信長と信忠が同時に死ぬと、織田家に何が起きるのか?
1582年の本能寺の変で、明智光秀が主君の織田信長を討ちます。秀吉が備中高松城を攻め、信長の出陣を求めていたさなかの出来事でした。
本能寺の変の時点で、織田家の主な武将は各地に散って戦っていました。深井さんは、各方面軍の配置を次のように整理しています。
| 方面 | 司令官 | 戦っていた相手 |
|---|---|---|
| 北陸 | 柴田勝家 | 上杉氏 |
| 関東 | 滝川一益 | 北条氏 |
| 四国(渡海準備中) | 織田信孝 | 長宗我部氏 |
| 中国 | 羽柴秀吉 | 毛利氏 |
本能寺の変で深刻だったのは、信長だけでなく嫡男の織田信忠も死んだことです。信忠の息子はいましたが、まだ2歳ほどの幼子で、「後継者は誰なのか」という問題が一気に浮上します。
これがやばいんですよ。これマジでやばくて。後継者誰?ってなる。
楊さんは、当時の「家」の意味を補足します。当時の武士にとって、家は単なる組織ではなく生存基盤でした。どこかの家に属していなければ、生命も身体も財産も保証されない時代だったといいます。
そのため、織田家が崩れかけているという状況は、家臣たちにとって自分たちの生存そのものを脅かすリスクとして受け止められたと考えられます。
10日で200キロ、秀吉の「中国大返し」はなぜできたのか
織田家の危機に対して、中国地方から一気に京都へ攻め上ったのが秀吉でした。ただし深井さんは、この時の秀吉の心境は学者の間でも説が分かれる「想像の世界」だと前置きします。
そのうえで今回の回は、番組のメンバーが調べて「こうだったら確かにあり得る」と腑に落ちた解釈を紹介する形で進みます。深井さん自身が「いつもとスタイルが違う」と断っています。
深井さんの見立てでは、秀吉がまず感じたのは「やばい」という危機感だったのではないか、というものです。毛利がまだ屈服していない段階で主君と後継者を失い、しかも裏切ったのは信長に深く信頼されていた格上の光秀でした。
秀吉の強みは即決断・即行動だったと深井さんは語ります。約2万の兵を率い、10日間で200キロメートルを移動させました。
不可能ではないけど、十日間ぶっ通し二十キロ移動させ続けるって結構むずいよね。
この移動を可能にしたのは、秀吉がロジスティクス ── 物資や人員の調達・輸送・配置を計画的に管理すること。もとは軍事用語で「兵站」を指しますに精通していたからだと指摘する学者もいます。一説には、兵の甲冑を脱がせて船で宿所に送り、兵を身軽にして走らせたともいわれます。
深井さんは、慣習でやりがちなやり方をあえて変える一工夫が、兵糧攻めにも工夫を凝らしてきた秀吉らしいと評します。兵士に手厚い褒賞を約束して士気を上げたことも、金を使って人を動かす秀吉の得意技だったといいます。
毛利はなぜ背中を見せた秀吉を追わなかったのか?
秀吉は京都へ向かう直前、毛利と停戦を結んでいました。一方で毛利側から見れば、信長と信忠が同時に死んだこの瞬間は、織田軍を潰す絶好のチャンスでもありました。
毛利家は当時、元就の孫である毛利輝元が継ぎ、輝元の叔父にあたる吉川元春と小早川隆景が大きな権力を持っていました。吉川元春は秀吉を討つべきだと主張し、小早川隆景は和睦を唱えたと伝わります。
最終的に毛利家は、秀吉に貸しを作っておけば天下人になった暁に見返りがある、と判断して追撃しなかったといわれます。深井さんも、この経緯が史実かどうかはわからないと断っています。
信長だったらもういやもう今潰すつって潰してると思うし、家康でもやってんじゃないかなという。
深井さんは、毛利元就が生きていたら追撃したのではないかとも考えています。修羅場をくぐってきた創業世代と、それを継いだ世代とでは、戦国の感覚そのものが違ったのではないかという見方です。
楊さんも、元就のような第一世代と、家を継いだ輝元たちとでは「戦国マインドの割合」が違うのだろうと応じます。深井さんは、毛利家がこの千載一遇ともいえる好機を逃したのは大きかったと見ています。
強い者同士の激突、山崎の戦いはたった1日で決着
秀吉は姫路城で軍備を整えて2万6000の軍勢に増やし、京都の山崎で明智光秀の1万6000の軍と対陣します。
深井さんが強調するのは、光秀も方面軍の司令官として実力でのし上がってきた人物だという点です。織田家の司令官はみな強いからこそ司令官になっており、山崎の戦いは「強えやつと強えやつの戦い」でした。
それでも秀吉は、山崎の戦いでたった1日のうちに光秀を破ります。敗れた光秀は逃げる途中、落ち武者狩り ── 戦に敗れて逃げる武士を、農民などが襲って武具や首を奪う行為。首や身柄に褒賞が出ることもありましたによって農民に命を奪われ、その謀反は「三日天下」と呼ばれる結末を迎えました。
観光中の家康に迫った「三大危機」伊賀越え
本能寺の変のとき、徳川家康は信長への御礼のため安土城と京都を訪れ、もてなしを受けたあと、信長の勧めで堺を観光していました。
遊びよったんや。
堺にいた家康のもとに、信長と信忠が明智に殺されたという知らせが届きます。深井さんは、今川義元の死に続いて「また?」と感じたのではないかと、家康の心境を想像します。
家康の状況が危うかったのは、負けそうな側の武将がみな命を狙われる時代だったからです。首を取れば褒賞が出るため、信長の家臣たちは一斉に「お尋ね者」のような状態になっていました。
首取ったらそれでお金もらえたりするから。ウォンテッド状態になっちゃって。
観光中だった家康は、光秀に対抗できるほどの軍勢を持っていませんでした。三河までは距離があり、光秀軍のいる京都は目と鼻の先です。深井さんによれば、これが家康の「三大危機」の3つ目にあたります。
家康は京都を避けて伊賀を通るルートで帰国しました。このとき活躍したと伝わるのが服部半蔵です。服部半蔵は忍者ではなく三河生まれの徳川譜代の家臣ですが、先祖が伊賀の出身で、そのつながりで伊賀の人々に仲介を頼めたといいます。
同じく観光していた穴山梅雪は、帰国の途中で農民に殺されています。家康の兵にも道中で命を落とした者がいました。
楊さんは、当時は法も治安も頼れず、村から村へ移動するだけでも足軽を雇って護衛させる必要があったと補足します。その危うさを、目に入る人間すべてが自分を殺しうる「ゾンビ映画」のような状態だとたとえています。
死にかけた家康が5カ国の大大名になるまで
深井さんが「マジですげえ」と語るのは、家康が伊賀越えの危機のあと、かえって領地を広げたことです。
帰国した家康は、信長の孫で信忠の息子である三法師を担いで光秀を討とうと出陣の準備をしていました。信長の息子の信孝と信雄は他家に養子に出ていて正式な継承権がなく、織田家を継ぐのは三法師だと誰の目にも明らかだったからです。
ところが、家康が出陣の準備をしている間に、秀吉から「もう明智を倒した」と連絡が来てしまいます。
家康が次に目を向けたのは、武田氏の旧領でした。武田勝頼の自害後に信長の家臣が駐屯していた旧武田領は、本能寺の変で家臣たちが逃げ出し、空白地帯になっていました。この土地を北条、上杉、そして徳川が狙います。
家康は北条氏直と争い、最終的に甲斐国と信濃国を徳川が、上野国を北条が取る形で分割しました。深井さんによれば、これで家康は三河・遠江・駿河に甲斐・信濃を加えた5カ国の大大名になります。
堺を観光中に本能寺の変を知り、わずかな手勢で命を狙われる状態
旧武田領の甲斐・信濃を獲得し、5カ国を持つ大大名に
聞き手から「家康は織田家に仕えている感覚だったのか」と問われた深井さんは、家康は秀吉のような家臣ではなく、独立した同盟国だったと答え、会社にたとえて説明します。
株式を33%ほど持たれているグループ会社。独立した同盟国
株式を51%以上持たれている子会社。織田家の家臣
ただし深井さんは、会社のたとえとの一番の違いとして、当時は力で所有関係を覆せたことを挙げます。法治国家なら持ち株比率や所有権は奪えませんが、この時代は奪えてしまうため、裏切りが起こるのだといいます。
家康にとって甲斐を得た意味は、領地の広さだけではありませんでした。長年戦ってきた武田の旧臣たちを家臣にできたのです。家康は武田勝頼を持ち上げて旧臣たちの気持ちを懐柔しました。
楊さんは、これを今でいう「再就職」だと説明します。有能な家臣には人材市場のような引き合いがあり、徳川家は筋のいい再就職先だったというわけです。
国を取ることの意味について、楊さんは国力の基盤が米の生産力にあったと指摘します。食料が確保できれば大きな軍団を作れるため、深井さんは領地の拡大を「売上が10億円から100億円になった」ような話だとたとえています。
余談として深井さんは、家康が健康オタクだったと紹介します。剣術・槍術・馬術・水泳・鉄砲・鷹狩に熱心で、粗食を好み、過度の飲酒を慎み、和漢 ── 日本と中国のこと。ここでは中国由来の漢方などの伝統医学と、日本の医学の知識を指しますの生薬に通じて自ら薬を調合できたといわれています。
清須会議で本当に争われたのは後継者ではなく「後見人」
光秀を倒した秀吉のもとで、誰が織田家を継ぎ、領地をどう配分するかを決めるために宿老たちが集まります。1582年の清須会議です。
深井さんによれば、後継者は最初から三法師の一択でした。信雄と信孝が後継者の座を争ったという通説は認識違いで、実際に争われたのは三法師の後見人を誰が務めるかだったといいます。
信雄と信孝の兄弟は、継承権はなくても家中の主導権を握りたいと考え、最初から争っていたようです。その様子を見た秀吉、柴田勝家、丹羽長秀らの宿老は、宿老の合議制で方針を決めることにしました。
楊さんは、宿老たちを「先代社長と一緒に働いてきた取締役」にたとえます。主従関係は父から子へ自動的に引き継がれるものではなく、次の当主が人格的にも実利的にも家臣を納得させる必要があったと説明しています。
通説では、秀吉はこの段階から権力を狙って暗躍したとされます。しかし番組が調べた説では、この時点の宿老たちは奪う奪わない以前に、まず織田家を立て直さなければという思いが強かったと考えられています。
岐阜城の信孝はなぜ「調子に乗った」のか
焼失した安土城が再建されるまで、三法師は岐阜城に預けられます。その岐阜城の城主が、信長の息子の織田信孝でした。
目の前に後継者がいて、城は自分のもの。信孝は、信長の息子である自分が仕切るべきではないかと考え始め、朝廷と勝手にやり取りするなど、清須会議で決めたことと違う動きを見せます。
宿老たちも一枚岩ではありませんでした。柴田勝家は秀吉のことを「調子に乗っている」と苦々しく思っていたといいます。
柴田勝家は、信孝が会議の決定に背いていると承知しつつも、秀吉が実権を握り続けるのは嫌でした。深井さんによれば、信孝を押し立てて三法師を手中に収め、秀吉を倒せば勝てると考えたのではないか、というわけです。
同僚同士の激突、賤ヶ岳の戦いで秀吉が見せた速さ
信孝と柴田勝家に対抗するため、秀吉は信長のもう1人の息子で、同じく養子に出ていた織田信雄を担ぎ出します。こうして起きたのが賤ヶ岳の戦いです。
両軍が睨み合って膠着するなか、秀吉は岐阜方面へ兵を向け、居城を空けます。その隙に出てきた柴田軍のもとへ、猛烈な速さで引き返して戦うという、相手の虚を突く策を取りました。
深井さんによれば、このとき秀吉は1万人の軍勢を長い道のりの間ぶっ通しで移動させています。舗装もなく治安も悪い道での強行軍に、樋口さんも驚きます。
大マラソンやん。
荷物持ってるでしょ?
軍勢を整える前に攻められた柴田軍は、前田利家らの早期の戦線離脱もあって大敗します。深井さんは、前田利家がもともと秀吉とつながっていた可能性にも触れています。
柴田勝家は北ノ庄城に逃れますが、秀吉はすぐに城を囲み、勝家は自害しました。勝家は妻・お市の方の連れ子である茶々・初・江を秀吉の陣中に送り届けています。信孝も岐阜城を開城し、幽閉ののち自害しました。
元同僚、超強え同僚二人倒したみたいな。
楊さんは、この結果から秀吉の実力が方面軍司令官の中でも抜きん出ていたことがわかると述べます。軍をどれだけの規模と速度で動かし、集結させられるかが、用兵の要なのかもしれないという見方です。
小牧・長久手の戦いは「天下取りの一手」だったのか?
信孝がいなくなると、今度は秀吉が担いだ織田信雄が「信長の息子なのに、なぜ秀吉の言うことを聞かなければならないのか」と考え始めます。
深井さんは、秀吉が虎視眈々と権力を狙っていた側面もゼロではないとしつつ、信雄の顔を立てていた面もあったと見ます。信雄がおとなしくしていれば、主君筋として残れた可能性もあったというのです。
信雄も実力も大してないくせにムカついたんだよね。やっぱね、秀吉のことが。
信雄を支援したのが徳川家康でした。家康には、もとは織田家の一家臣にすぎない秀吉の下につきたくない思いや、信雄と組んで家中の主導権を握るほうが徳川家に有利だという判断があったのではないかと、深井さんは推測します。
楊さんは、天下統一という結果から逆算して、秀吉や家康の行動をすべて天下取りのためと解釈しがちな点に注意を促します。当時の2人は、目の前の状況をなんとか最適化していただけだというのです。
小牧・長久手の戦いは、秀吉が戦闘では家康に負けたものの戦争には勝った、と描かれるのが通説です。ただし深井さんによれば、この通説はかなり見直されているといいます。
小牧・長久手の戦いで家康は局所的に善戦しましたが、兵数では秀吉方が大きく上回っていました。そうこうするうちに信雄が降伏し、家康は梯子を外された形になります。戦う大義を失った家康は次男の於義丸(書き起こしでは「荻丸」)を人質として秀吉のもとへ送り、和睦しました。
深井さんは、秀吉が早々に信雄と結んだ理由として、北条・毛利・長宗我部・島津など、まだ屈服していない強敵が外に控えていたことを挙げます。ここで兵力や時間を消耗するのは危ういという判断があったと考えられます。
合議制が崩れ、秀吉しか残らなかった
小牧・長久手の戦いを経て、三法師の後見人は信孝でも信雄でもなく、秀吉になりました。深井さんは、清須会議で決めた宿老の合議制が続いていれば、秀吉がここまで突出することはなく、秀吉自身もそれでよいと思っていた可能性があると見ています。
深井さんが整理する、合議制が崩れて秀吉が後見人になるまでの流れは次のとおりです。
信孝が秩序を乱す
清須会議の決定に背き、主導権を握ろうとする
賤ヶ岳の戦い
信孝とともに柴田勝家も倒れ、宿老が1人いなくなる
信雄が後見人のように振る舞う
秀吉と対立し、家康の支援を得て挙兵する
小牧・長久手の戦い
信雄が降伏し、合議制は崩れる
秀吉が後見人に
物申せる実力者が残らず、秀吉の体制が確立する
深井さんは、秀吉と信雄の対立を「いたちごっこ」だったと表現します。互いに相手が調子に乗っていると感じて動き、どちらも調子に乗らなければ何も起きなかったかもしれない、という見方です。
楊さんは想像と前置きしたうえで、足軽や農民の出ともいわれる秀吉は、家柄のある武将たちからずっと見下され、嫉妬も買ってきたのではないかと付け加えます。
残った丹羽長秀らは、もともと秀吉に実権を委ねる立場でした。反対した者は戦争で倒されており、秀吉に物申せる人物はもういません。
深井さんは、賤ヶ岳の戦いまでの秀吉は織田家の家中争いとして戦っていたが、信孝の自害あたりから信雄への態度が変わり、「ステージが変わった」と見ています。形式上は三法師の後見人でも、実力では秀吉がすでに天下人になっていました。
ただし北条や長宗我部など、外にはまだ多くの敵が残っています。秀吉の天下、豊臣家の天下へと進んでいく過程は、次回に語られる予定です。
まとめ
本能寺の変で信長と信忠を同時に失った織田家は、家臣たちの生存基盤そのものが揺らぐ危機に陥りました。秀吉も家康も、その危機に一つひとつ対処した結果として力を伸ばし、合議制が崩れたあとに秀吉だけが残ったというのが、番組の示した解釈です。
- 秀吉は即断即決とロジスティクスの力で中国大返しを成し遂げ、山崎の戦いで1日のうちに光秀を破った
- 毛利家は秀吉を追撃せず、深井さんは世代による戦国感覚の違いがあったのではないかと見ている
- 家康は伊賀越えで命の危機を脱したあと、旧武田領を得て5カ国の大大名になった
- 清須会議で争われたのは後継者ではなく三法師の後見人で、宿老の合議制が選ばれた
- 信孝と信雄が相次いで秀吉と対立して敗れ、天下取りの計画というより状況への反応の積み重ねとして秀吉の体制が確立した





