医者だらけの一族で、父が壁に貼っていた地図とは?
COTEN RADIO番外編の後編は、IT評論家の尾原和啓さんがどんな人生を歩んできたのかを、幼少期から聞いていく回です。聞き手も「尾原さんの子供の頃は全然想像できない」と話すところから始まります。
尾原さんの家はもともと医者の家系です。祖父は医者で子どもが7人おり、男性は全員医者に、女性は医者に嫁いだため、おじは全員医者だといいます。
いとこの男性もほとんどが医者になっていて、いとこの中で男性で医者でないのは尾原さんだけだそうです。聞き手からは「めっちゃ異端児じゃないですか」という声が上がります。
尾原さんは医者家系のよさとして、人が困っているときにさっと手を差し伸べることが当たり前の環境だったことを挙げます。父は診療が終わるとすぐ往診に出るため、子どもの頃はほとんど一緒に夕飯を食べたことがなかったそうです。
ただし父は町医者でもあり、尾原さんはそこから「ロマンとそろばんのバランス」を学んだと話します。象徴的なのが、父の部屋に貼られていた地図の話です。
(父の部屋に)地図が貼ってあって、3ヶ月以内に来た患者さんの住所に青い画鋲が打ってあって、半年来てないと赤い画鋲になるんですよ。
尾原さんの父は、この地図で自分の病院にどのエリアからどれくらいの患者が来ているかという商圏人口 ── 店舗や施設の利用者が住んでいる範囲(商圏)にどれだけの人がいるかを示す考え方。小売や医療など地域密着型のビジネスで集客の分析に使われますを目で見えるようにしていました。
赤い画鋲が増えると、父は幼い尾原さんに「あの辺を見てこい」と近所への聞き込みを頼みます。商店街で事情を聞くと「最近そこに病院ができて、看護婦さんがめっちゃ綺麗やねん」と言われることもあったそうです。
すると親父が「見とけ」つって、そこの近所のめっちゃおしゃべりなおばちゃんとこにめっちゃよくするんですよ。そうすると、そこから口コミ広がって、また患者さん戻ってくるんですね。
聞き手は「めちゃくちゃ戦略的」「医者らしくない」と驚きます。尾原さんの父は、夕飯もゆっくり食べないほど人助けが好きな一方で、生きていくうえでの銭勘定も大事にしていました。
晩飯もゆっくり食わんぐらい人助けるみたいなことは好きなくせに、やっぱり人間生きていく上で銭勘定大事ですから。やっぱロマンとそろばんが両方あったんですよね。
空き瓶集めの元締めから「勉強の仕方の勉強」へ
聞き込み調査をしていたのは幼稚園の前、5〜6歳の頃からだったといいます。聞き手が「めちゃくちゃ頭が良かったんですか」と尋ねると、尾原さんは頭の良さというより「そういうことを呼吸のようにする」子どもだったと答えます。
同じ頃の尾原さんは、空き瓶をお店に持っていくと10円で買い取ってもらえる仕組みを使っていました。そのことを知らない年下の子どもたちを集めて、ゲームを仕掛けたのです。
たくさん空き瓶を集めたやつにお菓子奢ってあげるって言って、みんなで集まれって言って集めさせて。
尾原さんは集まった分の半額ほどをお菓子でおごり、残りの半額を自分のものにしていたそうです。聞き手は「元締め」「バリバリの経営者じゃないですか」と笑います。
同世代の友達はあまりいなかったものの、大阪の下町では近所のおじちゃん・おばちゃんが構ってくれたため、楽しく過ごせたといいます。年上の人と話す機会は幼い頃から多かったようです。
中学からは灘中・灘高に進みます。共通の友人である北川拓也さんは灘中・灘高からハーバードに進んだ人物で、尾原さんは「灘中灘高京大の僕とは人生3周ぐらい差がある」と冗談まじりに語ります。
こんなにすごいアホみたいなやつらおんのかって。全く勉強してなくてもできるやつらがいて。
勝てないと感じた尾原さんは、成績上位20人のノートの取り方と家での勉強の仕方をリサーチします。その結果、ある事実に気づきました。
そしたら誰も勉強の仕方の勉強はしてないってことに気づいて。
ここで俺は楽に勝てるって気づいたんですよ。
周りの生徒は、どの教科書や参考書を使うかという「What」は話していても、学び方そのものという「How」を学んでいる人はいなかったといいます。他人のノートを見たことがあるかと聞いても、見たことがないという返事だったそうです。
どの教科書・参考書を使うかという「What」を話す
ノートの取り方や時間配分など、学び方の「How」を調べる
さらに尾原さんは、ノートをまとめてくれている同級生がいるなら、自分は授業中に別のことをしていてもいいと気づきます。「みたいな生き方をずっとしてます」と本人は笑います。
ただ、周りが天才ばかりなのは変わりません。現役のときは受かるはずがないと考え、共通一次試験の日はパチンコ屋にいたそうです。京大には一浪して進みました。
医者に憧れた少年が、人工知能を選んだのはなぜか
高校時代の尾原さんは、父の姿を見てきたこともあり、医者への憧れを持っていました。一方で、自分は瞬発力やアドリブ力が高い代わりに「同じこと2回できない人」だと自覚していたといいます。
町医者のもとに来る患者の症状はほとんど同じです。それでも父は一人ひとりにジョークを言って笑わせて帰していたそうで、尾原さんは「リピート率にかかりますから」と大阪の町医者らしい事情を説明します。
やってることって風邪の処方とかなわけじゃないですか、普段。これ俺無理やと。こんな多動症な人間。
それでも医者になるなら、一人ひとり心が違う精神科医だけは向いているかもしれないと考えた時期もありました。しかし当時の日本の精神科医療を調べると、薬を渡して対応するケースが多いと感じ、医者の道はあきらめたといいます。
代わりに関心を持ったのが、当時ある程度出始めていた人工知能です。時期は1988年ごろで、尾原さんは人工知能の冬 ── AI研究への期待がしぼみ、資金や関心が大きく落ち込んだ時期のこと。1970年代と1980年代後半〜1990年代前半の2回あったとされますの2回目にあたる時代だったと振り返ります。
(人工知能が)来るかどうか分かんないですけど、まあ多分に漏れずSFの人だったので。筒井康隆と星新一のせいで。
こうして尾原さんは、人工知能を研究するために京大へ進みます。医者ばかりの親族も「カズヒロやからしょうがないね」という受け止め方だったそうです。
3歳で出会った絵本『やっぱりおおかみ』が教えたこと
医者にならない選択が自然だった理由について、尾原さんは3歳の頃から「自分はここにいちゃいけない人間だ」と思いながら生きてきたからだと話します。
なんかね、居心地を良くしちゃいけないとか、ここって俺の場所じゃないよなってずっと思いながら生きてるんですよ。
普通ならネガティブに聞こえる感覚ですが、尾原さんの場合はそうならなかったといいます。そのきっかけが、絵本作家の佐々木マキ ── 日本の漫画家・絵本作家。村上春樹の作品の装画や挿絵でも知られ、独特のシュールな画風で人気がありますさんのデビュー作『やっぱりおおかみ』でした。
『やっぱりおおかみ』は、ひとりぼっちのオオカミが仲間を探してウサギの町やブタの町、果ては幽霊の町まで訪ねる話です。どこでも怖がられて逃げられ、オオカミはそのたびに「ケ」とつぶやいて次の町へ向かいます。
大概こういう絵本って、最後仲間のオオカミに出会えて幸せになりましたじゃないですか。そうじゃないんですよ。
これ読んだ時に、あ、これ俺だと思って。やっぱりオオカミだもんな、一人だもんなつって。
尾原さんは、灘中・灘高にはいい意味で他人に興味がない生徒が多く、居心地がよかったと話します。聞き手が「無理やり自分を変えなくてもよかったんですね」と応じると、尾原さんは京大もそういう場所だったと続けます。
尾原さんによると、京大は在学中の自殺率が国立大学で一番高い一方、卒業後の自殺率は東大のほうが高く、京大は低いそうです。そのうえで、総長が学生に語った言葉を紹介します。
ここは一回自分を見失って迷子になる場所なので、盛大に迷子になってくださいっていうことを総長が言うわけですよ。
逆に言うとどこにいても浮いてるけど、逆に言うとどこにでも行ける。浮いてるから。
聞き手は、だからこそ尾原さんは第三者から「何者か」を説明しづらいのだと受け止めます。どこにいても浮いているから、どこへでも行けるという感覚が、その後のキャリアの土台になっていきます。
プログラミングと中古バス、学生時代の「間」で稼ぐ商売
場所から場所へ渡り歩くと、両方の言葉が話せて両方をつなげられる。尾原さんはこれをアービトラージ ── 同じものの価格差や情報の差を利用して利益を得ること。日本語では「鞘取り(さやとり)」とも呼ばれますと呼び、空き瓶の話と同じく「知っていると知らないの間で価値を出す」ことだと説明します。
尾原さんはのちにマッキンゼーに入りますが、本人いわく社内では「落第」だったそうです。それでも高校時代にプログラマーとして稼ぎ、大学では研究室のサーバー管理をしていたため、プログラムとインターネットの仕組みが作れました。
僕みたいにネットもそこそこわかる、マーケティングとかもそこそこわかるっていうのが翻訳者として便利だから(iモードで)雇ってもらえたんですよ。
高校時代のプログラミングについては「ちょうどいい時代だった」と振り返ります。誰でも書けるクイックBASICでそこそこ商品になるプログラムが作れ、企業側には業務をプログラム化したくても作れる人がいなかったといいます。
大学時代の後半にはインターネットが大学に入り、4年生のときにブラウザのMosaic ── 1993年に公開された初期のWebブラウザ。画像と文章を一緒に表示でき、インターネットの一般への普及を大きく後押ししましたが登場します。ホームページを作るだけで月10万円もらえる時代だったそうです。
研究に時間を使いたかった尾原さんは、なるべく時間をかけずに稼ぐため中古車の売買も手がけていました。中でも本人が「一番ひどい」と笑うのが、中古バスを東南アジアに売る商売です。
ちょうどその僕の頃ってバブルだったから、そのなんか観光バスがすごい煌びやかなんですよ。中にシャンデリアとかついてて。
バブル期の観光バス会社は、まだ走れる10年ほどのバスを新車に買い替えていました。シャンデリアなどの装飾で中古として売りにくいため、尾原さんは「全部処理しますからタダでください」と引き取っていたといいます。
一方、東南アジアの人にとって、状態のいい日本のバスにシャンデリアが付いているのはむしろ嬉しいことでした。尾原さんは大学に多くいた東南アジアからの留学生に、誰が一番高く買うかを親に聞いてもらったそうです。
仕入れ
バブル期の観光バス会社から、装飾付きのバスをタダで引き取る
つなぎ
貿易や交易を営む家の留学生に、親へ話を聞いてもらう
販売
状態がよくシャンデリア付きのバスを喜ぶ東南アジアへ売る
聞き手は「もう瓶集めと一緒だよ」と反応し、尾原さんも「一緒でしょ」と応じます。学生がビジネスをするのが一般的でなかった時代になぜやっていたのかと聞かれ、尾原さんは父の姿を挙げます。
だからやっぱり商売って基本はその楽するための仕組みを作ることなので。
ゲームのルールを作る発想が、震災ボランティアで花開く
尾原さんは、子ども時代はゲームがまだ未発達で、ゲームのルールを自分で作ることが楽しかった時代だったと話します。ドラゴンクエストは6800円と高価で、1回クリアしただけではもったいなかったそうです。
一回解くだけじゃ面白くないじゃないですか。そうすると二回目はこれをあえてやらないことで競争しようとか。
聞き手は「縛りプレイですね」「現実世界でゲームをやっていたんですね」と応じます。尾原さんはこの思考法がのちのiモードなどのプラットフォームづくりにつながったと語り、衝撃的だった出来事として阪神・淡路大震災を挙げます。
当時の尾原さんは大学院1年生でした。震災の日は高校の仲間と集まって徹夜で桃鉄をしており、来られなかった被災地中心部の友人を心配して様子を見に行ったことが、ボランティアのきっかけになりました。
震災2日目から友人のいる避難所で名簿づくりや物資の仕分けを手伝いましたが、1週間ほどたっても状況は変わりません。テレビを見ると、ボランティアや物資が異様に集まる学校もあったといいます。
尾原さんが区役所に掛け合うと、職員は壁を指さし「ボランティアが足りないなら、あそこに貼っておいてくれ」と言います。職員が直接ボランティアを振り分けると、万が一けがをしたときに責任を取れないという事情でした。
ってことは、俺が区役所の前にボランティアこっちって看板つけといて、その看板に行った先に区役所の人間じゃない俺があっち行ってっていう分には看板置かせていただいてるだけ。
聞き手は「俺は思いつかない」「たくましい」と感嘆します。尾原さんは同じことを考えていた神戸大学ラグビー部の人たちと意気投合し、東灘区情報ボランティアセンターを立ち上げました。
ボランティアを振り分けると、戻ってきた人が避難所の状況を教えてくれます。そこでアンケートのテンプレートを作ると、200か所以上あった東灘区の避難所で何が足りないかが、自分は動かなくてもすべてわかるようになったといいます。
振り分け
区役所前の看板から来たボランティアを、各避難所へ案内する
情報収集
戻ってきたボランティアから、テンプレート化したアンケートで状況を聞く
把握
200か所以上の避難所で何が足りないかが一覧でわかる
手配
不足する物資を電話で頼み、必要な場所に届けてもらう
そうするとみんながハッピーなわけですよね。で、これはもうプラットフォーム万歳だって思って。
聞き手はこれを「人力マッチングサービス」と表現します。尾原さんがプラットフォームに強い関心を持つようになったのは、この経験からでした。
インターネットで「鞘取り」が通じなくなると気づいたとき
同じ時期に、尾原さんはもう1つ大事なことに気づきます。インターネットが広がれば、自分はアービトラージで一生暮らすことはできないという気づきです。
中古バスの商売が成り立っていたのは、タダで仕入れていることを東南アジアの買い手が知らなかったからです。インターネットでそれが知られれば、同じことをする人が現れたり、叩かれたりすると考えたといいます。
唯一鞘が取れるのは、0が1になるところだけはその情報が流れないので、だから0から1になる場所に行かないと、俺はもう自分が敵わへんって思って。
知っている人と知らない人の情報の差で稼ぐ(空き瓶、中古バス)
情報がまだ流れていない「0から1」が生まれる場所に身を置く
そうしたゼロイチが生まれる場所を求めて、尾原さんは死ぬほど嫌いだったという東京へ向かうことを決めます。聞き手は、情報だけの価値が下がることを大学院の1〜2年の時点で予測していた点に驚きます。
卒業後の進路として、若くても仕組みづくりのノウハウを学びながら顧客から対価を得られる仕事を探し、コンサルタントにたどり着きます。日本ではマッキンゼーがよさそうだと考えましたが、論理的で優秀な人しか入れないと知ります。
1年間ボランティアやってた資料とかガー持ってって。で、涙ながらにこんなこと僕やってるんですみたいなことを言ったら、「お前頭悪いけどもうええから入れたるわ」って言われて入った。
聞き手は、勉強の仕方を研究した高校時代と同じく、どうすれば達成できるかを研究して挑んでいると受け止めます。尾原さんは「普通の仕方したら、世の中天才で溢れてまうもん」と返します。
聞き手からは、3歳の頃から自分を第三者的に理解している自己認識能力がすごいという声も出ます。尾原さんは「生き残ることに関しては自信がありますね」と答えます。
その例として挙がったのが、Google在籍時の東日本大震災です。阪神・淡路大震災を経験していた尾原さんは、六本木ヒルズのエレベーターが止まる前に階段で降り、隣のホテルで空いている部屋をすべて押さえたといいます。
うちGoogleで外国人の方多いし、女性の方多くて、絶対海外に帰れなくなる人がいるんで、空いてる部屋全部押さえさせてくださいって言って押さえさせて。
尾原さんは、こうした動きもゼロイチのときしか使えないと付け加えます。1週間もたてば、今ならTwitterやまとめサイトでノウハウが広く共有されるからです。
マッキンゼーを2年で辞めても怖くなかった理由
マッキンゼーでの仕事中、尾原さんはiモードのプロジェクトに出会います。コンサルが顧客企業に移るのは通常ご法度ですが、尾原さんはシステム屋としてドコモに雇われる形でした。
マッキンゼーを辞めて独立し、ドコモと契約してiモード ── NTTドコモが1999年に始めた携帯電話向けのインターネット接続サービス。携帯でメールやWebサイト、有料コンテンツを使える仕組みとして世界的にも注目されましたの立ち上げに関わります。入社2年目、同期7人の中で辞めたのは2番目だったそうです。
どうせ辞めても、まあなんかうまいことやればマッキンゼー戻らせてもらえるかもしれないし。あと別に20年は持たないけど、個人のブローカーに戻ればまあ生きれますからね。
尾原さんは、日本でもようやく転職が当たり前になったものの、多くの人が「次に何をするか」ばかり考えていると指摘します。大事なのは、何かあったときに生きていける「パスポート」を持っておく転職の仕方だといいます。
その考え方を教えてくれたのは、あるユダヤ人だったそうです。なぜユダヤ人は商売がうまいのかと尋ねると、答えは「困らないことだ」でした。
困ってるやつから安く買い叩いて、困ってるやつに高く売りつける。これだけだ商売は。だから俺たちは困らないようにユダヤ人同士助け合うんだ。
聞き手は、転職が怖いのは食い扶持がなくなるのが怖いからで、困らない状態にあれば自由が手に入るのだと受け止めます。
聞き手は、1社しか経験のない人と10社を経験した人では、自分に合う場所を見つけるチャンスが10倍違うのではないかと続けます。尾原さんは、中編で話したプロセス目的とこの話をつなげます。
ゴール目的にとらわれず、今を楽しむプロセス目的になるためには、いつでも帰れる場所があるとか、それで困らないっていうことが今を楽しむための秘訣だと思うし、冒険をより多くするための秘訣だと思うんですよね。
尾原さんにとっては、最初の職場であるマッキンゼーが「ちゃんとしている人」と見てもらえるパスポートでした。何社か渡り歩いてパスポートが減ってきたと感じたとき、「Google入っておくか」と考えたといいます。
英語が苦手でもGoogleに入れた「ゼロイチ」の価値
意外にも、尾原さんはGoogleに入るまで英語で仕事をしたことがほとんどなかったそうです。海外との交渉でも、日本語で迫力を持って話し、通訳を通したほうが提携は「魂で握る」ものだから伝わると考えていました。
転機はリーマンショック ── 2008年、米国の投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに広がった世界的な金融危機。各国の景気や企業の海外戦略に大きな影響を与えましたの頃です。尾原さんは、サムスンが一度日本から撤退するほど日本が見放されていると感じ、日本だけでは面白いことができなくなると危機感を持ちました。
これ英語で仕事できるようにならんとやばいわってなって。で、パスポートもちょっと期限が切れて、マッキンゼーパスポートもずっと使われへんし。
Googleに入れた理由は、ちょうどAndroid ── Googleが開発したスマートフォン向けのOS。2008年に最初の搭載端末が発売され、現在では世界で最も広く使われるモバイルOSの1つですの立ち上げのタイミングだったからだといいます。日本は非接触カードやガラケーでの情報取得が普及し、8000億円のコンテンツ市場を持つ、モバイルが異常発達した国でした。
その全体像を知る人は少なく、尾原さんは「英語は下手だけど面白いから」と雇われたそうです。しかも相手のほうが日本の事情を知りたがっていたため、英語の学び方まで自然に手に入りました。
僕が下手くそな英語で喋っても、向こうの方が頭いいから、「お前が言いたいことってこういうこと?」って言い直してくれるんですよね。
だからゼロイチの瞬間って、ほんのちょっとの価値の差で自分ができへんことでも自分ができることを過大評価してくれるんで。
聞き手は、ほんの少しの差が大きな意味を持つという話に深くうなずきます。尾原さんは、Appleのポッドキャストランキングで1位になっているCOTEN RADIOにいろいろな声がかかるのも同じだと例に挙げ、聞き手も「なぜ1位なのか自分たちもわからない」と笑います。
今の仕事と「魂のごちそう」
現在の尾原さんは、シンガポールの藤原投資顧問という会社で、資産を預かって運用する仕事をメインにしています。資産を持つ人はお金のリターンだけを求めているわけではない、というのが尾原さんの見立てです。
資産家の中には、次の未来を冒険したい人や、二代目に未来がどこから起こるかを知ってほしい人がいるといいます。そのため、イスラエルのベンチャーやこれから立ち上がる日本のベンチャーへの投資について、アドバイスをしているそうです。
働くモチベーションを聞かれた尾原さんは、自分の強みをより強くするように楽しく動いていたら、結果としてお金を払ってくれる人が現れる形になっていると答えます。投資で一番おいしいのは、まだ誰も見つけていない未来をつくる会社を見つけることだからです。
尾原さんは強みの診断であるストレングスファインダー ── 人の資質を34種類に分類し、上位5つを示す診断ツール。米ギャラップ社が開発し、現在は「クリフトンストレングス」と呼ばれていますを毎年受けていて、ずっと1位が「着想」だといいます。着想、コミュニケーション、学習欲の3つは変わらないそうです。
投資は着想を鈍らせずに対価を得られる分野です。シンガポールを拠点にしているのも、着想は新しいものがつながる場所に生まれるため、日本より東南アジアのほうが強みが生きるからだといいます。
聞き手は、自分にとっての「地球ゲームの勝利ポイント」を定義できている人は少ないかもしれないと話します。尾原さんは、そのうえで他の人と比較できない存在になれば、お金は後からついてくると語ります。
それが他の人と比較できない存在になってくれば、お金は後からついてくるわけですよ、絶対に。
それでも駄目ならブローカーをやれば生きていける、と尾原さんは付け加えます。聞き手は、そのセーフティーネットを自分で持っていることも強さだと受け止めます。
着想野郎が集まるGoogleとリクルート
これまでで最も刺激的だった仕事を聞かれた尾原さんは、Googleとリクルートを挙げます。着想を楽しむ人が多い会社ほど、「思いついた」「俺も俺も」という着想の連鎖が起こるからです。
尾原さんによると、リクルートの創業時の社是は「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という趣旨のものでした。人に機会を提供するプラットフォームを自分でつくり、その機会の中で自分も成長するというループです。
みんなに機会を提供するように機会の拡大マシンになりながら自分が一番成長するから両方ハッピーじゃんっていうのがリクルートなんですよね。
聞き手は「めっちゃマッチしてますね」と反応します。尾原さんは、機会は着想から生まれるので「着想マシン」だと続けます。
着想を楽しむ人は、面白い人を紹介してもらいに行くものだと尾原さんは言います。深井さんと出会ったのも、なぜここまで歴史を見事にまとめられるのか知りたくて紹介を頼んだのがきっかけで、最初は六本木ヒルズのきちんとしたレストランで会ったそうです。
10年後、20年後の尾原さんは火星にいる?
聞き手は「未来は想像できない」という話を踏まえ、あえて尾原さんの10年後、20年後を尋ねます。尾原さんは、3年後に来る未来を0.5歩早く人に紹介するという今の生業を、ずっと続けているだろうと答えます。
だって未来って絶対変化早くなるから、むしろ。未来を着想するっていう需要って高まりますもん。
聞き手が「人間タイムマシン」と表現すると、尾原さんはそのときはアフリカにいるかもしれないし、20年後に火星へ行けるようになれば真っ先に行っているかもしれないと話します。食料問題のために体を10分の1にする時代が来たら、手を挙げるかもしれないとも語ります。
そこから話は歴史へつながります。未来をつくる人を知りたければ、その人がどこから来たのかを知る必要があるというのが尾原さんの考えです。
歴史じゃないですか。
そう、ほんとそうなんですよ。なんか未来を作る人であればあるほど、やっぱ孫さんってこういう人だからこういう未来作りたいんだよねとか。
尾原さんは、ラリー・ペイジやマーク・ザッカーバーグも同じで、どういう人かがわかればどんな未来をつくりたいかが見えると話します。「無理やりつなげましたけど、本気で思ってるんですよ」と笑います。
聞き手からは「歴史もプロセスですからね」という声が上がります。尾原さんは、永遠の完成品にたどり着かないことこそが一番楽しいのだと応じます。
ずっとプロセスを転がし続けることなので、永遠の完成品にたどり着かないってことのが一番楽しいですからね。
作り方がわからないまま始まったフィレンツェのドゥオーモ
最後にリスナーへのメッセージを求められた尾原さんは、コロナ禍で不安になることが多い今こそ、と前置きして、山口周さんから教わったエピソードを紹介します。
フィレンツェのドゥオーモ ── イタリア・フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の通称。巨大なドームはルネサンス期に建築家ブルネレスキが完成させましたは、長い年月をかけて建てられた大聖堂です。尾原さんによると、建設を始めた時点では、あの大きなドームをどう作るのかわかっていなかったといいます。
それでも、時間があれば誰かが作り方を見つけるはずだと考えて建設が始まったそうです。尾原さんは、この態度こそ未来がわかりにくくなった今の時代に大事だと話します。
そのワクチン受けた後、5年後、10年後、何か副作用が出始めるかもしれない。でもやっぱり今回ワクチンの(開発を)見えない中、世界中の天才が集まって未来を作ってくださったわけじゃないですか。
尾原さんは、変化が激しく不安になりがちな世の中だからこそ、人が集まって今できないことをできるようにする力を信じてほしいと語ります。わからない中で始め、みんなで集まってできるようになった歴史を学んでほしいというのがメッセージです。
最後やっぱり(石は)誰かの意志なんですよ。旗を立てるっていうことですね。
締めくくりに、尾原さんは著書『プロセスエコノミー あなたの物語が価値になる』を紹介します。完成品だけでは稼げなくなった時代に、そこに至る思いや試行錯誤こそが価値になる、という内容で、「歴史とプロセスはセットで学ぼう」と呼びかけて回を終えました。
まとめ
尾原和啓さんの半生は、父の地図、空き瓶集め、勉強法の研究、震災ボランティア、iモード、Googleと、知っている人と知らない人の「間」に立ち続けた歩みでした。浮いているからこそどこへでも行け、困らない備えがあるからこそ冒険できるという考え方が、今の「着想」を軸にした生き方につながっています。
- 医者家系の父から「ロマンとそろばん」の両立を学び、幼い頃から仕組みで稼ぐ発想を身につけた
- 3歳で読んだ『やっぱりおおかみ』をきっかけに、居場所がないことを強みとして受け入れてきた
- 阪神・淡路大震災のボランティアセンター運営を通じて、プラットフォームの力とゼロイチの価値に気づいた
- いつでも戻れる「パスポート」を持ち、困らない状態をつくることが、安心して冒険するための条件だと語られた
- 未来を知りたければ人がどこから来たかを知るべきで、歴史もプロセスだという視点で回が締めくくられた




