本を読んでもわからない?宗教の独学が難しい理由
この回は樋口さん不在の番外編です。深井さんと楊さんは九州大学文学部の出身で、研究室も隣同士だったことから、2人は「ノーダイバーシティ」「村以下のコミュニティ」と笑い合いながら話し始めます。
話題の起点は、COTENの歴史調査チーム「ディオゲネス」が始めたキリスト教の勉強会です。任意参加の土曜の朝の勉強会で、福利厚生の一環として、アメリカ在住で神学を専攻する先生から習っているといいます。
まだ全然ちょっとだけだけど、日本で発売されてる本読んでてもわかんねえやついっぱいあったな。
楊さんは、先生がアメリカの神学で知られる大学でしっかり学んだクリスチャンである点を挙げます。日本のノンクリスチャンが書いた本とは、同じキリスト教の話でも中身が少し違うと感じているようです。
深井さんは、仏教についても僧侶から学んでいると明かし、宗教全般について独学が難しい領域だと強く感じていると話します。
深井さんによれば、仏教は日本にいれば、実践もしながら論理体系としても理解している僧侶を探すことができます。一方でキリスト教とイスラムは、日本で学ぶのがとても難しいと以前から感じていたそうです。
(教会で話を聞いても)要領を得なかったりするんだよね、やっぱり。ちゃんと説明できる人っていないじゃん、なかなか。
深井さんが求めていたのは、仏教哲学で言われていることがキリスト教ではどう解釈されるのかといった問いを、信仰を体感しつつ言語化できる人と対話しながら理解していくスタイルです。そうした学び方ができる相手は少なかったといいます。
Twitterでそんな話をしていたところ、リスナーでもある先生のほうから声をかけてくれて、勉強会が始まりました。先生はプロテスタントのクリスチャンで、牧師ではなく学者の道を歩む可能性がある方だそうです。
教会ではない出版社から出た、フラットな立場の入門書。まずここから読むが、内容が信者の話と違うことがある
信仰を体感しながら論理的にも語れる人との対話。本では届かなかった内容に触れられる
旧約聖書『雅歌』の講義で感じた「確信」とは
楊さんは、大学時代にギリシャ語を教わった先生もクリスチャンだった経験を語ります。先生は普通に話しているのに、ある部分については揺るがない確信を持っていたといいます。
楊さんがその先生のゼミで読んだのが『雅歌講話』です。雅歌 ── 旧約聖書に収められた恋愛詩の書。男女の愛を官能的に歌う内容で、古くから神と人、キリストと教会の関係の比喩として解釈されてきましたは旧約聖書の中の詩で、少し官能的な恋歌のような内容です。
普通に読めば当時の民謡や恋歌を収めたものに見えますが、聖書に入っている以上は神学的な意味があるはずだとして読まれてきました。その雅歌を初期キリスト教の教父 ── 初期キリスト教の時代に教義の形成に大きな役割を果たした神学者たち。英語ではChurch Fathersと呼ばれますが論じた本が『雅歌講話』です。
普通に読むと、薄絹のベールを一枚一枚剥いでとか書いてあるわけ。みたいなのを、その教父の人は、これは神の真理っていうものに一つ一つ近づいていく様をみたいなこと書いてるわけ。
楊さん自身には、この解釈はこじつけのように思えたといいます。ところが、学生2人と先生だけのゼミで聞いた先生の解説は、疑いのない確信に満ちた声だったそうです。
それは神の真理について書かれているんだっていう感じで、それを僕たちみたいな見方があることは重々承知しつつも、それでもやっぱりあるんだみたいな。
楊さんは、そうした確信は本の文字ではなく、先生の居ずまいや話す調子からでないと伝わってこないものだったと振り返ります。
知った上で選んだ人に聞かなければわからない
深井さんは楊さんの話に強く共感します。仏教については、日本では届きやすいため「頭のいい人こそハマる」理由がなんとなくわかるところまで来られたといいます。
一方で深井さんは、キリスト教やイスラムにも同じ深さがあるはずだと考えています。世界トップクラスの大学で教授を務める科学者でありながら、熱心なクリスチャンという人がいるからです。
どういう感覚なんだろうと思うわけよね。それをさ、本人に聞けないじゃん。
深井さんは、別のポッドキャストASCOPEで話を聞いた橋爪大三郎 ── 社会学者。宗教社会学の分野で知られ、キリスト教や仏教、イスラムなど世界の宗教について一般向けの著作を多く出していますさんの例を挙げます。仏教にもキリスト教にもイスラムにも深井さんより詳しい状態で、本人はキリスト教を選んでいるといいます。
2人の話は、知らないから信じているのではなく、複数の論理体系を把握し、比較を経たうえで選んでいる人から聞かなければ、信仰の感覚はわからないという点に行き着きます。座学と、そうした人から教わる講義の両方が大切だという整理です。
クリスチャンが1%に満たない日本の特殊さ
宗教は人間を理解しようとするときに避けて通れないジャンルでありながら、日本は宗教の面でとても特殊な位置にあると2人は話します。そこで生まれ育つと、他の宗教が理解しづらくなるという問題意識です。
日本ではキリスト教が入ってきてから、クリスチャンの人口が歴史的に1パーセントを超えたことがないのではないか、という話が出ます。近代化は早かったのにキリスト教は浸透せず、中国や韓国は意外にクリスチャン人口が多いという対比も語られます。
楊さんは、キューバで教会の運営者や信者と話した経験を紹介します。キリスト教がベースの国なので、教会に行くことは生活の延長線上にあるといいます。
(キューバでは教会が)僕たちがある意味でカウンセリングに行くとか、歯医者に行くみたいな感じで。
日本では息子との関係に悩んでも、教会やお寺に行こうとする人はあまりおらず、カウンセリングや弁護士に向かうだろうと楊さんは話します。ただ、キューバで信仰とは何かを尋ねても、当たり前すぎて言葉でははっきり返ってこなかったそうです。
教会が生活の延長線上にあり、カウンセリングや歯医者に行くような感覚で訪れる
教会やお寺よりも、カウンセリングや弁護士に相談しに行く
深井さんは、言語的な理解には限界があり、特に信仰は言語で表現してもしかたがない面があると続けます。信仰している人からすれば、言葉で説明を聞いて「そうなんですね」と答えるだけの反応は、何もわかっていない人の反応にすぎないというわけです。
仏教もいいなって思ってるけど、やっぱそれは仏教哲学として実験していってる感じなんだよね。
深井さんによれば、僧侶の話を聞いていると、仏教には言語を超えた体得の領域があり、修行しないとそれ以上わからない部分があるといいます。人間は論理で理解するものが全てではない、ということ自体は論理的にもわかると深井さんは話します。
いくつもの宗教を同時に学ぶのは邪道か
楊さんは、最近スコラ哲学 ── 中世ヨーロッパで発展した、キリスト教神学をギリシャ哲学、とくにアリストテレスの論理を用いて体系化しようとした学問を学ぶなかで、中世のキリスト教にも同じ構図があると気づいたといいます。
ギリシャ哲学
キリスト教神学の下敷きになる
神学の発達
ギリシャ哲学をもとに神学が徹底的に考え抜かれる
問いの行き着く先
どうすれば神に出会い、理解できるのか
苦行・瞑想へ
神秘体験や苦行が大切にされていく
深井さんは、自分が今いくつもの宗教を同時に学ぼうとしていることを「邪道かもしれない」と断りつつ、それが一番いい気がすると話します。世界の三大宗教は、非常に頭のいい人も含めた無数の人々の信仰に耐えてきたのだから、どれもすごいはずだという考えです。
全部が多分めっちゃすごいはずだから、やっぱ全部勉強した方がいいんじゃないかなってすごい思う。
深井さんは、それぞれの宗教に良さを見出す人は世界にもいて、自分もそのタイプだと感じています。実家は浄土真宗ですが、南無阿弥陀仏もろくに唱えたことがないそうです。そのうえで、若い頃は宗教を科学より劣ったものとしてバカにしていたと振り返ります。
楊さんは、2人の世代は物心ついた頃にオウム真理教事件 ── 新興宗教団体オウム真理教が起こした一連の事件。1995年の地下鉄サリン事件で多数の死傷者が出て、日本社会の宗教への警戒感を強めましたがあり、宗教は人を惑わす非科学的なものだという空気の中で育ったと話します。
楊さんは大学時代、講義に来た宗教ジャーナリストらしき先生と屋台でラーメンを食べながら、自分たちの世代にとって宗教はそういうものだと話しました。そのときの返答が今も心に残っているそうです。
深井さんも、今なら宗教を科学と対立させる理解は貧しいとわかると応じます。科学や啓蒙主義も素晴らしいものの、宗教は同じかそれ以上すごいと感じており、2人は両者を対立するものとして捉える必要はないと話します。
若い頃は、宗教を科学より劣ったものとしてバカにしていた
宗教を科学と対立させる理解は貧しいと感じ、それぞれの宗教の奥深さをもっと学びたいと考えている
深井さんによれば、キリスト教は勉強会で少しずつ垣間見ていて、全く想像もしなかった領域だったといいます。一方でその内容は、又聞きした2人が番組で話していいものではないとも感じたそうです。楊さんは、信仰の土台ができた人にしか伝えられないのは、誤った理解を防ぐためでもあるかもしれないと話します。
聖書は文学的?てっぺんの見えない山のたとえ
楊さんが「イエスはロジカルだったのか」と尋ねると、深井さんは仏教のような論理体系とは毛色が違うと答えます。深井さんの印象では、聖書の構造そのものはとても精緻だといいます。
仏教の言い方に比べると、なんかそのレトリックっていうか、文学的表現ですね。その対表現みたいなとか、繰り返しの表現みたいなのが出てきて。
なぜ繰り返されているのか、なぜ対になっているのかを読み解けないと、聖書の本当の意味はわからないというのが深井さんの受け止めです。2人はこれを、よくできたハイコンテクストなテキストと表現しています。
深井さんは4、5回ほどの講義を受けただけの段階で、自分が何もわかっていないことがわかってきたのが嬉しいと語ります。
楊さんは、遠くからだと山全体が見えて登れそうに思えるが、登り始めるととんでもないとわかる、とこのたとえを広げます。深井さんも、何十億人もの人がその体系の中で考えてきたことを、30代の自分がどうにかできるものではないと応じます。
しかも同時に(いくつもの)山を登ろうとしてるんですよ。
深井さんは、少し登ってはすぐ降りて別の山に行くのは本来一番やってはいけないことだろうと笑います。50歳ぐらいになったらどれかの宗教に入るかもしれないし、一生入らないかもしれないとしつつ、知ることそのものがとても大事だと話します。
寺やマスジドに足を運んでみたら
深井さんは、日本では宗教が忌避されがちだからこそ、寺、神社、教会、マスジド ── イスラム教の礼拝所。日本ではモスクと呼ばれることが多く、見学者を受け入れているところもあります、シナゴーグなどに実際に行ってみるとよいと勧めます。
2人は福岡のマスジドを訪れたことがあり、そこではインドネシアのムスリムの方が多かったそうです。深井さんはいろいろ質問したものの、相手からは苦笑いされたといいます。
多分質問が向こうからしたら、あ、こいつほんとわかってないなみたいな質問したんだろうね。めっちゃ苦笑いされた。
楊さんがマスジドは親切に受け入れてくれる印象だと話すと、深井さんは「結構どころかめちゃくちゃ親切」と応じます。香港のモスクでも作法を一通り案内して礼拝の場所まで連れて行ってくれたそうですが、中国語が話せず質問はできなかったといいます。
楊さんは、マスジドを訪れた際に食事を振る舞ってもらった記憶を語ります。深井さんは、非ムスリムを招くイベントだったのだろうと話しています。
非信者が宗教を語っていいのか
楊さんが、COTENの中でいろいろな宗教の講義を受けられたら面白いと言うと、深井さんは、実はすでに仏教とキリスト教を学べる状態になっていると答えます。仕事で勉強し、福利厚生で宗教を学ぶ状況に、2人は「よく考えたらやばい」と笑います。
深井さんは、コテンラジオのバリエーションの1つとして宗教も面白いと考えつつ、物議を醸すだろうとも話します。非信者である2人が語るより、信者を招いて自分たちは聞く側に回るべきだという考えです。
あの世界三大宗教で、あのちょろっとやったじゃん。であれは、そのそれぞれの信者の人からしたらね、「何言ってんのお前」っていう内容だと思うんだよ、実際。
深井さんによれば、以前の世界三大宗教の回は、日本で出ている代表的な本を読んでまとめた段階で、まだ深淵を覗いていなかったといいます。本編でキリスト教を扱う可能性はありつつも、非キリスト教徒がポッドキャストでキリスト教を伝えてよいのかという問いは残ると話します。
それでも深井さんは、宗教は慎重さを要する一方で、世界理解にとても役立つと考えています。聖書をきちんと知っていれば、西洋文化の中で起きるあらゆることの解像度が上がるはずだといいます。
映画、文学、あらゆることが、あ、これ聖書のアナロジーなんだとか、聖書のそのなんか模倣をしてるんだとか、あ、この考え方から出てきてるんだとか、いうのが(わかっていく)。
最後に楊さんは、アニミズムまで含めれば宗教は人類の歴史と同じぐらい長いと話し、この回は締めくくられます。
まとめ
キリスト教の勉強会をきっかけに、2人は宗教を本だけで学ぶ限界と、信仰者の確信に触れることの大切さを語りました。宗教を科学と対立させて退けるのではなく、その奥深さを知ることが、人間や世界を理解する手がかりになるという視点が示された回です。
- 宗教は独学が難しく、比較を経たうえで信仰を選んだ人から学ぶことで見えてくるものがある
- 信仰の「確信」は、文字よりも信仰者の居ずまいや声の調子から伝わってくる
- クリスチャンが少なくオウム事件後に育った日本の世代は、宗教を見えにくく、貧しく捉えがちかもしれない
- 聖書は文学的で精緻なテキストであり、知っていれば西洋の映画や文学の解像度が上がる
- 非信者が宗教を語ることには慎重さが必要で、信者を招いて聞く形が望ましいと考えられている




