父の仕事に役立つかどうかで決まる家族
教育の歴史編の前回までは、中世ヨーロッパにおける大学の誕生が語られました。今回のテーマは「子どもの誕生」ではなく、子どもという概念の誕生です。
子供っていう概念が中世ヨーロッパにはなかったという話なんですが。
深井さんによると、中世ヨーロッパでは家族の概念そのものが今とまったく違っていました。家族の役目の1つは世襲財産 ── 親から子へ代々受け継がれる土地や財産、家業などのことの維持だったといいます。
現代の家族には、父母やきょうだい、祖父母との血縁にもとづく絆があるのが普通です。けれど有名な研究書には、中世ヨーロッパではそれがスタンダードではなかったようだと書かれていると深井さんは紹介します。
中世ヨーロッパの家族は父を中心に成り立ち、子どもや若者は父の仕事への参加度合いに応じて関心を寄せられていました。父の仕事を手伝えない子どもは、邪魔な枝のように追い払われていたといいます。
だから血が繋がってるとはいえ、機能でしか見ないんですよ、ほとんど。
多産多死の時代、子どもは「匿名」だった
中世ヨーロッパは、たくさん産んでたくさん死ぬ多産多死の時代でした。小さい子どもは育てるに値しない動物に近い存在と見なされ、親は自分に子どもが何人いるかさえ把握していなかったといいます。
さらに深井さんは、食べ物が足りないために間引きも行われていたと話します。キリスト教では子どもを殺してはいけないとされていましたが、実際には殺していたのではないかと言われているそうです。
遺産を継ぐ1人か2人の男の子だけが父のそばに残され、それ以外の子どもはどこへ行ってもかまわない、どこへ行ったかもどうでもいいと思われていました。一人ひとりに特別な愛情を注ぐことはしていないし、できなかったと深井さんは説明します。
そして子供は匿名的に扱われている。個人として扱われてるわけじゃなくて、なんかまだちっさい何か生き物みたいな。
当時は子どもの半分以上が亡くなっていたとされます。深井さんは、子どもは「ちょっと利口な猿」のように思われていたとも言われていると紹介し、とんでもない表現だと断りを入れます。
その時期を過ぎた子どもは徒弟制度 ── 子どもや若者が親方の家に住み込み、働きながら技術を身につける仕組み。中世ヨーロッパの職人の世界で広く見られましたに組み込まれ、住み込みでよそへ行ってしまいます。結果として、家には跡継ぎ候補の1人か2人だけが残る形になりました。
誕生
たくさん産まれ、半分以上が亡くなる。間引きもあったとされる
乳幼児期
育てるに値しない「小さな生き物」として匿名的に扱われる
少し成長後
徒弟制度に組み込まれ、住み込みでよそへ行く
家に残る子
遺産を継ぐ1〜2人の男の子だけが父のそばに残る
樋口さんは、今の倫理観に重ねると衝撃的だが、当時はそうだったのだから仕方がないと受け止めます。深井さんも、江戸時代までの日本でも口減らしのための間引きが普通に行われていたと付け加えます。
だからなんかこれで終えってならずに、なるほどって一旦受け入れるって聞いた方がいいですね。
絵画に描かれた「小さな大人」と、壁に吊るされた赤ちゃん
深井さんは芸術の世界でも、中世ヨーロッパの子どもは子どもとして見られていなかったと指摘します。現代人が感じる「可愛くて、等身が大人と違い、保護すべきで、教育によって人生が変わる存在」という見方は、当時はなかったといいます。
中世ヨーロッパの絵画では、子どもは大人の縮尺を小さくしただけの姿で描かれていました。幼児用の服も存在しなかったそうです。
観察してないんだよね、子供を子供として。ちっちゃい人みたいな。
貴族も自分の子どもを自分で育てませんでした。1〜2歳の子どもは仕事ができないため、子どもを育てる仕事をしている貧しい人に預けられ、高い確率で亡くなってもそれでいいとされていたといいます。
預かった側の育て方について、深井さんは、動くと邪魔なので赤ちゃんをぐるぐる巻きにして壁から吊るしておいたと説明します。泣いたときに近寄って、授乳か排泄物の処理をする程度だったそうです。
今でもおくるみっていう愛情に満ちた意味でのおくるみがありますけど、その愛情に満ちてないおくるみをしてた。
深井さんは、愛情を持って育てた人もいたのではないかと思うと前置きしつつ、こうした環境では死亡率も高かったと話します。運よく生き残った子どもにだけ、後を継げるかもしれないとして教育コストをかけ、ギルド的な教育をしていったといいます。
「子どもは神様のもの」各地にあった子どもの扱い
楊さんは、子どもの生存競争は動物の世界なら当たり前かもしれないと反応します。深井さんは、小さい子どもは人間として数えられていなかったので、家族は何人かと聞かれても子どもが入っていないことがあったと話します。
日本もね、7歳になるまでは子どもは神様のものって言われてるから、7歳になるまでだったら子どもは殺しても大丈夫みたいな。時代があったの。
楊さんによれば、日本ではこの年齢までの子どもは、死んでも神様のもとへ戻っていくと考えられ、それを子返と呼んでいたといいます。
深井さんは、ほかの民族にも似た文化があると続けます。ヤノマミ族では、生まれてから7日間のうちに母親が子どもを「生まれたことにするか」を決め、生まれていないことにする場合は蟻塚の上に置いてしまう、という話を紹介します。
避妊具のない時代には、子どもはどんどん生まれ、どんどん亡くなっていきました。深井さんは、出産があれだけ大変なのに本当だろうかとも思うと率直に話しています。
古代には、歯が生える幼児期、子ども期、青春期といった年齢区分がありました。ところが中世ヨーロッパでは、知識として知ってはいても、生活の中で「子どもだから」と区別することがほとんどなかったといいます。
大学が子どもを「1つの集団」にした
中世ヨーロッパで子どもの扱いが大きく変わったきっかけとして、深井さんが挙げるのは大学です。上層階級の人たちが、徒弟修行ではなく学校に通うようになりました。
当時の大学には、8歳から通う人もいたといいます。パリやウィンチェスターの学寮 ── 学生が寝泊まりしながら学ぶための寄宿施設。中世の大学では、若い学生が共同生活を送る場でもありましたにも、8〜9歳ぐらいの子どもがいたそうです。
大学が親から子どもを引き離して集めたことで、同じ年齢帯の子どもが1つの社会集団として認知されるようになりました。深井さんはこの点を「本当に面白い」と話します。
カテゴライズされるんだね。
カテゴライズされたんです。それまでは未分化だったんです。分ける意味がなかったんですよ。
それまでの家族にとって、子どもは「農業ができるか、できないか」でしか分ける意味がない小さな生き物でした。大学で子どもが一か所に集まったことで、この人たちは子どもなのだと意識されるようになったといいます。
面白いね。システムによって認知されるんだね。
見返りのない教育投資が愛情を生んだ
大学へ行くことは、出世にとっても大切になっていきました。そこで、子どもに見返りのない教育投資を行うことが社会的に重要になったと深井さんは説明します。
教育投資は、それが返ってくるかどうかわかりません。投資できる子どもの人数にも限りがあるため、親は1人の子どもを大切にするようになりました。
驚く楊さんに、深井さんは根拠の1つを示します。この時期から、子どもが書いた手紙に「愛しい母へ」といった表現が出てくるようになるといいます。
それ以前の中世ヨーロッパ前期社会では、愛情がなくても生きていける状態がありました。家族でもそうでなくても、周囲の人と一緒に農業をするような相互連携で暮らしていたと深井さんは考えています。
たくさん産み、生き残った子だけが家を継ぐ。子どもは農業や家業に役立つかどうかで見られる
大学へ行かせるため少数の子どもに見返りのない教育投資をする。愛情表現が目に見えて増える
虎之助くんへの愛情は昔ならなかった?
樋口さんは、息子の虎之助くんへの自分の愛情も、昔に生まれていたらなかったかもしれないのかと問いかけます。
俺のこの息子の虎之助に対する愛情は、これ昔に生まれてたらなかったかもしれないってことですよ。
深井さんは、愛情を感じていても、今の樋口さんのように「虎之助が可愛い」と表に出すことはしなかった可能性があると答えます。そして、高い死亡率も理由の1つだったと付け加えます。
めっちゃ死んでほしくないのにバンバン死なれたら全員精神崩壊するじゃないですか。
樋口さんは、今のテンションで何人も子どもに亡くなられたら自分は耐えられないと納得します。子どもの死が前提だった時代には、自分の精神を守るためにも、愛情を注げなかったのかもしれないという見方です。
深井さんは、この子どもの概念の誕生が、のちの西洋で「子どもをいかに教育すべきか」「子どもは可愛くて大切だから、みんなで時間を使おう」という考え方の基礎になっていくと説明します。
なぜ子どもが投資対象になったのか
樋口さんは、そもそも子どもを見返りのない投資対象と見なすようになった原因は何だったのかと尋ねます。深井さんの答えは、大学へ行かせることが出世ルートになったからです。
それまでは上流階級の人でも、たくさん産んで、生き残った子どもだけが家を継いでいました。大学へ行かせることで、子どもは家を飛躍させてくれる投資対象に変わったといいます。
だから投資をするっていうことになったんだけど、面白いことに投資をするというふうな意識の向け方が、それをさらに凌駕する愛情に変わっていくということ。
大学以前の子育ては、ご飯を与えて育て、農業を覚えて一緒に働く、あるいは騎士になって戦争で勝つ、といったものでした。樋口さんは、子どもが「今は利益を生まなくていい時間」をもらえるようになったと言い換えます。
深井さんはこれを、生活教育ではなくなったことだと整理します。学費のかかる大学で知的なことを学ばせるには、「死んでもいい」とは言えず、対象を絞る必要がありました。
吉本の養成所とマンボウで考える「愛情の条件」
樋口さんは、吉本のマネージャーが芸人に愛情を持ちにくいのは、たくさん辞めていくからではないかと話を広げます。深井さんも、会社で入った人の7割ぐらいが辞めるなら、愛情は注ぎづらくなるだろうと応じます。
吉本とかって養成所にバーって入ってきて、バーッて辞めていくんですよ。だから一人一人に手かけてたらすぐ辞めていくから、あんまり意味がないんですよ。
楊さんは、その場合はアウトプットを出せるかどうかでドライに判断しがちだと指摘します。樋口さんは、面白いネタを作れる人が出てきたら、そこから少数に投資していく構造だと続けます。
深井さんは、中世ヨーロッパの子育てもまさにそういう感覚だったと話します。そこから一人の子どもに両親で愛情を注ぎ、家族の絆が生まれ、「愛する何々へ」と言い合うようになったと言われているそうです。
社会システムによって人間の愛情が喚起されたっていう現象が面白いよね。
樋口さんは、水族館で見た「いっぱい産むか、少数を育てるか」という生物の生存戦略を思い出します。マンボウは3万匹ぐらいの子どもを産むといいます。
人間っていう生物が結構前と今だと、一つあたりの個体が産む子供の数が減ってるってことだから、違う種族になってるなと思ったんです。
深井さんも、人間は元々10人、十数人と産む種族だったのだろうと同意します。多産から少産へ変われば精神構造も変わる、別の動物になったぐらいの想像で聞くとわかりやすいかもしれない、と樋口さんは話します。
楊さんは、平均寿命が延びたことも関係しているかもしれないと加えます。数年で亡くなるとわかっていれば愛情にストッパーがかかるけれど、今は子どもが80歳まで生きる前提があるから、愛情を注ぐ動機になっているのではないかという見方です。
ユリア1、ユリア2という「型番」の時代
深井さんは、以前のシリーズで扱った古代ローマのカエサルの家でも、女の子の名前がユリア1、ユリア2のようにナンバリングされていたことを振り返ります。
匿名性だよね。あれも結局だからもう誰でもいいんですよ。死ぬかもしれないしってなってるんだと思う。
その家に生まれた長男も全員がカエサルと名乗っており、個人ではなかったと深井さんは指摘します。楊さんの「製品1、製品2みたい」という例えに、深井さんは「型番なんですよね」と応じます。
深井さんは、今の私たちのような子どもへの感覚を持つ人類は少数で新しく、今のような社会に生きているからこそだとまとめます。
啓蒙思想と人文主義、そして次回はアジアへ
深井さんは、子どもという概念の誕生には大学のほかにも要因があると話します。その1つが、ルソー ── 18世紀フランスの思想家。教育論『エミール』で、子どもを大人とは違う独自の存在として捉える考え方を示しましたたちの啓蒙思想 ── 理性によって古い権威や慣習を見直そうとした17〜18世紀ヨーロッパの思想運動です。
さらに深井さんは、エラスムス ── 16世紀に活躍したオランダ出身の人文主義者。古典研究を通じて教会や教育のあり方を批判的に論じましたなどの人文主義者も影響していると考えています。古代ギリシャの学問を学び、キリスト教だけではない視点で世界を見ようとした新しい潮流が、子どもの見方を大きく変えていったといいます。
その変化の話に入る前に、次回以降はアジアの教育に目を向け、中国と日本では教育がどうなっていたのかを扱う予定だと予告して、今回は締めくくられます。
まとめ
この回では、中世ヨーロッパで子どもが家の機能として見られる「小さな生き物」から、愛情を注がれる存在へ変わっていった過程が語られました。深井さんが紹介したのは、大学の登場と教育投資が親の愛情を引き出したという、社会システムと感情を結びつける見方です。
- 中世ヨーロッパの家族は父の仕事を中心に成り立ち、子どもは役に立つかどうかで見られていたとされる
- 多産多死の時代には子どもの多くが亡くなり、匿名的に扱われていた
- 大学で子どもが集まったことで、子どもが1つの社会集団として認知されるようになった
- 見返りのない教育投資が少数の子どもを大切にする意識を生み、愛情表現が増えたと言われている
- 啓蒙思想や人文主義も子どもの見方を変え、次回はアジアの教育へ話が移る





