家臣が将軍をすげ替える?明応の政変
桶狭間の戦いの後、信長がどう勢力を伸ばしたのかについて、深井さんは「まず幕府の中での地位を高めていく」と整理します。ただし、その話はかなり遠いところから始まります。
前提として、戦国時代はまだ室町幕府 ── 足利氏が将軍を世襲した武家政権。京都の室町に将軍の御所があったことからこう呼ばれます。戦国時代は室町時代の後期にあたりますの時代です。信長が幕府での地位を高める直接のきっかけは「永禄の政変」ですが、その前に「明応の政変」という事件が起きていました。
明応の政変は、信長が生まれる40年前、応仁の乱の25年後ぐらいに起きた事件です。深井さんによれば、中身は「将軍の家臣が勝手に将軍を代えてしまう」というものでした。
そんなことできるんや。
ありえないよね。会社で言ったらさ、社員が勝手に社長を代えちゃうみたいな。
応仁の乱の後も、将軍は一応は全国の秩序を管轄し、争いを仲裁する統治者として存在していました。その中で、10代将軍の足利義稙が、一つ前の将軍足利義尚の母・日野富子と、有力大名の細川政元らによって廃立 ── 君主をその地位から退かせ、別の人物を立てること。ここでは将軍を引きずり下ろして別の将軍を立てることを指しますされます。
代わりに11代将軍として擁立されたのが足利義澄です。深井さんは、この政変の目的はあくまで義稙の政治方針を改めさせることで、将軍による中央統治そのものを否定したわけではないと説明します。
将軍のシステム、制度はそのまま、ただその中に担っているそのプレイヤーを降ろすっていうことですよね。
ところが結果として、廃立を受け入れない義稙派と、新将軍の義澄派とで、将軍が2人並び立つような状態が生まれます。義澄政権は細川政元との連立的な政権で一度は安定しましたが、細川家の内部分裂で政元が殺害されると、権力の均衡が崩れてグダグダになっていきました。
深井さんが強調するのは、明応の政変で「将軍をすげ替えてもいい」という前例ができてしまったことです。この空気が、次の大事件につながっていきます。
ついに将軍暗殺。永禄の政変の衝撃
明応の政変が1493年、永禄の政変が1565年です。永禄の政変の頃、信長は31歳ぐらいでした。この事件では、有力大名の三好義継が13代将軍の足利義輝を殺害します。
深井さんは、明応の政変からの流れを「足利家の権力が、応仁の乱以降、段階的に失墜し続けた」結果だと整理します。
背景には、畿内 ── 京都周辺の地域を指す言葉。当時の政治・経済の中心で、山城・大和・摂津・河内・和泉などの国を含みますの有力大名・三好長慶と将軍・足利義輝の度重なる衝突がありました。両者は一度和睦して協調関係を築きますが、長慶が亡くなり、後継者の三好義継がまだ幼かったため、三好家は不安定になります。
義輝はこれを好機と見て将軍に権力を寄せようとし、三好氏がそれに反発します。三好義継の勢力と、松永久秀の息子である松永久通が、午前8時頃に1万人の軍勢で義輝のいる御所を包囲しました。
義輝自身も応戦し、諸説あるものの相当に強かったとも伝わりますが、少人数では多勢に無勢で、昼頃には追い込まれてしまいます。深井さんは、将軍殺害は当時の人々にとって衝撃的な非常事態だったと話します。
誰が応える?足利義昭の上洛要請
永禄の政変の直後、三好氏は義輝の弟である足利義昭も殺そうとします。当時の義昭は出家しており、まだ義昭とは名乗っていませんでした。しかし三好氏の内部で次の将軍をめぐる抗争が起き、その隙に義昭は大和国(現在の奈良県)へ脱出します。
その後、義昭は各地の大名に対し、自分を連れて京都に上り、三好氏を倒してほしいと呼びかけます。この呼びかけに応じて中央へ進出したのが信長でした。
逆に言うとね、この永禄の政変が起きてなければ、信長はそういう中央政界に進出するチャンスなかったと思うんだよね。
深井さんは、義昭とともに上洛したことを信長の決断の中でもかなり大きなものの一つと見ています。結果的に成功したことで、信長は副将軍のような立ち位置まで上ることになります。
もっとも、義昭が頼ったのは信長だけではありません。越後の上杉謙信、越前の朝倉氏、若狭武田氏、六角氏など、さまざまな大名に声をかけていますが、なかなか相手にされませんでした。
義昭は朝倉義景のもとに身を寄せたこともありますが、朝倉氏も一緒に上洛してはくれず、仕方なく信長を頼ったという流れだと深井さんは説明します。義昭は勝ち馬ではなく、しかもどの大名も自分の領国のことで精一杯だったからです。
だからその軍団率いて他のところ行くっていうのはものすごいリスクでもあるので、それを決断するかどうかってのは、今の経営でいうところの結構でっけえ投資判断みたいなのと一緒なんだよね。
楊睿之さんは、信長はお墨付きを得るために「誰も拾わなかった石を拾いに行った」のではないかと推測します。これに対して深井さんは、信長はすでに義輝から尾張の国主として認められていて、お墨付きはもう得ていたと補足しています。
なぜ一度は上洛できなかったのか
実は信長は、義昭に上洛を約束しながら一度失敗しています。義昭が上洛を持ちかけた時期、信長は武田信玄 ── 甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名。「甲斐の虎」と呼ばれ、越後の上杉謙信と何度も戦ったことで知られますや、美濃の斎藤龍興らと争っている最中だったからです。
武田氏との関係は複雑です。もともとは斎藤道三と信長の同盟が武田氏と対立していましたが、道三が亡くなり、信長は単独で武田氏と向き合うことになります。武田信玄は上杉謙信とも戦っていたため、一度は信長と和睦しました。
しかし、信長が美濃の斎藤氏と戦い、国境地域に勢力を広げることが武田氏の利害と合わず、和睦はなくなって再び対立します。深井さんは「こんなんばっかなんですよ」と語り、複合的な要因で戦いが続いていたと説明します。
ここで義昭が動きます。将軍は争いを仲裁する権威を持つ存在であり、まだ将軍ではない義昭も、織田家と斎藤家の和睦のために奔走して成功させました。さらに武田氏との同盟も実現させ、敵対勢力をいったん落ち着かせます。
上洛の要請
義昭が信長に上洛を持ちかけるが、信長は武田・斎藤と抗争中
義昭の仲裁
義昭が織田・斎藤の和睦と、武田との同盟を実現させる
信長の選択
上洛できる状況が整ったところで、信長は美濃との戦いを続ける
上洛の頓挫
一度目の上洛は実現しないまま終わる
義昭自身が頑張って、さあ上洛するぞっていう時に信長がやったのが、やっぱ美濃と戦うってことなんですよ。それで上洛できなくなっちゃう。
戦国大名にとって「上洛」とは何だったのか
信長がなぜ美濃との戦いを選んだのかを説明する前に、深井さんは当時の大名にとって上洛がどんな感覚だったのかを整理します。
殺される直前の足利義輝は、応仁の乱、明応の政変を経て、権力基盤がかなり弱まっていました。将軍自身は2000〜3000人ほどの兵しか持たず、もともとは各国の守護が京都にいて将軍を支える仕組みでした。
そう、人に支えてもらわないと生きていけないんですよ、もともと。
支えていた守護たちがそれぞれの国に帰ってしまったため、将軍は「自分を支えるために上洛してくれ」と呼びかけていたわけです。一方の大名たちは、戦国時代の中で自分が家臣であることを半ば忘れ始めていました。
それでも大名たちの気持ちとしては、面目も立つので本当は上洛したい。ただ、自分の国がすでに戦争だらけで、それを置いて出かけるのは難しかったと深井さんは話します。
なんかイメージでいうと、週6日で働いてて、それでギリギリで生活できてる人が新しい仕事増やせないみたいな話と一緒で、むずいんですよ。
とはいえ、守護の地を奪って大名になった人がほとんどだったため、自分を大名として認めてくれる存在は将軍だけでした。だから将軍と仲良くしたい気持ちはあったといいます。
さらに武田家や上杉家は関東管領の管轄地域にあり、畿内を直接治める室町幕府に尽くす感覚はもともと弱めでした。そのため、これらの大名にとって上洛のメリットはさらに低かったと説明されています。
深井さんのまとめでは、戦国大名たちは将軍を無視はしたくなく、自分の利益になるなら応じる意思もあったものの、実際にはなかなか動けなかった、というのが当時の気分でした。
メンツを失っても美濃と戦い続けた理由
上洛できる条件が整ったのに、信長はなぜ美濃と戦ったのか。深井さんは、ここを理解することが戦国大名を理解することに最も近づくと考えています。
彼らがやらないといけないのは自分の領地を守ることなんです。そして家臣団に安心を与えて、自分に仕え続けさせることなんです。
義昭が結ばせた和睦は、信長にとって信頼できるものではなかったと深井さんは見ています。いつか必ず斎藤氏と戦う必要が出てくるなら、今は上洛より美濃との戦いのほうがメリットがある。信長はそう判断したのではないか、という解釈です。
深井さんはこれをメリットとデメリットを比べた合理的判断と表現し、気持ちとしては上洛したかったものの、泣く泣く戦闘の続行を選んだのではないかと話しています。
楊睿之さんは、将軍の仲裁や裁判には時間もお金もかかり、自分たちで領土紛争を解決したり土地を取ったりするほうが早かったと補足します。それが戦国時代の構造で、最終的に領国の支持が固まるのだといいます。
これに深井さんは、土地を取って家臣に与えるといっても、実際にはその土地にいる人たちをそのまま家臣にする形で、自分の家臣に新しく土地を与えることを始めた人はこの時代ほとんどいなかったと付け加えています。
この選択の代償として、信長は天下の笑い者のように世間から嘲笑され、完全にメンツを失ったとされます。それでも戦争を続けるほうがいいと決断したわけです。
美濃平定と「天下布武」の本当の意味
最終的に信長は上洛を果たします。深井さんは、美濃との戦いを収めた後にリベンジとして上洛し義昭を将軍につけたのは、このときメンツを失い、本当に行きたいと思っていたからではないかと推測しています。
8年続いた美濃斎藤氏との戦いは、斎藤家の重臣である三人衆を裏切らせることで決着します。信長が33歳ぐらいのときのことです。
この頃から信長は天下布武 ── 信長が用いた印章に刻まれた文言。かつては全国統一の意思表明と解釈されてきましたが、近年は別の読み方も提唱されていますの印を使い始めます。この言葉の意味について、深井さんは説が分かれていると紹介します。
信長が日本全国を統一する意思を表明したもの
「武」は武家、「天下」は畿内を指し、武家の頭領である義昭を将軍につけて畿内を治め、幕府権力を回復させるという意味
ただし、いまでも「やはり天下統一のことだ」と考える人もいます。楊睿之さんは、自分は天下統一できるかもしれないという力の実感がビジョンに結びついたという説もあると話しています。
当時の「天下」である畿内は、今の京都、奈良、兵庫、大阪あたりで、大和国、山城国、摂津、河内、和泉などの国にあたります。
深井さんは、遠い上杉や武田は多くの敵を倒しながら進まなければならず上洛が難しかった一方、信長は他の大名より余裕があったのだろうと見ています。楊睿之さんは、美濃や尾張が石高の高い豊かな土地で、経済基盤ができていたことも大きいと指摘しました。
深井さんによれば、畿内は人口が多いものの細かく分かれていて、一つの大きな勢力がない状態でした。そこへ隣の美濃で多くの人口を押さえた信長が、義昭派の大名を取り込んで拡大すると、最大勢力になっていったと説明されています。
畿内平定、そして副将軍を辞退した信長
義昭と信長は、味方を取り込み、敵を倒しながら進んで、ついに京都に入ります。将軍を殺した三好氏の軍勢を攻略して畿内平定を成し遂げ、朝廷はその情勢を受けて義昭を征夷大将軍に任命しました。
将軍に押し上げた功績から、信長は義昭に副将軍か管領 ── 室町幕府で将軍を補佐した最高職。細川・斯波・畠山の三家が交代で務めるのが慣例でしたというナンバー2の格に就くよう求められます。ところが信長はこれを辞退しました。
代わりに信長が願い出たのは、堺、大津、草津などに代官を置くことでした。深井さんはこれらが港であると説明し、楊睿之さんは、港があれば経済圏ができ物資調達ができるので、キャッシュを得られるという認識だったと補足しています。
従来の通説では、義昭政権は信長の傀儡、義昭はマリオネットだとされてきました。しかし最近は、義昭主体で政治が行われ、信長はサポートに徹していたという説が出ていると深井さんは紹介します。
深井さんによれば、将軍の権力が弱く、実権を側の有力諸侯が握るという構図はもともとあったもので、信長はそれを引き継いでいるだけだというのが最近の見方です。
信長は天才イノベーターだったのか?
深井さんは、本を読んでいて抱いた疑問として、信長は本当にイノベーターだったのかという問いを挙げます。かつては信長を革新者として描く歴史が語られていましたが、比較的最近の研究では、彼は普通だったとされています。
経済政策も軍事政策も革新的な、めっちゃすごい革新者
もともとあった仕組みを踏襲しながら、要所で決断した優秀な人物
ここで深井さんは、歴史学者の本郷和人さんも同じ疑問を本に書いていたと紹介します。彼が普通だったのなら、なぜ天下統一の直前まで行けたのか、という問いです。
普通じゃないんだよね、やっぱ多分。運もいいし、実力もあるんです。彼は。で、決断すべきところで決断してるんです。
深井さんは、楽市楽座 ── 市場での営業税を免除し、座(同業者組合)の特権を廃して自由な商売を認めた政策。信長の代名詞のように語られますが、それ以前から存在していましたのような政策も含めて、実は全部もともとあったものだと話します。信長は新しめのやり方を踏襲して上手に経営し、要所要所で決断を下したというのが深井さんの見立てです。
楊睿之さんも、信長の素晴らしい決断の積み重ねが、時代の構造の歯車にカチッと噛み合ったという印象を語っています。こうして信長は、自分が押し上げた将軍と、その将軍に認められた自分という形で、幕府の中で重要な立ち位置を占めるようになりました。
ただし深井さんによれば、信長はこの後、義昭と対立していきます。対立ばかりの時代について、深井さんは生き残るだけでも相当すごいと話し、その話は次回に続きます。
まとめ
今回のエピソードでは、明応の政変から永禄の政変へと将軍権力が段階的に崩れていく中で、信長が足利義昭の上洛要請に応え、一度の失敗とメンツの喪失を経て美濃を平定し、畿内平定を成し遂げるまでが語られました。深井さんは、信長を天才イノベーターではなく、要所で決断できたラッキーな秀才として描き直しています。
- 明応の政変で「家臣が将軍をすげ替える」前例ができ、永禄の政変でついに将軍・足利義輝が殺害された
- 足利義昭の上洛要請に多くの大名が応じられなかったのは、自分の領国の戦争で精一杯だったから
- 信長が一度上洛を見送り美濃と戦い続けたのは、領地と家臣団を守るための合理的判断だったと解釈されている
- 「天下布武」の天下は畿内を指すという説があり、義昭政権も信長の傀儡ではなかったという見方が出ている
- 信長の政策の多くはもともとあったもので、革新者というより優秀で運のよい人物だったと語られた





