信長と将軍義昭、五箇条の条書は「傀儡化」だったのか?
将軍足利義昭を擁立したあとも、信長はしばらく、かつて将軍を殺した三好氏の襲撃を防ぎながら畿内の安定を保っていました。ところが、その信長と義昭が衝突し始めます。
信長と義昭が衝突した具体的な理由はわかっていません。ただ、天皇から勅使が出たという記録があり、天皇が動くほど深刻な対立だったと考えられているそうです。天皇の仲裁で両者は一度和解し、5つの決め事を交わします。
この取り決めは五箇条の条書 ── 1570年に信長が義昭に承認させた5か条の取り決め。将軍の命令に信長の了承を必要とするなど、将軍の権限を制約する内容を含みますと呼ばれ、信長が36歳ぐらいのときのものです。深井さんが読み上げた内容は、次のようなものでした。
深井さんは、裏を返せば対立の原因はこれらを将軍が守っていなかったことで、それに信長が怒ったのだろうと推測しています。
五箇条の条書の評価については、説が分かれています。通説では義昭政権がこれで傀儡化したとされますが、最近は「緩んでいる将軍に信長が諫言したものだ」という説も出ています。
義昭政権は信長の傀儡になった
傀儡化ではなく、緩んだ将軍への諫言。条書の後も義昭は諸大名との関係を取り仕切っていた
ただ深井さん自身は、最新の説には懐疑的です。
傀儡でしょ、これだって。こんなこと言われてる人(義昭に)権力ないじゃん。どう考えても。
俺はその最新の説を読みながらずっとツッコんでました。いや、わかんないです。もっと詳しくお話を聞いたら。
樋口さんは、トラブルの原因自体がわからない以上、義昭のほうも権力を主張しようとしたのかもしれない、と別の可能性も示しています。
義弟・浅井長政はなぜ信長を裏切ったのか?
五箇条の条書で信長と義昭の関係は一旦落ち着きますが、同時並行で騒乱が起こります。信長がいきなり権力を握ったことで、他の勢力の反発が強まり、「義昭と信長vs他の人たち」という構図になっていきました。
権力均衡が壊れるっていうのはやっぱり怖いですからね。信長に権力握られすぎても、だって自分の領地が危ないわけじゃないですか。
信長は将軍を補佐する立場として、21か国ほどの大名に「義昭政権に務めを果たし、天皇の御所の修理などをせよ」と上洛を求めます。これを拒否したのが朝倉義景でした。
朝倉義景の家は、信長と上洛する直前まで義昭をかくまっていた家です。それでも拒否したのは、信長が権力を奪おうと策略を巡らせているのではと警戒したからではないかといわれています。この拒否をきっかけに、信長と義昭は越前の朝倉氏を攻めることになります。
順調に進軍していた信長を襲ったのが、浅井長政の謀反でした。浅井長政には信長の妹であるお市が嫁いでおり、同盟も結んでいたため、信長は反乱など起きないと考えていたそうです。
地理的に、信長は浅井と朝倉に挟まれる形になり、かなりのピンチに陥りました。
浅井氏はもともと越前の朝倉氏に従属し、政治的・軍事的保護を受けていました。深井さんは、松平氏が今川氏に従属していた状態と同じだと説明します。一方で織田とも同盟を結んでいたので、浅井氏は織田と朝倉の両方に属する状態でした。
両属
浅井氏は朝倉に従属しつつ、織田とも同盟を結ぶ
対立
織田と朝倉が戦争状態になる
選択
どちらにつくかを迫られる
裏切り
浅井は朝倉を選び、信長に謀反を起こす
楊さんは、こうした状況は戦国時代によくあったと補足します。2つの大国の境界にある村や小さな領主は、両方に年貢を納めるなどして中立を保とうとしましたが、その中立が一気に崩れるときが紛争の種になったそうです。
浅井と織田が同盟を結んだ理由については、美濃に対して共に対立していたからという説と、上洛の流れで同盟したという説があり、はっきりしていません。いずれにせよ信長はこの裏切りを信じられず、「え、マジで?」という状態だったと深井さんは語ります。
姉川の戦いと、石山本願寺という最大のライバル
岐阜に逃げ帰った信長は、家康の軍勢も率いて浅井長政への報復戦に出ます。これが姉川の戦い ── 1570年、現在の滋賀県長浜市の姉川河畔で、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と戦った合戦ですで、朝倉・浅井の両軍と衝突し、多くの戦死者を出しながらもギリギリ勝利しました。
この時期には、石山本願寺という寺社勢力も信長と敵対していきます。信長は、石山本願寺が敵に回るとは思っていなかったようです。
深井さんの説明では、最澄が開いた比叡山からは多くの新しい宗派が生まれ、それが鎌倉仏教と呼ばれます。その1つが親鸞の開いた浄土真宗 ── 親鸞を開祖とする仏教の宗派。阿弥陀仏への信心による救いを説き、戦国時代には一向宗とも呼ばれて各地に門徒の組織を広げましたで、民衆に広く受け入れられました。
石山本願寺は浄土真宗の総本山で、トップである法主の一声で民衆が蜂起するほどの勢力を持っていました。深井さんは、信長にとって一番のライバルは、一向宗と呼ばれたこの浄土真宗の人たちだったといわれていると紹介します。
楊さんも、本願寺はほぼ独立国家のように強く、信長とは10年にわたって戦うことになると補足しています。
本願寺が敵対した理由は、信長や義昭と対立していた三好氏や朝倉・浅井氏と懇意にしていたからです。本願寺は自分を支えてくれる勢力との環境を守ろうとし、新興勢力である信長より、昔からの関係を優先しました。
なるほどな。直接的に(本願寺が)信長に何か攻撃したわけじゃなく、付き合いでっていう。
深井さんは、付き合いに加えて、今後の自分のポジショニングを考えても対立したほうがいいと本願寺が判断したのだと説明します。上洛以来ずっと音信を交わしていた信長にとっては、予想外の敵対でした。
信長はなぜ宗教勢力を根絶やしにしたのか
信長は一向宗をかなり敵視していました。これまでの通説では、信長が宗教嫌いだったから対立したといわれてきましたが、深井さんは調べていくとどうやらそうではないようだと話します。寺社勢力が力を持っていたことに加え、理念が一致しなかったことも大きいそうです。
楊さんによれば、一向宗は基本的に平等理念を持つ一方、信長たちの武家社会は超ヒエラルキー社会で、社会構造がまったく違いました。楊さんはその違いを、例えは悪いと断りながら、アメリカ合衆国と中華人民共和国ぐらい違うとたとえています。
比較的横のつながりを持ち、平等思想をある程度持つ
縦社会で、超ヒエラルキー構造
信長は比叡山焼き討ちで皆殺しを行うなど、宗教勢力にかなりひどいことをしています。他の大名は皆殺しまではしていません。その理由として、信長が残酷だから、宗教が嫌いだからという通説がありますが、深井さんが納得した説は別のものでした。
自分のスタイルで全国をまとめていくっていう、その過程で全く違うスタイルの人がいたら、やっぱそれは根絶やしにしないと過去を残してしまう。
中世の多様な勢力が並び立つ状態から、再び1つの権力に集約されていく過渡期にあって、横社会を象徴する一向宗の考え方が広まっては困る、という判断です。深井さんが読んだ本には、信長でなくても誰かが日本を縦社会でまとめる過程で、寺社勢力との軋轢は生まれただろうと書かれていたそうです。
構造的にちょっと回避できない軋轢かもしれないですね。
深井さんは、ここでいう平等思想は人権を基にしたものではないと念を押します。人権がある社会とない社会の違いは、フランス革命の回などで感じてほしいと話しています。
比叡山延暦寺については、最澄の後に密教化し、呪術的な性格を持っていました。一方で戦国大名はかなり合理的になり、メリットとデメリットで判断するようになっていたといいます。
楊さんは、社会学の研究として、ある社会の識字率が50パーセントを超えると社会変革が起きるという説を紹介します。戦国時代の武士が教養を身につけるにつれ、「ファクトはファクトだ」と考える人が出てきてもおかしくなかった、という見立てです。
たとえば昔は占いで兵を動かすのが当たり前でしたが、戦国時代初期の武士からは「占いでは決めない」「天気を見て動け」という合理的な考え方が出てきます。こうした価値観の違いが、比叡山との対立にもつながっていったと語られています。
信長包囲網はどう形成され、なぜ和議はすぐ崩れたのか
信長と義昭が畿内で権力を握ったことに対抗して、多くの勢力が立ち上がります。朝倉氏、浅井氏、三好氏、本願寺、そして六角氏です。この構図は信長包囲網と呼ばれ、信長はかなり危機的な状況に置かれました。
強そう。ほぼ包囲されてるよね。
深井さんは、時系列が前後すると断ったうえで、包囲網の流れを整理します。
包囲網の形成
朝倉・浅井・三好・本願寺・六角が信長と義昭に対抗する
膠着と長期化
織田と朝倉・浅井の戦線が膠着し、戦況が長期化・広域化する
外交への転換
六角、松永久秀の仲介で三好、公家の支援を受けて朝倉、本願寺とも和議を結ぶ
再び開戦
均衡がすぐに崩れ、織田と朝倉・浅井の戦争が再開する
和議が崩れたあと、朝倉・浅井に味方した比叡山は報復として焼き討ちされます。信長はあらかじめ、敵対すれば根本中堂を焼き討ちすると宣言していましたが、比叡山は要求に応じず朝倉・浅井を支援しました。
深井さんによると、この攻撃は宗教的な理由というより、朝倉・浅井を支援したことへの報復でした。ただ、武器を持たず修行や学問をしているだけの僧侶、さらに女性や子どもまで皆殺しにしています。そこまでした背景には、思想が一致しないことがあったのではないかといわれています。
比叡山のほうも信長を甘く見ていたようで、攻めてきたら金を渡して許してもらえばいいと考えていたそうです。しかし信長は金を受け取らず、攻め込んでいきました。
甲斐の虎・武田信玄はなぜ敵に回ったのか?
信長は武田信玄とも再び対立します。上洛前に和議を結んでいた相手ですが、本願寺とも和睦と対立を繰り返しており、深井さんは「和睦を結んで対立して、を何度もやっている」とまとめます。
一つ一つのね、なんか対立とか同盟とか覚える必要ないんだけど、同盟したり対立してるんだなってことだけ覚えてくれれば。
もともと織田と武田は同盟を結び、上杉謙信に一緒に対抗することもありました。しかし織田は徳川家康とも強固な同盟を結んでおり、その家康と武田が対立したことで、織田も巻き込まれていきます。
国境の取り決め
徳川と武田は領土の境をふわっと取り決めていた
領土の主張
武田が思ったより広い領土を主張し、関係が悪化する
徳川の転換
家康は武田と手を切り、武田のライバルの上杉と同盟する
信長の選択
武田から非難された信長は、徳川を選ぶ
全面対立
信玄は本願寺や朝倉と同盟し、三河へ攻め込む
深井さんは、同盟の連鎖で次々に戦争へ巻き込まれるこの状況を、第一次世界大戦の回で扱ったバルカンの火薬庫よりひどいとたとえています。
地雷原がすごすぎて、どこ踏んでも爆発するみたいになってるんですよね。
武田信玄は甲斐の虎と呼ばれた実力者です。父の武田信虎は甲斐を初めて統一しましたが、信玄を嫌って次男を跡継ぎにしようとしたため、信玄は父を追放し、21歳で家を継ぎました。
信玄は人を大切にし、甲斐を守るには人間関係や信頼関係が一番大事だと考えていたそうです。「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉を残し、給料もしっかり払う社長のような人物だったといいます。その下には武田二十四将 ── 武田信玄に仕えた武将のうち、特に名高い24人を指す呼び名。江戸時代以降に絵画などで広まったものですと呼ばれる優秀な武将が揃っていました。
深井さんは信玄のおちゃめな面も紹介します。当時は男色が普通で、信玄は部下にラブレターを多く書いており、春日玄介という人物には振られてもいるそうです。他の男性に目が移ったが体の関係はない、と釈明するラブレターも残っていると語られています。
三方ヶ原の戦い、徳川家康の大敗
信長が徳川を選んだ理由について、深井さんは、両国が隣り合っていたことや、徳川が信頼できたからではないかと推測しています。
こうして信玄は本格的に信長と対立し、家康の本拠である三河に攻め込みます。三方ヶ原で織田・徳川の両軍は武田軍と衝突し、大敗を喫しました。これが三方ヶ原の戦いです。
やっぱ武田軍強い。二十四将がいますからね。
深井さんは、一応史実らしいとしながら、家康が逃げる途中で恐怖のあまり脱糞し、家臣に指摘されると「これは味噌です」と言い張ったという逸話を紹介します。
また家康はよほど悔しかったらしく、このときの不機嫌な顔を絵に残していて、今でも見られると話しています。
この敗北で、反織田陣営は勢いづきました。すでに多くの敵を抱えていた信長にとって、隙を見せればすぐに謀反が起きる状況です。
義弟に続いて将軍も裏切る?義昭の謀反と信玄の病死
危機が深まる中、ついに将軍足利義昭が信長に謀反を起こします。敵対者が多い状況で、義昭は信長と一緒にいたら負けると考えたようです。
義昭は信玄に、信長・家康と和睦するよう求めますが、拒否されます。深井さんは、信玄は室町幕府の直接の統治外である関東の人なので、あまり言うことを聞かなかったのだろうと話します。信玄は逆に、信長と家康を倒して天下を安泰にする、と義昭に伝えました。
さらに信長は、以前の五箇条がまったく守られていなかったとして、十七か条の意見書 ── 信長が義昭に宛てて出した17か条の意見書。義昭の政治姿勢を具体的に批判する内容で、両者の決裂を示す史料とされますを出し、義昭を厳しく糾弾します。義昭は天下人として器量に欠け、世間で「悪しき御所」と評価されている、とまで書いたそうです。
一方で義昭からすれば、信長こそが敵対者を増やして天下をかき乱し、しかも負けそうに見えていました。高圧的な態度もあり、義昭は信長を裏切ります。
えぇ、これはピンチじゃないですか。
信長は非礼を詫びて和平を求めますが、義昭に拒絶されます。信玄は攻めてくる、戦いには負ける、将軍とは決裂するという、まさに四面楚歌の状態でした。
そこに訪れたのが「ラッキーパンチ」です。最も強く危険な相手だった信玄が病死し、武田軍の進撃が止まります。
一番強くてやべえやつが病死するんですよ。
朝倉・浅井も信長を倒しきれない中、勢いづいた信長は義昭を京都から追放します。義昭は追放後も征夷大将軍のままでしたが、信長が事実上の将軍の代わりになっていきました。
深井さんによれば、室町幕府は京都に拠点を置き、天皇を守ることが天皇から見た存在価値でした。家臣である信長に京都から追い出されたことで、足利家には何の力もないという認識が決定的になっていきます。
包囲網の瓦解と、天下人への道
義昭の追放後、信長包囲網は崩れていきます。朝倉氏は一族の裏切りによって滅亡し、浅井長政とその父も自害に追い込まれ、浅井氏も滅亡しました。
朝倉・浅井の最期のあとにも逸話があります。通説では頭蓋骨で酒を飲んだといわれますが、深井さんによると、そうした記録はないそうです。記録に残っているのは、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首を漆で塗り固めて金色に塗り、膳の上に置いて酒を飲み、歌ったという話です。
三好氏も自害に追い込まれ、本願寺も講和を求めてきたため信長はこれに応じます。包囲網が瓦解したことで、それまでサポート役として動いていた信長は、自ら天下人として動き始めることになります。次回は「天下人、織田信長」がテーマだと予告されています。
同盟を軽く破る時代、戦国大名の決断の重さ
包囲網の話を終えて、楊さんは第一次世界大戦やエリザベス1世の回のように「今誰と誰が味方なのか」わからないカオスだと振り返ります。通信手段が乏しかった戦国時代は、当時の人たち自身も状況を把握しにくかったはずだと指摘しています。
楊さんはさらに、同じ状況に同じ人を入れ直しても違う結末になりそうなほど、天気や誰かの死のタイミングといった揺らぎで歴史が変わりうると話します。
深井さんが特筆すべき点として挙げたのが、講和や同盟を破るハードルの低さです。現代人が「同盟」と聞いて思い浮かべるものとは違い、「一旦戦いをやめておこう」ぐらいの感覚だったのではないかといいます。
楊さんは、重要な取り決めでは神仏の名を並べて誓う起請文を交わし、血判を押すこともあったと補足します。それでも、あまり守られなかったそうです。深井さんも、人質がいるのに約束を破り、息子が殺されることさえあったと話します。
深井さんは、戦国大名の決断の重さにも触れます。夜中に突然謀反の知らせを受け、数時間で決断しなければ一家や家臣団がすべて失われる。しかも判断を誤って実際に終わることが頻繁にあったといいます。
本能寺の変(のときの信長)だから普通だなと思うもんね。見てたら。
信長が本能寺の変で「是非もなし」と言ったという話も、こうした世界観の中では自然に思えると語られます。楊さんは、倫理観も約束の感覚も命の感覚も違う以上、現代人が言う「死ぬ気で頑張る」とは重みがまったく違うと話しました。
深井さんは、「死ぬ気でやる」と言えるのは死ななくていい人だけだと続けます。楊さんは、そりゃ無常観に囚われると応じ、今の時代に生きていてよかったと締めくくりました。
まとめ
今回のエピソードでは、将軍義昭との関係の揺らぎから、浅井長政の裏切り、本願寺の参戦、武田信玄の侵攻、義昭の謀反へと、信長が四方を敵に囲まれていく過程が語られました。信玄の病死という偶然をきっかけに包囲網は崩れ、信長は自ら天下人として動き始める段階に入ります。
- 五箇条の条書は通説では義昭の傀儡化とされるが、諫言だったとする新説もあり、深井さんは傀儡だと考えている
- 浅井長政は織田と朝倉の両方に属していたため、両者の対立で朝倉を選び、信長を裏切った
- 信長と一向宗・比叡山の対立は、宗教嫌いというより、縦社会と横社会という構造や理念の違いから説明できるという
- 三方ヶ原の敗北と義昭の謀反で最大の危機に陥ったが、信玄の病死で形勢が逆転した
- 同盟や講和を破るハードルが低く、数時間で生死を分ける決断を迫られるのが戦国大名の日常だった





