学者の家に生まれた「神童」はどんな子どもだった?
前回の唯識論や空といった難しい仏教思想から一転し、今回は三蔵法師・玄奘の幼少期の話に入ります。深井さんによると、玄奘の祖父は国立大学の教授にあたる地位の人で、玄奘はかなり良い家柄の生まれでした。
玄奘の父も隋に仕える公務員でしたが、世の混乱の影響で一家は途中で貧しくなります。それでも父や祖父は読書を好む学者肌の人たちで、玄奘はその血を色濃く受け継いだと深井さんは見ています。
(お父さん、おじいさんは)すっごい読書する系の人たちだから、思いっきりその血を受け継いでいる感じですよね。
玄奘が幼少期を過ごしたのは、煬帝 ── 隋の2代皇帝。大運河の建設や高句麗遠征などの大事業で知られ、中国史では暴君の代表としてよく名前が挙がりますの時代です。小野妹子が遣わされた時の皇帝で、100万ほどの人を動員して戦争をしたり、現在も中国で使われている運河を造ったりと、民衆が苦しめられた時代でした。
玄奘は三男一女の末っ子として生まれました。「玄奘」は出家後の名前で、元の名は陳陳伊だといいます。
玄奘は幼い頃から神童扱いされるほど頭が良く、兄も優秀でした。同世代の子どもと遊ばずに本を読み続け、仏教だけでなく儒教や道教の本まで幅広く読んでいたそうです。
同世代の子供と遊ばずに一人で本をずっと読んでた。だからもう休み時間にクラスの隅っこでずっと本を読んでいる。
両親との死別で、少年・玄奘の暮らしはどう変わった?
玄奘の母は、玄奘が5歳の時に亡くなります。父はもともと役人の仕事が好きではなかったようで、母の死を機に職を辞め、故郷に戻って読書にふけるようになりました。
玄奘が8歳の時、父は孝経 ── 親への孝を説いた儒教の経典。孔子とその弟子の問答の形で書かれ、古くから子どもの学習書としても読まれましたを口頭で教えます。すると玄奘は飲み込みが早く、暗記までしてきたため、父もこの子は相当優秀だと感じたといいます。
ところがその2年後、玄奘が10歳の時に父も亡くなります。両親を失った兄は生活のために出家し、大都市の洛陽で僧になりました。当時は出家すると公務員になれたためです。
残された玄奘も貧困のなかで苦労し、やがて兄を追って洛陽へ向かいます。10代前半の時点で、法華経などの経典を暗唱し、理解もしている状態だったそうです。
受験資格のない13歳が、なぜ出家を許されたのか
隋の時代、洛陽で僧を新たに27人採用するというお達しが出ます。深井さんによると、僧という公務員になれば労働も納税もしなくてよくなり、兵役も免除されました。
兵役の免除が多分一番でかいと思うんだけど、当時隋ってめっちゃ戦争してて、めちゃくちゃみんな疲弊してるわけ。
深井さんは、玄奘と兄は勉強のために兵役を避けたかったのだろうと推測しています。ただ当時の玄奘は13歳で、試験を受ける資格がありませんでした。それでも戦争に行かずに済むとあって、応募者は数百人も集まったそうです。
受験できない玄奘は、試験会場の玄関で様子を眺めていました。そこで、人を見抜く才能に定評のある試験官の丁善華が玄奘に目を留めて声をかけます。玄奘の受け答えに驚いた試験官が試験を受けさせ、玄奘は合格しました。
伝わる話では、出家して何をしたいのかと問われた玄奘は「遠く如来の教えを継ぎ、近くは遺法を継ぎたく願っております」と答えたそうです。ただし深井さん自身は、この場面がどこまで史実かは疑わしいと話しています。
俺ちょっと笑ったけど、結局(試験官は)顔が賢そうだったから中に入れたみたいな。
この話を受けて、樋口さんは科挙 ── 隋の時代に始まった、試験で官僚を選ぶ制度。家柄に頼らない登用として知られ、清の末期まで1300年ほど続きましたの話を持ち出します。科挙は平等な制度と言われがちですが、合格後の採用プロセスには4つほどの項目があり、その1つが見た目だったといいます。
四つぐらいあって、(採用の項目の)一つがマジルックスだったよ。
深井さんによると、玄奘には実際にルックスが良かったという説があり、身長2メートルとも言われています。深井さんは2メートルは嘘だろうとしつつ、175〜180センチほどはあったかもしれないと見ています。背が高く、見た目も良く、頭もいい少年として素質を認められ、玄奘は得度、つまり僧になることを許されました。
乱れる隋の世で、玄奘はなぜ洛陽から蜀へ移ったのか
玄奘が僧になったあと、隋の国政はどんどん不穏になります。煬帝は仏塔や仏像を多く造らせるなど仏教には功績を残しましたが、人々を戦争や土木工事に駆り出し続け、各地で反乱が起きました。それでも煬帝本人は宮殿で遊んでいたといいます。
寺の暮らしは比較的安全でしたが、玄奘が16歳ごろになると、反乱軍が洛陽方面の米蔵を占領します。洛陽の市民は食料難で次々と餓死していきました。そのなかでも玄奘は、13歳から寝食を忘れて勉強を続けていました。
基本そうだよね。勉強できなくなるとこの人(玄奘は)移動するんですよ。
洛陽では仏教に専念できないと考えた玄奘は、兄を誘って長安へ移ります。しかし長安には良い先生も良いテキストもありませんでした。そこで兄弟は、険しい地形に守られて平和だった蜀へ向かいます。
楊さんの故郷でもある蜀は、楊さんいわく「平和で学術都市」で、当時も全国から学者が集まっていました。蜀への道は、崖に刺した丸太の上を歩くような危険な道で、玄奘は10代でその道を越えています。蜀で玄奘は、あえて難しい話を選んで聞いて学んでいったそうです。
洛陽
米蔵が反乱軍に占領され、食料難で仏教に専念できなくなる
長安
比較的ましな場所として移るが、良い先生もテキストもない
蜀(成都)
険しい地形に守られて平和で、全国から学者が集まる学術都市
インドへの旅立ちを支えたのは、10代の移動経験だった?
深井さんは、玄奘がのちにインドへ旅立つ決意をあっさり下せた理由を、この10代の経験に見ています。学ぶために住む場所を変えることを、玄奘はすでに何度も繰り返していたからです。
学ぶために住む場所変えるっていうことをこの時点でもう何回かしてるわけ。これがすごく経験として彼の決断をライトにさせてたんじゃないかなと思うんですよ。
楊さんは、玄奘が小さな旅で成功体験を重ねたのだと受け止めます。深井さんも、長安で失敗し、蜀で成功した経験が、玄奘の人生に大きく影響していったと考えています。楊さんは、学を求めて移る玄奘の感覚に吉田松陰と似た部分も感じたそうです。
なんか本当に興味あるもののために、それ以外のすべてを即効で捨てていくみたいな、その感覚。周りがどんだけざわついててもみたいな。
深井さんはさらに、玄奘が戦乱を逃れて移動したのは命が惜しかったからではない、と指摘します。命が惜しいだけなら、危険なインドへの旅には出ないはずだからです。
楊さんも、10代からインドへの旅まで、学びたいという思いが一気通貫していると応じます。次回からは、いよいよ玄奘が西へ旅立つまでの経緯が語られる予定です。
まとめ
今回のエピソードでは、学者の家に生まれた玄奘が両親を亡くし、隋末の乱世のなかで13歳で出家を許され、学べる環境を求めて洛陽、長安、蜀へと移っていく少年時代が語られました。深井さんは、この移動の経験がのちのインドへの旅の決断を軽くしたのではないかと見ています。
- 玄奘は学者肌の家系に生まれ、幼い頃から儒教・道教・仏教の本を読みあさる神童だった
- 5歳で母、10歳で父を亡くし、兵役などが免除される僧の道を兄とともに選んだ
- 本来は受験資格のない13歳で、試験官に見出されて出家を許された。ルックスも良かったという説がある
- 勉強ができなくなるたびに洛陽、長安、蜀へと移り、学ぶために動く経験を10代で重ねた
- 命を守るためではなく学ぶために場所を変えるという姿勢が、インドへの旅まで一貫していると語られた



