会津藩の悲劇と戊辰戦争の終結 ── 武士の時代が終わる瞬間
歴史を面白く学ぶコテンラジオの西郷隆盛編第10回では、深井龍之介さん、樋口聖典さん、楊睿之さんが、戊辰戦争における会津藩の視点を中心に語ります。江戸城は無血開城したものの、北日本では激しい戦いが続きました。会津藩は孤立無援の中で籠城戦を強いられ、白虎隊の自決や市民の悲劇が起こります。西郷隆盛は弟の戦死に心を痛めながらも、戦後処理に関わり、やがて武士の時代が終わりを迎える歴史の転換点を迎えます。その内容をまとめます。
会津藩のアイデンティティと松平容保の決意
前回、江戸城の無血開城という歴史的瞬間が語られましたが、戊辰戦争はまだ終わっていませんでした。今回は、薩摩や長州の視点ではなく、会津藩福島県会津地方を治めた藩。藩主松平容保は京都守護職として幕府を支え、新選組を統率した。戊辰戦争では「朝敵」とされ、最も厳しい処分を受けた。の視点から戊辰戦争を見ていきます。
会津藩の初代藩主は保科正之江戸幕府2代将軍徳川秀忠の庶子。3代将軍家光の異母弟として幕府を支え、4代家綱を補佐した名君。会津藩松平家の祖。でした。彼は2代将軍秀忠の隠し子で、3代将軍家光の弟に当たります。不遇の時期を経て家光に見出され、幕府の基礎固めに尽力した人物です。保科正之は遺言で「将軍家に忠勤を尽くすことだけを考えなさい」と子孫に命じました。「他藩を見て己の身の振り方を判断するな。もし二心を抱く藩主がいれば、それは我が子孫ではない。家臣も従うな」と。
この誓いを百年近く守り続けてきたのが会津藩だったんですよね。彼らのアイデンティティはここなんです。
この時の藩主松平容保幕末の会津藩主。京都守護職として尊王攘夷派の取り締まりに当たり、孝明天皇から信頼された。鳥羽・伏見の戦い後に朝敵とされ、会津戦争で降伏。明治時代は日光東照宮宮司を務めた。は養子で座を継いでおり、血のつながりがなかったからこそ、家訓を死守しようと強く思っていました。彼は18歳で家督を継ぎ、京都守護職という重責を担い、孝明天皇幕末の第121代天皇。尊王攘夷の立場から公武合体を支持し、松平容保や一橋慶喜を信頼した。明治天皇の父。1867年に崩御。からも期待をかけられていました。
ところが鳥羽・伏見の戦い1868年1月、京都南部で起きた旧幕府軍と新政府軍の戦い。錦の御旗が掲げられ、旧幕府軍が「朝敵」となった。戊辰戦争の始まり。に敗れ、徳川慶喜とともに大坂を脱出した容保は、にわかに朝敵の汚名を着せられます。江戸に戻った容保は、慶喜が戦う意思を持たないことに複雑な思いを抱きました。将軍に忠誠を誓っているのに、その将軍が戦わない。命を捨てろと言われれば喜んで捨てるのに、将軍自身が戦う気がないという矛盾した状況に置かれたのです。
慶喜は徹底抗戦派だった小栗上野介幕末の幕臣。勘定奉行、外国奉行として活躍し、横須賀造船所建設などを推進した能吏。戊辰戦争では徹底抗戦を主張したが、慶喜に罷免された。新政府軍に捕らえられ斬首。を罷免し、さらに容保ら24名の登城を禁じ、江戸からの立ち退きを命じました。新政府は会津を朝敵と見なし、仙台藩主に会津追討令を下します。同時に米沢藩、盛岡藩、久保田藩にも同様の命令が届けられました。東北諸藩に、同じ東北である会津を討てという命令が下されたのです。
容保は恭順の姿勢を示し、藩主の地位を子に譲り、22藩に嘆願書を送って和平の仲立ちを懇願しましたが、どの藩からも返事は返ってきませんでした。薩摩と長州があまりに激しく怒っているため、他藩は逆らうことを恐れたのです。
彼は交戦準備を始めます。鬼官兵衛として知られた主戦派の佐川官兵衛に中隊司令官を任命して、フランス式訓練を急遽受けさせるわけです。
容保は会津藩兵を集め、慶喜に従って逃げたことを謝罪しました。殿様が家臣に謝るという異例の光景に、家臣たちは驚きました。その上で会津藩を守り通すことを誓い、兵士たちを励ましたのです。これは藩内での主戦派の強い突き上げもありましたが、容保自身も、将軍についていったものの、やはり戦うしかないとプライドが許さなかったのでしょう。
東北諸藩の反発と奥羽越列藩同盟の結成
新政府軍の侵攻が始まると、東北諸藩は会津を救済するために奔走します。庄内藩は会津藩と同盟を締結し、仙台・米沢の両藩は連名で会津藩への寛大な処置を求める嘆願書を新政府に提出しましたが、無視されました。
この段階で、東北諸藩は朝廷にも自分たちの気持ちをわかってくれる人がいるだろうと期待していました。新政府を認めていない立場だったのです。しかし新政府は嘆願を拒否し、会津討伐を決定します。江戸から薩摩と長州が直接攻めてくることになりました。
こうした中で事件が起きます。会津藩の恭順説得に当たっていた仙台藩士が、奥羽鎮撫総督府戊辰戦争中に新政府が設置した東北方面の統治機関。参謀として長州藩の世良修蔵が派遣されたが、その高圧的態度が東北諸藩の反発を招き、仙台藩士に殺害される事件が起きた。の参謀である長州藩の世良修蔵長州藩士。戊辰戦争で奥羽鎮撫総督府参謀として東北に派遣されたが、東北諸藩や会津藩に対して高圧的な態度を取り、仙台藩士に殺害された。この事件が奥羽越列藩同盟結成のきっかけとなった。を殺害したのです。
世良修蔵は仙台藩に対して極めて高圧的な態度を取っていました。仙台藩の家紋である「竹に雀」を揶揄する歌を詠み、花見の席でも早く戦をしろと挑発する歌を詠みました。さらに配下の薩長兵士がレイプなどの乱暴狼藉を働いても放置していたのです。武士にそのような態度を取れば殺されても仕方がない状況でした。
この事件によって、東北諸藩と新政府の戦争が避けられない状況となります。ここで奥羽越列藩同盟1868年に仙台藩・米沢藩を盟主として結成された東北諸藩の同盟。最大31藩が参加し、新政府に対抗したが、装備や統制の面で劣勢となり、各藩が次々と降伏していった。が結成されます。仙台藩と米沢藩を盟主として25藩が参加し、後に越後の6藩が加盟して31藩となりました。彼らの主張は「朝廷には歯向かっていないが、薩長は許さない」というものでした。
新政府軍は会津に至る要衝である白河の関福島県白河市にある古代の関所跡。平安時代の歌にも詠まれた名所。戊辰戦争では東北軍と新政府軍の激戦地となり、政府軍がこれを占領したことで会津への道が開かれた。を攻略します。東北軍は数か月にわたって奪還を試みましたが、銃の射程が倍ほど違い、全く歯が立ちませんでした。新政府軍の優勢が明らかになると、同盟を裏切って新政府側につく藩が続出します。盟主である仙台藩でさえ恭順派の声が大きくなり、撤兵してしまいました。会津だけが孤立無援の状態に追い込まれていったのです。
白虎隊の悲劇
会津藩は軍隊を年齢別に4つの隊に編成していました。朱雀隊18〜35歳の主力部隊(18〜35歳の主力)、青龍隊36〜49歳の国境守備隊(36〜49歳の国境守備)、玄武隊50歳以上の予備軍(50歳以上の予備)、そして白虎隊16〜17歳の少年兵で構成された予備隊。会津戦争で飯盛山にて自刃した悲劇で知られる。(16〜17歳の予備)です。
母成峠が突破され、十六橋も占拠されたという報が入ると、松平容保は予備隊であった白虎隊に出撃を命じました。主力の朱雀隊や青龍隊は藩の境界線の防衛に出払っており、会津若松城にはいなかったのです。
白虎隊は隊長の日向内記に率いられ、風雨の中を戦場に向かいました。急な出撃だったため食料を持たず、途中で握り飯をもらったものの全く足りず、空腹でずぶ濡れで疲労困憊の状態でした。隊長が食料調達のために引き返したものの、戻ってきませんでした。指揮官を失った少年たちだけが、ほとんど訓練も受けていない状態で実戦に投入されることになったのです。
新政府軍の激しい攻撃が始まります。白虎隊は必死に応戦しましたが、中古の粗悪な銃では弾がどこに飛ぶかもわからず、新政府軍の前に翻弄され潰走しました。彼らは山中に逃げ込み、藪をかき分けて白糸神社まで辿り着き、さらに飯盛山の麓に出ました。
山頂からは会津若松城が見えるはずでした。彼らは体制を立て直そうとして城の様子を確認しましたが、そこで見たものは黒煙に包まれた会津若松でした。実際は城下町が燃えていたのですが、不安と疲労と空腹の中で、少年たちは「城が落ちた」と勘違いしてしまいます。
もうお腹も空いてるし、寒いし、指揮官もいないし、負けてるし、逃げてきたし、逃げる場所ないしみたいな感じで、めっちゃ絶望的な気持ちになります。
飯盛山の山頂で、20名ほどの16〜17歳の隊士たちは自決を選びました。林八十治と長瀬雄治が互いに刺し違え、野村駒四郎が介錯して自らも割腹自殺しました。16〜17歳の少年たちが、武士としての誇りを貫いて死んでいったのです。
このうち16歳の飯沼貞吉だけが奇跡的に蘇生したため、彼らの最後の光景が後世に伝えられることになりました。彼は喉を脇差しで刺しましたが骨に当たって突き通らず、傍らの石に脇差しを当てがって体を倒して突き刺してもなお生き残ったのです。
会津若松城の籠城戦
新政府軍は早朝に会津若松市中に乱入しました。市民たちはパニックとなり、朝食を取る間もなく逃げ惑いました。多くの人々が近くの川に出て小舟で対岸に渡ろうとしましたが、大雨で増水した川で次々と船が転覆し、数百名が溺れました。
さらに悲惨だったのは、武家の女性や子供たちが次々と自決していったことです。一つにはレイプを恐れたこと、もう一つは籠城戦において足手まといになり、食糧を消費するだけで戦力にならないという理由でした。母親が子供を刺し殺すという地獄のような光景が展開されました。
会津藩士の子供だった柴五郎の記録によれば、彼の兄が白虎隊に編入され、高熱でフラフラなのに母親が「柴家の男子なるぞ。父はすでに城の中におる。急ぎ父の元に参じて、家の名を恥ずかしむるなかれ」と叱って送り出しました。その後、母親、祖母、姉妹、7歳の妹が全員自決し、柴五郎だけが生き残ったのです。
えてしてさ、その死ぬことの美学っていう風に言いがちですけれども、僕もそれ好きですよ。ただ、こういうリアルな話に接すると、そう簡単には言えないですよ。
会津若松城には続々と援軍が到着しましたが、政府軍側にも増援が集まります。佐賀藩のアームストロング砲イギリス製の最新式大砲。射程距離が長く威力が大きい。佐賀藩が導入し、会津戦争で使用された。小田山から会津若松城を砲撃し、城を大破させた。が小田山から城に向けて砲撃を開始します。遠くから撃てるこの大砲の威力は凄まじく、城はボコボコになりました。当時の写真が残っており、実際に城が激しく損傷していることがわかります。
政府軍の軍勢は3万にまで膨れ上がり、50門の大砲が昼夜を問わず城に向けて火を噴きました。城中では砲弾が炸裂し続け、医薬品も足りず、女性たちは負傷者の看護、炊事、弾丸の製造に当たりましたが、全く間に合いませんでした。不発弾の処理中に自爆して死ぬ女性もおり、死体を処理する時間もなく井戸に捨てるしかない状況でした。
連日の砲撃で陣痛を催した妊婦もおり、籠城中に赤ちゃんを出産する人もいました。便所はすぐ満杯になり、清掃する人もおらず、道端にまで糞便が溢れて足の踏み場もなくなりました。女性たちは「便所で死ぬのだけは嫌だ」と言い合っていたといいます。
それでも会津藩は戦い抜こうとしていましたが、米沢藩が降伏し、米沢藩の働きかけで仙台藩も降伏します。これによって会津藩は完全に孤立し、ついに白旗を立てて開城しました。この時の会津軍の総員は4,956人で、約3割は非戦闘要員でした。約1か月間の籠城でした。まさにプライドだけで何とか持ちこたえていたような状態でした。
これで奥羽越列藩同盟は完全に崩壊します。さらに薩長は城内に侵入して略奪行為を行いました。この略奪やレイプの様子が城から見えたといいます。会津藩の人々は「犯罪者」だという理由で、死体の埋葬も禁じられました。大量の死体が放置されて腐り、白骨化し、動物に食べられて死臭が漂いました。白虎隊の少年たちの遺体も埋葬が禁止され、腐っていきました。薩長がそれだけ激しく怒っていたということです。
西郷隆盛と弟の死
この戦争の最中、西郷隆盛にとって非常に悲しい出来事が起こります。弟の西郷吉次郎西郷隆盛の弟。兄が島流しになった際に食事や衣類を送るなど、家族を支えた。戊辰戦争の北越戦線で戦死。が戦死したのです。
西郷家は非常に貧しく、両親と祖父が相次いで亡くなった時期もありました。その時に支えてくれたのが弟でした。西郷が島流しになった時には食事や衣類を送ってくれました。西郷は弟をめちゃくちゃ信頼しており、「自分よりも立派な人間だ」とまで語っていたといいます。
弟の戦死の報を聞いた西郷は、鬱状態になりました。部屋にこもって食事もろくに取らず、いつも食べていた酒や肉も受け付けなくなりました。死に目にも会えず、すごく気落ちした様子でした。体を丸めて寝込み、起き上がれなくなったといいます。陸軍のトップのような人物が落ち込んで寝込んでしまったため、多くの人が呼びに行きましたが、どうにもならない状態でした。
これはだからガチ鬱状態なんだと思いますね。
吉次郎の妻は当時妊娠中で、夫の消息を聞かせてくれと西郷に頼んでいました。戦死の知らせを受け取った妻は驚いて産気づき、男子を産みましたが、生まれるのが早すぎて産後の肥立ちも悪く、吉次郎の妻まで亡くなってしまいます。夫婦がほぼ連続で亡くなったのです。残された子供は西郷が引き取り、下男の熊吉に託して養育させ、めちゃくちゃ可愛がったという話が残っています。
この愛していた弟の死で鬱状態になるエピソードは、西郷の人間らしい一面を示しています。共感性が高く、感情の総量が大きいからこそ、落ち込んでいる時の落ち込み方が激しかったのです。この性格的特質は、今後の西郷を理解する上で非常に重要な要素となります。
戦後処分と会津藩の過酷な運命
戊辰戦争が終結すると、新政府は敵対していた諸藩の領地を接収し、直轄地として支配しました。これは新政府の財源にするためでもありました。封建社会では中央集権的な財源がなく、税徴収権を家臣に渡してしまっているため、近代政府を作るための財源が必要だったのです。
1868年4月、箱館、江戸、神奈川、越後、甲斐、京都、大坂などの直轄地を「府」と定め、その他を「県」と定めました。それ以外の場所は藩のままで、藩・府・県が混在するという移行期の状態が生まれました。これが廃藩置県の前段階です。
罪一等は徳川家で、石高を70万石に減らして駿府を領地としました。罪二等が会津と桑名です。会津に関しては前藩主松平容保とその子を永禁固とし、会津若松28万石は没収。容保の息子に陸奥下北半島の3万石を与えるとされました。
しかしこれは徳川家よりも実質的に厳しい処分でした。徳川は70万石と10分の1になりましたが、会津は28万石から3万石へ、さらに下北半島は火山灰地で不毛の地だったため、実質7千石ほどしかなかったのです。収入が97%減、つまり3%になったということです。藩ごと流刑のような状態でした。
会津めっちゃ厳しいですね。
めっちゃ厳しいです。本当に会津だけ超厳しいです。下北半島に飛ばすの相当ひどいと思う。
会津藩は領地没収後、斗南藩と名前を変えて下北半島に移されました。公称3万石ですが実際は7千石しかないやせ地で、餓死と凍死が隣り合わせの日々となりました。旧会津藩士たちは栄養不足でやせ衰え、脚気となり、栄養失調で頭髪も抜けていくレベルでした。死んだ犬の肉まで食べざるを得ない状況でした。
柴五郎の回顧録には、父親が少年に向かって「武士の子たることを忘れるな。戦場にあって兵糧がなければ、犬猫でもこれを食って戦うものだぞ。今我々は賊軍として追われて、こんな辺境の地に飛ばされた。会津の武士が餓死して果てたとなったら、薩長の外道どもに笑われるぞ。後まで恥辱だ。ここでもまだ戦場なんだぞ」と叱る場面が記されています。
柴五郎自身、毎日犬の肉を食ったためか、あるいは栄養不足のためか、春になったら頭髪が抜け始め、ついに坊主頭のごとく全体が薄ハゲになったと記しています。会津藩士たちは武士のプライドだけを支えに、過酷な環境を耐え抜いていったのです。
新政府の処置は、会津以外には比較的温厚で、天皇の慈悲を強調するものでした。死刑になった藩主は一人もおらず、取り潰しとなった藩は会津と常陸藩という小藩の2つだけでした。会津だけが許されず、一身に恨みを背負わされた形となったのです。
一方で西郷隆盛は、庄内藩の処分を担当しました。庄内藩は奥羽越列藩同盟の中でも激しく抵抗し、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたこともある藩でしたが、西郷は非常に寛大な処置を行いました。庄内藩の人々は深く感銘を受け、後に『西郷南洲遺訓』という西郷の言行録を出版したのは、この庄内藩の人たちなのです。
戊辰戦争が武士階級に与えた影響
戊辰戦争の規模は、同時代のアメリカ南北戦争やプロイセン・フランスの普仏戦争に比べると小規模でした。アメリカ南北戦争では60数万人が死に、普仏戦争ではドイツ側4万5千人、フランス側14万人が死にました。戊辰戦争の死者は全体で約1万3千人でした。内乱としての規模は小さかったのです。
しかし政治的・歴史的な影響は非常に大きなものでした。最も重要なのは、武家武士の家柄。世襲身分制の封建時代において特権的地位を占めていたが、戊辰戦争で近代軍制に対応できず、優位性が失われていった。がこの戦争で活躍できなかったという点です。世襲身分制の封建時代において、武士は新しい近代軍制の中で全く活躍できませんでした。
新政府は諸藩を動員する際、小銃と大砲を備えた部隊のみを要求しました。刀を持った武士は兵糧の無駄なので不要だとされたのです。しかも良い家柄の武士が新政府軍の要職に就けるわけでもなく、新しい訓練を受けた者、技術や知識を持つ者が指揮官になっていきました。上級武士が入る余地はほとんどなかったのです。
さらに、近代軍を創設するためには諸藩が新たに資金を投じてイノベーションを起こす必要がありました。その資金を捻出するために、下級武士の給料を削っても足りず、結局上級武士の給料を大幅に削ることになりました。これによって武士の力は著しく弱まっていき、この後の廃藩置県や廃刀令につながっていくのです。
戊辰戦争という内乱によって、新政府への政権交代が決定的になった。薩長を中心とした新政府が、日本の新しい政府としての地位を完全に固めたんです。
戊辰戦争の終結によって、薩長を中心とした新政府の地位が確立しました。しかしこれで全てが終わったわけではありません。日本はまだ殿様がたくさんいる侍の国です。藩はまだ存在しています。これをどう近代化するのか、という新たな課題が待ち受けていました。
そして武士たちはまだたくさん残っています。特に薩摩は人口の20%が武士という、武士の比率が非常に高い藩でした。彼らは戦争で活躍しましたが、平和の世になった時、彼らをどうするのか。この「平和の世になった時の兵士たちをどうするか問題」が、これから出てくる大きな課題となるのです。
まとめ
今回は会津藩の視点から戊辰戦争を見てきました。江戸城の無血開城とは対照的に、会津では壮絶な戦いと悲劇が繰り広げられました。
会津藩は「将軍家への忠誠」という家訓を100年近く守り続けてきた藩でした。藩主松平容保は養子であったがゆえに、その家訓をひときわ強く守ろうとしました。しかし鳥羽・伏見の戦いに敗れて朝敵とされ、慶喜が戦う意思を持たない中で孤立していきます。
東北諸藩は会津を救済しようと奥羽越列藩同盟を結成しますが、新政府軍の参謀世良修蔵の高圧的な態度が反発を招き、仙台藩士に殺害される事件が起きます。これをきっかけに全面戦争となりますが、装備の差は圧倒的でした。火縄銃 vs 連発銃、そして射程距離の差が決定的な差となりました。
白虎隊の少年たちは、指揮官を失い、空腹と疲労の中で戦場に投入されました。飯盛山から見た会津若松の黒煙を「城が落ちた」と誤解し、16〜17歳の少年たち20名が自決しました。武士としての誇りを貫いた悲劇でした。
会津若松城では約1か月の籠城戦が行われ、3万の新政府軍と50門の大砲による砲撃に晒されました。城内では武家の女性や子供が次々と自決し、市民も逃げ惑いました。米沢藩、仙台藩が降伏すると、会津は完全に孤立し、開城を余儀なくされました。
戦後処分では、会津藩だけが極めて厳しい処分を受けました。28万石から実質7千石の下北半島に移され、収入が97%減となり、餓死と凍死の危機に直面します。一方、庄内藩を担当した西郷隆盛は寛大な処置を行い、庄内藩の人々は後に『西郷南洲遺訓』を出版して恩に報いました。
西郷自身も、愛していた弟吉次郎の戦死に深く傷つき、鬱状態に陥りました。共感性が高く感情の総量が大きい西郷にとって、この喪失は計り知れないものでした。このメンタルの浮き沈みは、今後の西郷を理解する上で重要な要素となります。
戊辰戦争は死者1万3千人と規模は小さかったものの、武士階級に決定的な影響を与えました。近代軍制において武士は活躍できず、その身分的優位が失われていきました。近代軍創設のために上級武士の給料が大幅に削減され、武士の力は著しく弱まっていきました。これが廃藩置県、廃刀令へとつながっていくのです。
しかし改革はまだ終わっていません。日本はまだ殿様がたくさんいる侍の国です。戦争は終わったものの、統治フェーズに入った今、全く違うスキルが必要とされます。特に薩摩のように武士の比率が高い地域では、「平和の世になった時の兵士たちをどうするか」という問題が待ち受けています。ここからが明治維新の本当の後半戦なのです。
- 会津藩は「将軍家への忠誠」を家訓とし、松平容保は養子ゆえにそれを強く守ろうとした
- 奥羽越列藩同盟が結成されたが、装備の差(火縄銃 vs 連発銃)で敗北
- 白虎隊の少年20名が飯盛山で自決。会津若松城では1か月の籠城戦が展開され、武家の女性・子供も次々と自決
- 会津藩は収入97%減の下北半島に移され、餓死寸前の生活を強いられた
- 西郷隆盛は弟の戦死で鬱状態に。庄内藩には寛大な処置を行った
- 戊辰戦争で武士は近代軍制で活躍できず、身分的優位が失われ、廃藩置県・廃刀令への道が開かれた
- 戦争は終わったが、日本の近代化という新たな課題が待ち受けている

