中国史でただ一人の女性皇帝、武則天とは何者か?
新シリーズの主人公は、則天武后とも呼ばれる武則天です。深井さんによれば、武則天は唐の第3代皇帝・高宗の皇后でしたが、高宗が比較的早く亡くなったあと、皇帝となった息子に位を返上させ、多くの反対を押し切って自ら皇帝の位に就いた人物です。
樋口さんは武則天の名前をまったく聞いたことがなかったそうで、楊さんは「世界史をやっていたら1行だけ出てくるかもしれない」と話します。日本ではそれほど知られていない人物ですが、中国史のなかでは特別な存在です。
中国って一応ちゃんと男尊女卑なんで、性の歴史でもやったと思いますけど、女性が皇帝になるって空前絶後なんですよ。
ありえないんです。ありえないことを成し遂げた人ですね。
深井さんは、中国にも皇后の立場で権力を振るった女性はいたと補足します。夫が早く亡くなった場合や、皇帝である息子が幼かった場合です。それでも、正式に皇帝の位に就いた女性は武則天だけでした。
権力を握った女性の例として、深井さんは漢の高祖・劉邦 ── 秦の滅亡後に漢王朝を開いた初代皇帝。農民出身で、番組では「ただのゴロツキだった」とも紹介されていますの妻である呂后(呂雉)と、写真も残っている清王朝の西太后を挙げます。こうした女性たちは残酷だと言われがちで、武則天は「その筆頭」のような存在だそうです。
ただし、深井さんによれば武則天の治世自体は悪くありませんでした。後世の歴史書では評価が二分され、批判的なものが多いものの、一部の南宋時代の本では褒められているといいます。息子や娘、親族を多く殺したことが残忍とされていますが、男性の皇帝も権力闘争の相手として親族を殺すことは珍しくなかった、というのが深井さんの見方です。
楊さんも、武則天は後世に恣意的な評価をつけられた人物だと指摘します。近年はファン・ビンビンさん主演のドラマにもなっているそうです。深井さんと楊さんは、武則天のありえなさをたどることは、そのまま中国社会のシステムを理解することにつながる、と話しています。
夏から唐まで、武則天にたどり着くには何百年さかのぼる?
深井さんはまず、中国王朝の大きな流れを整理します。夏、殷(商)、周、秦、前漢、後漢、三国時代と続き、その後は統一されない混乱期である魏晋南北朝時代に入ります。そこから久しぶりに統一王朝の隋が現れ、その次が唐です。
深井さんによれば、社会システムとしては「秦と漢」「隋と唐」をそれぞれセットで覚えてよいそうです。秦漢は中国を初めてまとめ上げたシステムで、それが後漢末期に制度疲労を起こして崩れ、魏晋南北朝の混乱を経て、新しいシステムとしての隋唐が登場します。
この新たなシステムとしての隋唐世代にならない限り、武則天という女性皇帝は出てこれなかったんです。
時代が変わった理由について、深井さんは技術の進歩よりも社会的な変動のほうが大きいと話します。この回からのシリーズでは、秦漢と隋唐を対比しながら、その変動を伝えていく構成です。
楊さんは、武則天が活躍した7世紀後半から8世紀初頭の世界も紹介します。日本では大化の改新を経て、天智天皇から天武天皇の時代に律令制 ── 律(刑法)と令(行政法)に基づいて国家を運営する仕組み。中国の制度をもとに、日本でも7〜8世紀に整えられましたを取り入れていた時期です。ヨーロッパではフランク王国がイスラム勢力と戦い、中東では巨大なイスラム帝国が成長していました。
深井さんによれば、唐と武則天の時代背景を理解するには、秦まで約800年さかのぼる必要があります。武則天本人が登場するのは6話目くらいになる見込みで、深井さんは「その頃には、なぜ武則天が出てきたのかがよくわかっているはず」と話しています。
雨の少ない華北が、なぜ統一権力を生んだのか?
深井さんによれば、中国の統一王朝は華北という地域にしか現れなかったといいます。楊さんは、広い中国に小国が乱立せず統一権力が生まれた理由を、華北の土地の特徴から説明する説を紹介します。
楊さんの説明では、華北は雨が少ないのに、雨に頼った農業しかできない土地です。そのため、人の力で水を引く灌漑が必要になり、灌漑を担う集団が生まれました。古代の中国では、この集団を血縁でつくり、氏族と呼ばれるまとまりになります。
雨に頼る農業では、豊作の土地と飢饉の土地が出てきます。楊さんによれば、広い範囲を支配していたほうがそのバランスを取れるため、氏族をまとめて大きな国をつくる動機が生まれました。さらに華北は木が少なく、人が移動しやすかったことも統一を後押ししたそうです。
深井さんはこの点を「デカい」と受け、山がちなドイツや日本はなかなか統一されないと比べます。楊さんも、今後の回で登場する揚子江流域の江南地域は木が多く移動しにくかったため、統一王朝ができなかったのではないかと言われている、と補足します。
雨の少ない土地
雨に頼る農業しかできず、灌漑が必要になる
灌漑の集団
大勢で協力する必要があり、信頼しやすい血縁でまとまる
氏族の国
力のある氏族が王家、ほかの氏族が貴族になる
封建制
王家が貴族の氏族に土地を分け与え、世襲させる
深井さんは、血縁でまとまる理由を「血がつながっている人が一番信頼しやすかったから」と説明します。楊さんも、血縁は信頼づくりやコミュニケーションのコストが最も低い概念だったと付け加えます。こうして、同じ苗字の人たちを大切にする社会が成立しました。
深井さんによれば、氏族単位でまとまった人たちが争い、強い氏族が王家となります。王家がほかの貴族の氏族に「この土地はあなたの氏族にあげます」と土地を分け与えた状態が、封建制 ── 君主が臣下に土地を与えて支配を任せ、その代わりに忠誠や軍事的な奉仕を受ける仕組み。周王朝の体制がその代表例とされますです。
土地を世襲させない中央集権は、なぜ「めちゃくちゃむずい」のか?
深井さんによれば、中国は封建制から中央集権制に変わっていきます。秦の始皇帝の中央集権は、氏族に土地を世襲させず、中央から人を派遣して何年間か治めさせる仕組みです。
深井さんは、この中央集権が「めちゃくちゃむずい」と強調します。国をつくるときには多くの人の力を借りるのに、その人たちを偉い立場に置かず、君主だけが偉いと言い切って国を成り立たせなければならないからです。
会社作った時もそうでしょ?3人ぐらいで会社作ってさ、全員取締役で頑張ったのに、みんなそれぞれリスクを課してちゃんと苦労もしたのに、社長以外の人全員偉くありませんみたいな。
もう全員一緒であなた方派遣されてるだけなんですみたいなこと言えないじゃないですか。
それでも秦が中央集権を実現できた理由を、深井さんは秦の立地から説明します。秦は文化の中心である華北ではなく、西の外れにありました。伝統文化をあまり受け継いでおらず、中央に追いつかなければ滅ぼされるという強い危機感があったため、実力主義に傾きやすかったといいます。
さらに秦の西には、漫画『キングダム』の楊端和 ── 漫画『キングダム』に登場する山の民の女王。作中では秦の西方に住む山岳民族を率い、秦の主人公たちと手を組みますのような山岳民族がいました。深井さんによれば、内紛をしている暇がなかった秦は、まとまりやすかったそうです。樋口さんはこれを「大企業とベンチャーみたい」とたとえます。
秦は法家の思想家・商鞅 ── 戦国時代の秦で改革を進めた政治家。法による厳格な統治を導入し、秦が強国になる基礎を築いたとされますを採用し、君主以外のすべての貴族を法律で管理する体制をつくりました。深井さんは、統一前から秦だけが事実上の皇帝体制を築いていたと説明します。
ほかの国は、貴族が「自分の家にメリットがない」と言えば戦に動かせません。深井さんによれば、秦は国にとってメリットがあれば命令ひとつで人を動かせたため、強かったといいます。楊さんはこれを「ルールベースをつくってしまった」と表現しています。
完璧な秦が滅び、欠陥を抱えた漢が400年続いたのはなぜか?
深井さんによれば、強い秦は他国を滅ぼし、自分のシステムを征服した土地にも広げようとしました。しかし、それが秦の滅亡につながります。
楊さんの説明では、それまでの王国では貴族が自分の土地を治め、功績を上げれば土地をもらって子孫に伝えるのが普通でした。秦はそれを認めず、土地はすべて皇帝のもので、貴族は官僚として派遣するだけにしたため、滅ぼされた国の人たちは反発します。
深井さんによれば、秦のシステムは圧倒的に優秀でしたが、古くからの文化の中心である中華には浸透させられず、秦は2代で滅びました。深井さんは、成長して状況が変わったことで滅ぶ点は、大企業になって滅ぶ企業と似ているかもしれないと話します。
秦のあとに漢帝国をつくったのが劉邦です。秦への反発を集めて出てきた漢は、同じシステムを使えません。そこで漢は、一部の貴族を残しつつ基本は官僚制で治める郡国制というハイブリッド版を採用しました。
貴族に土地を世襲させず、すべて中央から官僚を派遣する。システムとしては優れていたが反発を受け、2代で滅んだ
一部の貴族を残し、基本は官僚制で治めるハイブリッド。内乱の火種を抱えながらも400年続いた
深井さんは、漢の郡国制は明らかに脆弱性を抱えていたと指摘します。貴族がいれば皇帝と権力がぶつかって内乱が起きやすく、皇帝制のほうが強いことも分かっていたからです。楊さんによれば、漢は内乱が起きると分かったうえでこの体制を選び、実際に内乱と付き合いながら続いた王朝でした。
欠陥がわかって分かりながらも、でももうOSをリリースしないといけなかったっていう。バグあるけど。
深井さんは、完璧なシステムより、動かせるシステムが長く続くという対比を「社会勉強になる」と話します。秦のシステムは完璧でも動かせず、漢のシステムは欠陥があっても動かせたため長く続いた、という見方です。樋口さんも、社内システムでも「完璧なことを言われても現場は運用できない」ということはありそうだと応じています。
儒教の浸透が、皇帝制を崩していったのはなぜか?
深井さんによれば、漢の時代に中国で起きた大きな変化は、儒教が社会に実装されていったことです。漢は儒教を国の基本的な考え方として採用しました。
深井さんは、漢王朝のOSは法家と儒家の2つだったと説明します。秦は法家の思想だけで、ルールと罰で人を縛ってコントロールしていました。儒教はそこに、尊敬心や「こういう人間を目指そう」というビジョンを持ち込みます。
儒教で立派な人間とされる人物を君子 ── 儒教で理想とされる、徳と教養を備えた立派な人物のこと。孔子の教えでは、為政者が目指すべき姿とされましたと呼びます。漢では、その概念を体現した人を官僚の上位に据えれば国がよく治まると考えました。深井さんによれば、法家と儒家のハイブリッドはかなりうまく機能したそうです。
ところが、儒教のもう一つの重要な概念であるヒエラルキーが、皇帝制を揺るがします。漢の皇帝が目指したのは「皇帝とそれ以外」という単純な上下関係でした。しかし儒教の教育者が地方まで広まった結果、ヒエラルキーが入れ子構造としてあらゆる場所で生まれてしまいます。
樋口さんはこれを、主任が平社員をまとめ、課長がそれをまとめ、さらに部長がいるようなフラクタル構造だとたとえます。深井さんによれば、中間層が力をつけると皇帝に挑めるようになるため、皇帝制は崩れていきました。
深井さんは、仕組みの面からも説明します。漢は中央から行政官を地方に派遣するため、儒教の教養を身につけた人を行政官として育て、地方から推薦させる制度をつくりました。すると推薦する側の人も儒教の教養を持ち、地方で偉くなっていきます。深井さんによれば、諸葛亮の家系もこうした地方の豪族から出てきたそうです。
設計と実態がずれ続ける、中国史の肝とは?
深井さんは、儒教の浸透によって地方の有力者が生まれた流れこそが「中国史の肝」だと話します。皇帝が想定したシステムと、実際に動いた実態と、その結末が、時間とともにそれぞれ別々に変わっていくというのです。
設計思想と実際の駆動と結末が全部別々なんですよ。わかりますかね。
全員思った通りになってないんです。けど400年続いてるんですよ。これどう解釈するか。
深井さんによれば、中国の中央集権体制は固定化された制度ではなく、生き物のように移り変わっています。その時々で切り取ると違う姿をしているのに、まとめて皇帝制と呼ぶため、捉えるのが難しいそうです。
僕たちって中央集権の皇帝体制って聞くと、本当に固定化された制度のように感覚として捉えるんですけど、これ生き物のようにずっと移り変わってる感じなんです。
皇帝が絶対権力を持っていたというイメージについても、会話のなかで否定されます。貴族とのせめぎ合いで皇帝の権力が弱い時期や、傀儡同然の時期もあったそうです。深井さんは、皇帝の発言力をシステムとして制限する仕組みが用意されていた時代もあったと補足します。
深井さんは改めて、皇帝制で最も大切なのは地方に偉い人を出さないことだと強調します。それなのに地方の有力者が現れた理由は、皇帝制を動かすエンジンである儒教が浸透したからでした。
だって成功したじゃん、儒教の浸透。それでうまくいってるじゃん。だけど、それでうまくいかなくなるじゃん。じゃあどうすればいいんだ?
深井さんは、これは中国に限らない話だと続けます。同じ時期のローマ帝国でも、漢帝国と似たようなことが起きていたそうです。
外戚、宦官、官僚の三つ巴はどう生まれたのか
深井さんによれば、本来は世襲しないはずの官僚も、やがて「この家から大体官僚が出る」という形で家柄が固定されていきます。有名な例として楊家を挙げた深井さんに、楊さんが「そうですね」と自分の先祖のように乗っかり、深井さんが「そうですねじゃない」と突っ込む場面もありました。
家柄が固定された官僚は、皇帝と姻戚関係を結び、娘を皇后として送り込みます。すると皇后の親戚が外戚 ── 皇帝の母方や皇后の親族のこと。中国の王朝では、外戚が皇帝に代わって実権を握ることがたびたびありましたとして権力を振るい、皇帝を牛耳るようになります。
牛耳られたくない皇帝は、自分の勢力として宦官 ── 去勢された男性の召使い。皇帝の身の回りに仕え、皇帝の信頼を得て政治的な権力を持つこともありましたを使います。深井さんによれば、宦官は皇帝のためにしか基本的に動かない存在です。こうして皇帝、宦官、外戚、官僚が激しく争うのが漢王朝でした。
いやめんどくせぇ。ダリいマジで。
どの立場に就きたいかと深井さんに聞かれた樋口さんは「皇帝。すげえ強そう」と答え、深井さんは「僕だったら日本に逃げてきます」と返しています。深井さんによれば、外戚と宦官は勢力を広げるため、地方からの推薦制度を自分たちに有利なように使っていきました。
政府に入らない「清流派」と党錮の禁
楊さんは、宦官と外戚の権力闘争が官僚の世界にもたらした変化を説明します。儒教では子孫を残すことが大事とされるため、子どもを残せない宦官は劣った存在と見られました。そのため、能力はあっても宦官の下にはつかず、あえて政府に入らない儒者たちが現れます。
こうした儒者たちは清流派と呼ばれました。楊さんによれば、清流派は互いを格付けし合い、シャドーキャビネット ── 野党が政権交代に備えてあらかじめ用意しておく「影の内閣」。イギリスの議会政治で発達した仕組みですのような組織をつくっていったそうです。
イギリスみたいに二大政党制を作ってると、与党が変わった瞬間にすぐ政権作れるようにあらかじめ内閣作っておくんですよ。
楊さんによれば、外戚は清流派を政府に入れて宦官勢力に対抗しようとしました。すると宦官勢力が清流派の儒者たちを大量に殺害します。これが後漢末期の党錮の禁 ── 後漢末期に宦官勢力が清流派の官僚や儒者を弾圧した事件。多くの人材が処罰・殺害され、後漢の衰退を早めたとされますで、深井さんによれば世界史の教科書にも出てくる出来事です。楊さんは、これにより漢帝国が力を失っていったと説明しています。
寒冷化から三国志へ、全員の最適解が王朝を滅ぼす無常感
深井さんによれば、漢が混乱していたところに、地球の気温が下がって北方民族が南下してきます。樋口さんは「気温も影響するんですか」と驚いています。
深井さんは、そこから三国志の始まりまでの流れを続けて説明します。党錮の禁で優秀な官僚がいなくなっていたことが、反乱を鎮められなかった理由とされています。
党錮の禁
宦官勢力が清流派を殺し、優秀な官僚がいなくなる
寒冷化
気温が下がり、北方民族が南下してくる
飢饉と新興宗教
荒らされた農民の間で新興宗教が広まり、教祖の張角が現れる
反乱と董卓
反乱を鎮められない漢を董卓が乗っ取り、三国志の時代が始まる
楊さんは、その時々の人たちは他に取りようがないほど良い判断をしていたと振り返ります。外戚に乗っ取られそうなら宦官を連れてくるのは、その時点では正しい判断でした。それが王朝を滅ぼすとは誰も思わなかった、というのが楊さんの見方です。
これ、その時その時ではもう他に取りようがないほどいい挙動をしてると思うんですよね。
深井さんは、後漢でも良い治世を実現した皇后がいたものの、その皇后の登場によって宦官勢力が力をつけるなど、さまざまなことが連鎖したと話します。両皇后と呼ばれたこの皇后は、まさに皇后が権力を握った例だといいます。
深井さんによれば、この無常感は漢だけのものではなく、西のローマも同じでした。その時々の人たちは国を思って適切に判断しているのに、それが滅びる遠因につながっていくといいます。
深井さんによれば、漢の時代の日本にはまだ卑弥呼もおらず、卑弥呼が登場するのはこの後の魏の時代です。第1回はようやく漢が滅びたところで終わり、次回からは漢のあとの大混乱時代へ話が進みます。
まとめ
武則天編の第1回は、武則天本人ではなく、彼女が登場する唐の前提となる秦漢の統治システムを扱いました。秦は完璧な中央集権を目指して2代で滅び、漢は欠陥を承知のハイブリッドで400年続きましたが、皇帝制を支えた儒教の浸透が地方の有力者や外戚・宦官の争いを生み、最後は崩れていきます。
- 武則天は唐の高宗の皇后から自ら皇帝となった、中国史で唯一の女性皇帝
- 華北の灌漑農業が氏族を生み、氏族の集まりから封建制が成立した
- 秦の郡県制は優れていても反発で滅び、漢の郡国制は欠陥を抱えながら長く続いた
- 皇帝制を動かした儒教の浸透が、地方の中間層や外戚・宦官・官僚の争いを生んだ
- その時々の最適解が王朝を滅ぼす無常感こそが、この回で語られた中国史の面白さ


