ナチスの「宣伝大臣」ゲッベルスとは何者か
この回のテーマは、ナチスドイツの政治家ヨーゼフ・ゲッベルスです。ヒトラーの側近中の側近で、ナチスドイツでプロパガンダの最高責任者を務めた人物として知られています。
コテンラジオのショート編は、本編より肩の力を抜いた雰囲気が好評だと冒頭で話されます。ただ、楊さんは今回の話が樋口さんのメンタルに響く暗い話になりそうだと予告し、自分がガンディーTシャツを着ていることを思い出してほしいと冗談交じりに伝えます。
楊さんによると、プロパガンダ ── 国家などの権力が主体となり、民衆を特定の思想や世論、行動に誘導しようとする宣伝活動のこと。第一次世界大戦以降、マスメディアの発達とともに大規模化しましたとは、国家などの権力が民衆を特定の思想や行動へ誘導しようとする行為です。わかりやすい例として、戦時中の大日本帝国の「欲しがりません勝つまでは」「進め一億火の玉だ」といったスローガンが挙げられます。
このゲッベルスも、ドイツ中のメディアをほぼ支配したんですよ。そして支配してヒトラーと一緒にドイツを破滅まで引きずり続けたんですね。
タイトルにある「宣伝大臣」は、ゲッベルスが実際に就いた役職です。ナチスドイツには、プロパガンダに特化した国民啓蒙宣伝省という省庁があり、ゲッベルスはそのトップの大臣でした。
ゲッベルスは演説も得意で、「総力戦演説」は動画が残るほど有名だといいます。楊さんは、ヒトラーの演説を凌駕するほどエネルギーがすさまじいと表現しています。
顔立ちも印象的で、頭蓋骨の輪郭がわかるようなシャープな顔だと紹介されます。その才気もあって、ゲッベルスには悪魔を意味するメフィストフェレス ── ゲーテの戯曲『ファウスト』に登場する悪魔。主人公ファウストと契約を結び、彼を誘惑する存在として描かれますというあだ名がついたそうです。
なぜ今プロパガンダを学ぶのか。ハードモードで始まった少年時代
楊さんがゲッベルスを取り上げた理由は、プロパガンダそのものを考えたいからです。プロパガンダには長い歴史があり、今もほとんどの国が何らかの形で行っていると楊さんは話します。
プロパガンダといえば筆頭に挙がるのがゲッベルスなので、その人生と仕事を軸に話を進めるという構成です。楊さんは、ゲッベルスはもともと普通の青年だったと前置きします。
ゲッベルスは1897年、デュッセルドルフの南にある織物工業の盛んな街ライトで、中産階級の父親の三男として生まれました。父は織物の町工場で働き、母はオランダ出身でドイツに帰化した人でした。
少年時代のゲッベルスは、小児麻痺で左足を手術し、左足が右足より5センチ以上短く細くなってしまいます。一生、医療用の特別な靴を履き、足を引きずって歩くことになりました。
身長も約165センチで、ドイツでは小柄でした。写真では周囲より頭一つ低く、ドイツで理想とされる男性の肉体からは程遠かったと楊さんは説明します。
こうした身体的な理由から、ゲッベルスはコンプレックスを抱えます。スポーツで遊ぶ同級生の輪に入れず、仲間外れにされ、大人からの「気の毒に」という目線も嫌って、周囲から身を隠すようになりました。
決定的だったのが、第一次世界大戦での兵役の不合格です。周囲の青少年が次々と志願するなか、ゲッベルスも足を引きずりながら志願しますが合格できず、家にこもって泣き通したそうです。健康な兄は普通に従軍し、西部戦線に参加していました。
人間嫌いの少年はなぜ「ドクトル」にこだわったのか
兵役の挫折のあと、ゲッベルスは人間嫌いになっていきます。無様な自分を憎み、自分をあざ笑う人や同情して喜ぶ他人を憎み、最終的には人間そのものを憎んだといわれています。
ところがゲッベルスは、そのコンプレックスをバネに猛勉強を始めます。屋根裏部屋で百科事典を読みまくり、ピアノやラテン語の教養も身につけ、高校ではトップクラスの成績を収めました。
一方で、ゲッベルスの評判は悪かったといいます。頭は切れるものの、相手に論争を仕掛けて言い負かしたり、意地の悪い皮肉を口にしたりするため、同世代からも大人からも嫌われていました。
大学進学にあたり、敬虔なカトリック教徒の母は、息子を聖職者にしようと聖職者に面談を頼みます。聖職者はゲッベルスを見どころのある少年と感じつつも、何でも疑ってかかる性格から聖職者には向かないと見抜き、それでも奨学金を出す約束をしました。
大学時代のゲッベルスは苦学生でした。敗戦後のドイツはワイマル共和国 ── 第一次世界大戦の敗戦後、1919年に成立したドイツの共和政体制。多額の賠償金や激しいインフレに苦しみ、1933年のナチス政権成立で事実上終わりましたとして再出発したものの、賠償金とすさまじいインフレで経済はどん底でした。ゲッベルスも家庭教師や借金、仕送りでしのぎ、2、3日食事を抜くこともあったそうです。
それでもゲッベルスは哲学、歴史、芸術史、文学などを転々と学び、ハイデルベルク大学でドイツ文学の研究により博士号を取ります。戦場で手にできなかった成功を、学問の世界でつかんだ形です。
ゲッベルスは博士号に強い誇りを持ち、「ドクトル・ゲッベルス」のサインを何時間も練習しました。その後、自分の名前をサインするときに「ドクトル」の称号を省いたことは一度もなかったといいます。
樋口さんは、バカにされ続けた人生のなかで、学業が唯一の承認の証だったのではないかと受け止めます。故郷でも近所の人が尊敬を込めて挨拶してくれるようになり、ゲッベルスはまさに故郷に錦を飾った状態でした。
博士号でも抜け出せない貧困。優秀な若者はどう陰謀論に沈んだか
24歳で博士号を取ったゲッベルスですが、称号だけでは貧困から抜け出せませんでした。物書きとして生計を立てようと評論や論文を新聞に投稿し続けますが、まったく相手にされません。
なんとか銀行に就職したものの、ゲッベルスは不況のため9か月で解雇されます。この銀行勤務で資本主義への嫌悪感を強め、投資への怒りを日記にぶちまけていました。
「貴様ら(銀行)は投資だというか、その綺麗な言葉の裏には、より多くのものを欲しがる獣のような欲望が隠れているのではないか。」
「獣のようなと僕は言ったが、それでは獣に失礼だ。獣は満腹したら食べるのをやめるのだから。」
日記の文面について、樋口さんは「怒り方が頭いい」と反応しています。社会への憎しみを募らせたゲッベルスは、ここから陰謀論に染まっていきます。
ゲッベルスの中で生まれたのは「俺は陰謀の犠牲者だ」という世界観でした。輝かしい才能を持つ人間が貧しく落ちぶれているのは誰かのせいで、その才能ある人間の一人が自分だと考えたのです。
ゲッベルスはもともと反ユダヤ主義ではなく、むしろユダヤ人排斥に批判的でした。大学の師匠や博士論文の指導教官も、ユダヤ人かユダヤ系の人だったといいます。
しかし当時のドイツでは、敗戦後の苦境の責任を根拠なくユダヤ人に押し付けることが一種の流行になっていました。楊さんは、自分の苦しみにわかりやすい理由を与えてくれる言説に、ゲッベルスが飛びついたと説明します。
さらに、就職を断られた出版社のオーナーや看板ジャーナリスト、論文を載せなかった日刊紙の編集長もユダヤ人でした。ゲッベルスはこの事実を反ユダヤ主義の枠組みで解釈し、才能ある自分をユダヤ人が拒んでいると思い込んでいきます。
敗戦と経済危機
賠償金とインフレでドイツ経済がどん底になる
個人の挫折
博士号を取っても投稿は採用されず、銀行も9か月で解雇
被害者意識
才能ある自分が不当に落ちぶれていると考える
流行の言説
苦境の責任をユダヤ人に押し付ける風潮に乗る
反ユダヤ主義へ
拒絶された事実を「ユダヤ人の妨害」と解釈する
樋口さんは、今の常識からすれば理解しがたいものの、当時の社会の構造や雰囲気を考えると、流されてしまう状況も想像できると話します。ゲッベルス個人が悪いというより、そうのみ込まれる社会だったという見方です。
楊さんも、フラットに見ればそうした状況が起きるのは理解できるとしつつ、共感はしないと線を引きます。東ではソビエト連邦で共産主義が台頭し、西では債務を求めるイギリスやフランス、アメリカが資本主義で伸びていく状況も、ゲッベルスの憎しみの背景として挙げられます。
7000人の演説会で見つけた「天からの声」
追い詰められたゲッベルスは、ミュンヘンで政治集会に参加するようになります。ミュンヘンは政治団体がひしめき、ワイマル共和国に反対する結社も多い土地でした。
楊さんが参照した本には、ゲッベルスは憎しみと虚無感を抱えたまま、何かにしがみつきたい思いでミュンヘンに来たと書かれていたそうです。エネルギーはあるのに心に穴が開いていて、「誰か俺を導いてくれ」という状態だったという分析です。
そこでゲッベルスは、参加者7000人のヒトラーの演説会に出会います。疑問や反対を許さない命令のような演説でしたが、ゲッベルスは自分が追い求めてきた指導者像をヒトラーの中に見出しました。
うわ、これはまさに天からの声だみたいな。これまで自分が追い求めてきた指導者像を、ヒトラーという人物の中に見出したんですよね。
ヒトラーの演説は、変化を切望する失業者や若者、貧しい中産階級に強く刺さっていました。社会の負け組になっていたゲッベルスにも、同じように刺さったと楊さんは話します。当時のヒトラーはすでにナチ党の党首で、支持者からフューラー ── ドイツ語で「指導者」を意味する言葉。ナチスドイツではヒトラーの称号として使われ、日本語では「総統」と訳されますと呼ばれていました。
ナチ党に入党したゲッベルスは、言葉で人を説得し、扇動する道に進みます。文学の博士号を持つ自分の言葉の才能を自負しており、実際にその才能はナチ党内で存分に発揮されました。
ただしゲッベルスの演説には嘘も多く含まれていました。フランスの警察に殴られた後遺症で足が不自由になった、という作り話まで情熱的に語っていたといいます。
楊さんによれば、これは自分のブランディングのためでした。古参幹部はこうした話をあまり信じませんでしたが、ゲッベルスは気にせず演壇に立ち続け、名の売れた政治活動家になっていきます。
ベルリン立て直しと「攻撃」という名の新聞
ヒトラーに認められたゲッベルスは、首都ベルリンの大管区長 ── ナチ党の地方組織の責任者。ドイツ語でガウライターと呼ばれ、担当地域の党活動を統括しましたに抜擢されます。書き起こしでは「代官区長」と聞こえる役職です。
当時のベルリンのナチ党は内部分裂で組織的な活動ができていませんでした。雑居ビル地下の汚い事務所に失業した党員がたむろし、党員は1000人を超えても会費を納める人がおらず、金庫は常に空っぽだったそうです。
ゲッベルスは党員の4割を切るリストラを断行し、演説にも力を入れます。ライバルの共産党に対しては、ナチ党の下部組織である突撃隊 ── ナチ党の準軍事組織。対立政党の集会を襲撃するなど暴力的な街頭活動を担いましたを使って暴力で叩くこともありました。
ゲッベルスは突撃隊を必要に応じて利用しながらも、知性のかけらもないチンピラとして軽蔑していたといいます。乱闘騒ぎはベルリンの新聞各紙に報じられ、市民の関心を引くこと自体が戦略に含まれていました。
乱闘の中でも腕を組んで平然と立ち、おもむろに演説を始めるゲッベルスの姿に、党員たちは敬意を込めて「ドクトル」と呼ぶようになります。聞き手側からは、欲しくて手に入らなかった承認をナチスが与えたのだから、やる気になるのも当然だという指摘も出ます。
ゲッベルスは自由に編集できる新聞『デア・アングリフ』も創刊します。意味は「攻撃」で、あまりにシンプルな名前に笑いが起きます。ただ資金はカツカツで、スタッフの給料は分割払い、家賃や印刷代の支払いも溜まっていたそうです。
12議席から107議席へ。宣伝部長が仕掛けた選挙戦
ゲッベルスは選挙活動で辣腕を振るい、32歳のときに自身も出馬します。楊さんの説明では、1928年のこの選挙でナチ党は9議席から12議席に増え、ゲッベルスも国会議員になりました。
この結果を受けて、ヒトラーはゲッベルスをナチ党の宣伝部長に指名します。宣伝部長はかつてヒトラー自身が務めたポストで、ヒトラーは『我が闘争』でも宣伝に章を割き、党の中核は宣伝部長であるべきだと唱えていました。
昇進したゲッベルスは、頭が切れて行動力もあるため党内で警戒され、距離を置かれます。それでもゲッベルスはまったく気にせず、自分の道を突き進みました。
1930年の総選挙で、ゲッベルスは12議席を約3倍の40議席にすると公言します。ここから、前代未聞の組織的な選挙運動が始まりました。
- 数百人の演説者を大都市から町や村の隅々まで送り込む
- ヒトラー以下の幹部を選挙演説にことごとく駆り出す
- ドイツ中に数百万枚のポスターを掲示する
- 飛行機をチャーターし、ヒトラーを1日に何か所も遊説させる
- 息のかかった記者を演説者に随行させ、選挙戦を実況中継させる
1万人以上を集める集会を5000回以上企画したという記述もあったものの、実際にどこまで実施されたかはわからなかったと楊さんは断っています。飛行機を使った遊説は、当時としては画期的な手法だったようです。
結果は大勝利でした。目標の40を大きく超える107議席で、ナチ党は第二党に躍進し、ドイツ中に衝撃を与えます。国内外の記者が勝因を聞きに押し寄せるなか、ゲッベルスは短く答えただけでした。
「我々の戦いは今開始されたばかりであり、先ほど次の戦いへの準備指令を出してきたばかりである」というふうに、ニコリともせずに簡単な言葉を発しただけだったと。
ドイツ国民を包んだ「風船のような世界」
私生活では、ゲッベルスはマクダという女性と結婚します。マクダの前夫はBMWのオーナー一族であるクヴァント家のギュンター・クヴァントで、離婚後にナチ党本部で働いていたときにゲッベルスと出会いました。結婚の立会人はヒトラーでした。
ナチ党の勢いは急速に高まり、『我が闘争』や『デア・アングリフ』の部数も伸びます。資本家からの献金も集まり、ゲッベルスは会計係に電話1本で必要な小切手が届くほど懐が豊かになりました。
その後の選挙でナチ党は第一党になり、翌年、ヒンデンブルク ── 第一次世界大戦で活躍した軍人で、ワイマル共和国の第2代大統領。1933年にヒトラーを首相に任命しました大統領がヒトラーを首相に任命します。35歳のゲッベルスは「我が新帝国は誕生した」と日記に書いて喜びました。
ここからヒトラーは、言論と政治の自由を段階的に奪っていきます。楊さんの説明をたどると、次のような流れです。
大統領令
個人の自由や言論出版の自由の制限に法的な限界を適用しないと定める
全権委任法
議会の審議なしに政府が法律を制定できるようになる
政党禁止法
ナチ党以外の政党が禁止される
国民啓蒙宣伝省
ゲッベルスが初代宣伝大臣としてメディアを統制する
国民啓蒙宣伝省は、新聞、ラジオ、映画、美術、文学まで、あらゆるメディアを統制する権限を持ち、莫大な人員と予算をプロパガンダに注ぎ込める体制でした。楊さんは、ドイツ国民がゲッベルスの演出した風船のような世界に閉じ込められていったと表現します。
樋口さんはこの表現を受けて、言論の自由を奪い、庶民に与える情報を掌握することで「世界を作る」ことができるようになったということだと整理します。
ただし楊さんは、プロパガンダを行ったのは独裁国家だけではなく、アメリカやイギリスなど多くの国が行っていたと付け加えます。その話とプロパガンダの歴史は第2話で扱う予定です。
聞き手からは、向かう方向の良し悪しを置けば、ゲッベルスはめちゃくちゃ優秀で頑張っている人だという感想も出ます。背景としては、メディアや映画の発達に加え、難しい共産主義理論を大衆に伝えるためにプロパガンダに苦心したソビエトの成立が、ドイツにとって具体的な脅威だったという時代性も挙げられました。
第2話でメディア利用の歴史を扱い、第3話でゲッベルスが実際にどんな宣伝を行ったのかを語る構成が予告され、この回は終わります。
まとめ
第1話で描かれたのは、身体障害と貧困に苦しんだ優秀な青年が、敗戦後の社会の空気のなかで陰謀論とヒトラーに救いを求めた過程です。その才能と承認への渇望が、ナチスのプロパガンダを担う宣伝大臣の誕生につながっていきました。
- ゲッベルスは小児麻痺による足の障害と小柄な体格にコンプレックスを抱え、猛勉強で博士号を取った
- 博士号でも貧困から抜け出せず、敗戦後の風潮のなかで反ユダヤ主義の陰謀論に染まっていった
- ヒトラーの演説に導き手を見出し、ナチ党で演説と宣伝の才能を発揮して承認を得た
- 1930年の選挙では組織的な宣伝戦で12議席を107議席に伸ばし、ナチ党を第二党に押し上げた
- 政権獲得後は国民啓蒙宣伝省の大臣として、ドイツ中のメディアを統制する立場に就いた





