21歳で「学ぶことがない」玄奘は、なぜ兄に黙って旅立ったのか
前回の幼少期に続き、今回は玄奘が蜀 ── 現在の中国・四川省あたりを指す地域名。中心都市が成都で、隋末の戦乱期には比較的安定した土地でしたの成都で21歳を迎え、成人するところから話が始まります。
深井さんによると、この時点で玄奘の兄はすでに教壇に立つほどの人物になっていました。儒教・道教・仏教のすべてを修め、当時の主要な学問を押さえて教える、非常に優秀な兄だったといいます。
一方の玄奘は、蜀で学べるものをすべて勉強し尽くしてしまいます。21歳にして、本人の感覚では「これ以上学ぶことがない」という状態になっていたそうです。
深井さんは、玄奘のこの感覚を当時の書物事情から説明します。書物が今のように溢れておらず、限られた本を毎日暗記するほど読み込んで考え尽くせば、そう感じるのかもしれないと話しています。
でもやっぱり当時その書物がさ、限られてるから、今みたいにもう溢れかえってないわけ。
新しいテキストを求めた玄奘は、かつて戦乱を逃れて離れた長安へ戻りたいと兄に告げます。すでに隋が滅んで唐の時代に移りつつある時期でした。
兄は当然のように引き止めます。戦乱から逃れてきた事情はわかるが、今の蜀は平和で自分たちの地盤も固まったのだから、ここで暮らせばよいではないか、という理屈です。
間違いない。
しかし玄奘は兄の言うことを聞かず、黙って蜀を出ていきます。理由を問う樋口さんに、深井さんは「真理の追求なんですよね」と答えています。
玄奘の蜀からの出方も工夫されていました。街と街を行き来し、道筋を熟知している商人と仲良くなり、その一行に紛れて脱出したのです。
ここのIQの高さは、なんか普通の仏教者と違うよね。
社会性があるよね。頭の良さもそうだし、友達になるとかさ、そういうことができる人なんですよね。
長安への道中、すでに名の知られていた玄奘は、各地で仏教講義を求められます。さらに道々にいる高名な僧を訪ねては数ヶ月滞在して議論し、学ぶことがなくなるとまた次へ向かいました。
ずっと修学旅行してるよね。
ずっと修学旅行してる。本当にガチの修学旅行。
国際都市・長安が下げた「西方への心理的ハードル」
学びながら移動した玄奘が長安に着いたのは23歳のときです。深井さんによれば、唐の長安は外国人が大勢暮らす国際都市でした。
長安にはゾロアスター教 ── 古代ペルシャで生まれた宗教で、善と悪の二元論が特徴。アケメネス朝ペルシャで重んじられ、のちに中国にも伝わりましたやマニ教 ── 3世紀のペルシャでマニが開いた宗教。ゾロアスター教・キリスト教・仏教などの要素を取り込み、東西に広まりましたの寺院もあったといいます。樋口さんは、ゾロアスター教が番組のアレクサンドロス編で出てきたことを思い出しています。
楊さんは、当時の中国にはすでに多くの民族が入ってきていて、長安は今のシンガポールのような雰囲気だったと補足します。
深井さんは、この長安の環境が、のちに玄奘が西方へ旅立つときの心理的ハードルを下げたのではないかと考えています。旅の途中で通る国の出身者が、すでに長安にいたからです。
具体的には、玄奘は旅の途中でソグド人 ── 中央アジアのオアシス都市を拠点にした交易民族。シルクロード交易の担い手として、唐の都にも多く住んでいましたの国や、遊牧民である突厥 ── 6〜8世紀に中央ユーラシアの草原地帯で勢力を持ったトルコ系遊牧民の国家の国を通ります。長安でその人々と会って話し、どんな人たちかを知っていたことが、彼らの国を通る不安を和らげたのではないか、という見立てです。
見たことのないところよりも、見たことがあるところの方がやっぱりあれじゃないですか。
目指すところと今自分がいるところが繋がってる感覚をそこで得れるかもしれないですね。
楊さんは別の角度から、玄奘には旅慣れした「バックパッカー的」な面もあったかもしれないと話します。誰とでも仲良くなれて、ふらっと旅に出る胆力を持つ人への憧れを語りつつ、玄奘にもその素質を見ています。
翻訳されたお経では、もう真理に届かない
長安に来てから27歳ごろになると、玄奘は中国ではもう学ぶことがないと感じるようになります。深井さんは、大乗仏教の哲理をこれ以上極めることが、中国の僧に聞いても、中国語訳のお経を読んでも不可能になったと説明します。
玄奘が疑ったのは、目の前のお経そのものの正確さでした。原典はサンスクリット語で書かれており、それを中国人ではない西方の人が中国語に訳していたのです。
それはそれで素晴らしいことなんだけど、これ(翻訳経典)はおそらく正確じゃないんじゃないかって彼は思い始めちゃうんですよね。
深井さんは、以前の回で扱った唯識 ── あらゆる存在は心の働き(識)が生み出したものだとする大乗仏教の思想。精緻な論理で体系化されていますが、すべてロジックで組み立てられた教えだった点に触れます。玄奘はロジックで突き詰めた結果、矛盾を見つけたのではないか、というのが深井さんの推測です。
楊さんも、突き詰めると誤訳や、同じ内容なのに違う語彙が使われている箇所が見えてきたのかもしれないと付け加えています。
玄奘が他の高名な僧に相談しても、返ってくる答えに納得できない水準に本人が達してしまいました。ここで玄奘は、原典に触れるしかないと考えるようになります。
翻訳経典の疑問から原典を求めるまでの流れは、次のように整理できます。
翻訳経典を読み尽くす
中国の僧や中国語訳のお経からは、これ以上学べなくなる
矛盾に気づく
ロジックで突き詰めると、誤訳や語彙の不一致が見えてくる
答えが得られない
高名な僧に相談しても納得できる答えが返ってこない
原典を求める
サンスクリット語の原典に当たるしかないと考える
ただし、国外への旅立ちには大きな壁がありました。唐は建国間もない国で、スパイの流入を警戒し、外国人を管理するとともに、国外へ出る人も制限していたのです。
玄奘は出国を申請しましたが、許可は下りませんでした。
インドから来た僧の一言が、決断の引き金になる
出国の許可が下りずに困っていた玄奘に、もう一つの出会いが訪れます。インドからプラバーカラミトラという僧が長安にやって来たのです。
玄奘にとっては「原典の国の人が来た」という出来事で、迷わず会いに行きます。インドの仏教の様子を尋ねると、プラバーカラミトラはナーランダ ── 古代インドにあった仏教の大僧院で、多くの学僧が集まった学問の中心地。ナーランダ大学とも呼ばれますに優秀な人々が集まり、盛んに議論していると答えました。
さらにプラバーカラミトラは、ナーランダにシーラバトラという凄まじい教授がいるとも伝えます。深井さんは、これを玄奘に言ってしまったらもう止められない、と笑います。
行くしかないじゃん。プラバーカラミトラそれ(ナーランダの話)言っちゃったら、玄奘もう止めらんないよね。
深井さんは、人物の思考プロセスや決断までの心境をたどるのが好きだと話し、玄奘の決断を複数の要因から読み解きます。外国人と会った経験、学ぶための移動を重ねた「成功体験のプチバージョン」、そしてプラバーカラミトラの話です。
加えて、仏教が伝わった直後の三国時代ごろから、中国からインドへ行った僧がすでにいました。法顕 ── 東晋の僧。陸路でインドへ渡って経典を持ち帰り、旅行記『仏国記』を残しましたのように、命を落とした人もいる中で、経典を持ち帰った例があったのです。
俺にもやれるんじゃん。
深井さんは、先人が道を切り開いたとまでは言えないとしながらも、前例があったことの意味を強調します。
深井さんの整理では、玄奘の決断は、もともとの真理追求の性質に、ハードルを下げる経験が積み重なった結果です。
まずは語学から。わずか1年の準備と国禁の出国
インド行きを決めた玄奘が最初に取りかかったのは、語学の勉強でした。原典を理解するためにサンスクリット語が読める必要があり、外国人の先生に師事して学び始めます。
深井さんによると、サンスクリット語以外にも西方の言語を2、3か国語ほど学んだと考えられています。楊さんは、玄奘が旅の途中で130カ国ほどを通過していると話し、深井さんは7つほどの言語圏があったと補います。
じゃないと後で多分出てきますけども、王様とかたちから好かれないと思いますよ。やっぱり自分たちの国の言葉でね。
深井さんが難しさとして挙げるのは、あの難解な唯識論の議論を外国語でこなすことです。深井さん自身、唯識論は「いまいちわかってない」と笑っています。
さらに玄奘は後年、6000人が参加するディベート大会で優勝しますが、深井さんはそこでもおそらく外国語で議論していたはずだと指摘します。楊さんは「本物の天才ですよ」と感嘆しています。
玄奘は長安に住む外国人にも、どの国から来たのか、どんなところで、どのルートで行けるのかを聞きまくり、情報収集を徹底しました。この準備期間はわずか1年ほどだったといいます。
逆に1年で何カ国語かとか。
この時期、玄奘には有名な寺の住職にならないかというオファーも来ていました。しかしインド行きを決めていた玄奘はそれを断っています。
深井さんは同時代の出来事として、ムハンマドがメディナを包囲し、イスラームを勝利に導いていた頃だと紹介します。楊さんは、ちょうどイスラム帝国から唐に使者が来た時期でもあると加えています。
そして28歳の玄奘は、ついに国禁を犯して出国します。国境の往来は厳しく制限され、捕まれば大きなリスクがありましたが、西方出身の学友・光達の里帰りに付いていく形で旅立ちました。
深井さんは、ここからようやく『西遊記』の旅が始まると話します。冒険活劇のモデルになるのも納得するほど、ハードな旅だったそうです。
玄奘が旅立つまでの歩みを、年齢順に並べると次のとおりです。
勉強漬けの玄奘に、社会性はどこで育ったのか
旅のスタートラインに立ったところで、楊さんは玄奘がずっと勉強ばかりしていることに改めて驚きます。深井さんも、恋愛や性欲はどうしていたのだろうと素朴な疑問を口にします。
伝記では、玄奘は子どもの頃に友達と遊ばなかったとされています。けれど人を説得するのが上手く、コミュニケーション能力も高いことに、深井さんは引っかかりを覚えます。
この人ね、やっぱり有名だから伝説に彩られてるんですよ。だからその嘘の部分もたくさんあるんじゃないかなと思っていて。
深井さんは、玄奘は実は普通に人と遊び、社交性もあったのではないかと推測します。
楊さんは別の見方として、両親を亡くした玄奘が、勉強以外に自分の生活を立てる時間をかなり使っていたはずだと話します。その苦労の中で社会性が鍛えられたのではないか、という考えです。
今の中国人の感覚でいうと、本当にやっぱそうで、何か一つのものだけやって中国で生きていけと。そうじゃないんですよね。
楊さんは例として切符の買い方を挙げます。日本なら並べば買えますが、中国では人が並ばないこともあり、どう割り込むか、ふっかけられないようにどう交渉するかが必要になるといいます。
両親の庇護がない中で生き抜いてきた玄奘は、サバイバル力が高かったはずだと楊さんは見ています。幼少期の不幸が、そうした力を育てるきっかけになったのかもしれません。
次回は、いよいよ玄奘の旅そのものが語られる予定です。
まとめ
今回は、蜀と長安で学び尽くした玄奘が、翻訳経典の限界に気づき、プラバーカラミトラとの出会いや先人の前例に後押しされて、国禁を犯してインドへ旅立つまでが語られました。
- 21歳で蜀の学問を学び尽くした玄奘は、兄の制止を振り切り、商人に紛れて長安を目指した
- 国際都市・長安での外国人との交流が、西方への心理的ハードルを下げたと深井さんは見ている
- 翻訳経典の矛盾に気づいた玄奘は、サンスクリット語の原典に当たるしかないと考えた
- ナーランダとシーラバトラの話、法顕らの前例が、命がけの旅の決断を後押しした
- 約1年で語学と情報収集を進め、28歳で学友の里帰りに同行する形で出国した


