「選ばれし者」ムスタファとはどんな名前?
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ケマル・アタテュルク編は、第6回にしてようやく本題に入ります。冒頭では、トルコ共和国とトルコ国民は一人の英雄だけで作られたわけではないものの、ケマルが果たした役割は大きく、その形成過程を学ぶ意味は大きいと説明されます。
ケマル・アタテュルクの本名はムスタファ・ケマルです。「アタテュルク」は後に名字になった尊称で、「ケマル」も本来は名字ではありません。
元の名前であるムスタファはアラビア語の男性名で、「選ばれし者」を意味し、預言者ムハンマド ── 7世紀にイスラームを開いた人物。ムスリムにとって最後の預言者とされ、その別名や呼び名は子どもの名前としてよく使われますの別名でもあります。あやかって名付ける人が多く、ムスタファという人物はたくさんいたそうです。
いっぱい選んでるんですね。
テッサロニキはなぜ多民族都市になったのか
ケマルを理解するうえで、生まれた場所が非常に重要だと樋口さんは強調します。ケマルの出身地テッサロニキ ── サロニカとも呼ばれる、バルカン半島側の港湾都市。古代ギリシャ時代から続く古い都市で、現在はギリシャ第2の都市ですは、当時はオスマン帝国領でしたが、今はギリシャの一都市です。
テッサロニキは、メフメト2世の父ムラト2世の代にオスマン帝国に征服されました。このとき3日間の略奪があり、生き残ったのはわずか2000人ほどだったといわれます。
2000人ほどになったテッサロニキに、オスマン帝国領になったことで、トルコ系の遊牧民が1000人加わりました。住民の3分の1がいきなりトルコ系になったわけで、成り立ちからして多民族的な都市だったと説明されます。
さらに15世紀末には、スペインとポルトガルから追放されたユダヤ教徒が何千人もオスマン領に押し寄せました。オスマンの統治者は、そのユダヤ教徒たちをテッサロニキに定住させます。もともと東欧系ユダヤ人のコミュニティがあったことも背景にあるようです。
上の年表のように、テッサロニキでは段階的に異なる集団が加わっていきました。深井さんが「結構ぐちゃぐちゃ」と表現すると、楊睿之さんは、今風に言えばグローバルで多様な価値観や生き方が共存する風景だと言い換えています。
隠れユダヤ「ディョンメ」が近代化の先駆けになった理由
テッサロニキのユダヤ教徒の中には、イスラームに改宗する人もいました。1666年、サバタイ・ツヴィという人物が処刑を免れるために改宗し、そのカリスマ性に引かれた人々が続いて改宗したといいます。
サバタイ・ツヴィに続いた人々は、ユダヤ教の儀礼を秘密裏に続けていたとされ、心からムスリムになったかは微妙な存在でした。この「隠れユダヤ」のような人々はディョンメと呼ばれます。
ディョンメは基本的にテッサロニキにしかおらず、ユダヤ教徒からもムスリムからも軽蔑されていました。ところが、どこにも属さず浮いている存在だったからこそ、近代化の局面で新しいことにすぐ飛びつけたのだと樋口さんは説明します。
ディョンメは新しい教育機関を次々と作り、テッサロニキ全体が新しい教育を受けられる空間になっていきます。ケマルも後にディョンメの学校に入り、批判的な思考法などを学ぶことになります。
(ディョンメの存在が)ケマルに影響して、トルコ共和国がなんとかなるみたいなのとか、バタフライエフェクトだよね、完全に。
変な人って思われてるから変なことできるんですね。
深井さんはこの構図を「美しい」と繰り返し、この話がたまらなく好きだと語っています。
宗教も民族もクロスする都市に、民族主義が届くと
19世紀末のテッサロニキには、ユダヤ教徒、ディョンメを含むムスリム、ギリシャ正教徒という3つの主要な宗教グループがあり、最も大きいのはユダヤ教徒でした。ギリシャ正教徒は1万1000人いたとされます。
テッサロニキの宗教グループは、それぞれの内部もさらに分かれていました。整理すると次のようになります。
| グループ | 内部の区分 |
|---|---|
| ユダヤ教徒 | セファルディム系、アシュケナジム系 |
| ムスリム | トルコ系、アルバニア系、ボスニア系、ロマ、ディョンメ |
| 正教徒 | ギリシャ系、ブルガリア系、ヴラフ系、アルバニア系 |
| カトリック | アルバニア系、アルメニア人、セルビア人など |
| オスマン国籍を持たない住民 | イギリス、フランス、イタリア、ロシア、スペインの人々や各国外交官 |
(テッサロニキの多様性は)ちょっと把握できないレベルですね。
宗教、民族、出身地、言語が掛け合わさり、パターンは膨大になります。そんなテッサロニキに、19世紀半ばからヨーロッパで広がった民族自決 ── 民族はそれぞれ自らの政治的なあり方を決める権利を持つという考え方。19世紀以降、多民族帝国の分裂を促す原動力になりましたの波が届くと、人々は民族単位でバラバラに主張し始めます。
なんか分からんけど、一緒のとこでみんなで生活してたのに、急に民族が。
樋口さんによれば、それまでなんとなくの違いだった境界線がはっきり意識されると、「私たちとあなたたち」の違いも強く意識されるようになります。同じ正教でもギリシャ正教からブルガリア正教が独立を求め、ギリシャ人とブルガリア人が争うこともありました。
樋口さんは、民族という概念そのものも、先祖や歴史の物語を共有しようとする中で生まれた想像上のものだと指摘します。価値がないわけではないものの、そういう性質だからこそ細かく分かれていくのだと説明されています。
「エリート中のエリート、俺ら」という街の感覚
テッサロニキは民族主義運動の最前線であると同時に、ヨーロッパに近いこともあって近代化が進んだ都市でした。末期のオスマン帝国では、ヨーロッパのマナー、規範、言語、科学を身につけることがエリートの嗜みとされていました。
テッサロニキの人々は、その嗜みをどの都市よりも先行して実践している「エリート中のエリート」だという自負を持っていたといいます。
ヨーロッパに一番近えからみたいな。
タンジマート ── 19世紀半ばにオスマン帝国で行われた西洋式の近代化改革。法制度や行政、教育などを整え、ムスリムと非ムスリムの平等も打ち出しましたの時代には、スルタンのアブデュルメジトが1859年ごろにテッサロニキを訪問しています。これは異例のことで、それだけ重要な都市と見られていたと考えられます。
ケマルが生まれたのは1881年ごろで、列強の資本によって街のインフラが次々と整えられていた時期でした。誕生日を祝う習慣が西洋由来だったこともあり、生年は1年前後の幅があるといいます。
オスマン帝国の銀行が最初に支店を出したのもテッサロニキで、1839年から1897年の間に人口は倍増しました。印刷所や新聞も次々に生まれ、「月」「時」「世紀」といった名前の新聞が登場します。
新聞や雑誌を通じて科学に触れて育ったテッサロニキのエリートにとって、宗教を否定し、科学を信奉するのは共通の気風でした。ケマルの科学信奉も、ケマル一人に特有のものではなかったと樋口さんは説明します。
西洋化エリートとイスラムの分断は、今のトルコにも続いている
テッサロニキではディョンメが経営する私立学校に上流ムスリム家庭の子どもたちが通い、西洋化の気風がさらに強まっていました。樋口さんがこの点を強調するのには理由があります。
オスマン帝国では、西洋化していくエリートと、ムスリムとしての自覚が強い農村部や東部アナトリアの人々が隔絶していました。この構図は現代トルコまで続いているといいます。
テッサロニキなど都市の軍人・知識層。科学を信奉し、イスラムを抑え込んでトルコ共和国を建国
農村部や内陸部の人々。政策や経済で取りこぼされ、共和国成立後に政治への影響力を強める
トルコ共和国を作ったのは、ケマルを中心とする軍人エリートたちでした。ただ、イスラムは抑え込みきれず、第二次世界大戦以降にじわじわと返り咲いてきます。
樋口さんは、現在のエルドアン政権につながるイスラムへの揺り戻しのルーツが、すでにこの時代にあると指摘します。博物館になっていたアヤソフィアがモスクに戻ったことも、揺り戻しの一例として挙げられています。
6人きょうだいで大人になれたのは2人。ケマルの家族
ケマルは、父アリー・ルザと母ズベイデの4番目の子として生まれました。母の回想から冬生まれとされていますが、それほど記録は曖昧です。
ケマルの上には3人の兄と姉がいましたが、幼児死亡率の高さから全員が幼くして亡くなりました。下の妹2人のうち成人できたのも1人だけでした。
母ズベイデはテッサロニキ近くのサルヤル村出身のトルコ系ムスリムで、当時の女性としては珍しく読み書きができました。近代化する街の中でもイスラムを大切にする人で、ケマルから見れば「古い人」に映ったかもしれないと語られます。
父方は生粋のトルコ系の家系です。祖父と父は、改革の中で政府が非ムスリムを優遇しているとして、オスマン政府に不満を持つ立場でした。祖父は政府への暴動に加わり、山奥に逃げてそのまま生涯を終えています。
父アリー・ルザは下級官吏として働いていましたが、財政難で給料が滞り、木材商人として起業します。しかしギリシャ人の山賊との仲違いで事業が傾き、父は治安を守れない政府のせいだと感じていたといいます。
アリー・ルザはついに破産し、心労から47歳で亡くなりました。このときケマルは7歳だったと説明されます。3階建ての家に召し使いや乳母もいた中流家庭の暮らしは、ここで一変します。
伝統教育か西洋教育か。両親の対立と「ポーズだけ」の入学
ケマルの教育をめぐって、両親は対立していました。母は伝統的なムスリム教育を受けさせて宗教指導者にしたいほどでしたが、父はこれからの社会で成功するには西洋的教育が必要だと考え、ディョンメの学校に入れたがっていました。
楊さんによると、西洋風かイスラム風かの衝突は当時の都市部の家庭でよくあり、ふつうは親子の世代間論争として現れていました。ケマルの家では父のほうが新しい教育を推していた点が特徴です。
改革が段階的だったため、テッサロニキやイスタンブールでは古い学校と新しい学校が併存していました。選べるからこそ家庭で論争が起きた、というわけです。
結局ケマルは、母を納得させるためにまず伝統的なイスラムの小学校に入ります。しかし数日だけ通い、コーランの章句をいくつか暗記したところで、新しい学校へ移りました。
ちなみにこのケマルの性格はもうずっと自由です。マジで人の言うこと聞かないですこの人。
ただし、6〜7歳ごろのことなので、本人の意思がどれほど反映されたかはわからず、父の意向もあったと補足されています。
田舎暮らし、先生の暴力、そして内緒の出願
父が亡くなると、家の収入は寡婦年金だけになりました。2010年の米ドル換算で月28ドル、日本円で3000円ほどで、とても暮らせる額ではありません。
母ズベイデは、故郷に近い田舎町ランガザに住む義理の叔父を頼ります。叔父はムスリムが所有する大農場で執事として働いていました。
大都市テッサロニキから田舎へ移ったことは、ケマルにとって大きな衝撃だったようです。叔父から任されたそら豆畑をカラスから守る仕事は、簡単すぎてやる気が出なかったといいます。
母は息子の教育が中断したことを悩み、ケマルだけをテッサロニキの別の親戚の家に送り返して、再び西洋風の小学校に通わせました。
ところがその学校で、生徒同士の喧嘩に関わったケマルを先生が激しく殴り、血が流れるほどだったといいます。屈辱を感じたケマルは、二度とその学校に行きませんでした。
13歳ごろ、ケマルは母の反対を押し切り、軍人を育てる陸軍幼年学校に内緒で出願します。近所に住むカドリ少佐に憧れ、軍服に惹かれたという記述が残っています。
樋口さんによると、当時の軍人は西洋化を最も学べる立場にいる、国の中枢を担うエリートでした。軍服への憧れにはそうした意味も含まれていたと考えられます。一方で、戦争に負け続けて軍人が尊敬されていなかったと書く本もあり、どちらの面もあったのだろうと話されています。
級長と「ケマル」というあだ名
勝手に出願したケマルは合格し、母もしぶしぶ入学を認めます。陸軍幼年学校は、専制を強めた皇帝アブデュルハミト2世 ── 19世紀後半のオスマン帝国のスルタン。憲法を停止して専制政治を行う一方、教育や鉄道など近代化政策も進めましたが作った学校でした。
陸軍幼年学校は近代的な教育を行いつつも伝統的な要素が混じるハイブリッド型で、先生は軍人でした。軍隊的な規律のもとで序列がつけられ、生徒同士の競争心も育てられたといいます。
陸軍幼年学校でケマルは特に数学が得意で、リーダー的存在になり、級長に任命されます。母ズベイデは後に、級長になったことを息子の大きな成功の一つだと語っていたそうです。
樋口さんも最初は「そんなに?」と思ったものの、軍人エリートを育てる学校で級長になることは、そのまま将来のリーダーにつながる道であり、自信がついたことが大きかったのだと解釈しています。
陸軍幼年学校では、ムスタファに「ケマル」というあだ名も付けられました。「成熟」「完璧」を意味する言葉で、同名の生徒がいた中、数学教師が付けたという説があります。詩人ナームク・ケマルから取ったという説もありますが、いずれにせよ本人は喜んで受け取ったといいます。
アタテュルクも尊称なんで、ケマルアタテュルクって何の原型も残ってない。
劇団ひとりみたいなもんだ。
母の再婚と、マナストゥルの予科士官学校
陸軍幼年学校で充実した日々を送っていたケマルに、また転機が訪れます。経済的に苦しかった母ズベイデが、外国資本のタバコ会社で警備員をしていた男性と、ケマルに相談せず再婚したのです。
母の再婚に怒ったケマルは家を出て、親戚のもとに身を寄せたといいます。詳しい経緯はどの本にも書かれておらず、樋口さんも読みながら首をかしげたそうです。
ケマルは次に、現在の北マケドニアのビトラにあたるマナストゥルの予科士官学校に進みます。全寮制で入学の難易度が非常に高いエリート校で、この時点でケマルはすでにエリートコースに乗っていました。
マナストゥルの予科士官学校を、ケマルは2番の成績で卒業します。「1番の人は今何をしていたのか」と樋口さんが笑うと、深井さんは「大ケマルになってるんじゃないですか」と返しています。
イスタンブールの士官学校で出会った生涯の仲間
続いてケマルは、ヨーロッパを手本とする軍事改革のために将校を育てるイスタンブールの士官学校に入ります。フランスやプロイセンからの教員のもとで、数学や科学、ヨーロッパの言語を学びました。
イスタンブールの士官学校で得た学友たちは、のちに一緒にトルコ共和国を作る戦友になっていきます。将軍の息子フアトや、レフェトといった人物がその例です。
はぁ、なんかここで仲間ができるっていうのがいいな。
学生時代のケマルは、禁止されていた飲酒を繁華街でするような学生でした。ビアホールで飲んでいたら目の前に学長がいて青ざめたものの、学長は一緒に飲み、さらに高価なレストランでショーまで見せてくれたという逸話が紹介されます。
遊びながらも勉強は熱心で、ケマルは20歳ごろ、459名中8位の成績でイスタンブールの士官学校を卒業します。その後、陸軍大学校で参謀科に入り、参謀になるための特別な教育を受けました。
彼、この後すげえずっと戦略的に動いてるんですよ。参謀っぽいよね。ずっと参謀っぽい。
ドイツの軍人ゴルツと「武装せる国民」
一連の学校でケマルが浸かったのは、西洋化、反イスラム、科学信奉という新しい思想でした。加えて大きな影響を与えたのが、ドイツから招かれた軍事評論家コルマール・フォン・デア・ゴルツ ── プロイセン出身の軍人・軍事理論家。オスマン帝国に招かれて長く軍の改革と士官教育に携わりましたです。
オスマン帝国が手本とする国をフランスからドイツへ移していく中で、ゴルツは士官学校の改革を任されました。ドイツではしがらみでできないことも、オスマンなら実行できると考えていたといいます。
ゴルツは『武装せる国民』という著作を書いた直後でした。樋口さんはその考え方を、要は国のために全員が命を捧げよというものだと説明し、軍の司令官は国家の忠実なしもべ以上でなければならず、将校はなおさらだとゴルツが説いていたと紹介します。
楊さんは、民族主義には「個人の最高の生き方は民族の国家に尽くすこと」という意味合いがあり、ゴルツがそれを説いた側面があると補足します。ケマルは、ゴルツによる軍の再編が完了した時期に教育を受け、その思想を吸収しました。
ゴルツはドイツ国民を前提に語りますが、オスマンでは「国民とは誰か」が難しい問題でした。そこで若い軍人エリートたちの間に、トルコ人としてまとまり、トルコ人の国家に命を捧げるべきだというトルコ主義 ── オスマン帝国の多民族性ではなく、トルコ人としての民族的なまとまりを重視する考え方。のちのトルコ共和国の国民形成の土台になりましたが育っていきます。
ゴルツの「武装せる国民」
国のために命を捧げる国民像
「国民とは誰か」という問い
多民族のオスマンでは答えが難しい
トルコ主義
トルコ人としてまとまり、その国家に尽くす
樋口さんは、ゴルツが一人で思想を塗り替えたのではなく、もともとそれを受け入れたがっていた人々と相互に影響し合いながら、行きたい方向へ進んでいったのだと締めくくります。次回は、この気風の中で育ったエリートたちが、ついに革命を起こしていく話になります。
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まとめ
ケマルの価値観は、多民族都市テッサロニキの西洋化の気風、父の死による苦境、そして軍学校で受けたエリート教育とゴルツの思想が重なって形づくられました。科学信奉やトルコ主義はケマル一人のものではなく、同じ環境で育った世代の空気でもあったことが見えてきます。
- テッサロニキは征服と移住を経て、宗教も民族もクロスする多民族都市になった
- どこにも属さないディョンメが新しい教育を広め、ケマルもその学校で学んだ
- 西洋化エリートとイスラムを重んじる人々の分断は、現代トルコの揺り戻しにまでつながっている
- 父の死と貧困を経て、ケマルは自ら軍人エリートの道を選び、生涯の仲間を得た
- ゴルツの「武装せる国民」の思想が、若い軍人たちのトルコ主義を後押しした







