあり、バルチック艦隊を持ち、朝鮮に野心を見せています。朝鮮がロシアに取られれば、日本は狭い海を隔ててロシアと対峙することになるため、日本はロシアを食い止めたいと考えていました。
日本はイギリスから戦艦を多く買っていて親和性も高く、一方のイギリスは中東やアフリカ、中国などでロシアと利害が対立していました。日本は当時まだ陸軍国で、陸軍が弱いイギリスにとっては、陸軍を持つ日本と結ぶことに利があったといいます。
1902年の日英同盟は、日本にとって大きな出来事でした。楊さんは、ちょんまげの時代から近代国家を目指してきた日本に、当時の「ランキング1位」のイギリスが、誰とも同盟を結んでいなかったのに手を組んでくれたことで、日本は沸き立ったと表現します。
ドイツという共通の敵が生んだ三国協商
日英同盟の次に、イギリスはフランスと結びます。両国はアフリカ分割などで利害が対立していましたが、ドイツという脅威を前に、特にフランスが譲歩して対立をやめ、英仏協商が結ばれました。
楊さんによると、ビスマルク時代のドイツは仲介者として話し合いに出ながらも、英仏が対立しているために物事が前に進まない状態を保っていました。ビスマルクが去り、ヴィルヘルム2世が拡張路線を取ったことで、英仏は「ドイツ危ないじゃん」と対立を引っ込めたのです。
イギリスとフランスは中世からずっと互いを仮想敵国としてきた間柄でした。統一されたドイツが台頭したことで、その関係が奇跡的に解消されます。フランスがライバルでなくなったイギリス海軍は、地中海の戦力を減らし、ドイツ艦隊のいる北海に戦力を集中できるようになりました。
さらに1907年ごろ、対立していたイギリスとロシアも英露協商を結びます。ドイツがバルカン半島から中東方面へ進出してきたため、イラン、アフガニスタン、チベットなどで対立していた両国が、その対立をいったん解消したのです。
もう一つのきっかけは、日露戦争でのロシアの敗北です。ロシアは極東進出をいったん諦め、中央アジアではイギリスに譲歩し、国力も落ちていました。内部の問題もあり、英仏とくっついておかないと危ないという判断から、ロシアは大きく妥協したといいます。
楊さんは、三国協商は3国が同時に何かを結んだのではなく、イギリスをハブにした2国間の結びつきの束だと説明します。
| 結びつき | 当事国 | 本文で語られた背景 |
|---|---|---|
| 露仏同盟 | ロシア・フランス | 再保障条約の不更新でロシアの親仏派が優勢に |
| 英仏協商 | イギリス・フランス | ドイツという脅威を前にフランスが譲歩 |
| 英露協商 | イギリス・ロシア | ドイツの中東方面進出と日露戦争でのロシアの敗北 |
すごいですよ。すごいですね。(ビスマルクは)ここまで予測してたから、ずっと解決せずに対立させてたんですね。
楊さんは、ビスマルクがいなくなったからこうなった、なるべくしてなったのだと応じます。出演者の一人は、今の日本で享受している平和も、知らない誰かの努力によって成り立っているのかもしれないと感じたと話します。
ドレッドノートと「超ド級」の由来
三国協商が出来上がると、英仏露から包囲されていると強く意識したドイツが反応します。三国同盟と三国協商という二極対立の構図ができたことで、特にイギリスとドイツの建艦競争は激しさを増していきます。
その途中の1905年に登場するのが、戦艦ドレッドノート ── イギリス海軍の戦艦。巨砲を統一して搭載し、蒸気タービンで高速化した設計で、それ以前の戦艦を一気に旧式化させましたです。日露戦争などの戦闘データを生かして作られ、攻撃力・防御力・速さのすべてで従来の戦艦を凌駕したといいます。
楊さんによると、ドレッドノートは以後の建艦競争のベンチマークになりました。「超ド級」という言葉は、ここから来ています。
ドレッドノートより前の戦艦
ドレッドノートと同じ水準の戦艦
ドレッドノートを超える戦艦。「超ド級」という言葉の由来
アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、日本も競って海軍を拡張していきました。樋口さんが指摘するように、1つ強い戦艦が出るとそれ以前の艦が役に立たなくなる状態で、日本でも艦隊建設のために明治の民衆はすさまじい重税に苦しんだと語られています。
樋口さんがこの時期の日本の立ち位置を尋ねると、楊さんは、日英同盟を結び、日露戦争にも一応勝利し、賠償金がもらえず極貧ながら、アジアで唯一列強に名を連ねるまでライジングしている状態だと答えます。日英同盟によって、日本は派閥としてはイギリスの連合側に属していました。
教科書の「まとめ」だけでは、なぜわからないのか?
最後に楊さんは、この回をおさらいします。ビスマルクがドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を作ったが、オーストリアとイタリアは利害が対立する不安定な同盟だった。そこからドイツが拡張路線に走り、ロシアは親仏派に傾いて露仏同盟へ、イギリスは日英同盟、英仏協商、英露協商へと進んだ、という流れです。
ドイツ・オーストリア・イタリア。ビスマルクがフランス孤立のために築いたが、オーストリアとイタリアの利害は対立していた
イギリス・フランス・ロシア。露仏同盟・英仏協商・英露協商が、イギリスをハブに束ねられた
楊さんは、教科書にはこのまとめだけが書かれているから「で?」となってしまうのだと話します。樋口さんは紙にメモしながら聞いていて、教科書にある三角関係の図のようになったと笑います。
ただし、この時点ではまだ戦争は始まっていません。2つの陣営に分かれて軍拡競争はしているものの、明日にでも戦争するという雰囲気ではなく、どの国も戦争はしたくなかったといいます。
次回はサライェボ事件を取り上げ、勢力が分かれても戦争を避けようとしていたヨーロッパが、なぜ誰も望まない戦争へ突入していくのかを追っていくと予告されました。
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まとめ
この回では、ビスマルクの退場とヴィルヘルム2世の拡張路線をきっかけに、ヨーロッパが三国同盟と三国協商に分かれていく過程が語られました。再保障条約の不更新やシーパワー論への傾倒、各国のすれ違いが重なり、全体像を見ていた人がいなくなったことの重さが浮かび上がります。
- ヴィルヘルム2世はビスマルク外交の真意を理解できず、再保障条約を更新しなかった。背景には国内の反ビスマルクの思惑もあった
- ロシアでは親独派と親仏派が拮抗しており、不更新をきっかけに一気にフランスへ傾いた
- マハンのシーパワー論に触発されたドイツの艦隊建設が、イギリスに栄光ある孤立を捨てさせた
- 日英同盟、英仏協商、英露協商が重なり、イギリスをハブにした三国協商が成立した
- ドレッドノートの登場で建艦競争が激化したが、この時点ではまだ戦争は始まっていない







