コテンラジオ初の公開収録はどんな場だった?
コテンラジオは、福岡県のいいかねパレットで番組初の公開収録を行いました。株式会社オルタブースが主催する合宿型研修「オルタナティブキャンプ」の一環として、研修の時間を使って収録する形です。
深井さんはイベントで人前に立つことは多いものの、ラジオ形式での公開は初めてだと話します。楊さんが番組1年目の初挑戦を樋口さんのおかげだと持ち上げると、樋口さんは否定せずに受け止め、会場を和ませました。
すいません、否定できないです。すいません。僕、自分の心に嘘つけないんで。
樋口さんからは、YouTubeとPodcastを合わせた総再生回数が19万回を超えたという報告もありました。深井さんによると、1回の放送は1日でおよそ1500回再生されているといいます。
この回のテーマは「スタートアップから天下を取った英雄・曹操」です。以前に取り上げた諸葛孔明と同じ三国志の時代の人物で、深井さんは今回あえて仕事やビジネスと絡めて話したいと切り出しました。
今まであんまり積極的に仕事と絡めるってやらなかったんですけど、結構曹操は仕事っていう側面から見た時にかなり優秀な人なので。
深井さんは、曹操が魏 ── 三国時代に華北を中心に成立した王朝。曹操が基盤を築き、その死後に息子の曹丕が漢の皇帝から位を譲られて建国しましたの創業者であることも、スタートアップと重ねて語る理由に挙げています。
劉備は最弱?三国志を史実で見たときの曹操の圧倒的な差
楊さんによれば、三国時代は実質的に曹操の時代でした。魏・呉・蜀の3国のうち、曹操が作った魏が最も大きかったといいます。
深井さんは、400年続いた漢帝国が崩壊していく最後に残ったのが曹操・劉備・孫権の3人であり、スキルやマインドを比べると曹操が断トツだと話します。劉備が主人公というイメージは、小説の影響が大きいようです。
劉備を主人公とする『三国志演義』 ── 明代にまとめられた歴史小説。史書『三国志』をもとに、劉備や諸葛亮を中心とした物語として脚色され、日本の三国志像にも大きな影響を与えましたはだいぶ美化されており、史実で並べると評価はまるで違うと深井さんは言います。
劉備が地方の中小企業だとすると、曹操の勢力ってマジマイクロソフトレベルなんですよ。
曹操が龍だとすると、何ですか、劉備とかカメムシぐらいです。
深井さんの「龍」のたとえに、樋口さんが「龍と劉備がちょっと似てた」とツッコミを入れ、会場の笑いを誘う場面もありました。
戦争にも詩にも強い。曹操は「超文武両道」の人だった
深井さんは、曹操が戦争に強いことはよく知られている一方、あまり知られていない一面として、漢詩を作るのが非常にうまかったことを挙げます。作詞家として当時のトップレベルだったといいます。
イメージないでしょ。ポエマーなんです。で、あと普通に政治、政治もめちゃくちゃうまいんです。マネジメントもめちゃくちゃうまいんです。
曹操は勉強量でも、劉備や孫権とは比べものにならなかったそうです。深井さんによると、孫権はほぼ勉強しておらず、劉備も途中で勉強をやめています。
曹操って戦争に行きながら、昼は戦争、夜は勉強してるんです。この人本読んでるんです、夜は。
楊さんも、中国語で読む曹操の詩は相当かっこいいと太鼓判を押します。さらに深井さんは、曹操が孫子の兵法 ── 春秋時代の兵法家・孫武の作とされる兵法書『孫子』。戦わずして勝つことを重視する思想で知られ、現代のビジネス書でも引用されますに注釈をつけた解説書を作り、現在の形を取捨選択したのは曹操ではないかと言われていると紹介しました。
戦争、詩、政治、マネジメント、学問のすべてに秀でていたことが、深井さんが曹操を断トツと評する理由です。
400年続いた漢帝国は、なぜカルト宗教で揺らいだのか
三国志を知らない人のために、深井さんは時代背景から説明します。漢帝国は400年続いた帝国で、明治政府から150年しか経っていない現代から見ると、400年前は関ヶ原の合戦の頃にあたります。
当時の庶民にとって漢帝国は、祖父のさらに祖父の代から続く「世界そのもの」でした。誰も崩壊を想像しない中で、漢の政治は官僚の汚職にまみれ、優秀な人を殺して私腹を肥やすほど腐敗していたといいます。
腐敗が臨界点を超えると、まともに生きられなくなった民衆はカルト宗教にのめり込みます。張角 ── 後漢末の宗教指導者。太平道を率い、病気治療などで信者を集め、184年に黄巾の乱を起こしましたが「触ったら病気が治る」と説き、信者は数百万人規模に膨らんで武装蜂起しました。
そんなソリューション、カルト宗教にハマるんですよ。
この黄巾の乱 ── 184年に張角率いる太平道の信徒が起こした大規模な反乱。目印に黄色い頭巾を巻いたことからこう呼ばれ、後漢の衰退を決定づけましたを、汚職政治家しかいない漢王室は治められませんでした。そこで実力で乱を鎮められる人物が必要になり、台頭したのが曹操・劉備・孫権です。
腐敗
官僚が汚職に染まり、優秀な人を殺して私腹を肥やす
民衆の困窮
まともに生きられなくなり、張角の新興宗教に数百万人がのめり込む
黄巾の乱
宗教勢力が武装蜂起し、400年続いた漢帝国の土台が揺らぐ
英雄の台頭
乱を治める実力者として、曹操・劉備・孫権が現れる
深井さんは3人を「アウトサイダー」と表現します。曹操も最初は学者として役人になるなど、3人とも漢の役職を得ていましたが、途中で漢帝国を見限りました。見限らなかった人々は、腐敗政治の中で殺されていったといいます。
求賢令は何が革命的だったのか。400年の評価基準を変えた人材活用
深井さんが曹操の最大の強みとして挙げ、スタートアップとつながると話したのが人材活用です。曹操は求賢令 ── 曹操が出した人材募集の布告。品行や家柄よりも才能を重視し、欠点があっても能力のある者を登用すると宣言しましたという、賢い人を求める命令を出しました。
当時は儒教が国の宗教で、エリートは皆儒教を修めていました。親孝行ができるか、礼儀がなっているかといった基準がやたら尊重され、その評価の仕方に誰もが合意していたといいます。
求賢令で曹操が打ち出したのは、人材採用と評価の基準そのものを変えるという宣言でした。乱世では昔の基準では優秀な人を採用も活用もできないので、欠陥があっても秀でたものがある人は全員集まれ、という呼びかけです。
儒教にもとづき、親孝行や礼儀を重んじる基準で人を評価する
欠陥があっても、秀でたものがある人は採用し活かす
深井さんは聴衆に、自分の会社で長年続いてきた評価基準を変えると想像してほしいと呼びかけました。
自分の会社の評価基準をですね、今までずっと400年間続いてきたこの評価基準を変えますって言っても変わんないですよ、普通。
幹部も庶民も納得せず、新基準で採用された人を尊敬する人も少ないので、人がついてこないかもしれない。深井さんは、そうしたリスクがある中で、曹操が戦国の世に合った採用基準へ一気に切り替えたと説明します。
その結果、礼儀がなっていないとして見限られてきた優秀な人材が曹操のもとに大量に集まり、生き生きと働き始めます。荀彧 ── 曹操の筆頭参謀として知られる政治家。多くの人材を推薦し、魏の基盤づくりを支えました、程昱、郭嘉といった、諸葛亮孔明に勝るとも劣らない人物を、曹操は5〜6人も集めました。劉備が集められたのは1人だったといいます。
深井さんは、曹操自身が当時の判断基準に染まっていなかったことがポイントだと話します。「飲み会に来ない若者はダメ」というような根拠のない常識を皆が信じる中で、曹操はただ1人合理的に考え、しかもそれを人に納得させるレベルまで高めていたというのです。
我の強い軍師たちを、曹操はどうまとめたのか
優秀な人材を集めるほど、我の強い者同士がぶつかる可能性も高まります。深井さんは諸葛亮の回を振り返り、諸葛亮が劉備のもとへ行ったのは、自分を100%活かしてもらえそうだったからではないかという話を引き合いに出しました。
曹操陣営の軍師たちは、自分だけが輝けるわけではない状況に置かれていました。それでも曹操は、一人ひとりの意見の採用の仕方やモチベーションの保ち方が非常にうまかったと深井さんは言います。
全員の意見ちゃんと聞いてるし、あの、しかも自分のその何か譲らないところは譲らないんです。だから別に迎合もしないんです。
楊さんは、曹操が勢力拡大の前にまず農業に取り組み、軍糧を蓄えたことを付け加えます。その蓄えを目当てに人が集まるようになったといい、深井さんはこれを今でいう資金調達を先に済ませたことになぞらえました。
ビジョンだけで人はいい人は集まらないなってわかってるんですよ。ちゃんと渡すものを渡して、自分で用意してから、じゃあみんな来てねと。
攻めるか守るか。曹操のリスクテイクはなぜ的確だったのか
樋口さんが慣例の真逆を行くリスクに触れると、深井さんは、曹操が若い頃は不良のようなやんちゃな青年だったことに触れ、社会の慣習に従わない気質もあったのではないかと話します。そのうえで、曹操には人生を大きく左右する選択が5〜6回ほどあったといいます。
若い頃、曹操は漢王朝の主流派へのクーデターに誘われましたが、断っています。一方で、のちに董卓 ── 後漢末の武将。都に入って皇帝を擁立し、朝廷を思いのままに支配して暴政を敷きましたが漢王朝を思うままにし始めたときには、大きなリスクを取りました。
若い頃、漢王朝の主流派へのクーデターに誘われたが断った
董卓が漢王朝を思うままにし始めたとき、大きなリスクを取った
深井さんは、この見極めこそ劉備や孫権と比べて優秀に見える点だと話します。企業も守るだけではだめで、計画がないまま理念だけで突っ込むのもだめです。
このこの今取ろうとしてるこのリスクテイクは、どのバランスのリスクテイクなのかがわからないわけですよ。自分たちは本来は。
楊さんはもう1つの例として、曹操が創業期に袁紹 ── 後漢末の有力な群雄。名門の出身で、反董卓連合の盟主となり、のちに官渡の戦いで曹操に敗れましたの大きな軍事集団に属していた時期を挙げます。そこはボンボンが集まり、口ではいいことを言っても戦わず、毎日酒宴ばかりの集団でした。
リソースを持たない曹操にとって、大集団に属して一緒に大きくなるのは合理的な道でした。それでも曹操は「ビジョンが違う」と見切り、すぐに離れる決断をします。楊さんは、これが曹操にとってのリスクテイクだったと話しました。
よく笑い、詩を詠む繊細さは、曹操の判断力とどうつながるのか
なぜ曹操はリスクを見極められたのか。樋口さんが勉強量を挙げると、深井さんもそれは確実に1つの要因だと同意します。一方で楊さんは、曹操が人間を好きだったことを挙げました。
人と接するのが好きで、その相手のことを知るのが好きだったと思います。話もよく聞いてましたし。
楊さんによると、記録には曹操がよく笑う人物だったことが残っています。漫画の鬼のようなイメージとは違い、悲しい時も失敗した時も面白い時も笑っていたそうです。深井さんは、劉備は泣いてばかりだと対比させました。
深井さんは、詩を作れる曹操は繊細な面も持っていたはずだと考えます。人の悲しみや喜びがわからなければ詩は作れないので、曹操は人のスキルだけでなく感情の面も見ていたのだろうと話しました。
もちろん曹操も失敗しています。最も有名なのが、映画『レッドクリフ』で描かれた赤壁の戦い ── 208年、曹操の大軍が長江の赤壁で孫権・劉備の連合軍に敗れた戦い。これにより天下三分の形勢が定まりましたでの敗北で、深井さんは、勝っていれば曹操が全土を統一していたと話します。
皇帝の座を取らなかったのはなぜ?関羽を許した曹操の人望
深井さんが晩年の選択として面白いと挙げるのが、漢王朝最後の皇帝を自ら立てながら、曹操が生涯皇帝を名乗らなかったことです。曹操は部下の立場にとどまり続けました。
深井さんの見立てでは、曹操は自分が帝位を取れば崩壊すると考え、やりすぎだと判断していました。自分の死後は息子に「思いっきり取っていい」と伝え、実際に息子が皇帝になります。自分が取ると汚く見えてしまうので避けた、という戦略的な判断です。
こんだけ野心があるのにですよ。これだけ野心があったら、多分その欲求を抑えるのとても大変だったと思います。
才能を活かそうとする姿勢を示す例として、深井さんは関羽 ── 劉備の義兄弟とされる武将。武勇と忠義で知られ、後世には関帝として神格化されましたの話をします。曹操は劉備の腹心の関羽を捕らえて部下にし、関羽は一時期曹操のもとで成果も残しました。
しかし劉備に忠誠を誓う関羽が「帰りたい」と申し出ると、曹操はそれを許します。過去に自分を裏切った人も許していたといい、深井さんはこうした寛容さが曹操の人望のもとになっていたと見ています。
背景には深刻な人材不足がありました。深井さんによると、6000万人ほどいた人口は、漢王朝の腐敗による混乱で1500万人ほどにまで減っていました。死亡や戸籍からの離脱で、優秀な人材がほとんどいなかったのです。
採用したい人物像があっても、その数は少ない。だから、理想の人物でなくても活かす方法を考え抜いた結果が求賢令だったのではないか、と深井さんは話します。深井さんはこの状況を、人材が足りない中で戦うスタートアップとよく似ていると感じていました。
曹操から何を学べるのか。人の話を聞くこととバランス感覚
樋口さんは、曹操がすごすぎて自分たちがどう活かせばいいのか見えてこないと率直に漏らします。深井さんも、真似はできないかもしれないとしたうえで、一番真似しやすい点を挙げました。
まあそうですね、一番真似しやすいのはあれかな、人の話をちゃんと聞くとかかな。
深井さんは曹操の一番の特徴をバランス感覚だとまとめます。樋口さんは、ルールで攻めや守りを決めるのではなく、事業も人も一つひとつ個として見極めて判断している点に注目しました。
例えば人材採用するときも、何か点数以上とかで取るんじゃなくて、しっかり一人一人個として、事業も人もなんか見て、そこで判断してるようなイメージがあるんですね。
ただ、それは結局、見る側である曹操の素養によるものだという結論になり、樋口さんの「曹操になりたい」という一言に、深井さんが「結局何も勉強にならない」と返して会場が沸きました。
エンディングでは、普段より短い30分の収録を深井さんが「特急感があった」と振り返ります。この日は朝9時半に集合して、別シリーズを8本分ほど収録していたことも明かされ、公開収録は締めくくられました。
まとめ
曹操は、漢帝国の腐敗と黄巾の乱による乱世に現れたアウトサイダーでした。戦争や詩、学問に秀でただけでなく、求賢令で評価基準を変えて人材を集め、攻めと守りを見極めてリスクを取ったことが、深井さんたちが語る「魏の創業者」としての強さです。
- 曹操は戦争、漢詩、政治、マネジメント、『孫子』の注釈まで手がけた「超文武両道」の人物だった
- 求賢令で儒教的な評価基準を改め、欠点があっても秀でた才能を持つ人材を集めた
- クーデターの誘いは断り、董卓の台頭時には大きなリスクを取るなど、攻めと守りを見極めた
- 人の話をよく聞き、よく笑い、関羽を許すなどの寛容さが人望につながっていた
- 一番真似しやすい学びとして、深井さんは「人の話をちゃんと聞く」ことを挙げた

