寒冷化が漢とローマを同時に滅ぼした?
武則天編の第2回は、前回話した漢帝国の統治システムと滅亡の続きから始まります。楊さんがまず取り上げたのは、前回の後半で軽く触れた「地球の寒冷化」がもたらした影響の大きさです。
楊さんによると、後漢王朝の末期ごろに地球が寒冷化し、北方にいた遊牧民が南下してきました。その影響で東では漢帝国が、西ではローマ帝国が滅亡に向かったといいます。
(漢とローマは)どっちもだから影響受けたのね。例えばヨーロッパではゲルマン人が出てきたし、中国ではいろんな種類の遊牧民が出てくるわけですね。
遊牧民が南下した理由は、寒さで家畜に食べさせる草がなくなったからです。草のある地域まで下りてくると、定住する農耕民の漢民族とぶつかり、戦いに強い遊牧民が土地を奪っていきました。
ヨーロッパでは、フン族 ── 4〜5世紀にユーラシア西部へ進出した遊牧騎馬民族。その移動がゲルマン人の大移動を引き起こしたとされていますの到来によってゲルマン人が「ところてん方式」で押し出され、ローマ帝国に流れ込んだと楊さんは説明します。
寒冷化
後漢末期ごろ、ユーラシア全体が寒くなる
草の消失
遊牧民の家畜が食べる草がなくなる
遊牧民の南下
草のある地域を求めて南へ移動し、農耕民とぶつかる
帝国の崩壊
中国では漢帝国、西ではローマ帝国が滅亡へ向かう
中国では後漢王朝が崩壊し、約400年に及ぶ大分裂時代、魏晋南北朝時代に入ります。その後に統一王朝の隋唐帝国が現れるため、中国史は秦漢帝国、混乱期、隋唐帝国というサイクルで見られるといいます。
この時代は人口も大きく減りました。楊さんは、漢帝国のころに6000万人いた人口が、直後の時代には1500万人まで減ったと紹介します。戦争による減少でしたが、減った人口はなかなか戻りませんでした。
ヨーロッパについても、楊さんは以前の「性の歴史」の回で紹介した性の規制による人口減少の解釈に加え、寒冷化で生産性が落ちたという説明もできるのではないかと話します。深井さんは、複数の要因があってもおかしくないと応じています。
暗黒時代なのに、なぜ文化は花開いた?
人口が増えず、政治的にも分裂していた魏晋南北朝時代は、一見すると暗黒時代のように見えます。しかし楊さんは、この時代は暗黒時代ではないと強調します。
魏晋南北朝時代は多くの国の総称で、晋が20年間だけ統一したものの、基本的に統一王朝はほぼありませんでした。それにもかかわらず、この時代には文化が大きく花開きます。
楊さんが挙げた例は、画家の顧愷之 ── 東晋の画家。人物画にすぐれ、中国絵画史で「画聖」と称されることもある人物です、名文を集めた詩文集『文選』、道教や仏教の勃興です。書道の神様とされる王羲之 ── 東晋の書家。「書聖」と呼ばれ、後世の書道に大きな影響を与えましたもこの時代の人物です。
王羲之は俺も見に行ったんだけど、中国まで。よく分からなかったです。
楊さんは、春秋戦国時代も混乱期に思想が花開いたことから、中国は「混乱期に花開く系」ではないかと話します。深井さんは、混乱すると人は自分と向き合い、表現して考えるしかなくなるのかもしれないと応じています。
楊さんはもう一つの要因として、遊牧民の文化が入り、もとからいた民族の文化と混ざってハイブリッドが生まれたことを挙げます。この時代を経て、中国の統治者は遊牧民になっていくといいます。
中国というと漢民族の国という感覚があるんですけど、そうじゃないってことですね。
楊さんによると、遊牧民の流入で新しい文化や社会が生まれ、中国が生まれ変わったことが、のちに武則天の登場を許す下地になったといいます。
中国で「ヤンキーより大学生」がモテた理由
楊さんは次に、政治的に分裂した魏晋南北朝時代に、なぜ文化が交流し続けたのかを掘り下げます。文化は社会が安定していないと交流しないイメージがありますが、この時代は違いました。
書き起こしでは樋口さんの発言として、日本の織田信長回の話と比べた説明が出てきます。中央権力が弱まると土地を直接支配する者が力を持ち、強い者が頭領になる社会になる、という点は日本も中国も同じでした。
違ったのは、中国では地方の豪族が力を持つだけでは上に立てなかったことです。漢帝国400年の中で儒教 ── 孔子の教えを基にした思想。漢代に国家の正統な学問とされ、官僚の評価基準にもなりましたが人を評価する絶対的な基準になっていたためです。
儒教的教養が人の上に立つのに必須になっちゃってるんですよ。
戦闘力が高いだけでは人々にトップとして仰いでもらえないため、力を持った人は評価されようとして勉強を始めました。その結果、貴族文化が花開いていったといいます。
中国では武家社会ができず、文官が武官より上という社会が続きました。地方で力を持つ人が教養人になるため、中央の統一政権がなくても教養人が各地にいて、文化が交流し続けたという構図です。
樋口さんの発言として、この構図を「中学ではヤンキーがモテるが、大学では頭のいい人がモテる」と例える場面があります。楊さんは言いづらそうにしながらも、わかりやすくそうだと認めています。
日本はヤンキー社会なんですよね、やっぱり中世は。で、ここの中国の古代はやっぱり大学みたいな社会なんですね。
強い者が勝つ「ヤンキー社会」。武士が力で上に立ち、武家社会ができる
教養ある者が格好いい「大学みたいな社会」。儒教的教養がないと上に立てず、文官が武官より上
三国時代から晋の統一、そしてすぐ滅亡へ
楊さんは政治の流れを「超ざっくり」整理します。後漢では、宦官の下で働くことを嫌い儒教を深く身につけた清流派官僚が改革を試みますが、宦官につぶされました。
この弾圧である党錮の禁 ── 後漢末に宦官が清流派の官僚や知識人を弾圧した事件。2度にわたって起きましたによって、立派な人たちがほぼいなくなります。そのため黄巾の乱が起きても政治的に収拾がつかず、曹操、劉備、孫権が登場していきます。
楊さんによると、3人の中で断トツの教養人は曹操でした。遠征中も馬に乗りながら勉強し、当時の教養人の第一人者でもありましたが、赤壁の戦いで主に呉に防がれ、統一はできませんでした。
曹操の子の曹丕の代に、漢の献帝から皇帝の位を譲り受け、魏王朝が成立します。楊さんは、自分の代でやると反発が大きいと考えた曹操が、子の代に行うよう設計したと説明します。劉備は蜀で、孫権は呉で皇帝を名乗り、三国時代に入ります。
その後、魏の陣営にいた司馬懿の一族が功績を重ね、民衆の声望や貴族の支持を集めます。一方で曹操の家系は声望を落とし、司馬懿の孫の代に王朝が奪われて晋が成立しました。
晋は呉も滅ぼし、皇帝が一人になって何年ぶりかの天下統一を果たします。ただし、このときの人口は後漢時代の4分の1とされ、登録されていない人が多くいた可能性もあるといいます。
「中国じゃない」場所が中国になった江南開発
晋はわずか20年後に滅びます。楊さんは、国の名前は覚えなくてよく、なぜ統一されないのかがポイントだと話します。
三国時代の蜀と呉が国を作った場所は、当時の中華の概念では「もう中国じゃない」辺境中の辺境でした。そこに国ができて滅ぼされたことで、中国の範囲が広がっていきます。
特に呉があった江南地域は肥沃で食料生産性が高い一方、木が多く開拓が大変でした。寒冷化で遊牧民が南下してきたため、漢民族は新しい土地を求めて江南へ大移住し、江南開発が進みます。
晋が滅んだ後、この南の地域にできた王朝を南朝、華北の地域を北朝と呼びます。これが「魏晋南北朝」という名前の由来です。
ドラッグと哲学談義?竹林の七賢というカウンターカルチャー
書き起こしでは樋口さんの発言として、江南地域に貴族や文人も移り、江南にできた6つの王朝の文化が「六朝文化」として花開いたという説明が続きます。
貴族の起源は魏の九品中正法 ── 魏で始まった官吏登用制度。地方の人物を9つの等級に評価して推薦させる仕組みで、のちに家柄で固定化しましたにあります。実力を見るはずの仕組みでしたが、上位はいつも名家の出身という形で固定化していきました。
政治は腐敗する一方で、お互いを評論し合う文化が流行し、そこから清談 ── 魏晋時代に流行した、俗事を離れて哲学や思想を語り合う談論が生まれます。魏の時代には、大将軍・何進の孫とされる何晏がドラッグをやりながら哲学談義をする風潮を流行らせたといいます。
なんだその風潮。パンクですね。
その流れから、儒教ではなく老荘思想、つまり道教の影響を受けた「玄学」という哲学ジャンルが生まれます。さらに玄学の中から、有名な竹林の七賢 ── 魏晋の時代に、俗世を避けて竹林で清談を交わしたとされる7人の知識人が現れました。
竹林の七賢は、政治の混乱や晋による魏の簒奪に「やってられない」と竹林に引きこもり、哲学的な雑談をするサークルのような集団でした。筆頭格の阮籍は、儒学を修めた官僚が家に来ると白目をむいて対応したとされ、「白い目で見る」の語源になった人物だと紹介されます。
でもあれですよね、斜に構えた人集団ですよね、竹林の七賢って。
一方で、樋口さんの発言として「この時期にやっとカウンターカルチャーが出てくるようになった」という見方が示されます。楊さんも、それまで儒教という絶対的な基準があったからこそ、それに対するカウンターカルチャーとして老荘思想が出てきたと同意しています。
儒教が揺らがなければ、武則天は現れなかった
楊さんは、魏晋南北朝時代の最大のポイントを、ものすごく強かった儒教に対するカウンターカルチャーが出てきたことだと話します。これがなければ武則天は出てこられなかったといいます。
儒教概念の中で女性が皇帝になるなんて絶対にあってはいけないことなんですよ。
老荘思想や道教に加え、この後には仏教も入ってきます。楊さんは、三蔵法師として知られる玄奘 ── 唐の僧。インドへ旅して多くの経典を持ち帰りました。『西遊記』の三蔵法師のモデルですと武則天がほぼ同時代の人物だとも補足しています。
書き起こしでは樋口さんの発言として、遊牧民の社会では農耕民と比べて女性の地位が違うという点も挙げられます。楊さんは、遊牧民は農耕民より女性の地位が高く、男尊女卑ではあっても、遊牧民王朝でなければ女性皇帝はまず無理だったと話します。
楊さんは、ここまでの話を一つの構図にまとめます。教養ある人が格好いいという価値観が混乱期の文化を支え、同時に政治の混乱で儒教の立場が下がったことで、カウンターカルチャーが出てこられたという流れです。
儒教の浸透
教養ある人が格好いいという価値観が定着する
教養人の地位維持
政治的混乱期でも教養人が地位を保ち、文化と哲学が交流する
儒教の相対化
政治の混乱で儒教の立ち位置が少しずつ下がる
カウンターカルチャー
老荘思想や道教、仏教、遊牧民文化が広がる
武則天の土壌
女性が皇帝になりうる素地が生まれる
楊さんは、魏が漢のシステムを抜本的に変えられなかったのも、三国時代の混乱でみんなが疲弊していたからだろうと話します。中国史では無常感を味わってほしいとも語っています。
現代の中国でさえそうだと思いますよ。あの人たちが今あのようであることは、あらゆるしょうがないことが重なりまくってああなってますから。
次回は、異民族の流入が中国をさらにどう変えたのか、そして晋が滅びた後の政治の変遷を取り上げる予定だと予告して、この回は終わります。
まとめ
魏晋南北朝時代は、寒冷化と遊牧民の南下で分裂と人口減少が続いた一方、儒教的教養を重んじる社会のおかげで文化が花開いた時代でした。そこから生まれた老荘思想などのカウンターカルチャーと遊牧民文化が、武則天登場の土壌になったと語られています。
- 寒冷化による遊牧民の南下は、漢帝国とローマ帝国の滅亡に共通する背景として語られた
- 中国では儒教的教養がないと上に立てず、混乱期でも教養人が地位を保って文化が交流した
- 江南開発によって中国の範囲が南へ広がり、南朝と北朝が生まれた
- 竹林の七賢に代表される老荘思想は、絶対的だった儒教へのカウンターカルチャーだった
- 儒教の相対化と遊牧民文化の流入が重なったことで、女性皇帝・武則天が現れる素地ができた


