国が育てた事業を民間へ。払い下げは何がおいしかったのか
後編は、明治維新のあと日本がどうやって産業を作っていったかという話から始まります。深井さんによれば、財閥の歴史はこの産業化の歴史とほぼ重なり、日清・日露戦争を経て三井・住友・三菱の三大財閥や新興の財閥が力をつけていきます。
明治初期、事業を始めたのは基本的に国でした。炭鉱、造船所、銀山や銅山、セメント製造所などを、近代化のために政府がトップダウンで作っていきます。
(近代化のために)政府がトップダウンで産業を作ってるやつって近代化してねえじゃん。
国営のままでは経済的な近代化にならないため、政府は途中からこれらの事業を民間に移していきます。この移管が「払い下げ ── 政府が所有する工場や鉱山などの財産を民間に売り渡すこと。明治10年代以降、官営事業の多くが政商や財閥に払い下げられました」です。
楊さんは払い下げのメリットを2つ挙げます。1つは、政府が大きな資金を投じて整えた設備を安く譲り受けられることです。
楊さんがより大きいと考えるのは、もう1つのほうです。明治初期は新しい技術が次々に入ってきた時代で、導入すればすぐ使えるものではなく、実証が欠かせませんでした。
要するに技術導入の初期の失敗を政府がかぶってくれた。それ(実証)を終わったやつを自分たちが譲り受けられた
国が投資
政府が大きな資金を投じて炭鉱や造船所などのハードを整備する
国が実証
新技術の導入初期の失敗を政府が引き受ける
民間へ移管
実証済みの事業を、民間が安い価格で譲り受ける
戦争需要
日清・日露戦争による需要が成長を後押しする
第一次世界大戦でなぜ日本は儲かったのか
深井さんは時代を進め、1910年代の第一次世界大戦に話を移します。近代国家どうしが争ったこの大戦で、最も巻き込まれなかったのが日本だったといいます。
主な戦場のヨーロッパでは各国が戦い続けたため、軍需を支えるプレイヤーが世界的に足りなくなります。戦争に必要なのは武器だけではありません。
例えば軍隊を移動させようとすると、服も必要だし、食品も必要だし、全部必要なんです。
この需要を最も担ったのはアメリカで、戦火を被らずに軍需だけを受けられる位置にいたことが、戦後に世界一の国になる流れにつながったと深井さんは説明します。それでもアメリカだけでは応えきれない量があり、残りを引き受けたのが日本でした。
戦争で儲かるっていうとなんか嫌なイメージだけど、実際事実なんで。(構造は)アメリカで起こったゴールドラッシュみたいな感じですよ。
楊さんは、ゴールドラッシュで一番儲けたのはジーンズやスコップを作った人だったという話を引き、日本の立ち位置もそれに似た構造だったとたとえます。
深井さんによると、この大戦を経て日本全体の企業の資本金総額は25倍になりました。楊さんは、それだけ富が民間に蓄積したということだと受け止めています。
もう1つの変化は貿易の主導権です。それまで日本の輸出は欧州の商社に仕切られていましたが、大戦で欧州の経済界が機能不全に陥り、日本が自前の商社で海外へ進出するチャンスが初めて生まれました。
商社を作らなかった住友と、コンツェルンへの移行
第一次世界大戦期には、三菱商事、古河商事、浅野物産といった商社が生まれました。一方で、住友はこの時期に商社を作っていません。
深井さんによると、住友には「浮利を追わず」という理念があり、物を右から左に流して利ざやを取る商売をしませんでした。僧侶が作った組織だったこともあり、理念が強かったようです。
楊さんは、この判断が住友を救ったと話します。戦争中は「貿易をやれば儲かる」と商社が次々に生まれましたが、好景気が終わるとバタバタと倒れ、商社ブームに乗らなかった住友は不景気のダメージを抑えられたといいます。
この好景気の中で生まれたのが「成金」という言葉です。お札を燃やして灯り代わりにする風刺画が描かれるほどで、深井さんはこれを日本で最初のバブルだと表現します。
事業が多角化すると、それまでの経営スタイルは通じなくなっていきます。ここで起きたのが「コンツェルン ── 持株会社を頂点に、多数の企業を株式所有で支配する企業グループの形態。ドイツ語で企業結合を意味し、戦前日本の財閥の典型的な形でした方式への移行」です。
当時の日本の会社は無限責任で鉱山や銀行、商社を経営していました。深井さんによれば、損害賠償を求められたら際限なく責任を負うこの形について、ロスチャイルドが「無限責任の会社とパートナーシップを組むのは怖い」と言ったといいます。
これに応える形で、三井家はまず自分たちだけが入る無限責任の三井合名会社を作り、それを持株会社として傘下の事業をすべて株式会社化しました。グループはピラミッド型になり、指揮系統の頂点に持株会社が立つ構造ができあがります。
鉱山・銀行・商社などを無限責任で経営し、海外の財閥は取引を警戒していた
三井家だけの持株会社を頂点に、傘下を株式会社化したピラミッド型のグループに移行した
深井さんは、住友では以前から文化として所有と経営の分離がなされていたと前編で話したうえで、ここからは制度の面でも西洋的な意味で所有と経営が分かれていくと説明します。プロの経営者を雇い入れる動きも加速しました。楊さんによれば、株式会社化には節税の目的もあったそうです。
恐慌で生き残ったのは、なぜ銀行を持つ財閥だったのか
コンツェルン化した財閥は大きな力を持ち、一時は国と国の大型プロジェクトを政府抜きで進めていたほどだったといいます。日産や理研などの新興コンツェルンも次々に登場しました。
ところが、深井さんが「1927年の世界恐慌」と呼ぶ大戦の反動が訪れ、新興コンツェルンや商社の多くが潰れてしまいます。最後に残ったのは、自分たちで銀行を持っていた財閥でした。
楊さんの説明では、不景気になると人々は小さな銀行に預金を置くことを不安に感じ、大きな銀行へ預け替えます。その結果、住友銀行のような大銀行に預金が集まり、メガバンク化が進みました。
深井さんは、銀行を持つ強みを資金調達の面から説明します。恐慌のさなかには、普通の株式会社が株式で資金を集めることはできませんでした。
株式での資金調達ができず、不景気の中で資金が尽きて潰れていった
自前の銀行からグループ企業に融資を出させ、それを元手に生き残った
我々が学ぶべきなのは、その環境の変化によって何を持ってると強いかがめちゃくちゃ変わるんで、この時は銀行を持っているということが超救いになったと。
深井さんは、これを戦略の勝利というより、予測の難しい「たまたま」だったと見ています。樋口さんが「銀行持つか」と冗談を言うと、銀行は認可がいるので自分では作れないと深井さんが返し、会場の笑いを誘いました。
この時代には財閥への反発も強まります。楊さんによれば、大戦ブームの終わり、恐慌、関東大震災が重なって失業者や労働争議が急増し、「あいつらだけ儲かっている」という不満が最大手の三井に集中して、デモや政治家の暗殺も起きる殺伐とした空気になりました。
財閥が地方の農村にまで営業網を広げ、地方の中小企業の市場を奪っていったことも反発を招きます。深井さんは「イオンが出てきて恨まれるのと全く同じ流れ」だと語り、樋口さんも商店街とコンビニの関係を挙げて、何十年単位で同じことが繰り返されていると話しました。
第二次世界大戦の統制経済は、財閥に何をもたらしたのか
第二次世界大戦に入ると、飛行機や船舶を作るための重化学工業の需要が一気に高まります。深井さんによれば、国内の製造業生産額に占める金属・機械・化学の割合は6割を超えました。
楊さんによると、重化学工業に最も投資していたのは住友で、会社全体の投資の最終的に8割を重化学工業に回していたといいます。住友の中では住友金属工業が財閥全体の利益の4割以上を稼ぎ、陸海軍の飛行機のプロペラをほとんど作っていたそうです。
戦艦や戦闘機を作れるのは、生産基盤と技術力を持つごく一部の企業だけです。国はそこに頼るしかなく、仕事はまた財閥に集中しました。それでも深井さんは、財閥にとって良い時代ではなかったと話します。
作らせたいけど、経営陣邪魔だなってなるんですよ。(軍部や政府は)もう好きに作らせたいから。
財閥は統制経済 ── 国家が生産・流通・価格・労働などを計画的に管理する経済体制。日本では日中戦争以降、国家総動員法などにより戦時統制が強化されましたに組み込まれ、国が経営陣まで決める実質的な国有化が進みます。工場は政府の指定を受けなければ物資も融資も回してもらえませんでした。
深井さんが驚いたのは、この時期に政府が企業内に労使組織を作り、労働者の待遇向上を図っていたことです。目的は労働者の定着と生産性の向上で、軍需品をどれだけ作れるかが戦争の勝敗を左右したためでした。
深井さんはこれを、ビジネスとは違う文脈で労働者の待遇が上がった「異質」な状態だと見ています。真偽は確かではないとしながら、会社を家族のように捉える家族主義的な企業観も、この流れの中で生まれたらしいと紹介しました。
楊さんは、研究によっては財閥が戦時中から日本政府によって実質的に解体されつつあったとする見方もあると補足します。たとえば飛行機を作る企業は、財閥の枠を越えて政府がまとめて管轄し、直接指示を出していました。
負けそうな戦争の中で、住友が作った「戦時総力会議」とは
経営権を奪われ、しかも戦争に負けそうな状況で、財閥はどうしたのか。深井さんは、会場にいる経営者に想像してほしいと問いかけます。
住友はこのとき、「住友戦時総力会議」という異例の組織を作り、本社の機能をわざわざ止めてこの会議に移しました。理由には諸説あります。
深井さんが紹介した1つの説は、敗戦を見越した経営陣が、本社のトップである住友家の当主に戦争責任が及ばないよう、身代わりになる組織を作ったというものです。経営判断は社員だけで構成された会議で行ったという形にしておけば、追及されたときに当主を守れるという考え方でした。
なるほどな。いやもうそんなことやらないといけない状態なんや。
GHQの財閥解体は、どこまで徹底していたのか
敗戦後に現れたGHQから見ると、戦争を進めたのは財閥でした。深井さんによれば、自由主義経済を掲げるアメリカは、1つの企業に富や権力が集中すること自体を良くないとする建前を持っていました。
財閥としてはね、戦争が終わったらやっと統制経済から解き放たれるぞと。やっと自由に事業できるぞと思ってたんだよ。
ところがGHQが求めたのは財閥解体でした。コンツェルンの頂点にある持株会社をなくすこと、三井や住友といった名前を使わないこと、経営者が全員辞めることです。
ただし国際法上、そこまでの内政干渉は認められていません。そこでGHQは、命令ではなく「自分から進んでやれ」という自発的解体の指示を出しました。最初に応じたのは安田で、三井と住友が続き、三菱は最後まで拒否したといいます。
株式は持株会社整理委員会 ── 財閥解体のために1946年に設置された機関。財閥本社や財閥家族から株式の譲渡を受け、それを一般に売却して株式の分散を進めましたに接収されました。三井、岩崎、住友、安田、中島、浅野、大倉、古河、野村、鮎川が財閥家族に指定され、持ち株はすべて没収、一族は公職から排除されます。
深井さんは、これは創業家という安定株主を失うことだったと指摘します。誰が株式を持つかわからず、変な相手に持たれたら会社が危うくなる。戦後の旧財閥系企業は、その恐ろしい状況から出発しました。
バラバラになった企業は、社長会でどうつながり直したのか
財閥解体のあと、旧財閥の企業はそれぞれ本当に別々の会社になり、一時は名前も変えていました。そこで各社の社長たちが集まり、銀行をハブにして株式を持ち合うことにします。
株式の持ち合いは、見知らぬ相手に株を持たれないための企業防衛でした。こうして各財閥で「社長会」が形成されていきます。
住友の社長会は白水会です。深井さんによれば、住友が最初に持っていた屋号「泉屋」の「泉」の字を2つに分けると「白」と「水」になることが由来です。三菱は金曜会、三井は二木会、古河は古河三水会といった名前で、二木会は第2木曜日に開かれていたことに由来するそうです。
財閥家の持株会社を頂点にしたピラミッド型で、上から指揮系統が通る
独立した企業が銀行をハブに株式を持ち合う、横のつながり
深井さんは、ハブとなった銀行自体が合併を繰り返したため、三井住友銀行のように複数のグループにまたがる銀行も生まれ、グループ同士が少し混じり合っているのが今の姿だと説明します。
1960年代に入ると、三井・住友・三菱の統一ブランドを積極的に使う方針がとられ、社長会の直轄で広報委員会が作られました。いま多くの人が「住友」や「三菱」と聞いて思い浮かべる企業群は、こうして形づくられていきます。
時代に翻弄されながら、マジでその瞬間瞬間を本当にちゃんと生き残ってきてる感じすごいですね。
中国出身の楊さんは、生き残っている老舗を持てていること自体が幸せだと話します。深井さんも、清の時代から続く大きな商家は中国にはなく、「まだある」ことの難しさを改めて感じたと語りました。
住友生命の藤本さんが感じる「理念ドリブン」の経営
ここで住友生命保険の上席執行役員で新規ビジネス企画部長の藤本宏樹さんが登場します。藤本さんにとって戦後は住友生命という会社の出発点にあたるため、財閥解体の時期や、三井・三菱を含めた財閥全体の歴史は、あまり学んでこなかったそうです。
戦後の個々の会社は生きるか死ぬかの状況から始まったため、社内の関心はそちらに向かいがちだったといいます。樋口さんは、財閥の歴史は戦後で一度分断され、仕切り直されていると受け止めました。
深井さんが、住友の家訓やビジョンを実感することはあるかと尋ねると、藤本さんは「すごくある」と答えます。最も感じるのは、人による経営ではなく、理念に基づく経営が続いていることだといいます。
藤本さんによると、住友生命の経営理念3か条のうち2か条は、約150年前に広瀬宰平 ── 住友の初代総理事。別子銅山の支配人から経営の中枢に立ち、明治維新期の混乱の中で住友の事業を立て直した人物ですが作った住友の家法から引き継いだものです。そこには、人ではなく事業を大事にせよという考えが明確に書かれていました。
藤本さんは、イノベーターの広瀬宰平が全てを変えて社内がぐちゃぐちゃになったあと、哲学者のような伊庭貞剛が受け継いだ対比にも注目します。伊庭は労働争議の起きていた鉱山に毎日登り、働く人に「おはよう」「元気?」と声をかけて話を聞き続け、争議はだんだん収まっていったそうです。
藤本さんは、こうした人物が出てきたのも、そういう人を生む仕組みが経営理念に埋め込まれていたからだと話しました。
「家より事業」の理念は、いまの住友にどう残っているのか
住友の経営理念の冒頭には、住友家の繁栄ではなく、別子銅山の事業こそ根本の財産だから続けなければならないという趣旨が書かれていると藤本さんは説明します。事業のためであれば誰でもものを言えばいい、という文化はいまも続いていると考えています。
なんか会社は事業のためにあるっていうのが、僕には結構ちょっと新しく聞こえるんですけど。
藤本さんはさらに、住友の伝統理念にある「自利利他公私一如」を紹介します。自分を利するとともに他を利するものでなければ住友はやらない、公と私は一体だという考え方です。
住友生命の経営理念の残る1か条はこの考えを受け継ぎ、社会公共の福祉に貢献することを最初に掲げています。世の中のためになる事業のためなら、上の人にも堂々と反対意見を言えばいい。藤本さんは、理念がそうつながっていると理解しているそうです。
家より事業
住友家の繁栄ではなく、事業を根本の財産として続ける
自利利他公私一如
自分だけでなく、社会や国の利益になる事業をする
意見を言える風土
事業と社会のためなら、立場に関係なく反対意見を言える
藤本さんは少し恥ずかしそうに、住友生命では会議の冒頭に全員が起立して経営理念の3か条を唱和すると明かします。「今どきそんなことを」と笑われるものの、そのおかげで全社員が3か条を覚えていて、迷ったときにそこへ立ち返ることがあるといいます。
樋口さんはこれをお経と同じだと受け止めます。普段は唱えるだけでも、本当に困ったときに口に出てくるという感覚で、藤本さんも身体に刻み込む意味があるのかもしれないと応じました。
会社員が自社の歴史を学ぶ意味は何か
楊さんは、コテンラジオが企業の歴史を正面から扱うのは今回が初めてではないかと振り返り、会社で働く人にとって自社の歴史を知る意義は何かを藤本さんに尋ねます。
藤本さんは、リベラルアーツ ── もとは古代ギリシャ・ローマで自由人が学ぶべきとされた教養科目。現在は特定の専門に限らない幅広い教養を指して使われますを自由になるための技術、つまり無知から来る恐怖や、未来が見えない不安から自分を解き放つものだと捉えています。歴史はその最たるものだといいます。
歴史に再現性はないものの、ある状況で人が何を考えどう行動したかを頭の中で再現することは、考えるヒントになる。藤本さんは、先人の足跡ではなく、先人が求めたものを求めることが大事だと話します。自社の先輩たちの判断を学ぶのは、なおさら自分のためになるといいます。
藤本さんは最近、70年分の社長による創業記念日の訓示を読み返したそうです。どの時代の社長も必ず「今は変化の時代です。チャレンジしなければいけません」と言っていました。
常に変化にもみくちゃにされるのが経営で、変化こそが常態だと知れば、自分たちも同じように考えてみようという勇気とヒントになる。藤本さんは、歴史好きな人ほど真っ先に自社の歴史を学んだほうがいいと話しました。
樋口さんは、成功例や失敗例を聞いてそのままなぞることには限界があり、どう考えたかを知ることこそ普遍的だと腑に落ちたといいます。恐慌の話で「銀行を持とう」と冗談を言ったものの、いまそれが正しいとは限らないと付け加えました。
要所でしっかりした人が出てくる組織の条件とは
深井さんは、住友の歴史で要所要所にしっかりした人物が現れることに注目します。他の国の王朝を見ても、優秀な人材が生まれ続ける仕組みがあったとは言いにくいといいます。
いまは一人が会社にいる期間が短く、深井さんの感覚では、10年も勤めれば王朝の5代分ぐらいの交代を経験することになります。人材が入れ替わる中で、優秀な人が活躍できる土壌をどう設計するかを考えさせられたそうです。
住友も三井も三菱も運も良かったと思うんだけれども、やっぱりすごい人が生まれてなんとかする確率が上げてたと思うんですよ。
深井さんは、すごい人が生まれる確率を上げることは経営でできると考えています。藤本さんも、人の判断に左右されず、理念を明文化して伝えることが大事なのだろうと応じました。
藤本さんは、明治維新のような大変化の時代に、地方の一支店長だった広瀬宰平や、中央から離れた下級武士のような周縁の人が変革者として現れるのはなぜかと深井さんに問いかけます。
深井さんの答えは、立場によってインプットが違うというものです。変革期はゲームのルールが変わるときで、今のゲームで勝っている人は新しいルールを身につけにくい位置にいます。新しいルールに追従しやすく、ハングリー精神を持つ人が端から出てくるといいます。
現在の権力や地位があるため、新しいルールを身につけにくい位置にいる
インプットが違い、新しいルールに追従しやすく、意欲やハングリー精神がある
深井さんは、これは資本主義の話に限らないと付け加え、ソーシャルグッドの文脈で環境問題に取り組むボーダレス・ジャパンの田口さんのような人も、これまで重視されなかったことに目を向けて新しい仕組みに挑む点で同じだと例を挙げました。
新年の祝いの席で「相変わりまして」と言った広瀬宰平
藤本さんは、自分ならそこで勇気を持って踏み出せるかと考えてしまうと前置きし、広瀬宰平の豪胆なエピソードを紹介します。住友の本社が別子銅山を売ろうと決めかけたときのことです。
別子銅山から本社に乗り込んだ広瀬は、住友家の当主と全重役がそろう新春の祝いの席に出ます。決まりの挨拶は「相変わりませずおめでとうございます」でしたが、広瀬はあえて「相変わりましておめでとうございます」と言いました。
不吉なことを言うなと総叩きにあった広瀬は、「相変わらずでは住友は倒れます。一度灸をして芯を取り、相変わって禍を転じて福となさねばなりません」と返したと伝えられています。
登壇者たちは、今の大企業で同じ場面で言える人はまずいないと話します。言いたい人は多くても、実際に言う人は少なく、あとで飲み会やSlackで言うのが関の山かもしれないという声も出ました。
藤本さんの見方では、広瀬個人がすごかっただけでなく、言えば何かが変わりそうな環境があったことも大きいといいます。広瀬の座右の銘「逆命利君 ── 主君の命令に背いてでも、結果として主君の利益になることをするという考え方。中国の古典に由来する言葉です」が許される風土があり、明文化もされていました。
藤本さんが特に驚くのは、広瀬が作った家法に、当主が無能なら廃嫡すべしという条文まであることです。支配人がそれを書き、当主がそれを家法として認めた度量はすごいと語り、三井や三菱にも同じようなバックボーンがあるのではないかと話しました。
財閥は何を残し、何が400年続いたのか
エンディングで深井さんは、資料にはGHQとのやりとりや財閥解体を決意する過程まで書かれていて、本当は7話分ぐらい話せる内容だったと振り返ります。重化学工業のように最初は利益率が低くても大きく投資する判断など、難しい決断を連続してできる土壌が長く続く組織にはあるのだろうと語りました。
樋口さんは、民間でありながら国の発展に深く関わった財閥を「役割」として捉えます。財閥は財閥の、国は国の、GHQはGHQの役割を果たし、みんなで歴史を進めてきたように感じたといいます。
そういうことをした人をたまたま財閥って呼んでるって感覚なんですけどね。
深井さんは、400年続いていることの重みにも触れます。財閥家は株式を持たなくなり、江戸時代の住友家の人が今の住友グループを見ても同じ組織とは思わないかもしれない。それでも名前とビジョンは残っています。
俺400年後に残る理念残す自信ちょっとないもん。
住友の理念には、機を生かして変化に応じる「活機応変」という言葉もあり、松尾芭蕉の「不易流行 ── 松尾芭蕉の俳諧の理念。永遠に変わらない本質(不易)を守りつつ、時代に応じた新しさ(流行)を取り入れることを指します」と同じだという話も出ました。守るべきコアを残しながら変わり続けることにこそ価値がある、という見方です。
深井さんはこれを「本当にミームですよね」と表現し、何がコアなのかを改めて考えさせられると締めくくりました。何も残っていないとも言えるし、すべてがどこかに残っているとも言える、という言葉で収録は終わります。
まとめ
財閥は、国からの払い下げで力をつけ、大戦の好景気、恐慌、統制経済、GHQによる解体という環境の激変をそのたびに乗り越えてきました。住友の例からは、家より事業を大切にし、誰もが意見を言える理念を明文化してきたことが、要所で人物を生み、組織を続かせる土台になったことがうかがえます。
- 払い下げにより、財閥は国が実証を済ませた事業を安く譲り受けられた
- 恐慌期には銀行を持つ財閥だけが生き残り、環境によって強みが大きく変わることが示された
- 財閥解体後の企業は、銀行をハブにした株式の持ち合いと社長会で横につながり直した
- 住友には「家より事業」「自利利他公私一如」の理念があり、上に意見を言える風土が今も続いている
- 自社の歴史は、先人の足跡ではなく考え方を学ぶことで、変化の時代を生きるヒントになる





