10万の軍勢で長宗我部を下した四国攻め
小牧長久手の戦いのあと、織田家の主導権を握った羽柴秀吉は、各地へ大規模な遠征を始めます。最初の標的は、四国をほぼ統一していた長宗我部元親 ── 土佐国(現在の高知県)を拠点に、四国のほぼ全域に勢力を広げた戦国大名。「土佐の出来人」とも呼ばれますでした。
深井さんによると、長宗我部元親だけで1シリーズ作れるほどドラマのある大名ですが、今回は話をほとんど省くといいます。秀吉は弟の羽柴秀長と、毛利家に仕える武将たちを連れて、10万を超える軍勢で四国に攻め込みました。
長宗我部の元親もね、4万兵を動員するんだと。するけど、やっぱりもう勝てないんだよね。もうスペックが違うんだよね。
楊さんは、長宗我部家の武将が元親に降伏を進言した文書が残っていると紹介します。そこでは、豊臣軍と長宗我部軍の装備や兵糧の差が、具体的に書かれていました。
武具が光り輝き、馬も立派。武士は旗を背中にまっすぐ刺して勇ましく、兵糧も多くて心配がない
10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鎧の糸は切れて腐っている。兵糧も少なく、長い戦争はできない
深井さんは、長宗我部側は見た目の差でメンタルが折れていた状態だと表現します。そのうえで、4万という長宗我部軍の数字自体も、同時代の世界から見れば非常に大きいと指摘します。
4万ってもすごいよ。だってほら、ジャンヌダルクの時にさ、フランス全部で3万とかで戦ってたんでさ。長宗我部だけで4万だから。
深井さんは、ナショナリズム的な意味ではなく規模の比較として、当時の日本はヨーロッパよりも動員数が多かったと話します。楊さんは、当時の戦争はコストが非常に高く、負ければ家が崩壊の危機にさらされるため、絶対に勝たなければならなかったと付け加えました。
大阪城は「天下人の振る舞い」の始まり
四国攻めとほぼ同じ時期、秀吉は石山本願寺の跡地で大阪城の築城を始めています。賤ヶ岳の戦いで勝利したあとのことで、深井さんは、秀吉はこの頃から天下人になることを意識していたと考えています。
深井さんが注目するのは、城そのものの象徴性に加えて、城を建てるときの「城普請」です。いろいろな武将を動員して城を建てさせる行為自体が、周囲に権力者の振る舞いとして受け取られるといいます。
これ誰にどう城建てさせたのかみたいなので、この人の言うことみんなで聞いてんなみたいになるんだよね、空気が。
近代法も刑務所もない時代には、誰の言うことをみんなが聞いているのかという「空気」が大きな意味を持ちます。秀吉が安土城より大きな城を建てることは、周囲に「秀吉さん、そういうことなんですね」と伝わるメッセージでした。
楊さんと樋口さんは、この話を「ファルス」という言葉で受けます。深井さんは、巨大な建物を建てるのは力を見せつける行為だという話を、過去の「性の歴史」シリーズと番外編でも扱ったと紹介しています。
秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく関白を選んだのか
大阪城の築城と並行して、秀吉は織田家に取って代わるつもりで動き、関白に就任します。徳川家康はのちに征夷大将軍、信長は右大臣、室町将軍は征夷大将軍でしたが、秀吉だけが関白を選びました。
深井さんたちが学者の先生から聞いた説では、関白は天皇の次の地位にあたり、これより上は基本的に天皇しかいません。織田家や足利家よりも高い地位を朝廷から認められることが、秀吉にとって重要だったとされます。
征夷大将軍だと織田家に凌駕される可能性があるんで、三法師とかが大きくなった時に、朝廷から与えられた役職が自分より高ければ、名的には向こうのが強いってことになっちゃうんで。
樋口さんは、出自のない秀吉だからこそ、名前の重要性をわかっていたのかもしれないと応じます。四国攻めの最中に関白就任の許可が下りたことで、秀吉は生前の信長よりも格上となり、織田信雄も秀吉に臣従の姿勢を見せ始めました。
深井さんは、日本での主従関係のひっくり返し方には決まった型があると整理します。この時の秀吉は、まさにその型をなぞっていました。
実力で凌駕する
小牧長久手の後、秀吉は軍事力で織田家を上回った
朝廷に高い役職で認めさせる
関白就任で、生前の信長よりも格上になる
主従が逆転する
信雄が秀吉に臣従の姿勢を見せ始める
ただし関白には、近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家の五摂家 ── 藤原氏の嫡流から分かれた5つの家。鎌倉時代以降、摂政・関白はこの家の出身者が就く慣習になっていましたしかなれない慣習がありました。そこで秀吉は「豊臣」という新しい姓を創出し、五摂家より上の家から関白が出るという形に習慣を変えてしまいます。
そんなの腕力でハックするみたいなことができるんや。すごいな。
深井さんによると、朝廷にも言い分はあったはずですが、秀吉の力が勝っていたため認めざるを得ませんでした。さらに秀吉は、母方の祖母が宮中に2〜3年仕えたのちに故郷へ帰り、そこで生まれたのが自分だという噂を流し、自分が皇族の流れをくむと世論にも働きかけていたといいます。
「豊臣秀吉」ではなく、ずっと羽柴秀吉だった
深井さんは、関白就任の理由には今回紹介した説以外にも2〜3個の説があると断ったうえで、ここでは今回の説で覚えてもらえばよいと話します。そのうえで、多くの人が誤解している「豊臣」という名前について補足しました。
秀吉は羽柴から豊臣に名字を変えたわけではありません。当時は名字と、普段は使わない氏や姓が分かれていて、秀吉の名字はずっと羽柴のままでした。
ここで豊臣秀吉と呼ばないといけないのであれば、家康のことを源家康と呼ばないといけない。
深井さんによると、徳川家康も徳川という名字とは別に「源」という姓を持っており、源の姓だからこそ征夷大将軍になれました。樋口さんは、教科書では豊臣秀吉と徳川家康の表記なので驚いたと反応しています。
名字はずっと「羽柴」。関白になるために新しい姓「豊臣」を創出した
名字は「徳川」。姓は「源」で、これにより征夷大将軍になれた
総勢25万、桁が変わった九州攻め
四国の次に秀吉が向かったのは九州です。当時の九州では、今の大分県を本拠地とする大友宗麟と、鹿児島県にあたる薩摩国の島津義久らが激しく対立していました。
島津家が優位に立って大友宗麟の本拠を脅かすと、宗麟は秀吉に助けを求めます。秀吉の和平提案を島津義久が拒否したため、九州攻めが実行されました。
もうだから桁変わってきたよね。すごいですよね。25(万)。
九州攻めの軍勢は総勢20万とも25万ともいわれ、樋口さんは四国攻めの倍だと驚きます。深井さんは、ロジスティクスがすごいこともあり、とにかく桁違いの規模になったと話しています。
各地で島津軍は敗れ、義久も降伏しました。楊さんが、見せつける目的もあったのではと尋ねると、深井さんはそれに同意します。
だから俺に逆らったら25万来るよみたいな話だよね、これ。
家康の臣従とお国替えが示した秀吉の権力
小牧長久手の戦いで敗れた家康は、次男を人質として送っただけで、この時点ではまだ秀吉に臣下の礼を取っていませんでした。一方で秀吉が関白になると、多くの大名が上洛して臣下の礼を取るようになります。
徳川家中は、かつて武田家への対応で割れたときと同じように、戦う派と融和派に分裂します。そして融和派の重臣・石川数正が出奔しました。
スタートアップとかに例えると、普通にCFOとかCXO級、COOとか級の人が逃げちゃうんだよね。
深井さんは、石川数正は秀吉からヘッドハンティングされたのだろうと推測しています。家康はここで対抗は無理だと判断して秀吉に下りますが、政治交渉を重ね、織田家の時代と同じような独立性の高い立場を豊臣家との間でも確保しました。
二三十パーセントしか株式持たれてない会社みたいな感じで、まあまあ独立的機運を持ちながら、でももちろん本社が大変だったら手伝いますよみたいな感じだったわけですよね。
家康はその後、秀吉の命で江戸へ国替えになりますが、石高は非常に高いものでした。深井さんは、国替えという仕組みがあったわけではなく、秀吉の権力が強すぎたからこそ可能だったと強調します。
深井さんによれば、近畿しか治めておらず国替えの能力もなかった室町幕府と比べて、20万を超える軍勢を動員できる秀吉の権力は圧倒的でした。国替えに応じなければその軍勢が攻めてくるため、大大名の家康でも逆らえません。
楊さんは、秀吉がこうした国替えをできるようになったことで、領国に対する考え方そのものが少しずつ変わり始めたと指摘します。深井さんは、これを中央集権型、官僚制っぽくなる「萌芽」だと表現しました。
大名が治める領国は、その大名自身の所有物という考え方が強い
領国は、秀吉やのちの家康といった天下人から預けられたものという考え方が生まれていく
家康が正式に臣下になったのは1586年です。深井さんは、朝廷の権威を利用して家康に臣下の礼を取らせたことを、秀吉の大きな仕事の1つに挙げています。
通説の逸話では、秀吉は謁見の前日に家康を訪ね、手を握って「天下太平のため一肌脱いでほしい」と頼んだとされます。深井さんはこの逸話は実際には言っていなさそうだとしつつ、失礼なことをできる相手ではなかったはずだと話します。
深井さんはまた、関東の抑えとして家康に大きな石高を渡した差配から、秀吉が家康をある程度信頼していたと読み取ります。織田家に最後までついたことや、信雄を支援していたことも、主君筋を守る人物として評価されたのかもしれないといいます。
聚楽第の儀式を欠席した北条と小田原征伐
1588年、秀吉は自らの邸宅である聚楽第 ── 秀吉が京都に築いた豪華な城郭風の邸宅。1588年に後陽成天皇を迎えた行幸が行われたことで知られますに天皇を招き、全国の諸大名に列席を命じて忠誠を誓わせる一大儀式を行います。しかし北条氏政・氏直の親子は、これに出席しませんでした。
さらに北条氏は、勝手に戦争をするなという秀吉の命令に反して、他の勢力に宣戦布告します。こうして小田原征伐が始まり、秀吉は総勢21万の軍勢を動員しました。
| 遠征 | 秀吉側 | 相手側 |
|---|---|---|
| 四国攻め | 10万超 | 長宗我部 4万 |
| 九州攻め | 20万〜25万(諸説) | 島津(数字は語られず) |
| 小田原征伐 | 21万 | 北条 5万6000 |
北条も村々の成人男子に武装を命じて5万6000を集めます。深井さんは、この数でもフランス全体より大きい大大名だとしつつ、21万には勝てないと話します。
それでも北条には、過去に上杉謙信の10万、武田信玄の2万を籠城戦で退けた経験からくる自信がありました。深井さんは、この現状認識の甘さと強気を「戦国武将だなと思う」と面白がっています。
あん時は上杉が攻めてきてる。そして武田が攻めてきてる。今は日本全国が攻めてきてるからさ。やべえわけよ。
北条は20万石分の米を用意して戦いますが、結果は大敗でした。この戦いでは、林で隠して建てた城を、木々を切っていきなり出現させ、北条方の戦意をくじいたという話もあります。
驚かせながら、その城で千利休とか呼んで、茶会とかを催して、うぇいみたいな。俺らこんだけ余裕ありますみたいな感じで。
1590年、北条氏が下り、東北の伊達政宗や最上義光らもこれには勝てないと判断して降伏します。こうして、信長も成し得なかった全国統一が完成しました。
深井さんは、これを中国史の始皇帝にたとえます。樋口さんの問いに対し、深井さんは、これほど広い範囲に強い権力を及ぼしたのは日本の歴史上ここが初めてだと答えています。
千利休の茶会は戦国時代のプレスリリースだった
終盤で深井さんは、小田原の陣にも登場した千利休を紹介します。利休はもともと商人ですが、文化に非常に通じた人物でした。
深井さんによると、その背景には室町幕府の時代からの流れがあります。室町将軍たちは、中国から取り寄せた唐物の茶器によって文化的な優位を示し、朝廷の権力や権威に対抗しようとしていました。
俺らGoogleのエンジニア雇ってまーす、米の、みたいな言ったら、えっ?みたいになるじゃん。あんな感じだよね。
室町幕府の力が弱まると、幕府が持っていた名物の茶器は戦国大名へと流れていきます。どれだけの茶器を持っているかが、権力の大きさを示すバロメーターになっていきました。
さらに深井さんは、茶会そのものがメディアのない時代の「プレスの場」として機能していたと説明します。
名物の茶器を手に入れる
たとえば信長が浅井・朝倉を滅ぼし、両家の有名な茶器を手にする
茶会で披露する
茶会で出すことで、両家が本当に滅びたと参加者が実感する
見せる相手を選ぶ
「お前とお前にしか見せない」と選ぶことで、誰が重用されているかの序列がわかる
こうした文化系の儀式を主催するには、主催者の側に文化性が必要です。その文化性を持っていたのが千利休でした。
楊さんは、高価な茶器を輸入したり売りさばいたりしていた張本人が利休たち自身だったと指摘し、樋口さんは「マッチポンプ感」があると反応します。楊さんは、茶の湯のブームを自分たちで作っていったと言う人もいるとしつつ、確かなことはわからないと添えています。
深井さんは、利休は武士との付き合いも巧みで、信長、とくに秀吉に重用されたと話します。最終的には切腹を命じられることになりますが、文化的な側面にどれだけ近づけるかが鍵になる点が面白いといいます。
ビジネスで成功して、これ以上どうやって自分の権威性を増すかってなった時に、ナチュラルにアートなんだと。
権威はなぜ戦国大名に欠かせなかったのか
楊さんは、茶会での張り合いを「ハイコンテクストなマウントの取り合い」と表現します。深井さんは、力関係だけでは測れない部分を、もう1つの評価軸として持っていたのだろうと話します。
石高で順位決まっちゃうじゃん、売上と一緒で。でも売上で戦ってたらさ、ある一定以上大体みんな一緒だろみたいなのもあんじゃん。
楊さんはさらに、権威は大名同士の関係だけでなく、領国の統治にも欠かせなかったと補足します。武力で農民を過度に脅したり搾り上げたりすれば、一揆や逃散が起き、田畑が荒れて最終的に国力が落ちてしまうからです。
そのため戦国大名は、自分が正当性のある公の権力だと農民に示し続ける必要がありました。楊さんによると、朝廷から官位をもらうことや、中国の律令制 ── 古代中国で整えられた、刑法(律)と行政法(令)を柱とする国家の統治制度。日本も奈良時代にこれを取り入れましたに沿った書式で文書を出すことなどが、細かく行われていたといいます。
樋口さんは、金持ちの社長が売れている芸人をキャバクラに連れていく話を思い出したと話します。深井さんは、それも「芸能人のあいつと友達だよ」と簡単に示せる権威付けだと応じました。
深井さんは、実際の秀吉にはお茶のセンスはまったくなかったのだろうと笑います。そして次回は、これまでにない広さの日本をどう治めるかという、天下統一後の秀吉の課題に進むと予告しました。
まとめ
今回のエピソードでは、秀吉が大阪城と関白就任で権威を固め、桁違いの動員力で四国・九州・北条を下して1590年に全国統一を果たすまでが語られました。後半の千利休の話からは、力だけでは測れない「権威」が、戦国時代にも現代にも通じる現象として見えてきます。
- 秀吉は10万超、20万〜25万、21万という大軍を動員し、相手に「逆らえば勝てない」と見せつけながら長宗我部・島津・北条を下した
- 関白を選んだのは、織田家や足利家を名実ともに上回るためという説があり、そのために新しい姓「豊臣」まで創出した。名字はずっと羽柴のままだった
- 家康の国替えを可能にした秀吉の権力は、領国を「天下人から預けられたもの」とみなす考え方の萌芽につながった
- 千利休の茶会は、情報と序列を示すプレスの場として機能し、文化的な権威が力と並ぶ評価軸になっていた





