新聞記者がコテンラジオに来た理由
コテンラジオ番外編の今回は、リスナーとの縁から、西日本新聞社社会部の中原孝平さんをゲストに迎えています。冒頭で楊さんは、ポッドキャストのリスナーが2万2000人ほど、YouTubeの登録者が6800人ほどに増えたことを報告しました。
中原さんがコテンラジオを知ったのは、通勤中に聴いているという社内の先輩からの紹介でした。歴史好きの中原さんは、こういう伝え方があるのかと刮目する思いで聴いたといいます。
樋口さんは、九州で暮らす人にとって西日本新聞は一番有名な新聞だと話します。飲み会で中原さんと知り合い、ペシャワール会 ── 医師・中村哲さんのパキスタン、アフガニスタンでの医療活動を支えるために福岡で結成された非政府組織。のちに井戸掘りや用水路建設など農村復興にも取り組みましたの中村哲さんを長年取材してきた話を聞いて、リスナーにも届けたいと考えたのが今回の収録のきっかけです。
(中原さんは)ペシャワール会の中村哲さんという日本の医師の方で、アフガニスタンで奉仕活動をしてた方をずっと取材されてて。
中村哲さんは前年にアフガニスタンで銃撃され、ニュースになりました。樋口さん自身も詳しくは知らなかったため、その話を深く聞きたいという思いがあったようです。
精神科医はどうしてペシャワールへ渡ったのか
中原さんは中村哲さんを一言で、福岡出身の医師でありながら、アフガニスタンで用水路を掘り、荒れ地や砂漠を緑に生まれ変わらせる人道支援を続けてきた人物だと紹介します。その活動の最中、昨年に銃撃されて亡くなりました。
絶対日本で同じ人がやらないですよね。
医者と用水路という組み合わせに、出演者たちは驚きを隠しません。中原さんも、しかもそれを何十年も続けたのだと応じます。ごく最近にはアフガニスタンの大統領から名誉市民のような称号も授与されていました。
中村哲さんは九州大学を出て、国内で精神科医として働いていました。その後、キリスト教関係の団体からの要請に応じ、パキスタン北西部のペシャワールにあるミッション病院に勤めたのが、現地との最初の縁だったといいます。
ペシャワールでの中村哲さんは、当初ハンセン病 ── らい菌による慢性の感染症。皮膚や末梢神経が侵され、かつては強い差別や隔離の対象になりました。現在は治療法が確立していますの患者を主に担当していました。中原さんによれば、最初は用水路の計画などまったくなかったはずだといいます。
ちなみに中村哲さんは、楊さんにとって福岡高校の大先輩にあたります。
医療より先に水が必要だった
ペシャワールはアフガニスタンとの国境に近く、病院の患者の多い時は半分ほどが、国境を越えて診察に来るアフガニスタンの人々でした。アフガニスタン側の山間部には、ほとんど医者がいなかったということです。
中原さんによれば、国境の両側にはもともと同じ民族が住み、国境は諸外国の事情で引かれたものでした。中村哲さんは、ハンセン病の根絶にはアフガニスタン側でも治療が必要だと考え、峠を越えて小さな病院を建てていきます。
転機は2000年に中央アジアを襲った大干ばつでした。大地がひび割れるほど水がなくなり、病気を治す前に体力が落ちてしまう人々を前に、中村哲さんは「病は後で治す、とにかく生きておれ」という考えで井戸を掘り始めます。
ところが井戸を掘るうちに、地下水そのものが枯渇していることがわかってきました。残る手段は川から水を引くことで、ここで用水路を掘るという選択に至ります。
病院を建てる
ハンセン病治療のため、アフガニスタン側に小さな病院を作る
大干ばつ
2000年、中央アジアで水がなくなり、人々の体力が落ちる
井戸を掘る
まず生きることが先だと、日本人ボランティアとも連携して井戸を掘る
地下水の枯渇
井戸の水源そのものが尽きていることがわかる
用水路を掘る
川から水を引くために用水路を作る
用水路を掘れた。掘れる技術あったんですか。
深井さんの疑問どおり、中村哲さんは土木については全くの素人でした。ただアフガニスタンの農村の用水路は日本のようなコンクリート製の大規模なものではなく、素朴な作りだったため、自分にもできるかもしれないと考えたそうです。
設計には高度な計算が必要でした。中村哲さんは娘さんの数学の教科書を借りて微分や積分を学び直し、何メートル進むと何センチ下がるかという勾配を引いていったといいます。
作業は現地の人々と一緒に進めました。長年の医療活動で信頼はすでに築かれており、現地では「ドクターサーブ・中村」と呼ばれていました。サーブは「何々様」にあたる敬称です。言葉も現地のパシュトゥー語を自ら身につけていたと考えられます。
「単に遊びに行って足が抜けなくなった」原点
長い活動の中で、中村哲さんは帰ろうと思ったことが何度もあったと中原さんに語っています。九州で開業医をしていてもおかしくなかったが、にっちもさっちもいかなくなるたびに、誰かが助けてくれたり天が味方したりする巡り合わせがあったのだといいます。
ペシャワールに向かった原点は、子どもの頃からの自然好きにありました。山や虫や花が好きだった中村哲さんは、パキスタンやアフガニスタンの高山を目指す登山隊に、医師の役割も兼ねて加わります。
登山隊に医者がいると聞きつけて、現地の患者が次々と集まってきました。しかし道具も十分になく、満足に診ることができなかった経験が、ずっと心に残っていたそうです。同時に、その土地を「いいところだ」と感じた親近感も生まれました。
中村哲さん自身は、この経緯を「単に遊びに行って、のっぴきならない状況に次々と遭遇し、足が抜けなくなっただけ」と表現していたといいます。中原さんは、そんな単純なわけはないが、中村哲さん一流の言い方だと受け止めています。
中原さんにとって中村哲さんは憧れの人でした。会った印象は朴訥としておっとりした人で、声を荒げることもない人物です。一方で現地では、現場監督、全体のリーダー、設計者を兼ね、重機の操作までこなしていました。
国内では背広を着て講演活動を続けていましたが、どこか居づらそうに見えたそうです。重機の運転は楽しかったらしい、という中原さんの話に、出演者たちも笑います。
任侠の祖父と論語、そしてクリスチャンとして
樋口さんは、キリスト教徒であることが中村哲さんの活動の動機にどう影響したのかを尋ねます。中原さんは、信仰は人格や人生そのものを形作るものだろうとしたうえで、「クリスチャンだからする」という単純な話ではないのではと答えました。
中原さんが挙げたのは、北九州・若松で石炭を積み出す荒くれ者たちを率いた任侠、玉井金五郎です。玉井金五郎は中村哲さんの祖父にあたり、甥にあたる芥川賞作家火野葦平 ── 福岡県若松出身の作家。『糞尿譚』で芥川賞を受賞し、父・玉井金五郎をモデルにした小説『花と龍』でも知られていますの小説に描かれて有名になりました。
その世界の教えは「弱きを助けろ」というものでした。中村哲さんは祖母から、弱い者を助けろ、どんな小さな命も大事だ、理不尽を言うな、と叩き込まれ、その教えが自分の根源にあると語っていたそうです。
さらに父からは論語 ── 孔子とその弟子たちの言行を記録した儒教の古典。「義を見てせざるは勇無きなり」など、人としての生き方を説く言葉が多く収められていますを何度も読むよう言われていました。中原さんはこれを「義を見てせざるは」の世界だと表現します。クリスチャンになったのは、ミッション系の学校に進学してからでした。
中村哲さんは、真っ当に生きるという意味では、どの教えも似ているところがあるのではないかと話していたといいます。一方、アフガニスタンはイスラム教徒が99パーセントといわれる国で、中村哲さんは現地でただ一人の異教徒でした。
文化の違う土地でどう信頼を得たのかを中原さんが現地で尋ねると、中村哲さんの答えは「そういうのはね、問題にするからなるんですよ」というものでした。
中村哲さんは、自分がクリスチャンであることは皆知っているが、日本やキリスト教のやり方を押し付けないので、向こうも押し付けてこないと話していたそうです。作業現場の川辺で現地の人々が祈る時間にも、何か言うことは決してありませんでした。互いに尊重し合っておけば困ったことは一度もないという、拍子抜けするほどシンプルな考え方です。
すごいシンプルだけど、問題にしないと問題にならないっていうのは本質的にそうだなと、自分も経験上すごい思います。
非武装こそが最も確実な防衛
楊さんは、中村哲さんが現地の人々に慕われていると感じた場面はあったかを尋ねます。中原さんは、治安の悪いアフガニスタンで長く活動を続けられたこと自体が、現地の人々が守ってきた証しだと答えました。
中村哲さんの周辺には他の日本人も欧米人もおらず、ジーパンをはく人は一人もいない土地でした。宿舎や事務所があった東部の街ジャララバードでも、自爆テロを含むテロがとんでもない数起きていたといいます。
現地では自衛のために銃を持つのが当たり前でした。それでも中村哲さんは、部下のアフガン人たちに「絶対撃ち返すな」と言い続け、病院も完全な非武装とし、門番に銃を預けてから入るよう求めていました。
丸腰になるのはとんでもなく怖いことですが、中村哲さんはそれを貫き、非武装が最も安価で確実な防衛だと語っていたそうです。中原さんは、その姿勢をずっと見てきたことで現地に信頼が広まったのではないかと考えています。
長老と客人歓待、ケシ畑が小麦畑に変わった理由
樋口さんは、日本や欧米からは想像しにくいアフガニスタンの社会についても尋ねます。中原さんは、自分の理解はごく一部だと前置きしたうえで、長老の存在を挙げました。
中村哲さんによれば、アフガニスタンは本来、小麦の取れる豊かな農業国でした。農業はチームでしかできないため農村のシステムがあり、経験と人徳のある長老のリーダーシップの下で村が営まれ、皆が食べていけるのだといいます。
そのため長老の力は大きく、行政とは別に長老たちの寄り合いで物事を話し合い、解決しています。長老には家族単位から村単位まで段階があり、さらに大きな単位の長老会議もあるそうです。
中原さんは一度だけ農村で長老に会えました。白く豊かな髭の、映画に出てくるような老人です。砂糖をたっぷり入れた緑茶を出され、「あなたが暗くなるまでここにいても、何も起きないことを私が約束する」と言われて、初めて安心できたといいます。
その安心の裏付けが、パシュトゥーン人のおきてパシュトゥーンワリです。最も大事なものの一つが客人歓待で、招いた客は争いが起きても絶対に守り抜くとされています。
干ばつで暮らしが成り立たなくなると、この長老の力、つまり村の治安の力も落ちていきます。小麦が作れなくなった農民は、乾燥に強く違法なケシを作って現金を得たり、家族を食べさせるために兵隊になったりせざるを得ませんでした。
干ばつ
水がなくなり小麦が作れなくなる
生きるための選択
違法なケシの栽培や、兵隊になる人が出てくる
村のルールの崩壊
農業のための農村のルールから逸脱する人が増える
治安の悪化
長老の力が落ち、地域が不安定になる
逆に小麦が作れるようになれば、人々は自然と集まり、ルールを守って暮らせるようになり、治安が良くなります。中原さんは、水を通して食べられるようにすることが平和を作ることにつながっていたと語ります。
経済的な安定が心の安定につながるみたいな。
樋口さんは、衣食が足りて初めてルール作りができるという古代中国の管仲の考え方と同じだと指摘しました。
中原さんが現地を訪れた際、中村哲さんは作業現場へ向かう車中で、この辺りのケシ畑がなくなったと何度も口にしていたそうです。アフガニスタンは世界最大のケシ生産国といわれますが、誰も好きで作っているわけではない、と中原さんは話します。
水がなく、しかたなくケシを作ったり兵隊になったりする
水が来て小麦を作れるようになり、本来の農民として暮らせる
群雄割拠の土地で、命をかけて「楽しい」
樋口さんは、行政は水不足に何もできないのかと問います。中村哲さんがよく話していたのは、日本のような中央集権国家を想像すると違い、首長国の連合や日本の戦国時代のようなイメージのほうが近い、ということでした。
中央政府への期待はもともと大きくなく、軍閥と呼ばれる勢力も割拠しています。食べられなければ兵隊になる人も多く、その雇い手については中原さんも言葉を慎重に選んでいました。
じゃあ戦国時代によそから来て、灌漑事業やったってことですよね。そう考えると相当すごいよね。
そうした土地で、中村哲さんは細心の注意を払っていました。現地の言葉はペラペラでしたが、州政府の役人が来る場や式典などの公式の場では、あえて英語で話していたといいます。
現地の言葉を流暢に話す
自分は英語で話し、腹心の医師が現地の言葉に通訳する
取り違いがあれば何が起こるかわからないため、喋れるのに慎重を期していたのです。中原さんは、安全なら皆がこぞって行くはずで、危ないからこそ行っていたのだと話します。
危険地帯の情報は、側近の運転手など現地の人々が把握していました。中原さん自身も、行きたかった場所を「今あそこは行けなくなっている」と止められた経験があるそうです。
本当に命かけてやってたってことですよね。
それでも中村哲さんは、活動を「楽しい」と語っていました。特にショベルカーのような重機の運転が大好きで、乗るとなかなか降りてこなかったといいます。話は次回へと続きます。
まとめ
前編では、精神科医として現地に渡った中村哲さんが、干ばつを前に「医療より先に水」と考えて用水路を掘るに至った経緯と、宗教や文化の違いを越えて信頼を得た姿勢が語られました。
- ハンセン病治療から始まった活動は、2000年の大干ばつを機に井戸、そして用水路へと広がった
- 祖母の「弱い者を助けろ」という教えや論語、キリスト教が中村哲さんの根にあった
- 宗教の違いは「問題にするからなる」と考え、押し付けずに互いを尊重した
- 非武装を貫くことが、最も安価で確実な防衛だと考えていた
- 水が来て小麦が作れるようになることが、農村の秩序と平和を取り戻すことにつながった



