23歳で即位したフマーユーンは何を抱えていたのか
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ムガル帝国を建てたバーブルが亡くなると、長男のフマーユーンが23歳で後継者として即位します。伝えられている人物像は、温厚で高潔、社交的で知性があり、振る舞いも上品というものでした。
べた褒めじゃん。
一方で、フマーユーンはアヘン ── ケシの実から採れる麻薬。鎮痛や鎮静の作用があり、当時の西アジアや南アジアでは薬としても用いられていましたを習慣的に吸っていたとも伝えられています。楊さんによれば、アヘンの常用はムガル朝の皇帝たちに共通する特徴の一つだといいます。
父のバーブルも、アヘンを練り薬に混ぜて食べていたそうです。番組では、当時のアヘンは薬として扱われていた面があり、現代の「麻薬は犯罪」という感覚で見ると理解を誤るかもしれない、と話されています。
へー、ちょっとだから我々の感覚だと麻薬って感覚。
即位したフマーユーンの前には課題が山積みでした。建国直後で王権が固まっておらず、財政も脆弱です。本拠地のカーブルとインドの間にあるアフガニスタン方面の勢力はまだ征服できていませんでした。
フマーユーンの立場は、楊さんの言葉でいえば、デリーを落としたので滞在しているものの、中央アジアから「出張してきている」ような状態でした。さらに弟たちが皇位を狙っており、フマーユーンは弟たちに領地を渡して落ち着かせたうえで、アフガニスタン方面に集中しようとします。
シェール・シャーに敗れ、一度は消えたムガル帝国
フマーユーンはアフガン勢力のシェール・シャーと戦いますが、33歳ごろに2度敗北します。帝国の中心拠点だったデリーや、のちにタージ・マハルが建つアーグラも奪われ、弟たちも落ち延びました。
楊さんは冗談めかして「ムガル帝国編完」と言い、この時点で帝国は一度なくなったと説明します。
バーブル作ったのに。
フマーユーンはカーブルに戻り、インドへ再進出する機会をうかがいます。この逃亡生活のなかで、逃亡先の有力者の娘ハミーダ・バーヌー・ベーガムハミイダ・バーノー・ベーガムに何度もプロポーズして結婚しました。
亡命中のフマーユーンとハミーダのあいだに生まれたのが、のちのアクバル大帝です。先の見えない逃亡生活を送るフマーユーンにとって、アクバルの誕生は希望の光だったといいます。
3代目皇帝になるんだ。
いいな。子供がね、希望の光。いい話だね。
爆発事故と階段からの転落。事故死が続く皇帝たち
フマーユーンを破ったシェール・シャーは名君だったそうです。行政官による統治、貨幣での納税、商業を妨げる税の撤廃、道路網の建設、貨幣の鋳造といった改革を進め、その成果はのちにムガル帝国が受け継いでいきます。
ところがシェール・シャーは、砲弾の誤爆による事故で亡くなります。シェール・シャーのスール朝 ── シェール・シャーが北インドに建てたアフガン系の王朝。1540年代から約15年続き、シェール・シャーの死後は内紛で弱体化しましたでは内乱が起こり、フマーユーンはサファヴィー朝の援助を受けてインドに再侵攻しました。
援助の見返りに、フマーユーンはスンナ派からシーア派に改宗したとされます。翌年にデリーを奪還してスール朝を滅ぼし、15年ぶりに王位へ復帰しました。
復帰までの間、フマーユーンは弟たちとも争い続けていました。次男カームラーンはシェール・シャーと裏で取引して裏切り、フマーユーンはのちにカームラーンの両目を潰してメッカ巡礼に送り出しています。この地域では、メッカ巡礼に送り出すことが追放を意味したそうです。
王位に復帰してわずか半年後の1556年、フマーユーンはデリー城内の図書館の階段から転げ落ちて亡くなります。47歳でした。礼拝の呼びかけが終わるまで階段の2段目に座り、杖で体を起こそうとしたところで杖が滑ったと記録されています。
バーブルの父も小屋から落ちて亡くなっており、番組では事故死、兄弟同士の殺し合い、戦死がとにかく多いと驚かれています。出演者たちは、これほど過酷な世界だからこそアヘンを吸っていたのではないか、と個人的な感想として語っています。
文字が読めなかった大帝アクバルの幼少期
3代目のアクバルは、インドが生んだ最も偉大な支配者と呼ばれることもあり、紀元前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王 ── インドの大部分を統一したマウリヤ朝の王。仏教を保護し、各地に法を刻んだ石柱や磨崖碑を残したことで知られますと並び称されます。アクバルは、この後100年以上続くムガル帝国の権力基盤を築きました。
息子のジャハーンギールは、父アクバルについて、背丈は中くらいだが実際より高く見え、胸が広く手の長いライオンのような体をしていたと書き残しています。声は大きく朗々と響き、鼻の左脇にエンドウ豆の半分ほどのほくろがあったそうです。
アクバルの幼少期は過酷でした。フマーユーンが兄弟と争っていたころ、幼いアクバルはおじに人質として捕らえられ、フマーユーンが攻めてくると城壁に吊るされたといいます。
またアクバルには、学習障害の一つであるディスレクシア ── 知的な能力に問題はないものの、文字の読み書きに困難を抱える学習障害。現代では俳優のトム・クルーズさんが公表していることでも知られますがあったと言われています。家庭教師がどれだけ教えても文字は読めませんでしたが、行政文書や歴史書、文学書を人に読ませて聞き取り、暗記していったとされます。
力が強かった逸話も残っています。3歳になる少し前、いとこのイブラヒムと太鼓を取り合って口げんかになり、アクバルがイブラヒムを持ち上げて地面に叩きつけたという話です。番組でも、本当かなという反応が出ています。
13歳の即位と、バイラム・ハーンや後宮との権力闘争
フマーユーンが亡くなったとき、アクバルはパンジャーブ地方でアフガン勢力の反乱鎮圧にあたっていました。父の死を聞いたアクバルは、13歳で皇帝に即位します。
即位直後のアクバルの地位は不安定で、スール朝の残存勢力がデリーとアーグラを一時奪い返しています。番組では、奪ったり奪われたりのサイクルが早すぎると話題になりました。
この危機を抑え込んだのが、摂政のバイラム・ハーンです。バイラム・ハーンは初代バーブルの代から仕えてきた重臣で、のちに宰相として国家のナンバー2になります。
ところが成長したアクバルにとって、権勢を強めるバイラム・ハーンは邪魔になっていきます。アクバルが19歳のとき、50歳を超えていたはずのバイラム・ハーンは、アクバルのいとこにあたるサリーマ・スルターン・ベーガムサーリマー・ベーガムと結婚し、皇帝家と血縁を結ぼうとしました。
アクバルは、バイラム・ハーンを嫌っていた乳母などの後宮勢力を使ってバイラム・ハーンを追放します。反乱を起こして捕らえられたバイラム・ハーンは、許されてメッカへ送られる途中で殺されました。楊さんは、中国の宦官の例を挙げ、皇帝に近い後宮は権力を持ちやすい立場だと説明しています。
今度は後宮勢力が口を出すようになります。乳母の息子が、アクバルの任命した宰相を勝手に殺したことで、20歳のアクバルは激怒し、乳母の息子を後宮のテラスから2度投げ落として殺しました。乳母も40日後にショックで亡くなったと言われています。
摂政バイラム・ハーン
13歳で即位したアクバルを支え、宰相として権勢を強める
後宮勢力の利用
乳母らの力を借りてバイラム・ハーンを追放
後宮勢力の排除
宰相を殺した乳母の息子を処刑
専制の強化
内部勢力を倒し、皇帝への権力集中が進む
出演者たちは、日本の戦国時代にも弟殺しや切腹はあるものの、目をくり抜く、首の塔を作るといったユーラシアの容赦のなさとは次元が違うと話します。日本史研究者の本郷和人本郷先生さんが「日本はぬるい」と言っていたことにも触れ、ぬるくて良かったと語られています。
2万4000冊を耳で読む。人力オーディブルの皇帝
内部勢力を倒して専制を強めたアクバルは、好奇心が強く、抜群の記憶力を持っていたと言われます。父フマーユーンが亡くなった図書館には2万4000冊の蔵書があり、アクバルは定期的に本を朗読させて知識を吸収していきました。
番組では、アクバルの読書法が「人力オーディブル」と表現され、楊さんは「スケーラビリティのないオーディブル」「コストをかけたオーディブル」と重ねています。
アクバルはスポーツや格闘も好きで、馬に乗ってボールを打つポロも楽しんだそうです。イスラームでは不浄とされる犬を飼っていたとも伝えられます。
大食漢で、7人の妃を持ち、後宮には300人もの女性がいたとも本に書かれています。ただし楊さんは、それをもって性欲が強いとするかどうかは著者の認識の問題だろう、と留保をつけています。
ラージプートとの融和と「九つの宝石」
インドに来て3代目となると、ムガル帝国には「自分たちはインドの国だ」という土着の感覚が出てきます。ここで大きな転換点になるのが、インドの武士的な諸勢力ラージプート ── 北インド・西インドを中心に割拠したヒンドゥー教徒の戦士階層・諸王家の総称。ムガル帝国とは戦いと同盟を繰り返しましたとの融和政策です。
アクバルはラージプートの娘と結婚し、ラージプート勢力を王権の中に取り込んでいきます。ペルシア人など外国人勢力で統治する選択肢もありましたが、すぐ裏切るなど信頼できなかったため、ラージプートと組む方針にしたといいます。
アクバルの宮廷には「九つの宝石」と呼ばれる9人の傑物がいました。番組で紹介されたのは、次のような人物です。
| 人物 | 役割 | 補足 |
|---|---|---|
| アブル・ファズル | 歴史家 | のちにサリームに謀殺される |
| ファイズィー | 詩人 | - |
| ラージャ・ビールバルラージャ・ビール | 哲学系の側近 | 「アクバル帝のアリストテレス」と呼ばれた |
| マーン・シング | アンベールの王 | ラージプートの王と考えられる |
| ターンセン | 楽師 | ヒンドゥー音楽をムスリムにも理解できるよう工夫した |
楽師のターンセンは歌も太鼓も演奏もこなしたそうです。番組では、知識と芸術に彩られた豊かな宮廷だという感想が出ています。
5つの宗教を混ぜた新宗教と、スーフィズムの感覚
アクバルは宗教にも強い関心を持っていました。少数派のムスリムが大多数のヒンドゥー教徒をまとめなければならない状況を課題と感じ、あらゆる宗教を一つにまとめたいと考え始めます。
アクバルは、ヒンドゥー教、イスラーム教、ジャイナ教、ゾロアスター教、キリスト教を混ぜ、アクバル自身を崇拝する前提の新宗教ディーネ・イラーヒー ── アクバルが提唱した宗教的な教え。「神の宗教」を意味し、諸宗教の要素を取り入れましたが、宮廷の一部に広まっただけで定着しませんでしたディーニー・イラーヒーを作ります。しかし皇帝が勧めても信者は3000人ほどにとどまり、立ち消えになりました。
番組では、少数が多数を統治する課題について、分断して内紛させたイギリスのやり方とは逆に、ムガル帝国はみんなを一つにしようとして失敗した、と整理されています。
一方で、アクバルがヒンドゥーと相性が良かった理由として、出演者の一人はアクバルがスーフィズム ── イスラームの神秘主義。踊りや神への賛美を唱えることで神との一体感を求める実践で、スンナ派・シーア派の両方に見られますを重んじていた点を挙げます。
スーフィズムは形式よりも感覚や身体性を重視し、音楽に乗って踊りながら神と一体になろうとします。ヒンドゥーもヴェーダの時代から神への賛歌など音楽を大事にしてきたため、言葉では分かり合えなくても音楽なら共有できる感覚があったのではないか、と語られています。
当時の記録には、ムスリムのスーフィーがヒンドゥーの教団で修行した例も残っているそうです。楊さんは、世界史の資料集に出てくる、スカートのような衣装で白い帽子をかぶりくるくる回る写真がスーフィズムだと補足しています。
ジズヤ廃止とサティ禁止。ヒンドゥー社会への歩み寄り
宗教の統一には失敗したものの、アクバルはラージプートとの融和を着実に進めます。当時のムガル帝国はアクバルの代でようやく北インドを統一した程度で、アクバルはラージプートとの同盟を結んでいきました。
税制でも大きな変化がありました。アクバルはヒンドゥー教徒にかかっていた聖地巡礼税を廃止し、さらにジズヤ ── イスラーム王朝で非ムスリムに課された人頭税。払えば信仰の自由が認められる仕組みで、ムスリムには課されませんでしたも廃止します。
ヒンドゥー教徒は聖地巡礼税とジズヤを払い、ムスリムより不利な立場
両方を廃止し、ムスリム優遇をやめてフラットな扱いに
楊さんは、ジズヤの廃止は「いきなり所得税がなくなった」ような世界で、ヒンドゥー教徒には嬉しかったはずだと説明します。これは優遇ではなく、不利だった状態をフラットにする政策だったという整理です。
一方でアクバルは、ヒンドゥー社会の幼児婚や、夫の死後に妻が殉死するサティ ── ヒンドゥー社会の一部で行われた寡婦殉死の風習。夫の火葬の火に妻が身を投じるもので、のちにイギリス統治下で法的に禁止されましたを禁止しました。ただし禁止しても実際には行われており、「やるな」とは言ったという位置づけです。
背景として紹介されたのが、ヒンドゥー教徒の行動規範を示したマヌ法典 ── 古代インドで成立したとされる法典。社会身分や日常の規範を定め、後世のヒンドゥー社会に大きな影響を与えましたです。女性は子どものときは父、若いときは夫、夫の死後は息子の支配下に入り、独立してはならないと書かれているといいます。
楊さんは、今の人権の感覚から見て良い政策に見えても、そうした見方で評価することに意味はないと注意を添えています。また出演者の一人は、アクバルは融和的だったもののヒンドゥー教を異教として捉えるスタンスは崩さず、「ヒンドゥー」という言葉が宗教のカテゴリーとして使われるようになったのもこの時代だと補足しています。
徴税権は渡しても土地は渡さない。マンサブダーリー制
アクバルはインド西北部や西部へ版図を広げ、ファテープル・シークリーへの遷都も行います。版図拡大、融和政策、内部勢力の抑え込みによって中央集権体制が確立し、中央アジアの部族的国家から出発した国が、インド的なイスラーム帝国へと変わっていきました。
アクバルの時代に確立した官僚制がマンサブダーリー制 ── ムガル帝国の位階制度。官僚に位階を与え、その位階に応じた徴税権と騎兵の維持義務を課しました。ジャーギール制とも呼ばれますです。土地の徴税権を与える代わりに、徴税規模に応じた騎兵を用意する義務を課す仕組みです。
楊さんは、土地を与えることと徴税権を渡すことは「似て非なるもの」だと強調します。マンサブはペルシア語で位階、ダールは持ち主を意味し、ムガル帝国の公用語はペルシア語でした。
土地そのものを与え、世襲できる
土地は与えず徴税権だけを渡し、ルール上は世襲できない
ただし本によっては、位の高い貴族が父の代からマンサブを受け継ぐこともあったと書かれており、事実上の世襲化も起きていた可能性があります。
制度には穴もありました。位階をもらった人々は騎兵の維持費を嫌って規定数以下しか馬を維持せず、参軍命令が来ると慌てて訓練を受けていない者で数合わせをしたそうです。防止策として、馬に焼印で番号を付けていたといいます。
それでも、世襲できず、徴税権を移したり没収したりできることで、皇帝は家臣をコントロールできるようになります。番組では徳川家康の回にも触れ、リソースの分配権が権力になるという構造が改めて確認されています。
長男サリームとの確執と、やつれた晩年
順調に帝国を固めたアクバルの大きな悩みは、後継者である長男サリーム、のちのジャハーンギールとの関係でした。アクバルはサリームの誕生を聖廟に祈って待ち望み、最高の教育を施そうとしましたが、思うようには育ちませんでした。
サリームは飲酒と快楽の生活を送り、アーグラにある父の金庫を勝手に使おうとしたり、ビハール州の地税を横取りしたりします。さらに反乱を起こして皇帝を名乗り、説得に来た九つの宝石の一人アブル・ファズルを謀殺しました。
アクバルの次男はアルコール依存症ですでに亡くなり、三男もアルコール依存症で余命わずかでした。孫のフスローを後継にすることも考えましたが、それはサリームを殺すことを意味します。アクバルは下痢か赤痢と思われる病気で死期が迫るなか、苦渋の決断でサリームに王位を譲りました。
晩年のアクバルは息子との不和にひどく落ち込んでいたらしく、やつれた肖像画が残っています。出演者たちは、これほどはっきり哀愁が漂う肖像画はなかなかないと話しています。
次回は、4代目ジャハーンギールから、タージ・マハルを造ったシャー・ジャハーン、最大版図を築いたアウラングゼーブまでを扱い、最盛期から衰退までをたどる予定です。
番組の最後には、国としてのムガル帝国は勃興していく一方、中にいる人々のウェルビーイングはとても低いという対比が語られます。皇帝たちはアヘンか酒のどちらかに頼っており、楊さんは「せめて兄弟同士で信頼し合えたらいいのに」と締めくくっています。
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まとめ
フマーユーンは一度国を失いながらも15年ぶりに王位を取り戻し、その子アクバルが権力闘争、ヒンドゥーとの融和、官僚制の整備を通じてムガル帝国の礎を築きました。その栄光の裏には、事故死、兄弟争い、親子の確執が絶えない過酷な人生がありました。
- フマーユーンはシェール・シャーに敗れて国を失ったが、シェール・シャーの事故死を機に15年ぶりにデリーを奪還した
- アクバルは13歳で即位し、摂政バイラム・ハーンや後宮勢力を排除して専制を強めた
- ラージプートとの婚姻・同盟、ジズヤや巡礼税の廃止により、ムスリム優遇をやめる融和政策を進めた
- 土地ではなく徴税権を与えるマンサブダーリー制が、皇帝への中央集権を支えた
- 晩年のアクバルは長男サリームとの不和に苦しみ、失意のうちに王位を譲った







