ティムールとチンギス・カンの血を引く少年
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ムガル帝国第7回目なんですけども、前回はね、ティムールが攻めてきたというところが結構印象的な事件になりましたけども、今回ついにムガル帝国ができるというところですかね。
今回のエピソードは、インドにムスリム系王朝がいくつか続いたあと、ついにムガル帝国の時代が来るという段階から始まります。楊さんによれば、それまでの王朝は統一王朝ではなく、ムガル帝国が大帝国を築いたからこそ有名なのだといいます。
ムガル帝国の初代皇帝はバーブルです。バーブルは、現在のウズベキスタンのあたりにあたる中央アジアのフェルガナ地方で、小国の君主の男子として生まれました。
バーブルが生まれたのは、ティムールの死から80年ほど後のティムール朝の中で、楊さんは「江戸時代の薩摩藩で生まれた」ようなものだと例えています。バーブルの血筋は、父方がティムール、母方がチンギス・カンにさかのぼるとされます。
うわ、怖い血筋やな。
ただし、母方がチンギス・カンの末裔であるというのは、バーブル自身がそう自称していたと書く本もあり、真偽ははっきりしないと補足されています。
バーブルの生まれたフェルガナは天山山脈 ── 中央アジアを東西に走る大山脈。シルクロードの交易路はこの山脈の南北を通っていましたに囲まれ、シルクロードの主街道が貫く土地です。番組の以前のシリーズで扱った玄奘 ── 唐代の僧。インドへ仏典を求めて旅し、その記録は『大唐西域記』として残っていますが雪山で困った山脈でもあり、フェルガナはひときわ豊かで風光明媚な国だったといいます。
父の事故死と、11歳から始まる奪い合い
バーブルが満11歳のとき、父ウマル・シャイフ・ミールザーは、城壁の絶壁に張り出して作られたハト小屋でハトに餌をやっていたところ、小屋ごと崩れ落ちて事故死しました。
父の死をきっかけに、別々の叔父2人がバーブルの国を奪おうと攻めてきます。楊さんはこれを「中央アジアリーグのやばいところ」と表現し、深井さんもこう反応しています。
ゴリゴリの実力主義ですね。実力主義がもう極まった状態がこんな感じでしょうね。
11歳のバーブルは、祖母の助けを借りてこの危機を切り抜けました。バーブルは後に回想録で、祖母イセン・ダウラト・ベギを「女性たちの中で意見、判断力において私の祖母ほどの人は稀であった」と記し、多くの公務が祖母の意見を聞いて行われたと書いています。
攻めてきた叔父2人はまもなく病没し、叔父たちが担当していたサマルカンドの政権が混乱します。サマルカンド ── ウズベキスタンの古都。青いタイルで飾られた建築で知られ、ティムールが本拠とした都市ですはティムールが統治した都市で、ティムール朝の人々にとって特別な場所でした。バーブルは14歳でこのサマルカンドに進軍し、無血開城させて奪います。
ところが、サマルカンドは荒れ果てていて、それを見た味方の兵士たちは復興は無理だと怖くなって脱走し、バーブルは泣いたといいます。
かわいそう。14歳で。
さらにバーブルがサマルカンドにいる間に、故郷フェルガナでは弟が反乱を起こして乗っ取ってしまいます。バーブルは16歳で、ようやくフェルガナの中のアンディジャンという都市を取り返しました。
回想録に残る、初恋の記録
バーブルは17歳で、いとこ婚の風習に従い、いとこのアイシャ・スルターン・ベギムと結婚します。翌年に生まれた娘はすぐに亡くなり、結婚生活はうまくいかず、アイシャはバーブルのもとを去りました。
実はこの新婚のころ、バーブルには好きな人ができていました。その気持ちは、バーブル自身が書いた回想録『バーブル・ナーマ ── バーブルがチャガタイ・トルコ語で書いた自伝的回想録。王の率直な内面が記された作品として評価され、日本語訳も出ています』に残っています。
君主が自分の赤裸々な気持ちを文字で書き記すってのはなかなか珍しいですよね。
バーブルの初恋の相手は、商人の息子のバーブリという男性でした。バーブルは、それ以前に人に恋した経験はなく、バーブリがそばに来ても気恥ずかしさでまっすぐ見ることも、談笑することもできなかったと書いています。
ある日、道端でバーブリと鉢合わせしたバーブルは、彼が近くにいるだけで「とろけてしまいそうだった」と記しています。結局、直視も会話もできないまま、この初恋はただ好きだったというだけで終わりました。
めっちゃ純粋やん。恋してるやん。
楊さんによれば、イスラムでは同性間で体の関係を持つことは禁じられがちで、バーブルにもそうした関係はなかったようです。それでも回想録の描写は明らかな恋心だといいます。
樋口さんが「いい話やな」としみじみしたところで、楊さんは、このバーブルも後に首の塔を作ることになると付け加えます。
いやもう今言わんでいいやん。この直後に言わんでいい。
ウズベクにすべてを奪われた20歳前後の絶望
バーブルが恋をしていた同じころ、ウズベク族 ── 中央アジアの遊牧勢力。のちのウズベキスタンという国名の語源になった人々ですがサマルカンドを突然奪います。バーブルはサマルカンドを一度奪還しますが、再びウズベクに包囲され、少数の部下と城を落ち延びました。
サマルカンドを追われたバーブルは、故郷には戻らず、別の叔父がいるタシュケントに身を寄せます。この時期のバーブルについて、回想録にはこう書かれています。
バーブルは「私は非常な困窮と貧苦の生活を送っていた」「家来たちもほとんどが四散していた」と記し、領地も希望もなく絶望的になったと振り返っています。
タシュケントで叔父とともにサマルカンド奪還を狙っていたバーブルでしたが、ウズベクは今度はタシュケントを占領し、頼りにしていた叔父マフムード・ハンが捕虜になります。さらに故郷フェルガナまでウズベクの手に落ちました。
サマルカンド陥落
ウズベクが奪い、一度奪還するも再包囲されて脱出
タシュケント占領
頼りの叔父マフムード・ハンが捕虜になる
フェルガナ陥落
故郷もウズベクの手に落ち、行き場がなくなる
このときのバーブルの一行は200人以上300人以下で、ほとんどが徒歩、ボロボロのコートをまとい、テントは2つしかなかったと回想録に書かれています。テントは母のために張られ、バーブル自身は簡易テントで休んでいたそうです。
カーブル奪取と「パードシャー」の称号
行き場をなくしたバーブルは、親族がいるホラーサーン地方のヘラートを目指しますが、なぜか途中のカーブル、現在のアフガニスタンの首都へ向かいます。このときバーブルはまだ21歳でした。
人生経験がすげえ。
バーブルはカーブルへ向かう道中で、ウズベクから逃げてきた人々や故郷の人々を吸収して少しずつ軍勢を増やし、カーブルを包囲して無血開城させます。楊さんは、源頼朝が少数から急に兵力を増やしたように、血筋があれば人が集まるのだと説明しています。
カーブルの王となったバーブルは、富のあるインドへ略奪の遠征を少しずつ始め、その際には相手を威圧するために首の塔を作ったといいます。それでもバーブルにとって最も重要なのは、ティムールの都市サマルカンドでした。
楊さんは、サマルカンドを取ることを「中央アジアリーグのワールドカップ優勝」のようなものだと例えています。
この時期、バーブルはパードシャー ── ペルシア語で皇帝や王を意味する称号。宗教的な意味は持たず、トルコ・モンゴル系の君主がよく用いましたという称号を名乗るようになります。楊さんによれば、スルタンがイスラム帝国であることを示すのに対し、パードシャーはティムールの後継であるという色合いが強いといいます。
イスラム帝国の君主であることを示す。デリー・スルタン朝が用いた
宗教的な意味はなく、ティムールの後継であることを自認する意味合い
そのため、ムガル帝国は「インドにおけるティムール朝」と呼んでもおかしくないほど、ティムールの後継という意識が色濃い国だと説明されています。
ヘラートで初めてワインを飲んだ23歳
カーブルの君主になったバーブルは、ヘラートにいる叔父スルタン・フサイン・ミールザーと合流してウズベクを倒そうと、ヘラートへ向かいます。しかし対決は先延ばしになり、バーブルは20日間ほどヘラートに滞在しました。
文化的に発達したヘラートについて、バーブルは「ホラーサーン地方のヘラートの街は、優れたものたちは比類なき人々で満ち溢れていた」と回想し、誰もが仕事を完璧な域まで高めようとしていたと絶賛しています。
ムスリムとして真摯だったバーブルは、それまで一度も酒を飲んだことがありませんでした。ところがヘラートの宴席で、酔った人々から自分たちの仲間に入れようとワインを勧められます。
回想録には、23歳になるまで飲酒の禁を犯したことはないが、酒を飲んでみたいという欲望は持っていた、と正直に書かれています。父に勧められたときも言い訳をして断ってきたため、誰もバーブルが酒を飲みたがっているとは知らず、勧めてくれる人がいなかったのだといいます。
そして「ヘラートのような洗練された都に来ているのだ。今飲まなかったら、私は一体いつ飲むことになるのだろう」と考え、飲むことを決意したと書いています。
23歳まで一度も飲まず、父に勧められても言い訳をして断っていた
ヘラートで初めて飲み、20代後半には日常的に飲んで酔った失敗談が回想録を埋める
楊さんによれば、20代後半になると回想録は酔った勢いで愚かなことをしでかした話でいっぱいになるそうです。出演者たちは、長々と葛藤を書き残すバーブルを「真面目でピュア」だと笑いながら評しています。
9年ぶり3回目のサマルカンド、そして心が折れるまで
結局ウズベクとの対決は延期され、バーブルは酒だけ飲んでカーブルへ帰ります。冬の山道を選んだ帰路は大吹雪となり、バーブルは「生涯ほとんど舐めたことがないほどの苦しみ」と表現しています。
ようやくカーブルの近くまで戻ると、義理の祖母シャー・ベギムがバーブルに対して反乱を起こしていました。バーブルはこれを鎮圧し、追放したといいます。
その後、頼りにしていたヘラートもウズベクに征服されます。ところがウズベクはサファヴィー朝 ── 現在のイランを中心に成立したシーア派のイスラム王朝ペルシアに敗れ、ウズベクの首長シャイバーニー・ハンが戦死しました。
これを好機と見たバーブルは、サファヴィー朝に臣従して援軍を得て、28歳でサマルカンドの奪還に成功します。取ったり取られたりを繰り返した末の、楊さんいわく「9年ぶり3回目」の奪取でした。
ただし、スンニ派のバーブルがシーア派であるサファヴィー朝の助けを借り、シーア派風の服装で現れたことに、スンニ派のサマルカンドの住民は失望したといいます。
そのわずか数年後、ウズベクの新たなトップに敗れたバーブルは、再びサマルカンドから撤退します。2年ほど様子をうかがったものの取れそうになく、カーブルに戻りました。
さらに、頼みのサファヴィー朝もウズベクに敗れ、続いてオスマン朝のセリム1世にも大砲や鉄砲の力で敗れて弱体化します。20代をサマルカンド奪還に費やしてきたバーブルは、ここで心が折れ、インドへ目を向けることになります。
バーブルがインドを魅力に乏しいと見た理由
カーブルしか持たないバーブルは、中央アジアでは勢力を伸ばせないと判断し、インドへの進出へと方向を完全に変えます。楊さんは、これを「中央アジアリーグで敗退したバーブルがインドリーグに行って勝つ物語」と表現しています。
それまでバーブルが本格的にインドへ向かわなかったのは、中央アジア出身のバーブルにとってインドが魅力に乏しかったからだといいます。バーブル自身は、インドについて次のような不満を挙げています。
- 人々の容貌が良くない、人付き合いやマナーがない
- いい馬、いい犬がいない
- 美味しいブドウやマスクメロンなどの果物がない
- 氷や冷たい水、美味しいパンがない
楊さんは、人々への評価は文化の違いによるものだろうと見ています。特にメロン好きのバーブルにとって、マスクメロンがないことは重要だったようです。食べ物も文化も違うインドへ行くことは、バーブルにとって覚悟のいる選択だったと語られています。
14万対2万5000、パーニーパットの戦い
バーブルが本格的なインド遠征を始めたのは36歳のときでした。当時のインドを治めていたのは、デリー・スルタン朝の最後の王朝であるローディー朝です。
1526年ごろ、43歳のバーブルは4度目のインド遠征で、ローディー朝のスルタン、イブラーヒームとパーニーパットの戦い ── デリー北方のパーニーパットで行われた戦い。この地では歴史上、インドの覇権を決める大きな戦いが何度も起きていますを戦います。
兵力で大きく劣るバーブルは、この戦いでローディー朝軍を打ち破ります。記録によれば、700台あまりの荷車を2台ずつ生皮のロープでつないで壁にし、その間に兵を並べて戦ったといいます。
楊さんの説明では、バーブルはサファヴィー朝がオスマン帝国に火器で敗れたことを知っており、イェニチェリ ── オスマン帝国の常備歩兵軍団。16世紀には鉄砲を装備し、帝国の軍事力の中核となりましたにならって小銃隊や砲兵を配置しました。
荷車の壁
荷車をロープでつなぎ、敵が突っ込めない壁を作る
突撃を止める
攻めてきた敵兵が壁の前で止まる
火器で撃つ
止まったところを小銃隊や砲兵が撃つ
この戦いでローディー朝のスルタンは戦死し、ローディー朝は滅びます。バーブルはデリーを押さえ、のちにタージ・マハルが建つアーグラも押さえました。
楊さんは、サマルカンドが何度も取ったり取られたりしていることから、中央アジアの遊牧系の人々は守りや定住の感覚が自分たちと違うのかもしれないと話しています。
「ムガル」という名はモンゴルを意味し、当時のインドの人々が北から来る人々をまとめて「ムグル」と呼んでいたことに由来するといいます。チンギス・カンのモンゴル帝国がインドを本格的に支配しなかった理由についても、優先順位が低かったことや、気温や食べ物が違いすぎたことが話題にのぼりました。
片目・片腕の戦士ラーナー・サーンガーとの決戦
ローディー朝を倒しても、周囲にはラージプート ── 北インドの戦士階層・諸勢力。多くの小王国に分かれ、ヒンドゥー教徒の武人として知られますの勢力が数多く残っていました。そのまとめ役として登場するのが、ラーナー・サーンガーです。
ラーナー・サーンガーは、弟との争いで片目を失明し、ローディー朝との戦いで片腕を失い、砲弾で片足が不自由になり、全身に80箇所の傷があったと記録されています。楊さんは、この姿を漫画『ベルセルク』のガッツのようだと表現しています。
バーブルの兵力が2万5000ほどだったのに対し、ラーナー・サーンガーは10万ほどで迫ってきます。インドの暑さとホームシックで、バーブルの幹部たちには厭戦気分が漂っていたといいます。
このときバーブルは好きな酒を断つことを誓い、金銀の杯を打ち砕いて貧しい人々に与え、酒樽を叩き割って不退転の決意を示しました。さらにジハードを宣言して戦いの大義を掲げています。
戦いでは、ラーナー・サーンガーが早々に矢傷で重傷を負って戦線を離脱し、バーブル側が優勢になります。ラーナー・サーンガーはなおも戦おうとしましたが、戦いをやめたい家臣に暗殺されたといいます。
ローディー朝とラージプートのまとめ役を倒したことで、ラージプート勢力はまとまりを失います。バーブルはビハール地方やベンガル地方へ兵を向け、デリーやアーグラを中心に国を築き、ムガル帝国が成立しました。
一方で、ムガル帝国の人々自身はティムールの後継という意識が強く、ムガル帝国と呼ばれるのを嫌っていたそうです。ウズベキスタンでは、ムガル帝国を「バーブル朝」と習うといいます。
息子フマーユーンの身代わりとなった最期
バーブルは1530年、48歳で亡くなります。息子で次の皇帝となるフマーユーンが重病になった際、バーブルは自分が身代わりになるからフマーユーンを助けてほしいと神に祈りました。
するとフマーユーンは奇跡的に回復し、その直後にバーブルが亡くなったと伝えられています。
楊さんによれば、バーブルはフマーユーンをとても大切に思っていたようです。フマーユーンがインド征服の途上で初陣を飾った日に、初めて剃刀で髭を剃ったことを、バーブルは誇らしげに書き残しているといいます。
バーブルの回想録『バーブル・ナーマ』は世界各国で高く評価されています。楊さんは、読んでいて面白い物語ではないとしつつも、こんなに昔の人の言葉をそのまま読めることに面白さがあると語っています。
バーブルはシンプルな文章を好み、凝りすぎて意味が通らない文章を書くフマーユーンに、もっとシンプルな言葉で書くよう諭した手紙も残っているそうです。多才な人物として歴史に名を残したバーブルですが、サマルカンドだけは最後まで取り戻せませんでした。
ムガル帝国はフマーユーンに引き継がれ、次回はフマーユーンからアクバル大帝までが語られる予定です。
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まとめ
ティムールとチンギス・カンの血を引くバーブルは、故郷と味方を何度も失いながらサマルカンドを追い続け、その夢に敗れた末にインドでムガル帝国を築きました。回想録に残る率直な言葉からは、初恋や飲酒の葛藤、息子への愛情など、征服者の人間らしい姿が浮かび上がります。
- バーブルは11歳で父を亡くし、叔父や弟、ウズベクに領土を奪われ続ける苦難の青年期を送った
- ティムールの都サマルカンドの奪取は悲願で、3度手にしながら最後まで保てなかった
- パードシャーという称号には、イスラム帝国ではなくティムールの後継を名乗る意識が表れている
- パーニーパットの戦いでは火器と荷車の壁を使い、2万5000の兵で14万のローディー朝軍を破った
- 回想録『バーブル・ナーマ』には、初恋や初めての酒など君主の率直な内面が記されている







