17年の旅はどう始まった?味方を作りながらの国境突破
三蔵法師・玄奘は、いよいよインドへの旅に出発します。楊さんによると、天竺へ行ってインドを巡り、唐に帰国するまでにかかった年月は17年です。帰国したとき、玄奘は40代になっていたといいます。
楊さんは、17年という長さを実感するために、樋口さんに「17年前に何をしていたか」を思い出させます。38歳の樋口さんにとって、17年前は大学生の頃です。
いや、だからすごいよね。ちょっと考えてみてほしいですけど、17年前何してました?
大学っすね。やばいな。
疲れる。帰りたい。
玄奘は、一緒に出発した孝達という人物と早々に別れます。孝達は故郷の町にとどまったため、玄奘は一人で西へ向かうことになりました。
楊さんが感心しているのは、玄奘が評判や外交を戦略的に使い、旅の安全を少しでも高めようとしていた点です。たとえば唐の国境にある涼州 ── 現在の中国甘粛省武威市あたりにあった州。河西回廊の要衝で、西域へ向かう人や物資の通り道でしたでは、玄奘は仏教の講座を開いています。講座を聴いた民衆は玄奘を「すごい人だ」と認め、のちに玄奘が逃げるときの助けになりました。
そういうふうに味方作って味方作ってやるみたいなのは結構やってますね。
樋口さんは、玄奘の振る舞いを「本ばかり読んでいる普通の学者ではない」と評しました。楊さんは、玄奘のやり方を「フォロワー数を増やしている」と現代風に言い表しています。
ただ、西へ向かう僧がいるという噂は、すでに広まっていました。国境の町を治める都督の李泰陵は、玄奘が立派な人物だとわかっていても、出国禁止の法を破る者を見過ごす立場にはありません。李泰陵が行き先を尋ねると、玄奘は「西方に行きます」と正直に答えてしまいます。都督は、都へ帰るよう玄奘に命じました。
それでも玄奘は周囲を説得します。地元の僧侶の助けを受けて、夜のうちに町を脱出しました。この時点で、玄奘はすでに長安から1000キロ離れていたといいます。
次に着いた夏州でも、玄奘は行く手を阻まれます。役人の毒こたつは玄奘を歓迎しましたが、玄奘がこれより西の様子を尋ねると、厳しい答えが返ってきました。北には渡れない深い川があり、上流には関門があります。ほかの方面には、100里ごとに5つの放火台 ── 敵の接近を煙や火で知らせる監視塔のこと。一般には「烽火台」と書き、兵士が常駐して国境を見張っていましたが置かれ、監視兵が見張っていました。
進む道がなくなった玄奘は、約1か月その地にとどまります。その間、西方出身のソグド人 ── 中央アジアのソグディアナ地方を拠点とした民族。シルクロード交易で活躍した商人集団として知られていますから情報を集め、言語の勉強も続けました。ところが、そこへ追っ手が来たという噂が届きます。
涼州で講座
仏教講座で民衆の支持を得る
都督に止められる
行き先を正直に話し、都へ帰るよう命じられる
夜に脱出
地元の僧侶の助けで町を抜け出す
次の町で行き詰まる
川、関門、5つの放火台に阻まれ、約1か月情報を集める
追っ手の噂
強行突破するしかなくなる
なぜ引き返さなかったのか?一人きりのタクラマカン砂漠横断
追っ手が迫るなか、玄奘は馬1頭とソグド人の案内役赤蛮子を連れて逃げ出します。楊さんはここを、玄奘の旅で最初の「超絶苦労ポイント」と呼びました。
監視塔のある道を進んだ玄奘は、案の定、見張りに見つかります。楊さんによると、5つあった放火台のすべてで見つかったようです。追っ手を説得したという説もあると、楊さんは補足しています。
これ見つかってねえだろうなって思いながら玄奘歩いてるんですよ。そしたら目の前に矢がシャンとか言って刺さって。
捕まった玄奘は、法を求めて西方へ行くのだと説明します。具体的な言葉は記録に残っていません。それでも玄奘は「いいこと」を語って解放され、次の行き先まで教えてもらいました。玄奘は放火台ごとにこれを繰り返して、砂漠の入り口までたどり着きます。
しかし、案内役の赤蛮子は、放火台を越える途中で嫌になり、離脱してしまいます。旅慣れているとはいえ、玄奘は砂漠を歩いた経験がありません。経験のないままタクラマカン砂漠 ── 中国新疆ウイグル自治区にある広大な砂漠。昼夜の寒暖差が激しく、シルクロードの旅人にとって最大の難所の一つでしたの横断に一人で挑み、死にかけることになります。
砂漠の中で、玄奘は水を入れた袋をこぼしてしまいます。4日間、水も食料も口にできず、幻覚や幻聴まで経験したといいます。
伝説では、玄奘は砂漠に入る前に出会った老人から馬をもらっていました。その馬は、砂漠を15往復したことのある馬だったといいます。玄奘が気を失うと、馬がそのままオアシスまで運んでくれたという話も残っています。ただ楊さんは「そんな綺麗な話じゃないだろうな」と述べています。死にかけたこと、案内役が離脱したこと、放火台で見つかったことは史実だろうとしています。
楊さんによれば、死にかけていた玄奘が唱えていたのは般若心経 ── 大乗仏教の「空」の思想を短くまとめた経典。玄奘による漢訳が広く読まれ、日本でも最も親しまれている経典の一つですでした。これは幻で、自分の認識の中にしかないものだと思いながら砂漠を渡っていたのだろう、と楊さんは推測しています。
楊さんが一番すごいと感じたのは、玄奘が引き返さなかったことです。水のある場所はわかっていたのですから、1日目か2日目に戻ればよかったはずです。
こぼした時に引き返せよって思うじゃん。
記録によると、玄奘は絶対に引き返さないと決めていたようです。東へは一歩も戻らないという覚悟が、生死の境で玄奘を前に進ませていました。
砂漠の先で涙の歓迎。漢人3人が抱きついてきた理由
砂漠を越えた玄奘は、現在のウイグル周辺にあった伊吾 ── 現在の新疆ウイグル自治区ハミ市あたりにあったオアシス都市。シルクロードの天山南路・北路への入り口にあたりますに到着します。楊さんによると、伊吾はいくつもの王朝の支配を経てきた土地で、住民の多くはソグド人でした。それでも、まだ漢人の影響が残る地域だったといいます。
玄奘が伊吾の寺に泊まろうとすると、そこには漢民族が3人いました。3人は玄奘を見た瞬間、泣きながら抱きついてきたと記録に残っています。
まさかこんなところに同じ民族の人が来ると思ってなかったから、めちゃくちゃ感動したんだって。
楊さんは、この3人の感動の理由を推測しています。唐は出国を禁じていたので、3人は周りを外国人に囲まれて暮らしていたはずです。そこへ、仏教の崇高な目的を持った同じ民族の僧が、たった一人で命がけで砂漠を越えてきました。だからこそ深く感動したのだろう、というのが楊さんの見方です。
樋口さんが「今はSkypeでいつでも話せる」と言うと、楊さんは月の喩えを持ち出しました。月のコロニーに十数年住んでいるところへ、久しぶりに地球人が来たら泣くかもしれない、という話です。樋口さんは、周りがタコのような宇宙人ばかりの光景を想像して笑いました。
ところが、玄奘が伊吾に滞在したのはわずか10日でした。学ぶことがあれば何か月も何年もとどまる人なので、伊吾には学ぶものがなかったのだろうと楊さんは見ています。
高昌国王・麴文泰はなぜ最大のスポンサーになったのか?
伊吾の寺には、たまたま高昌国 ── 現在の新疆ウイグル自治区トルファン市にあったオアシス国家。漢人系の麴氏が王を務め、仏教が盛んでしたの使者が来ていました。使者は玄奘が来ることを事前に王へ知らせます。仏教をこれから盛り上げようとしていた高昌国は、玄奘の到来を大いに喜びました。
高昌国は、もともと玄奘のルートには入っていませんでした。楊さんは、玄奘は「時間がかかる」と渋々向かったのではないかと想像しています。伊吾から6日かけてほとんど眠れずに進んだ玄奘が夜に到着すると、王や王妃、家臣がずらりと並んで出迎えていました。
超眠かったらしいんですけど、朝まで挨拶続いて、夜通し、こうなんていうか、こう歓迎された。
実は玄奘は、王宮に着く前に一度「もう寝ます」と申し出ていました。しかし「王様が待っているので絶対に来てください」と言われ、断れなかったといいます。樋口さんは「般若心経を唱えながら聞いていたのでは」と冗談を言いました。
高昌国では仏教とゾロアスター教の両方が信じられていましたが、王の麴文泰は仏教を中心に据えたいと考えていました。玄奘と話すほどその力量がわかり、麴文泰は土下座せんばかりに国に残ってほしいと頼みます。玄奘が断ると、麴文泰は「断ったら殺す」とまで脅しました。
これに対して玄奘は、4日間の断食で抵抗します。衰弱していく玄奘を見かねて、麴文泰は引き留めを諦めました。その代わりに2つの条件を出します。1つは、インドからの帰りに3年間高昌国に滞在して弟子を育てることです。もう1つは、出発前の1か月間、般若経を講義することでした。
もうめっちゃ好きやん。
旅立つ玄奘に、麴文泰は手厚い支援を贈ります。服30着、手袋や防寒着、靴に加えて、20年分の経費として黄金や銀貨を用意しました。さらに馬20頭と、盗賊に備えたお付きの者25人も付けています。一人で砂漠をさまよった玄奘が、一気にリッチになったわけです。
麴文泰の支援は、物資だけではありませんでした。この先、西は突厥 ── 6世紀から中央アジアに勢力を広げたトルコ系遊牧民の国家。当時は西方の交易路を広く押さえていましたの領域に入ります。麴文泰は、そのトップであるヤブグ・カガンとコネを作るよう勧め、特別な土産を持たせました。さらに、この先の24か国の王に宛てた手紙も書いています。
楊さんは、玄奘はそれまで麴文泰を少しうざがっていたのではないかと見ています。しかし、ここまでの支援を受けて玄奘は深く感動しました。帰りには必ず高昌国に立ち寄ろうと心に決めたといいます。
亀茲国で見えた玄奘の冷静さ。もてなした王を「頭が悪い」
高昌国の次に、玄奘は貴氏国に向かいます。現在のウイグルの阿克蘇地区クチャのあたりで、一般には亀茲国として知られる国と考えられます。玄奘は、この頃から、のちに大唐西域記 ── 玄奘が旅した国々の地理・風俗・仏教事情を記録し、帰国後にまとめた書物。当時の中央アジアやインドを知る貴重な資料ですにまとめる内容のメモを本格的に取り始めていました。
亀茲国は、玄奘より前に般若心経を訳した鳩摩羅什 ── 4〜5世紀の亀茲出身の僧。長安で多くの仏典を漢訳し、中国仏教の基礎を築いた訳経僧の一人ですらの出身地です。楊さんによると、亀茲国には寺院が100か所、僧侶が5000人以上いたといいます。仏教国の亀茲国で、玄奘は華々しくもてなされました。
ところが玄奘は、大唐西域記の中で亀茲国の王を「人の言いなりで自分を持っていない」と書いています。もてなしてくれた相手でも、玄奘は評価を甘くしませんでした。
すげえ優秀な人が冷めた目で相手の国の社長を見るみたいな。
樋口さんは、旅を一緒にしている感覚になってきたと話します。「つらくないので、一番いい形で西遊記をしている」とも語りました。次の難関は次回に持ち越しです。
まとめ
玄奘の旅の前半は、戦略的な味方づくりと、砂漠で見せた引き返さない執念の連続でした。高昌国王・麴文泰の支援が、その後の旅の土台を築きます。
- 玄奘は仏教講座や説得で味方を作り、出国禁止の国境を抜けた
- 案内役に去られ、水も失った砂漠で、玄奘は引き返さず般若心経を唱えて進んだ
- 伊吾では、同じ民族の僧の到来に漢人3人が泣いて喜んだ
- 高昌国王・麴文泰は、20年分の経費と人員、24か国への紹介状で玄奘を支えた
- 玄奘は大唐西域記で、もてなした王でも冷静に評価している


