秀吉が出世できた理由は「兵站」にあった?
前回までで、家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗しながらも、信玄の死によってかろうじて生き延びた状態でした。深井さんは、信玄があと1、2年長く生きていたら家康は危なかったと振り返ります。
話は秀吉に戻ります。羽柴秀吉は織田軍の「トップファイブ」に入るほど出世していました。深井さんはその理由として、まず兵站 ── 戦場の軍隊に食料・武器・物資を補給し、輸送する仕組みのこと。英語のロジスティクスにあたり、大軍を動かすには欠かせない要素ですの力を挙げます。
兵站の確保は他の武将も当然やっていました。それでも秀吉のスキルは抜きん出ていたといい、番組がインタビューした日本史の先生も同じ見方だったと話されています。
深井さんは想像と断ったうえで、秀吉が現場で兵站がどう運ばれ、誰が運んでいるかを熟知していたからではないかと推測します。そして現代の会社にたとえて説明します。
営業力も大事なんだけど、バックオフィスとか営業推進部とかにすっごいコストを割いていて、その準備段階であるとか、営業そのもの以外のところもかなり彼は重視していた。
深井さんによれば、生きるか死ぬかわからないスタートアップの初期にバックオフィスへ人員を割くのは、非常に大胆な判断です。秀吉は兵站を重視したことで大軍を動かせるようになり、最終的には何十万もの将兵を動かすレベルに達したと言われています。
秀吉の登場以前と以後で、動員される兵士の数はまったく違います。それまで数万だった規模が、10万を超えていくようになりました。
何万の軍勢のうち、戦う兵士はわずか3割
番組では、兵力の数字について補足が入ります。当時の軍団は全員が戦闘員だったわけではなく、何万という数字の大半は物資運搬などのために動員された百姓などの非戦闘員でした。
書物によって書かれ方は違うものの、1つの軍団のうち戦闘員はおよそ3割ほどです。そのうち馬に乗る騎馬武士は軍団全体の2%ほどにすぎず、残りは足軽 ── 戦国時代に集団戦の主力となった軽装の歩兵。戦闘だけでなく放火や略奪などの破壊活動も担いましたでした。これは秀吉軍に限らず、中世日本の平均的な構成だと話されています。
深井さんは、こうした非戦闘員を使うのがうまかったのが秀吉だとまとめます。軍団の半分以上が物資や兵糧の運搬に割かれていたからこそ、兵站の巧拙が勝敗を左右したと考えられます。
秀吉のもう1つの強みとして挙げられたのが、戦争のコスパのよさです。ここまで攻めれば相手は報復するだろうと予想し、それ以上の犠牲を出さないところで和平に持ち込む見極めと交渉がうまかったといいます。
見極めがうまいからこそ、現状認識ができてるからこそ、そこから先の戦略が当たるってことだよね。
深井さんは、これらは諸説あり先生によって言うことが違うとしたうえで、この2つの能力を持つ秀吉が生涯を通じて、武田・上杉・織田信長よりもさらに多くの戦争をしていたと紹介します。樋口さんは、めちゃくちゃ戦っているイメージのあった武田や上杉以上だと知り、驚いていました。
方面軍司令官という前代未聞の大抜擢
出世を重ねた秀吉は、中国方面軍の司令官に任命されます。織田軍は各地を同時に攻めており、信長は自ら出向くのではなく、司令官に権限と仕事をまとめて渡すデリゲーションのスタイルを取りました。深井さんは、これを他の武将がやらなかったやり方だと強調します。
方面軍司令官には軍事力だけでなく、敵方と交渉する役割も任されていました。いわば外交官的な動きも求められたわけです。
本当に難しい仕事を大抜擢されてボーンって任されている状態。任す信長もすごい。でも任せられてやる秀吉もやっぱりすごい。
樋口さんは、裏切りがデフォルトの世界でこれだけ任せていることが今以上にすごいと感じます。実際、方面軍司令官の一人だった明智光秀に信長は裏切られて殺されるので、そのリスクはしっかり表面化したことになります。
三大城攻めの1つ目、三木の干し殺しとは?
秀吉の相手は、中国地方の西半分を支配する毛利家です。毛利元就から一気に勃興した大大名で、この時の当主は元就の孫の毛利輝元でした。元就と輝元の間の当主がすぐに亡くなったため、輝元は幼くして家を継いでいます。
この戦いのなかで、秀吉による「三大城攻め」が行われます。三木の干し殺し、鳥取の渇え殺し、高松城の水攻めの3つです。樋口さんは「なんか物騒やな」と反応していました。
最初は三木城攻めです。今の兵庫県三木市にあった三木城の城主・別所長治は、もともと織田方でしたが毛利方に寝返ります。深井さんは、当時は毛利も大大名で、秀吉が負けてもおかしくないと皆が思っていたと説明します。
秀吉は三木城を包囲し、周りの支城を次々と落として食料供給を断ちます。城内では備蓄が尽き、牛や馬まで食べ尽くされました。およそ2年の兵糧攻めの末、別所長治は一族の切腹と引き換えに城兵の助命を求め、長治と弟の別所友之が切腹して開城します。
この陣中では、秀吉配下の竹中半兵衛が34歳の若さで病死しています。深井さんは、三木城攻めは誰でもやる普通の兵糧攻めだったと位置づけ、次の鳥取城攻めで秀吉のやり方が洗練されていくと話します。
鳥取の渇え殺しはなぜ短期間で城を落とせたのか
三木城を落とすとすぐ、1580年に秀吉は2万の大軍で毛利方の鳥取城を囲みます。城主の山名豊国は勝てないと判断して秀吉の陣に助命を願い出ますが、家臣団は戦いを望み、毛利方の吉川経家を新たな城主に迎えて籠城を決めました。
秀吉がね、やっぱりね、同じことしないんだよね。ずっとね、ブラッシュアップし続けてるんだ、彼は。
秀吉はここでも兵糧攻めを選びますが、やり方は三木城とは違いました。まず若狭国から商船を向かわせ、米を通常の数倍の価格で大量に買い付けます。農民も城内の人々も、高く売れるなら後で買い戻せばいいと、備蓄の米を売ってしまいました。
次に秀吉は、織田家に逆らった者は農民であっても皆殺しにするという噂を流します。怖くなった農民たちは城へ逃げ込み、周辺に米が少ないまま、同じ場所に大勢の人がいる状態が作られました。最後に兵糧の運搬ルートをすべて封鎖します。
米の買い占め
若狭国から商船を出し、数倍の価格で米を買い付けて周辺の米を減らす
噂を流す
逆らえば農民も殺すという噂で、領民を城内へ逃げ込ませる
補給路の封鎖
兵糧の運搬ルートをすべて断つ
心理戦
城の近くで煮炊きして食べる様子を見せ、城内の心を折る
鳥取城には領民を含む4000人がこもり、急速に飢餓が進みます。深井さんは、籠城に何年もかけず速攻で潰すための方法だと解説し、樋口さんは「合理化を極めてるね」と応じました。
秀吉はさらに、城から見える場所で煮炊きをして食べる様子を見せつけました。吉川経家の入城から7ヶ月後には城内の草木や動物は食べ尽くされ、餓死者の肉を食べ合うほどの状態に陥ります。最終的に城主が切腹して開城しました。
番組では、兵糧攻め自体は当時スタンダードな戦法だったものの、秀吉はバリエーションとクオリティが高かったと補足されます。現場で兵糧を運んだ経験から、兵糧をめぐる人間の心理を知っていたのかもしれない、という推測も語られました。
深井さんは、秀吉が本当に足軽だったなら、人さらいや田畑の刈り取り、家の破壊といった破壊活動にも携わっていた可能性があると話します。そのうえで、勝つためには何でもする執念と集中度合いが、他の武将より抜きん出ていたと評します。
開城後、秀吉は生き残った人々に食べ物を与えますが、その過半数が亡くなったといいます。飢餓状態から急に栄養を取ったことで起きるリフィーディング症候群 ── 長く低栄養だった人が急に栄養を摂取したとき、体内の電解質バランスが崩れて心不全などを起こす状態。命に関わることがありますだったらしいと紹介されました。
高松城の水攻めと、その最中に起きた本能寺の変
3つ目は備中高松城です。城主の清水宗治が約5000の将兵と籠城していました。城は3方を沼に囲まれた低湿地にあり、残る1方には堀がある堅城でした。
力攻めは困難と判断した秀吉は、近くを流れる足守川をせき止めて水を引き込み、城を水没させるという前代未聞の策に出ます。深井さんは、思いつくだけでなくやり切ったことがすごいと話します。
近郊の農民を高額の報酬で動員し、高さ8メートル、長さ4キロメートルの堤防を12日間で完成させたと言われています。引き込まれた水で城は浮島となり、2平方キロメートルの湖が出現しました。
深井さんは、この規模は世界史でも中国まで行かないとほとんどないと驚きます。秀吉が足軽としての破壊工作や城の修築などを経験してきたことが、地形を動かす発想につながったのかもしれないと考えています。
このスピードへのこだわりについて、深井さんは信長軍団のカルチャーだと見ます。凄まじいプレッシャーのなかで仕事を任される方面軍司令官を、現代のミドルマネージャーに重ねて語りました。
ほんと上司に文句言うか、歯食いしばって頑張るかの、あと部下に文句言うか、大体その3択とその3択のどれかのこの混じり合いしかないんだよね。
湖に孤立した高松城には毛利輝元の援軍も近づけず、兵糧も持ち込めません。士気が下がった状態で和睦交渉に入れば、有利な条件を引き出せます。深井さんは、これも絶望させるための心理戦だと説明します。
秀吉はここで信長を呼び寄せます。毛利家が強いからとも、自分が活躍しすぎると疑われるのを避けたからとも言われます。そして信長が向かう途中で、本能寺の変が起こりました。
深井さんは、秀吉が人を殺したくないから水攻めや兵糧攻めをしたという見方を否定します。敵対者を磔にしたり、子どもを槍で突いたりもしていたとし、現代の感覚で解釈しないでほしいと念を押しました。
長篠の戦いで「三段撃ち」はなかった?
一方の家康は、信玄の死後も武田家と戦い続けます。息子の武田勝頼が跡を継いでおり、家康は信玄よりも勝頼と戦っていた期間のほうが長いといいます。
信玄の死の直後から、両者は高天神城 ── 現在の静岡県掛川市付近にあった城。遠江をめぐる徳川と武田の争奪の舞台となりましたをめぐって争います。もとは今川氏の城でしたが、遠江を獲得した家康の城になっており、武田から見れば最前線でした。勝頼が2万5000の軍勢で攻めると、信長の援軍は間に合わず落城してしまいます。
その後、織田・徳川連合軍と武田軍の間で長篠の戦いが起こります。この頃には、もともと停戦条約だった織田と徳川の関係は強固な軍事同盟になっており、信長が死ぬまで続きました。
長篠の戦いといえば、鉄砲隊の三段撃ちで武田の騎馬隊を破ったと、深井さんも中学生の頃に習ったそうです。しかし最新の研究では違うらしいと聞き、樋口さんは「もう嘘!?」と驚きます。
信長の鉄砲隊が三段戦法で武田の騎馬隊を破った
三段戦法は語られなくなり、普通に鉄砲で騎馬隊に勝った。武田軍にも鉄砲隊がいた
深井さんによれば、鉄砲は伝来後すぐに国産化され、お金さえあればどの大名でも買えたため、武田も導入していました。この戦いで家康は信玄には勝てなかった武田に初めて勝ち、武田側は多くの名将を失って急速に衰退していきます。
家康の嫡男・信康はなぜ切腹したのか
長篠の戦いの頃、家康の嫡男・松平信康が武田勝頼に内通しているのではないかという疑いが持ち上がります。樋口さんが本当だったのかと尋ねると、深井さんは「裏切りっちゃ裏切り」だと答えます。
背景には、武田と徹底抗戦する家康に対し、もう少し武田と仲良くすべきだと考える派閥の存在がありました。信玄に一度も勝ったことがなく、皆が勝てるか不安だったため、その人たちが信康を担いで家康に対抗させようとしたのです。
これさ、勝ったから良かったけど、勝てるかどうかってみんな不安なんだよ。
家康は前線の浜松城にいて、本拠の岡崎城には信康がいました。家康は一度、首謀者とみられる者を粛清してもみ消し、信長には知らせませんでした。どうやら妻の築山殿と信康も関与していたようです。
ところが長篠の戦いの4年後、信康の正室で信長の長女である五徳が、手紙で信長に告げ口します。安土城を訪れた家康の重臣・酒井忠次は、信長に真偽を問われて何も言えず、露見してしまいました。
結果として信康は切腹、築山殿も自害することになります。深井さんは、信長の命令でやむなくという通説のほか、家康が自分への対抗勢力として主体的に処断した説、その両方という説もあると紹介しました。
戦国の武士にとって死はどれだけ身近だったのか
樋口さんは、武士たちの過酷な環境は戦場だけではなく、家の中を含めて常に戦場にいる状態だったと指摘します。武田を牽制できたと思えば息子の裏切りが起きる家康の人生は、その典型でした。
この時代にいる人間たちの最も重要な行動原理の一つが、自分たちの生存なんですよね。
その一方で、死を覚悟したときはあっさり死ぬという側面もあったといいます。降伏時の自害や切腹はその例で、浅井長政も自害しています。
学者の見方として、当時の人々は現代人ほど死を重く捉えていなかった可能性が紹介されます。飢饉・疫病・天災の記録が際限なく出てくる時代で、死は日常の延長線上にあったと考えられています。
武田家の滅亡から本能寺の変へ
長篠の戦いから5年ほど後、再び高天神城をめぐる戦いが起こります。城にいた武田方は降伏を願い出ますが、家康は信長の指示もあってこれを許さず、討ち取りました。
このとき武田方は勝頼に救援を求めていましたが、勝頼は応えられませんでした。深井さんは、今川氏真が家康の救援要請に応えられなかったときと同じだと指摘します。
頼りにならないと見た木曽義昌や穴山信君らが信長方に寝返り、武田家は内部から崩れていきます。さらに2年ほど後、天目山の戦いで勝頼が敗れて自害し、武田氏は滅亡しました。
救援できず
高天神城からの救援要請に勝頼が応えられない
家臣の離反
木曽義昌や穴山信君らが信長方に寝返る
滅亡
天目山の戦いで勝頼が自害し、武田氏が滅ぶ
深井さんは、家臣の離反を悪意ではなく生存戦略として捉えます。どちらについた方が生き残れるかで主君を見限るのは、現代で業績の悪いスタートアップから人が離れるのと同じ構図だといいます。
樋口さんは、以前の回で信長が苦しい状況でも家康に3000の兵を送った話を思い出し、救援を出すことの意味がここで見えてくると話します。深井さんは、経営でも苦しいときにお金を出すには強い意志が要り、それは何を犠牲にするかという決断だと応じました。
そして武田滅亡と同じ年、秀吉の要請で移動中の信長が本能寺に泊まっていたところを、京都方面を任されていた明智光秀が襲います。本能寺の変によって、状況は再び大きく動き出すことになります。
まとめ
今回は、兵站とバックオフィスへの投資を武器に出世し、三大城攻めで中国地方を震え上がらせた秀吉と、武田との戦いや身内の裏切りに追われ続けた家康の姿が語られました。そこから見えるのは、生存こそが最大の行動原理だった戦国時代の過酷さです。
- 秀吉の強みは兵站力と、戦争のコスパを見極める力だったと言われている
- 三木・鳥取・高松の城攻めは、兵糧攻めを洗練させた心理戦でもあり、実態は非常に残酷だった
- 長篠の戦いの三段撃ちは、最新の研究では語られなくなっている
- 家康は嫡男・信康と正室・築山殿を失う事件に見舞われ、武田家は救援できなかった勝頼から家臣が離れて滅んだ
- 武田滅亡と同じ年に本能寺の変が起き、物語は次回へ続く



