財閥は「ただのお金持ち」と何が違う?
この回は、京都で開かれたビジネスカンファレンスICCサミット KYOTO 2021のステージで、約2年ぶりに行われた公開収録です。テーマは「財閥の歴史」で、日本の近代産業を財閥がどう盛り上げたのかが語られます。
樋口さんが「財閥ってお金持ちの人たち」というイメージを口にすると、深井さんは「正しい」と認めつつ、お金持ちなだけでは財閥にはなれないと続けます。財閥は日本だけでなく、ロスチャイルドやロックフェラー、モルガン、韓国のサムスンやLG、ヒュンダイなど世界中にあるそうです。
財閥という言葉自体は、もともと大金持ちという意味です。財閥という言葉は昭和の初め頃にジャーナリズムの中で使われるようになった、と深井さんは説明します。
周りの中小企業とか、要するにちょっと体力のない企業がどんどん潰れていく中で、財閥だけが一本立ちしてるよねって。
楊さんによれば、金融恐慌や不景気で企業倒産が続いた時代に、財閥だけが生き残る姿が目立ち、財閥という存在の輪郭が浮かび上がりました。すごい企業として認知はされていたものの、「財閥」という概念でくくられ始めたのが昭和初期だということです。
財閥の定義は学者のあいだでも見解が分かれます。深井さんが読んだ本の中で綺麗にまとまっていたのが、「同族支配下にある独占的地位を持つ多角的事業経営」という定義でした。
「同族支配下」とは、企業が大きくなっても資本を分散させず、創業家が株式を保有している状態です。「独占的地位」は他者が口を出せない状態を指し、さらに銀行だけ、メーカーだけではなく、あらゆる事業を多角的に営んでいることが条件になります。
財閥っていうのは、あらゆる事業を多角的にやっていて、それにも関わらず独占的に自己意思決定ができる状態を保っている人たちのこと。
深井さんが財閥を取り上げる理由は、明治期の日本で近代化を担えるプレイヤーが財閥くらいしかいなかったからです。侍や町人に「今から工場を建ててください」と言っても無理で、自己意思決定権と多角経営の体力を持つ人たちに白羽の矢が立ったといいます。
明治の新興勢力と江戸の豪商、2つの系譜
深井さんは、財閥の定義に当てはまる人たちには系譜が2つあると整理します。1つは明治の動乱期に一気にのし上がった人たちで、代表格が岩崎弥太郎の三菱です。
明治の動乱期にのし上がった財閥として、深井さんは他にもいくつかを挙げます。両替商から巨万の富を築いた安田善次郎の安田財閥は、楊さんいわく今のみずほ銀行の流れです。浅野財閥は今の太平洋セメント(もとは浅野セメント)に、鉄砲を売ってのし上がった大倉財閥は東京ガスの株主や帝国ホテルの創設に、古河財閥は古河電気工業や富士通、朝日生命保険につながっています。
もう1つの系譜は、江戸時代の時点ですでに豊かな資力を持っていた商人たちが、明治以降に財閥化したケースです。こちらの代表が住友と三井です。
三菱(岩崎弥太郎)、安田、浅野、大倉、古河など
住友、三井。江戸時代から資力を持ち、明治以降に財閥化
深井さんが特に注目するのは、今も残っている財閥と残っていない財閥の違いです。江戸や大阪には豪商が20数家ほどいたのに、今では看板すら残っていない家がほとんどだといいます。なぜ残り、なぜ残らなかったのかが、この回を通した問いになります。
銅の精錬技術から始まった住友400年の歴史
住友のルーツは、17世紀の寛永年間(1624〜1644年)に京都で本屋と薬の店「富士屋」を開いた住友政友住友政友にさかのぼります。楊さんによれば、住友は財閥の中で最も歴史が長い存在です。政友の祖父は柴田勝家に仕え、秀吉と戦って亡くなったと伝わっています。
住友を大きくしたのは金属の銅です。政友の姉婿である蘇我理右衛門蘇我理右衛門が、南蛮吹き ── 粗銅から銀などを分離する精錬法。16世紀末頃に南蛮人から伝わったとされ、日本の銅の品質と輸出を大きく伸ばしました南蛮吹きと呼ばれる精錬技術を、南蛮人から苦労して聞き出して身につけました。掘り出したばかりの銅から銀などの不純物を取り除く手法です。
深井さんが驚いたのは、蘇我理右衛門がこの技術を周囲の人たちに公開したことです。楊さんは「オープンイノベーションだ」と反応し、界隈の技術力が上がって日本の銅産業が立ち上がり、銅の輸出で稼げるようになりました。
その後、江戸幕府が銅を管轄し、経営を住友家に任せる流れになります。質のいい銅はヨーロッパにも輸出され、幕府にとっては外貨獲得の手段でした。
深井さんが封建社会のいいところとして挙げるのが、幕府に認められると長期投資ができる点です。住友は愛媛県の別子銅山 ── 愛媛県新居浜市にあった銅山。1691年から1973年の閉山まで住友が経営し、住友グループ発展の礎となりましたに、すぐには回収できないスパンで投資し、ずっと経営してよいという「永代請負稼業権」を獲得しました。
楊さんによれば、別子銅山はその後の住友の発展の足場になります。精錬の燃料のための木材から住友林業へ、さらに電力事業や、住友化学の肥料事業も銅山の事業から派生していったそうです。
三越の原点、三井越後屋のビジネスモデル革新
住友とほぼ同じぐらい古い歴史を持つのが三井です。1673年、4代将軍家綱の頃に、三井高利が江戸で「三井越後屋呉服店」を開きました。三井越後屋を略したのが今の三越だと聞き、樋口さんは「キムタクみたいに略してた」と驚きます。
深井さんは、住友が技術的イノベーションだったのに対し、三井はビジネスモデルのイノベーションだったと対比します。当時の一流の呉服店は、得意先に出向いて欲しいものを聞き、仕入れて家まで届け、代金は年末などに金利を乗せて一括請求する「掛売り」が普通でした。
三井高利は、店先に商品を並べて現金払いにするという、今では当たり前の売り方を呉服で初めて行ったそうです。現金が入るので資金繰りが楽になり、金利も乗せずに済むため、より安く売ることができました。
得意先に出向いて注文を聞き、家まで届ける。代金は掛売りで後から金利付きで一括請求
店先に商品を並べ、現金払いで販売。資金繰りが楽になり、安く売れる
深井さんは、当時は階級社会で、客が武士だったことも背景にあると説明します。商人の側が頭を下げて仕える関係だったからこそ、店先で現金で売る方法は革新的でした。三井越後屋は人気を集める一方、他の呉服屋から店先に汚水を流されるなどの嫌がらせも受けたといいます。
明治維新という「ハードシングス」と住友の苦境
江戸時代に大きくなった豪商たちには、歴史の中で大きな危機が2つありました。深井さんによれば、1つが明治維新、もう1つが第二次世界大戦の敗戦です。
(明治維新は)ある種クーデターじゃないですか。もう例えとして適切じゃないかもしれないですけど、もう今のアフガニスタンですよ。
明治維新は結果として日本の近代化のきっかけになりましたが、当時は社会の大混乱でした。武士に呉服を売り、幕府に銅を売らせてもらっていた商人にとっては、取引相手の政府そのものがなくなる事態です。
住友は、明治維新と関係なく経営が苦しい状態でした。別子銅山は掘るほど深くなり、水が出て採掘が難しくなるうえ、中国など他地域でも銅山が見つかって競合が増えていたからです。
さらに、住友が銅と引き換えに幕府から受け取っていた米300石も明治維新でなくなります。採掘コストが上がって赤字経営になっていたところに、鳥羽・伏見の戦いの年、土佐藩によって別子銅山が差し押さえられてしまいました。深井さんはこれを「ハードシングス」と表現します。
この状況で登場するのが、住友のスーパースター広瀬宰平 ── 幕末から明治にかけての住友の経営者。住友の初代総理事として別子銅山の近代化を進めましたです。近江の医師の家に生まれ、11歳から別子銅山で奉公した叩き上げで、住友の江戸店の支店長にあたる広瀬家の養子になった人物でした。
広瀬宰平はまず、新政府の岩倉具視や土佐藩の後藤象二郎らに銅山の返還を求めに行きます。命をかけて戦ってきた相手に何度も門前払いされながら、土地の献納などの手も打ち、最後は意志の力で直訴を続けたと深井さんは見ています。
住友の他の幹部たちは、赤字の別子銅山を手放そうとしていました。広瀬宰平は「売ってはダメだ」と怒って取り返しに行き、最終的に経営を認めてもらったそうです。
「逆命利君」の広瀬宰平を生んだ住友の文化
別子銅山を取り返しても赤字は続いており、深井さんは「ステップワンが終わった状態」だと言います。広瀬宰平は銅山の近代化に乗り出し、すべてを変革するという意味の「諸事更新」という方針を打ち出しました。
深井さんが強調するのは、広瀬宰平個人のすごさよりも、広瀬宰平が出てくる組織環境です。大阪にいた20数家の豪商は、明治維新期にすべて潰れています。
広瀬宰平が改革を始めた時点で、住友の中での序列は5番目ぐらいでした。広瀬宰平の座右の銘は「逆命利君、これを忠という」で、会社のためになると思えば、上の人に耳が痛いことでも言うべきだという意味です。楊さんは、中国古典にある臣下が主君を諫める文化の影響があるかもしれないと補足します。
近代化のために、広瀬宰平はフランス人の鉱山技師ルイ・ラロックルイ・ラロックを招きます。自分の給料の約5倍、今の価値で月280万円ほどを払ったそうです。
ラロックが四国へ渡るとき、日本の渡し船は沈みそうで乗りたくないと言ったため、広瀬宰平は蒸気船を買って伊予まで運びました。この蒸気船は、のちに住友の海運業へとつながっていきます。
深井さんは、赤字の中で序列が高くない広瀬宰平が大胆な投資の合意を経営陣から取り付けた点に注目します。住友には、江戸時代の9代目当主が残した「職歴や年齢にかかわらず、住友家のためになることは何でも言いなさい。採用されなくても感謝する」という趣旨の言葉が伝わっていると、楊さんが紹介しました。
ローマもそうじゃないですか。普通の時と有事な時でモードが変わって、有事な時になんかすごい尖ったやつが出てこれる土壌を持ってるっていうのがやっぱ強いんですよ。
平時は序列や仕組みで安定的に運営したほうがよく、尖った人はむしろ邪魔になります。それでも有事に尖った人を機能させられる二面性を、住友はいい意味で持っていたというのが深井さんの見方です。
台本にはないエピソードとして、深井さんはラロックの契約が切れたときの話も紹介します。ラロックは「継続雇用しないと無理だ」と言いましたが、広瀬宰平はそれを断り、自社の社員をフランスに留学させて自分たちで改革をやり遂げました。
深井さんは、メリットとデメリットで考えれば継続雇用したほうがよかったはずだと言います。そこには、日本の産業が外国人に依存し続けるのは良くないという意志があり、ここも意志の力だと感じたそうです。
三井の御用金危機、三菱の台頭、天保生まれの世代
三井もまた、幕末に窮地に立たされます。お金がなくなった江戸幕府が裕福な町人に強制的に金を出させる御用金 ── 江戸幕府や諸藩が財政難の際に、商人などへ臨時に課した借上金。返済されないことも多く、商人には重い負担でしたで、三井は100万両を求められ、50万両に値切って分割で支払うことになりました。
三井には幕府に恩もあり、完全に断ることはできませんでした。資金がカツカツになったところで三井にも現れたのが、三野村利左衛門 ── 幕末から明治の三井の大番頭。幕府や新政府との交渉で三井の危機を救い、三井銀行の設立などに関わりましたです。あらゆる人脈を使って交渉し、三井を救ったと語られています。
同じ時期に台頭したのが、土佐藩の遺産を引き継いで三菱を生んだ岩崎弥太郎です。岩崎弥太郎は海運でのし上がり、西南戦争では明治政府の軍事輸送を担いました。
深井さんによれば、明治に新しく財閥を興した人たちには、旧社会の支配階級出身が1人もいません。全員がのし上がってきた人たちで、強い起業家精神を持っていました。
さらに本には、新興財閥の創始者の多くが約10年続いた天保年間の生まれだと書かれていたそうです。岩崎弥太郎、古河、大倉、安田らがこの世代で、激動の時代にちょうど20代後半から30代半ばでした。深井さんは、個人の能力だけでなく時代環境が人間にとってどれだけ大切かを示す例だと話します。
国が近代化を引っ張った時代の「政商」
明治維新以降、日本は国を挙げて近代化を目指します。侍やちょんまげの町人が自然に近代化するわけはないので、国がトップダウンで引っ張り、一緒に引っ張る民間の人たちを選び出しました。選ばれた人たちが財閥になっていきます。
明治初期の日本でのお金の流れの一番太いパイプっていうのは、もう政府のお金が握ってたんですよね。
楊さんの説明では、明治初期は国内生産の8割ほどが農村から生まれていました。政府が農村から税金を取り、それを民間に資本投下して産業や工業を育てる構図だったため、ビジネスで成功するには政府にくっつくしかありませんでした。
農村
国内生産の約8割を生み出す
政府
農村から税金を集める
民間(財閥)
政府から資本を投下され、工業を担う
深井さんは、重工業などの初期産業は大量の資本が必要なため、どうしてもトップダウンで形成されると補足します。単独で稼げる今の時代との明確な違いです。
こうして政治と強く結びついて近代化を担った人たちが、政商 ── 政府や政治家と結びつき、特権的な保護や事業を得て利益を上げた商人。明治期の三井や三菱が代表例とされますと呼ばれました。三井は井上馨ら長州閥と、三菱は薩摩閥と親しく、楊さんによれば大久保利通と岩崎弥太郎はかなり仲が良かったそうです。住友は三井・三菱ほど政治と深い関係ではなかったといいます。
大久保利通の殖産興業政策では、民間に大量の融資が用意され、三井・住友・三菱以外にも多くの事業者が選ばれました。それでも、そのほとんどは今に残っていません。
住友が残れた理由、所有と経営の分離とビジョン
多くの選ばれた事業者が残らなかった理由として、深井さんはまず、組織の中でスーパースターを生む土壌を挙げます。深井さんはその土壌を、今でいう心理的安全性だと捉えています。
住友では、苛烈な性格の広瀬宰平の後に、柔らかい人柄の伊庭貞剛が登場してバランスを取りました。広瀬宰平が長く力を持つうちに「ワンマンではないか」という批判が出て、社内で派閥抗争が起こり、伊庭貞剛が不採算部門を整理していったそうです。
伊庭貞剛は住友生え抜きではなく、元裁判官でした。新しい政府の方針に嫌気が差して裁判官を辞め、給料が半分以下になっても、住友が掲げていた「公利公益」というビジョンに共感して入社したといいます。
深井さんがもう1つ挙げるのが、東洋的な所有と経営の分離 ── 会社を所有する人と、実際に経営する人が別であること。西洋では株式会社の仕組みとともに広がった考え方ですです。西洋では、大航海時代の東インド会社で、船に乗る人とお金を出す人が分かれたことから株式会社の仕組みが生まれました。
楊さんは、財閥では所有が分散されていないのに経営と所有が分離されているという特殊な状況だと指摘します。住友家の当主は、事業も家も自分のものではなく、受け継いだバトンを次に渡す途中にいるだけだと考えていたそうです。
結局のところ、その継承者が一番優秀なわけじゃないじゃないですか。
深井さんは、継承者の固定と経営権のバランスはすべての王朝に共通する課題で、日本では天皇と将軍の関係として結果的に解決されたと話します。住友では同じことが小さなスケールで起こっていたというわけです。
住友では、楊さんによれば住友家が「金は出すけど口は出さない」象徴のような存在で、経営陣は事業に全集中できました。一方の三井では、経営陣が三井家との付き合い方に大きなエネルギーを割く必要があったという分析もあるそうです。
最後の要素はビジョンです。住友政友は僧侶で、深井さんによれば「儲けようぜ」ではなく「世の中のためになることをせなね」という考え方でした。住友は経営理念を初期から明示し、ブラッシュアップもしてきたといいます。
住友が成功した5つの理由と、後編の財閥解体へ
終盤、樋口さんの呼びかけで、深井さんは住友の事例から導いた成功の理由を5つにまとめます。深井さんは、最初の3つはすべて優秀な人材が出てくることにつながっていると話します。
2つ目の理由について、深井さんは始皇帝を例に挙げます。始皇帝は中国を統一したものの、始皇帝自身が原因で国が滅んでいます。1人が権力を独占しないことが大事で、ローマ帝国とも共通すると話しました。
前編は、明治維新期の財閥の話でいったん区切られます。後編では、財閥解体に至るまでの経緯と、解体後にどう乗り越えたのかが語られる予定です。
まとめ
財閥は単なるお金持ちではなく、同族支配と多角経営を兼ね備え、明治日本の近代化を担った存在でした。住友や三井が幕末維新を越えられたのは、広瀬宰平や三野村利左衛門のような人物の力に加え、有事に尖った人材を生み、機能させる組織の土壌があったからだと語られています。
- 財閥は「同族支配下にある独占的地位を持つ多角的事業経営」と定義でき、明治期に近代化を担える数少ないプレイヤーだった
- 住友は銅の精錬技術、三井は店先での現金販売という革新で、江戸時代に大きくなった
- 明治維新で住友は別子銅山を差し押さえられ、三井は御用金で窮地に陥ったが、広瀬宰平や三野村利左衛門が危機を救った
- 深井さんは、有事にスーパースターを生めるかどうかを組織の力と捉え、心理的安全性や所有と経営の分離、ビジョンの継承を住友の強みに挙げた
- 後編では、財閥解体の経緯と、その後の乗り越え方が語られる





