「中国」とは何を指すのか?
教育の歴史編は、前回までのヨーロッパから、今回は中国へ舞台を移します。語り手は中国出身の楊睿之さんです。
楊さんはまず「中国」という言葉の定義を確認します。昔に「中国」という王朝があったわけではなく、中華大陸に入れ替わり立ち替わり王朝が建ったため、今回はそれらを便宜上まとめて中国と呼ぶ、という前提です。
別に昔に中国っていう王朝があったわけじゃないんですよ。
そのうえで楊さんは、中国の教育を語るポイントとして3つを挙げます。儒教思想、国家主導であること、そして凄まじいほどの仕組み化です。
話は紀元前1700年から紀元前770年ごろ、殷や周の時代までさかのぼります。深井さんは「やっと中世まで来たのに」と、時代が一気に戻ることに笑いを添えています。
殷・周の時代に「大学」はあったのか
楊さんによると、殷や周の時代には教育活動の痕跡はあるものの、制度はまだないとされます。ただし学校があったという記載は残っています。
その記載は後の時代の儒教の学者たちが書いたものなので、本当かどうかの実証は難しい、と楊さんは断ったうえで紹介しています。
記録では、王の都に「太学」と「小学」があり、地方には「郷学」という学校があったとされます。目的は主に政治人材の育成で、深井さんは「エジプトたちと一緒だね」と以前の回と重ねています。
太学は高等教育で、貴族階級や庶民の中の出来のいい人を選んで教え、エリートによる政治を目指していたようです。小学は庶民が通う初等教育という説がありますが、通えたのは都会に住む庶民に限られました。
地方や農村には、私塾のような「村塾」があったらしい、という程度の話しか残っていません。楊さんは、体系立ったものではなかったとされ、時代が古すぎてよくわからないと話しています。
エリートが学んだ「六芸」と音楽の謎
殷・周のエリートが学ぶべきとされたのが六芸 ── 古代中国で士大夫が身につけるべきとされた6つの技能。礼・楽・射・御・書・数を指し、のちに儒教でも教養の基本とされましたです。
儀礼や礼節。祭祀、冠婚葬祭、国家間や戦争の儀礼などあらゆる決まり事
音楽、歌、詩、踊りなど。内面から感情を整え表現させるもの
弓術。軍事スキル
馬車を御する技術。軍事スキル
文学
算数。面積や比例、方程式から食料輸送・人員配置まで
深井さんが面白がったのは、どの文化でも基礎科目にだいたい音楽が入っていることです。楊さんは宗教とセットだからだと応じます。
確かにCDとかないから、音楽を教えてないと誰も音楽弾けなくなっていきますよね。
六芸の中で一番重要とされたのが礼です。後に孔子も最も大事にしたもので、先祖や天地の神の祭り、冠婚葬祭、国家間の儀礼まで含む、社会の重要なフォーマットでした。
当時の人々は、自分の肉体は先祖代々から受け継いだものだという感覚を非常にリアルに持っていたため、先祖をとても大事にしました。楊さんは、戦争で敵の先祖を祀る霊廟を壊すのは、その人の根源を断つ意味があったと説明します。
また当時は政治と祭祀が一体だったため、政治のあり方は宗教の教えとほぼイコールだったと考えてよい、と楊さんは言います。
楽については、礼が人を外側から決まり事で縛るのに対し、楽は内側から感情を整え、心の動きを適切に表現させる役割があるとされます。
数の内容が細かいことも楊さんは強調します。面積や体積、比例や方程式に加え、食料輸送や人員配置のマネジメントまで学んでいたといいます。
そうそう、やべえなと思いました。
家庭内でも、食事では右手を使うように教える、8歳になったら食卓の礼儀を教える、来客の迎え方や送り方を教えるといった礼儀教育があったと記録されています。
樋口さんは、数分聞いただけで西洋との違いがすごいと驚きます。特に、肉体を先祖から受け継ぐという感覚は西洋ではなかなか出てこないと感じたようです。
一方で深井さんと楊さんは、2700年以上前の時点でここまで整っていることに「ほんまか?」とも感じたといいます。後の儒教学者たちが盛って書いている可能性はある、という見方です。
周は「礼」をどう支配の道具にしたのか
楊さんは、最も重要な礼が、殷の次の周の時代に新しい意味を持つようになったと話します。周はもともと殷の従属国で、親分である殷を打ち破って王朝を建てました。
周には、それまで敵だった国を統治する必要が生まれます。そこで周が使ったのが礼でした。自分たちの儀礼のやり方を「お前らもこのとおりにしなさい」と広めたのです。
周の儀礼には、誰が上で誰が下かという序列がはっきり定められていました。君主は君主の、臣下は臣下のなすべきことをし、階級に応じた振る舞いをせよ、という考え方です。
これって完全に支配に使えるじゃないですか。
確かにマウント取れる。
宗教的な側面を持ち、自分の国を統治するためのフォーマット
異民族や旧敵国を統治する機能が「プラグイン」のように追加された
社会システムの崩壊が諸子百家を生んだ
続いて話は、周の時代のうちの春秋戦国時代へ移ります。周王朝の力が落ちる一方で、諸侯は農業生産力を高めて人口も増え、やがて実力で周王朝を圧倒するようになりました。
諸侯が中華統一を争い、最終的に秦が勝ち残る流れの中で、既存の社会システムは崩壊していきます。楊さんはここで、それまで国が定めていた教育に代わり、民間からさまざまな思想が出てきたと説明します。
周王朝の衰退
諸侯が農業生産力と人口を伸ばし、周を実力で上回る
社会システムの崩壊
周がトップのまま、諸侯が激しく争い合う状態に
下級貴族の失職
実務に携わっていたインテリが特権を失い野に放たれる
諸子百家の勃興
「俺はこういう社会がいい」と多様な思想が民間から噴出
担い手になったのは、周の下級貴族だったインテリたちです。政治の実務経験を持つ彼らが立場を失い、「この状況は一体何なんだ」と考え始めたのだと楊さんは言います。
政治権力が多様化したから、また結局こうやっていろんなプレイヤーが出てきたということですよね。
国同士の競争が激しくなると人材が重視され、いわば売り手市場になりました。優れた人材は重く用いられ、エリートにとっても立身出世の機会だったため、自らを売り込む動きが盛んになります。
勢いが強かったのは儒教、法家、墨家、道教です。今回はその中から、最も重要な儒教と法家を中心に紹介します。
儒教はなぜあらゆる問題を「心」に還元するのか
儒教は孔子が体系化した思想です。儒の起源は、宗教儀礼を行う集団、つまり礼を司った人々にあると考えられています。
孔子の主張をざっくり言えば、古い王たちが治めていた古き良き時代に立ち返れ、というものです。伝統へ回帰しつつ、自分が正しいと思うことをアレンジして体系化したのが儒教だと楊さんは説明します。
孔子は六芸を重視し、それをテキストとして再編集しました。それが後に四書五経 ── 儒教の基本経典の総称。『論語』『孟子』などの四書と、『詩経』『書経』『易経』などの五経からなり、科挙の試験範囲にもなりましたとして最重要テキストに位置づけられていきます。
楊さんが紹介した儒教の特性は、あらゆる問題を人の心のあり方に還元することです。国の経営で課題が起きても、原因は自分の徳が足りないからだと結論づけます。
だから財政破綻の原因は倹約を忘れた心の驕りが原因だとか、戦乱が起こるのは人の心の乱れだとか、そういう解釈をしてるんですよね。
儒教における解決策は、昔の聖人の道を学ぶことです。聖人たちの思考パターンを自分の中にインストールし、それに沿って応用すれば、あらゆる問題が解決できると考えられていました。
樋口さんは「今の説明相当わかりやすい」と評価し、だから皆が頑張って儒教を勉強するのだと納得しています。
法家の「法」は今の法律と何が違うのか?
もう1つの重要な思想が法家です。以前の始皇帝の回で扱ったように、ルールベースで国家をつくり、君主に権力を集中させて富国強兵を進める考え方です。
楊さんは、法家の「法」は今の法律とは概念がまったく違うと補足します。現代の法律は専制君主に対するアンチテーゼとして生まれたものですが、法家の法は、あくまで君主が民衆を統治するための道具でした。
法家の源流については、周の時代に訴訟の審理や刑罰の判断を担った「理官」という役職の流れを汲んでいるのではないか、という説があるといいます。
理念も理解してくんなくていいし、やったらダメなのがなぜかとかいうことを説得する気もないんです、法家は。ただやったらぶっ殺すからやんなって。
問題の原因を心と徳に求め、聖人の道を学んで解決する。古き良き封建時代への回帰を目指す
罰則を軸にシステムで決める。皇帝がトップに立ち、全国を直接統治する
荀子は儒教に何を足したのか
春秋戦国時代、斉の首都に有名な学術施設ができます。書き起こしでは「諸子学宮」と呼ばれており、一般には稷下学宮として知られる施設と考えられます。
楊さんによると、斉の王が箱を用意し、運営は民間に任せた半官半民の研究機関のようなものでした。儒家、道家、法家、陰陽家などが集まり、講義や著述など自由な学術活動が行われたといいます。
そこに集まった天才たちを学長として取りまとめたのが、性悪説で知られる儒家の荀子です。孔子のおよそ250年後の人物で、この施設の学長を3回務めるなど、儒家の中でもトップクラスに出世しました。
荀子が最も重要な仕事として行ったのが、儒教の中に法家思想を取り入れたことです。礼と徳だけでは足りず、法も必要だとして、礼と法を融合した「礼法」を説きました。
でも儒教の中にさらに法家っていうOSをもう一個追加したっていう、ことをやった。
荀子の弟子には、法家思想の大成者である韓非子 ── 戦国時代末期の思想家・韓非とその著作。法と術による君主の統治を説き、法家思想を集大成しましたと、始皇帝の宰相となる李斯がいます。樋口さんは、李斯が漫画『キングダム』にも登場することに触れています。
荀子
儒教をベースに法家思想を融合し「礼法」を説く
韓非子と李斯
荀子に学びつつ、法家思想に全振りする
秦の統一
李斯が始皇帝を補佐し、最初の中国統一帝国が誕生
秦の教育はなぜ私学を弾圧したのか
法家思想によってルールベースの国家づくりに成功した秦では、国家による教育、つまり官学が整えられます。郡県制のもと、それぞれの郡県に学校が置かれました。
秦の学校で学べたのは役人の子どもに限られ、役人の候補生を育てることが目的でした。物の名前の呼び方、秦の文化、人の名前の書き方、法家思想の書物、そして将来に向けた法令の勉強が行われていたといいます。
一方で、民間の学問である私学は弾圧されました。秦の中には儒教を信奉する勢力があり、儒教と法家は統治理念が水と油だったからです。
なんか古い時代に立ち返れと言ってる人たちっていうのは、ほんと邪魔でしかなかったんですよね。
始皇帝は儒教勢力を政権のリスクとみなし、本を焼くなどして排除していきます。民間の本は没収されて焼かれましたが、医学や農業の本は残されたようです。こうして教育は完全に政府が統制するものになりました。
この後の漢の時代に、儒教が統治のフォーマットとして入っていく話は、次回に続きます。
変わらない中国の教育は強みか弱みか
楊さんは、中国の教育システムは時代ごとに微妙な違いはあっても、大きな変動はないと話します。漢の時代に確立されたシステムをベースにカスタマイズされ、中身は基本的に儒教ベースだったといいます。
樋口さんが、ヨーロッパでアリストテレスがずっと影響したのと重ねて孔子のすごさを語ると、楊さんは、統治スタイルがあまり変わらないことが大きいと答えます。
帝国スタイルじゃん、ずっと。
中華大陸は帝国スタイルでなければ統治できず、社会のシステムが強い傾向を持ち続けたため、教育にも強い傾向が出続けた、というのが楊さんの見立てです。冒頭からの話のとおり、教育は社会に規定されるという考え方です。
深井さんは、漢や隋以降の中国が本気でシステム化を進め、世界最大の官僚国家になったと語ります。広大な土地を大勢の官僚で治められたのは、それを支える教育力があったからだ、という指摘です。
ただし深井さんは、ルソーのような人物があまり出てこなかったことも挙げます。楊さんは、国家主導・官主導が強すぎて、社会変革に至らなかったと応じます。
楊さんは、近代に列強に敗れた原因の1つもそこにあると話します。官僚システムが完璧すぎて、明治維新を見習った改革の動きが出ても潰されてしまったというのです。
大きなアップデートには弱いんでしょうね。
樋口さんの言葉どおり、中国の教育は多様性はないものの強靭なシステムであり、それは良し悪しではなく時代によって強みにも弱みにもなる、という整理で前編は締めくくられます。
まとめ
中国の教育は、殷・周の礼と六芸に始まり、春秋戦国の諸子百家を経て、儒教と法家という2つの軸の上に国家主導で組み立てられていきました。秦の教育統制を経て、漢で儒教が統治の中心に入る流れは後編で語られます。
- 殷・周の時代には太学・小学・郷学があったとされ、エリートは礼・楽・射・御・書・数の六芸を学んだ
- 周は礼に序列の考え方を持たせ、旧敵国や異民族を統治する道具として使った
- 儒教はあらゆる問題を心と徳に還元し、法家は罰則とシステムで統治する考え方だった
- 荀子は儒教に法家を融合し、弟子の李斯が始皇帝を支えて秦は私学を弾圧した
- 帝国スタイルが続いた中国の教育は、強靭である一方、大きな変革には弱かったと語られる





