「世界を征服する者」は酒とアヘンの皇帝だった?
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前回までにサリームが皇帝となり、名前をジャハーンギールと改めます。楊睿之さんによると、ジャハーンギールという名前は「世界を征服する者」という意味です。
ちょっとすげえこと言うね。
ジャハーンギールの即位は36歳で、10代で即位してきた先代たちに比べると遅めでした。先帝アクバルの冠を持ってこさせ、廷臣たちの前で何時間も被って外さなかったほど喜んでいたと伝えられています。
へー。なんか小物感が。
サリームから改名した理由は、オスマン帝国のセリム ── オスマン帝国の歴代スルタンに見られる名前。セリム1世はエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、帝国を大きく広げたことで知られますと発音がおそらく同じだったからだといいます。
ジャハーンギールが即位後最初に行ったのは、アーグラ城の城壁からヤムナー川の河岸まで「正義の鎖」を垂らすことでした。鎖には60個の鐘が付けられ、官僚から不当な扱いを受けた者は誰でも鐘を鳴らして皇帝に訴えられる、という象徴的な仕組みです。ただし、どれほど機能したかはわからないと楊睿之さんは話しています。
ジャハーンギールは父アクバルと同じく宗教同士の議論をさせていましたが、酒を飲みながら聞いていたそうです。関心というより無関心だったのではないか、という指摘もあると紹介されています。
ジャハーンギールの趣味は宝石の鑑定、狩猟、飲酒で、この3つが皇帝の仕事より優先されました。重要な儀式や政務、戦争でさえ放棄されることがあったといいます。
さらにジャハーンギールは毎日アヘンを摂取し、1日に蒸留酒を20杯ほど飲んでいました。本人の言葉として、飲みすぎて手がひどく震え、自分で飲めなくなると他の者に飲ませてもらったという記録も残っています。
うわー、それでも飲んだんや。
ちなみに好きな果物はマンゴーとサクランボで、ミルクはラクダのミルクを好んだそうです。台本担当が細かく調べてくれた「どうでもいい情報」として、笑いを交えて紹介されました。
息子フスローの反乱はどう終わったのか
アクバルはかつて、後継者をサリーム(ジャハーンギール)にするか孫のフスローにするかで迷っていました。そのフスローが、父ジャハーンギールの即位からわずか6ヶ月後、18歳で反乱を起こします。
フスローはこっそり城を抜け出し、支援者を集めながら一族の本拠地カーブルへ向かいました。ジャハーンギールは、フスローがサファヴィー朝 ── 16〜18世紀にイランを支配したイスラム王朝。シーア派を国教とし、ムガル帝国やオスマン帝国と並ぶ大国でしたやウズベクと結ぶことを警戒し、追っ手を差し向けて3週間足らずで捕らえます。
鎖につながれて引き出されたフスローは、震えて泣いていたといいます。ジャハーンギールはフスローを投獄し、目の前で従った者たちを串刺しの刑にしたうえで、フスローの両目を潰しました。
うわぁ。それでね、潰した側の親父はアル中で薬中。
地獄でしょ。
妃ヌール・ジャハーンの政治と、また始まる後継者争い
ジャハーンギールにも功績はあります。アクバルでさえ倒せなかった西方のメーワール王国と和し、同盟国にしたことです。
一方で政治に関心がないジャハーンギールは、妃のヌール・ジャハーンとその一族に政治をほぼ任せてしまいます。楊睿之さんは、中国の外戚 ── 皇帝の母や妃の親族のこと。中国史では外戚が権力を握り、国政を私物化して王朝を傾けた例が何度もありますのように国を私物化してもおかしくない状況でしたが、ヌール・ジャハーンの一族は意外にも、まあまあいい政治をしたと話しています。
マジで良かったね。
やがてアヘンと酒の生活でジャハーンギールが発作を起こすようになると、息子たちの後継者争いが始まります。長男は両目を潰されたフスロー、次男はアルコール依存のパルヴィーズ、三男は有能だが傲慢とされたフッラム、四男は側室の子シャフリヤールでした。
盲目のフスローは事実上レースに参加できず、次男パルヴィーズは飲みすぎによる病気で亡くなります。残った三男フッラムと四男シャフリヤールが争い、フッラムはヌール・ジャハーンを幽閉し、四男を殺して勝ち残りました。
晩年のジャハーンギールの肖像画には、深いクマと生気のない目が描かれています。絵のキャプションには、過度の飲酒とアヘンに溺れた生活の痕跡が見て取れると書かれていたそうです。
悲壮感がすげえな。
シャー・ジャハーンとムムターズ・マハル、タージマハルが生まれた理由
1627年にジャハーンギールが死去し、1628年に三男フッラムが5代皇帝シャー・ジャハーンとして即位します。シャー・ジャハーンとは「世界の皇帝」という意味です。
シャー・ジャハーンは南のデカン高原 ── インド半島の中南部に広がる高原地帯。北インドを拠点とする王朝にとって、支配を広げるための大きな遠征先でしたへ遠征してほぼ平定し、帝国の版図を大きく広げました。
シャー・ジャハーンには4人の妃がいましたが、そのうちムムターズ・マハルを深く愛していました。ムムターズ・マハルは、幽閉されたヌール・ジャハーンの姪にあたります。
ムムターズ・マハルは14人の子を産み、無事に育ったのは7人でした。皇帝の子でも幼児死亡率が5割だったことになり、最後の子を産むときにムムターズ・マハル自身も亡くなります。
妃を失ったシャー・ジャハーンの様子は、部下の記録に残っています。丸1週間、公の場に出ず国事も行わず、音楽も上質な衣服も遠ざけ、泣きすぎて眼鏡が必要になり、数日で髭の3分の1が白くなったといいます。
このムムターズ・マハルのお墓として、シャー・ジャハーンが17年をかけて建てたのがタージマハルです。インド・イスラーム建築の最高峰と呼ばれ、今では観光地になっています。
一方でシャー・ジャハーンは妃の死後、好色にふけるようになります。側室を増やし、臣下の妻と関係を持ち、年に1度8日間の「女性市」で好みの女性を選んでいたとされます。
シャー・ジャハーンはやがて催淫剤を飲むようになり、その副作用で体がボロボロになっていきました。61歳になっても若者のように快楽を求めていた、と書かれているそうです。
売り上げは最大、それでも滅びの理由が育っていた?
デカン高原まで支配が広がったことで、シャー・ジャハーン時代の帝国は歳入が最大になりました。ただし楊睿之さんは、コストも上がっているので「売り上げが上がった」のであって、利益が出ているかは別だと強調します。
シャー・ジャハーンは増えた歳入を建築や美術につぎ込み、タージマハルのような文化的成果が生まれました。このころ遷都した都市が今のオールドデリーだとされ、大きな国ができたことで商業が安全になり、貨幣経済も発達していきます。
同じ時期、南米や日本の石見銀山 ── 島根県にあった銀山。16〜17世紀に大量の銀を産出し、世界の銀流通に大きな影響を与えました。現在は世界遺産ですなどで銀が大量に産出され、世界的な銀の供給増が銀貨の普及を後押ししました。綿花、藍、油の原料、胡椒、砂糖といった商品作物も育てられるようになります。
ところが、帝国は最盛期を迎えた瞬間にすでに滅びる理由を抱えていました。番組では、その理由がいくつか挙げられています。
マンサブダールの乱発
皇帝の権威を高めるため、爵位と徴税権を新しい土地の獲得以上に配ってしまう
歳入の流出
歳入の約8割以上がマンサブダールへの割り当てに占められていたという研究がある
規律の弛緩
太平の世が続き、皇帝や長男ダーラー・シコーまでが賄賂を受け取る
宗教的寛容の後退
ヒンドゥー寺院の建築禁止やキリスト教の弾圧が社会不安を生む
マンサブダール ── ムガル帝国で位階(マンサブ)を与えられた官僚・軍人のこと。位階に応じて給与や、土地から税を取る権利が割り当てられましたの乱発は、国がもらうはずの徴税権を人に渡してしまうことを意味します。歳入の大部分が出ていっていたのなら、最大の売り上げも実情に沿っていなかったのかもしれません。
宗教政策の変化について、楊睿之さんは、シャー・ジャハーン本人がムスリムであることが大きいと説明します。ムガル帝国はシャリーア ── イスラム法のこと。コーランや預言者の言行をもとにした法体系で、オスマン帝国などでは統治の基盤になっていましたで統治していなかったため、そちらに寄せたいと思うのはある程度自然だったといいます。
アウラングゼーブはなぜ父と兄弟を追い詰めたのか
シャー・ジャハーンも晩年は不遇でした。病気で重体になると「皇帝崩御」という誤った噂が流れ、4人の息子による後継者争いが始まります。
シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーに継がせたいと考えていましたが、弟たちは認めません。噂を聞いた次男シャー・シュジャーと四男ムラード・バフシュは、それぞれ皇帝を名乗ってしまいます。
勝ったのは三男のアウラングゼーブでした。アウラングゼーブは「皇帝には興味がない」という態度をとりながら四男ムラードと組み、長男ダーラーを倒して逃亡させます。
アウラングゼーブはさらに父のいるアーグラ城を陥落させ、シャー・ジャハーンを降伏させて投獄しました。楊睿之さんは「普通にただのクーデター」と表現しています。
アウラングゼーブは斬首したダーラーの首を、食卓についた父シャー・ジャハーンのもとへ持っていって見せたといいます。シャー・ジャハーンは叫び声をあげて倒れ込み、食卓に顔を打ち付けて歯が何本か折れたと伝えられています。
アウラングゼーブは、自分だけが父に可愛がられなかったと感じていたようです。幽閉中の父に会いに行くことは一度もなく、「あなたは長男だけを愛した」という不平を横柄な口調で手紙に書き送っていました。
幽閉されたシャー・ジャハーンは、窓辺に座って対岸のタージマハルを見つめて過ごしたそうです。愛されない苦しみは理解できても、それが兄の首を父に見せる行動にまでつながるのは想像の外だ、と楊睿之さんは話しています。
超ストイックな皇帝アウラングゼーブの素顔
残されたアウラングゼーブの肖像画は目つきが鋭く、ここまでの話を聞いた後では「人間の目をしていない」ように見える、と笑いまじりに語られます。若いころには怒り狂った象に立ち向かって勇気を示したという武勇伝もあります。
アウラングゼーブの最大の特徴は、スーパーストイックなことです。着る物は安く、宝石もほとんど身につけず、自分にお金を使わない。自分には厳しく、意外と人には優しかったといいます。
アウラングゼーブの1日は、早朝に起きてモスクで祈り、コーランを読むことから始まります。午後にはウラマー ── イスラムの法学や神学を修めた知識人層。宗教指導者として、社会や政治にも大きな影響を持ちましたや側近と祈り、夜8時ごろの宮廷閉会後も祈り、眠るまで宗教的瞑想をしながら書類や訴状を決裁していました。
アウラングゼーブは約50年にわたって在位し、毎日4、5時間しか眠らず、膨大な仕事を1人で背負ったと本には書かれていたそうです。酒もアヘンも口にせず、金銀の食器も遠ざけました。
宝石の鑑定、狩猟、飲酒に没頭し、毎日アヘンを摂取。重要な政務や戦争も放棄することがあった
酒もアヘンも口にせず、衣服や食事は質素。祈りを欠かさず、毎日4、5時間の睡眠で政務を1人でこなした
アウラングゼーブは暴君でも愚かな君主でもなく、厳しい実践をしてきたからこそ自分が国を治める資格を持つという自負があったと紹介されています。ただし、組織の長としていいかどうかは別だという留保も付けられました。
国家をイスラムに染め上げる政策とジズヤ復活
敬虔なムスリムであるアウラングゼーブは、国内のイスラム正統派の神学者たちから大きな期待をもって迎えられます。アクバルが宗教をフラットにしようとし、シャー・ジャハーンが少しイスラムへ戻した流れを、アウラングゼーブはさらに強い意志で進めました。
兄ダーラー・シコーを斬首したときも、実は宗教裁判によるものだったといいます。アウラングゼーブは皇帝になる前から、イスラムに則っているかを重んじるタイプでした。
即位後のアウラングゼーブは、ゾロアスター教に由来するペルシア暦の新年祝いや、宮廷で行われていたヒンドゥー系の儀式など、イスラム風でない儀式を禁止していきます。歌や舞、音楽も追放し、酒と麻薬の使用も禁じました。
非ムスリムへの統制も強まり、ヒンドゥー寺院の建設や修復、祭礼が禁じられ、聖地巡礼税が復活し、寺院の破壊も行われます。そしてジズヤ ── イスラム国家で非ムスリムに課された人頭税。アクバルが廃止していましたが復活しました。
ジズヤの復活は、強い抵抗のため即位から21年かかったとされます。ラージプートの諸王やデリーの民衆が抗議しましたが、アウラングゼーブは生涯方針を変えませんでした。
ジズヤを逃れるためにイスラムへ改宗する人も現れ、アウラングゼーブは祝いの言葉や褒美を与えています。客観的に正しいかは別として、アウラングゼーブは自分が正しいと思うことを真面目に実践していた、と番組では語られています。
史上最大版図の裏で広がるゲリラ戦とシク教徒の抵抗
アウラングゼーブ時代もムガル帝国の歳入は増え続け、アクバル時代の2倍以上になりました。ただし支出も増えていたため、財政が健全だったわけではありません。
ヒンドゥー教徒を抑圧した結果、ヒンドゥーの大首長シヴァージーが最大の敵として現れ、アウラングゼーブは長く戦うことになります。負けはしなかったものの、かなり苦労したようです。
アウラングゼーブは残ったデカン高原を征服するためデリーを出て、65歳ごろから90歳ごろまで戻らずに遠征を続けました。ビジャープル王国やゴールコンダ王国を滅ぼし、ムガル帝国は史上最大版図を実現します。
楊睿之さんによると、これはアショーカ王 ── 古代インドのマウリヤ朝の王。紀元前3世紀にインド亜大陸の大部分を統一し、仏教を保護したことで知られます以来、約2000年ぶりにインド亜大陸の統一が達成されかけた状態でした。ただし南端だけはどうしても取れませんでした。
背景には、各地でヒンドゥーの人々がゲリラ戦を始めたことがあります。滅ぼしきれない相手との「無限モグラたたき」で士気は下がり、お金もかかり、アメリカのベトナム戦争のようにグダグダになっていったと説明されています。
アウラングゼーブはシク教も弾圧し、指導者であるグル ── シク教の指導者の呼び名。サンスクリット語で「師」を意味しますを処刑するなどして、シク教徒は武装集団化して抵抗するようになりました。シク教徒は、ターバンを巻き、生まれてから髪を切らないことで知られています。
シク教の寺院には、戦いで犠牲となったシク教徒の姿を描いた壁画があり、その歴史が今日まで伝えられているそうです。現在もシク教徒とヒンドゥー教とは緊張関係にあると紹介されています。
「私の人生は虚しく過ぎ去った」アウラングゼーブ失意の晩年
アウラングゼーブの時代は、最大版図の裏で国庫が尽き、ゲリラ戦や農民反乱が広がる時代でもありました。売り上げが2倍になったのに財政は悪化し、このころからイギリスがインドで急速に台頭していきます。
晩年のアウラングゼーブは、自分を神に見放された罪深い存在だと感じ、来世での救いに不安と恐れを抱いていたとされます。自分の政策がうまくいかなかったという感覚があったようです。
息子に宛てた遺書では、「私はこの世に一人で来て、よそ者としてこの世を去っていく」「私は統治において、また人民の幸福への配慮において欠けるところがあった」と書いています。「私の人生は虚しく過ぎ去った」という言葉も残されています。
何十年も睡眠を削って働いた末のこの言葉は、しんどいと受け止められる一方で、自分の統治に責任を感じていた証として評価できるかもしれない、とも語られています。晩年の肖像画には、自分の人生は失敗だったという思いに取り憑かれていた、というキャプションが付いていたそうです。
50年で10人の皇帝、そしてムガル帝国が残したもの
アウラングゼーブまでの6人の皇帝は約200年を治めましたが、その後は50年ほどの間に10人の皇帝が入れ替わります。それほど帝国は衰退し、混乱していました。
バハードゥル・シャーやムハンマド・シャーなど、この時期の皇帝たちに共通するのは、後継者争いで兄弟同士が殺し合い、目を潰すことまで繰り返していたことです。殺し合いをやめる仕組みの話は、最後まで出てこなかったといいます。
それでも楊睿之さんは、ムガル帝国の統治はそもそも難しかったと振り返ります。ヒンドゥー教徒が多数派で、支配者はよそから来ており、統一国家がほとんどできたことのない土地で、ラージプートやシク教徒などさまざまな人々を抱えていたからです。
今のインドでも、ムガル帝国の時代は立場によって捉え方が分かれると紹介されています。
異教徒のムスリムが自分たちの土地に侵入して支配した、よくない時代
栄光の時代であり、繁栄した帝国をヒンドゥーに奪われたという感覚につながる
最大版図の時代でさえゲリラ戦が続いていたことから、そもそも「統一した」と言っていいのかという問いも投げかけられました。インドを理解するには、宗教、カースト、中央アジアの要素など、多くのレイヤーを重ねて見る必要があるということです。
次回は時代をさかのぼり、ヨーロッパ側で東インド会社がどう生まれたかを扱います。弱ったムガル帝国がイギリスによって追い込まれていく流れは、そこから再びつながっていきます。
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まとめ
ムガル帝国の後半は、酒とアヘンに溺れたジャハーンギール、愛と快楽に揺れたシャー・ジャハーン、禁欲的なアウラングゼーブと、個性の違う皇帝が続きました。しかし歳入が最大になり版図が最大になるほど、支出の増大や宗教的対立、終わらない後継者争いが帝国を内側から弱らせていきました。
- ジャハーンギールは政治に無関心で、妃ヌール・ジャハーンの一族が実質的に政治を担った
- シャー・ジャハーンは愛妃ムムターズ・マハルのためにタージマハルを建て、帝国は最盛期を迎えた
- 最盛期の裏では、マンサブダールの乱発や汚職、宗教的寛容の後退が衰退の理由を育てていた
- アウラングゼーブは父と兄弟を退けて即位し、イスラム化を進めて史上最大版図を築いたが、失意の晩年を送った
- その後は50年で10人の皇帝が入れ替わり、弱ったムガル帝国にイギリスが迫っていく




